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聖者の灰  作者: スピカ
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3・汚れた手

     3・汚れた手


 いつもより寒い朝。寒さに耐え切れず、たまたま目に留まったコートを買って羽織り、紙袋に入っている本を脇に抱え、私はまた山道を登り歩いている。

 コートのポケットにしまい込んだ手が、鍵と携帯を探している。習慣は簡単には消えないってことだ。小さいことだけど、これも立派な心の病。

(心の・・・病)

 私の中で連なる言葉。順を追うように、正しく繋がる言葉。何度も何度も繰り返した証。

(・・・真理・・・)

 Mというイニシャルだけで勝手に付けた名前。今思えば、軽率だった。衝動に駆られて結果だけど、それが自分を追い込んでいる。それでもあの時は、確かな強い気持ちがあった。

でもそれは一瞬の儚い命。朝目が覚めると滲んでぼやけていて、掬い取れないものになっていた。

(私は・・・どうしたいの?)

 私は知っている。自分が許されたいだけだと。その為にあの子を、真理を救いたいと思っていることを。

(利用。偽善。利己的都合)

 それも全部分かっている。だからって、このまま見捨てられない。その気持ちが、私に残された最後の宝。


 教会の扉を開けると、昨日と同じ位置に座っているKがいた。私には、Kが昨日からずっと、微動すらしていないように思えた。

「入るわね」

「声の主は、織だな」

 Kは振り返らずに言った。

私は扉を閉め、歩み寄った。


「ずっとここに座っていたの?」

「そうだ。真理が放してくれなかったのだ」

 視線を隣に落とすと、長椅子の上で横になり、膝を抱えるように震えながら眠っている真理がいた。真理の小さな手は、しっかりとKの着ている服の袖を摘んでいる。

「震えているじゃない!こんなに寒いのだから毛布くらい掛けてあげなさいよ」

 私は着ているコートを脱ぎ、真理に掛けてあげた。

「人間は不便だな」

「人は万能じゃないの。間違いだってするし、後悔だってする。理屈じゃないの」

 Kじゃなく、自分に言っているように思えた。

「・・・話が反れたわね」

「そうなのか?」


「はいこれ」

 私はコートを脱いだ時に落とした紙袋を拾い上げ、Kに差し出した。

「何だ?」

 両手で丁寧に紙袋を受け取ると、朝日に目を細めることなく私を見上げた。

「開けてみて」

 Kは受け取った紙袋のテープを奇麗に剥がした。

「本だな。「誰にでも作れる料理百選」それと「体に安心な料理の作り方」か」

「何が言いたいか分かる?」

「・・・分からない」

 良くも悪くも素直だ。

「真理はここから出たがらない。だからあなたが真理の食事を作ってあげなきゃいけないの。料理は?したことある?」

「試したことはない」

「じゃあ学ぶことは?」

「僕は無限に物事を学ぶことが出来る。だから問題無い」

「じゃあ頼めるわね?」

「引き受けよう」

 何故?どうして?と、Kは聞き返さなかった。そのことに、私は内心ホッとしていた。

「それじゃお願いね、今朝の朝食は私が作るから。キッチン借りるわよ」


 心の傷を持つ子供は、親を含めて人を恐れる傾向がある。そして人を避け、閉じこもったりする。真理がここに来て出たがらないのもそうなのかもしれない。

 ではどうして閉じこもる場所が家ではないのだろう?・・・虐待?喋れなくなったのもそのせい?

 ・・・そう言えば、人の集まるところで、自分の言動が不適切で、人に軽蔑され、馬鹿にされるのではないかという恐れから、緊張が高まって言葉を話せなくなることがあるって聞いたことがある。

 もしそうなら、対人恐怖と失語障害の両方が当てはまる。・・・真理は家じゃなくて施設に居たのでは?そこから逃げ出し、ここに来た?


 朝食を作る私の手は、いつの間にか止まっていた。

「・・・はぁ」

 深い溜め息をつき、両手で目を覆う。

「また学説が先行している。これじゃあの時と同じじゃない」

 両手を目から離し、ぼやけた目で自分の手を見る。

「・・・・・・」

 私は何も言わず、思わず、料理の続きにとりかかった。


「お待たせ。真理は?起きてる?」

「まだ眠っているようだ」

 私はお盆を椅子の上に置いた。

「起きて。ご飯にしましょう」

 私は真理の肩を優しく揺すった。するとビクッとするように真理は起き上がった。私の顔を見ると、虚ろな瞳に不安が宿り始めた。

 ・・・胸が痛い。でもそれを私が顔に出しちゃ駄目だ。

真理はキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回し始めた。何かを探しているようだ。

(・・・時計?)

「何も心配しないで。ご飯作ったから食べましょう」

 私がそう言うと、真理は小さな両手で顔を撫で始めた。

「・・・顔、洗いたいのね?」

 真理はぎこちなく頷いた。

「K、洗面所は何処?」

「キッチンの隣だ」

「ぁ・・・」

 私はKにお願いしようと思ったが止めた。

「・・・私と一緒に行きましょう」

 私は真理の小さな手を掬う様に握り、洗面所へと向かった。


「石鹸もないし、タオルもない。歯ブラシもないね」

 真理は不安そうに首を傾げた。

「でも大丈夫、そうかもと思って買っておいたんだ」

 私はそう喋りながら買い物袋の中をかき回した。

「はい、これ使って」

 私からタオルと石鹸を受け取ると、真理は洗面台の前に立ち、背伸びをして蛇口を捻った。そして慣れた手つきで石鹸を泡立たせた。

「上手ね。いつもやってるからかな?」

 習慣。と言うよりは、私はどこか機械的な、流れ作業のような印象を受けた。


「・・・真理ちゃんから見たら、私はお姉さんかな?それともおばさん?お姉さんってことはないよね、私32歳だし。真理ちゃんはいくつ?」

「・・・・・・」

「いつか、教えてね」

 洗顔を終えた真理はキュッと蛇口を捻った。そしてタオルで顔を拭き始めた。

「歯磨きはご飯食べてからにしましょうか」

 真理は丁寧にタオルを折りたたみ、洗面台の脇に置いた。

「それじゃご飯にしましょう」

 私が真理の手を取ろうとしたその時だ。真理は右手を大きく開き、私の前に翳した。

「・・・ん?」

 私が首を傾げると、真理は左手を胸元にやり、寂しそうに視線を落とした。

「・・・!そっか、5歳ね。真理ちゃんは今、5歳なんだね?」

 真理は視線を上げ、口元を緩め、小さく頷いた。

「そっかぁ・・・そうなんだ」

 私は真理の震える手を両手で握り締めた。

「そっかぁ・・・そうなんだ」

 私はたまらなく嬉しくなった。胸の奥が熱くなっていく。鼓動に合わせるように目の奥に潤いが満たされてくる。

「ご飯・・・食べよう」



 朝食を済ませた後、私は町に降りて買い物に出かけた。山ほどの食材と、真理の為の、身の回りの物を買い、教会へと戻った。

「お・・っもい」

 両手が塞がったまま扉を開けようと試みたが、手が上手く上がらない。かといって荷物を一旦降ろすのも面倒だ。そこで私は頭で扉をノックした。

「K、居るんでしょ?開けてくれない?」

「・・・暫し待て」

 扉が開くと同時に、私は滑り込むように中に入った。

「凄い荷物だな、手を貸そう」

 Kはそう言うと、杖を壁に掛け、私の荷物の大半を担いだ。

「なんだ・・・普通に歩けるんだ」

 私は膝に手を当て、肩で息をしながら言った。

「何処に運ぶのだ?」

「・・・キッチン」

「分かった」

 キッチンに向かって歩き出したKを、私は無言のまま見送った。その後で大きく息を吸い込み、真理のところへ歩み寄った。

「真理、これ、買い物の、お土産」

 私は無造作にビニール袋に手を入れ、手当たり次第に真理の隣に出して並べた。

「絵本が3冊、スケッチブックにクレヨン」

 私は一つずつ指をさして物の名前を教えた。

「少しの間、ここで待っててね」

 私はそう言い残すと、キッチンへと向かった。


「この荷物をどうするのだ?」

「食料は冷蔵庫にしまって。野菜は一番下の段に、果物は真ん中、それ以外は上の段に。飲み物はドアの内側にある棚に入れて」

「分かった」

「調味料は水道の下の収納場所へ、日用雑貨は・・・食器棚の下に」

 私は吐き出すように一気に喋った。

「・・・憶えられた?」

「問題ない」

 Kは答えながら収納を始めた。戸惑うことなく、的確で素早い。

「・・・・・・」

 私はKが本当にロボットなのかどうか、深く考えていなかった。正直なところ、どうでもよかった。

「足、大丈夫なの?」

「今のところ問題ない」

「足のどこが悪いの?」

「人体で言うと、足の、付け根の軟骨の部分だ。僕に軟骨は無いが、代わりに、関節の磨耗を防ぐ為の合成物質がある。それが完全に磨り減ってしまって、関節が劣化し始めているのだ」

「合成・・・物質?」

「合成樹脂の様な物だが、それとは違う」

「よく分からないけど・・・痛いの?」

「・・・分からない。僕は感じることが出来ないからね」

 淡々と喋りながらも、Kは作業を続けている。

「直せ・・治らないの?」

「僕には直せない。部品の生成は博士にしか出来ない。記した書物もないし、設計図もない」

 Kはロボット。信じられないとか、疑わしいとか、そんな心は、今は全く無かった。ただ目の前にあるのが真実。それだけがすんなりと私の中に入ってきた。

「分かってもらえたかい?僕がロボットであると」

「んん、分かったよ」

「そうか。今までに何人もの人がここを訪れたが、事実だと分かってもらえたのは織が初めてだ」

 私は、何て言えばいいのか分からなかった。どうしてだろう・・・。自分の心が分からない。

「僕も聞きたいことがある」

「・・・何?」

「真理が言葉を話せないのはどうしてだ?」

「・・・そうね・・・」

 何と答えるべきなのだろう。いや、何と教えるべきなのだろう。

「原因は・・・分からない。ただ、心の病気であることは間違いないと思う」

「心の病気?」

「そう。辛いこと、悲しいこと、そんな精神的ストレスが積み重なって、言葉を奪った。たぶん、そうだと思う」

「・・・分からない」

「複雑な心を持っているのが人間なのよ」

 私がそう言うと、Kは私の傍に歩み寄ってきた。

「いつか話せるようになるのか?」

 心が震えた。私の核心に迫る言葉。

「・・・・・・」

 私にはもう・・・誰も救えない。また取り返しのつかない事になるかもしれない。それが怖い。

「私は・・・何とかしてあげたい」

 宙ぶらりんでも、半端でもある。でも、その心が確かに私にはある。

「きっと、何とかなるよ」

 これが、今の私の、精一杯の答え。

「どうすればいいのだ?」

「そうね・・・。まずは、話せるようになりたいと、真理自身が強く思うこと。そして、言葉を失った原因を知って、それに打ち勝つこと」

「・・・詳しいな」

「それは・・・私が元精神科医だから」

「精神科医とは?」

「心の病を治す・・・そう、手助けをする人のことよ」

 今になって、ようやく分かった。治すのは私ではなく、本人自身だということ。私がするのは、その手助けだということ。

「その精神科医というのは、学んで習得したものなのか?」

「そうよ。・・・どうして?」

「つまり、人の心を学ぶ、マニュアルがあるのだな?」

 心が激しく動揺した。

「違う!」

揺れる大地。浮かぶ過ち。

(自分をコントロールして!)


「心を知る、マニュアルなんて、ないのよ」

「・・・そうか」

 私は過ちからそれを学んだ。大きな代価の代償として。


「真理のところへ戻る」

 Kはそう言うと、ゆっくりと歩き出した。

「あ、待って」

 私はKの背中を呼び止めた。

「今は、真理にいっぱい話しかけてあげて。答えは言葉では返ってこないかもしれないけど、必ず・・・表れているから」

「・・・分かった」

「真理はね、あなたのことが気に入っているみたいよ」

「何故?僕がロボットだから?」

「さあね、そうかもしれない。けど、あなたのことが好きだということに変わりはない」

「好き・・・とは?」

「学びなさい。・・・真理から」

「分かった」

 Kは再び歩き出した。私はその背中を、深呼吸した後で追い駆けた。


 私は・・・心を深い海の底に沈め、深い氷に閉ざした。何も届かない場所なのに・・・今は青く、揺らめく光が遠くに見える。


「何を読んでいるのだ?」

 Kの言葉を聞いた真理は、本を閉じてKに差し出した。

「本。絵本だな」

 本を受け取るK。

「読んであげたら?」

 私は礼拝堂の入り口から、離れた場所に座っている二人に大きな声でそう叫んだ。

 真理は小さく何度か頷いた。私にはそう見えた。

「分かった。そうしよう」

 Kには真理の心が伝わったのだろうか?

 Kは本を開き、書いてある文章を緩急無く読み出した。真理はKの隣から本を覗き込んでいる。それを、離れた場所から眺める私。


心を捨て、抜け殻になりたい。空っぽになって、ただ流されたい。ずっとそう思っていた。けど、私は捨てることが出来なかった。ずっと隣に置いていただけだ。

ずっしりと重い心が、静かに私と重なり合う時を待っている。


「私も・・・仲間に入れて」

 私はもう一度全てを背負い、歩み寄ることにした。


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