河童
舟山サチ。君はまだ知らない。
君が五歳の時に川で拾った生き物が、実は河童だったということを。
君は動物辞典に僕が載っていないことを不思議がっていたけど、そんなの当たり前だ。
河童は“動物辞典”には載っていない。
――僕はその時、君に恋をした。
君はまだ知らない。
君が今見ている月は、昨日まで君が見ていた月とは違うことに。
昨日君が見ていた月は二時間前に宇宙人がぶち壊してしまった。
今の月は宇宙人が見せている幻だ。
――君がそれを知ることになるのは何年も先の話になる。
君はまだ知らない。
さっき月を壊した宇宙人が、地球征服を目論んでいることに。
奴らは地球に侵略して人間を捕食しようとする悪者だ。
――彼らは宇宙で“グルメ”というあだ名で呼ばれている。
君はまだ知らない。
河童という生き物が、実は宇宙人であるということを。
ただ、誤解してほしくないのは、月を壊した宇宙人が河童ではないということ。
月を壊したのはA57型惑星宇宙人。僕たち河童はA58型惑星宇宙人。
容姿も似ているが全く別の進化の過程を経ている。
――ちなみに、僕たち河童とA57型惑星宇宙人“グルメ”はとても仲が悪い。
君はまだ知らない。
地球の大気圏という瀬戸際で、僕たち河童がグルメの地球侵入を防いでいることに。
僕は仲間たちを説得した。
お世話になった地球を守ることの大事さを語り、人間たちの本質的な優しさについて説明した。
仲間は、僕の真剣なそのまなざしに気づいてくれたのだろう。
彼らはその重い腰を上げてくれた。
始めから最後まで、戦況は五分五分。
勝利がどちらに転ぶか、まさに神のきまぐれ次第といった感じだった。
科学力に勝るグルメに、こっちは数で対抗していた。
――戦争で仲間もたくさん死んだ。
親も兄弟も皆亡くなった。
君はまだ知らない。
先ほど、グルメが地球侵略をあきらめて、自分の星に引き返して行ったことを。
僕たちは勝利した。
ただ、払った犠牲は大きい。
――僕たち河童という種族は今回の戦争で滅びることになるだろう。
君はまだ知らない。
つい二分ほど前に僕が命を引き取ったことに。
僕は君に恋をしていた。
君の為に捨てた命だ。
全然惜しくはないよ。むしろ本望だ。
君はまだ知らない。
舟山サチ。
……いや、君は知らなくていい。
この先、君は何十年間、とっても愉快で楽しい人生を過ごす。
かっこいい旦那さんをもらって。
子供も生まれるかもしれない。
そして、きっとかわいらしいおばあちゃんになることだろう。
その楽しい人生に、わざわざ僕の死という黒い染みを残す必要はない。
僕は君の幸せだけを願ってる。
君は知らなくていい。舟山サチ。
君を愛する者がいたということを。
船山サチには誰にも言ったことの無い秘密がある。
小学生の頃、学校の帰り道。
河童を見たのだ。
いや、見たところか、その後、触れて、その冷たい皮膚を感じた。
最初、川岸にある緑色の何かを見つけた。
ビニール袋だと思った。
でも、ビニール袋にしては大き過ぎる、とも思った。
結局、サチは近づいて確かめることにした。
120センチ程の体躯。
体色が緑色でなければ人間だと思う程、その全体は人間のようである。
緑色の全身。
頭の上に付いているつるつるとしたウロコ状の皿。
くちばし。
――河童だった。
河童…。
河童は空想上の生き物だと教えられてきた。
しかし、こうして間近に見てみると、河童が居ないというのは大人の嘘だったらしい。
サンタが本当はいないのに、いるフリをする。
いかにも大人のやりそうなことだ。
サチはそう考えた。
河童は死んだようにぐったりしていた。
だが、呼吸はあるので死んではいないようだ。
河童は腕を怪我していた。
さしずめ溺れたあげく、岩肌にその腕を強打したのだろう。
サチは家に連れて帰り、治療することにした。
家のソファに河童を置きざりにしたまま、サチは動物図鑑を探した。
河童の食べ物が分かると思ったからだ。
あわよくば、河童の治療法など記載されはしないかという淡い期待もあった。
河童は図鑑には載っては居なかった。
そして、数分後リビング戻ると、そこにいたはずの河童も居なくなっていた。
夕方、母親が帰って来た時に、この出来事を話したが取り合っては貰えなかった。
それ以来、この事は誰にも話していない。
サチが社会人になった今も、河童との出会いは一つの幻想体験として、記憶のフォルダの奥の方にそっとしまってある。
八月十五日、午前八時二十四分。朝の情報番組で昨日の夜、緑色の雨が降っていたことを前代未聞の不思議な事件として取り扱っていた。
舟山サチは、起きがけのぼんやりした頭でテレビを眺める。
髪の毛の薄くなった男性アナウンサーがゲストに、この事件について「どう思いますか」と尋ねていた。
その問いかけに、金髪で、日本語の巧い外国人が「それはですね。昨日僕が信号無視をしたんで、神様が僕の嫌いな青汁を空から降らしてお仕置きしたんですね」と、つまらないギャグを飛ばしていた。
その後、他のゲストやアナウンサーに、冷たいあしらいを受けるのはお決まりのパターンである。
舟山サチはもう少しこのやりとりを見ていたかったが、これ以上テレビを見ていては、電車に乗り遅れてしまう。
会社に一分でも遅れようものなら、息の臭い部長に顔を五センチまで近づけて大量の咳唾を浴びせかけられることになる。
それだけは避けなくてはならない。
サチはいつものようにお気に入りの茶色のパンプスを履いて、家を出る。
空は快晴。
大きな虹もかかっている。
サチは虹が好きだ。
虹を見てると楽しい気持ちにしてくれるから。
でも、今日だけは何故か悲しい気持ちになった。
サチの目からこぼれた一滴の涙が、ぽちゃんと“緑色”の水たまりに落ちた。