2・屈む背中
2・屈む背中
初めて訪れた町。それにも拘らず、町の住人たちは主人公のことを知っていた。誰もが氷のような目で私を蔑む。誰もが濁った目で私を恐れる。
その町で出会った一人の老婆と、右目の赤い猫。廃屋と化した血塗られた神社と、そこに祀られている一本の刀。
深い泥の奥にある記憶。全てを自分の手で掬い上げ、更には自分すら知らないことを知る。
湧き上がる黒い感情。その支配から救ってくれた守人。
その後主人公は・・・。
「どうなるんだろう?」
教会で本を見かけてから2日。私はすっかり欲求の虜になった。悶々としながら寝返りを繰り返す午後3時。窓の外を見上げると、清々しい空がまだ青白さを保っていた。
「・・・貸してくれるかな」
旅館を出て、のんびり歩きながら教会を目指す。一歩一歩靴の踏みしめる感触を感じながら歩くのは、私にとってはとても新鮮で気持ち良かった。いつも体を横にしながら、人の間を忙しなく歩いていた自分がとても滑稽に思えてくる。
上着のポケットに両手を入れると、手ぶらであることの身軽さを感じた。
私はいつも、膨大な資料の入ったカバンを左手に持ち、新聞を左の脇に挟んでいた。そして、右手はポケットの中で鍵を握り締めていた。こうすることで「私は間違いなく、家の鍵を閉めた」と無言で言い聞かせることができた。立派な強迫神経症だ。だから私は、鍵を持つ必要のない旅館を選んだのだ。それも、無意識の内に。こうやって旅行をしているのも、ただの同遁走で、立派な精神病の症状。
そう考えると、自分の行動全てが症状に思えてくる。精神医学を学ばなければ、こんなことを考えずに済んだかもしれない。何も知らなければ「宝くじを当てた、ただの気楽な女」でいられたかもしれない。でも私は知ってしまった。心理が起こす行動の意味、深層心理が持つ訴え。私はもう逃げられない。逃げ切るには、死ぬか、心を亡くすしかない。
「まるで夜葬曲の主人公ね」
そう薄っすらと口に出すと、私が知りたかったのは物語の続きではなく、私に似た主人公がどんな選択を選んだのか。であることに気が付いた。
「・・・やめよう、きりがない」
私は目の前に建つ、教会の扉にそう言った。
私は扉を少し引き、出来た隙間から、
「すみません、誰かいますか?」
と言った。
中から返事はない。私はもう少し扉を引き、中を覗きこんだ。
「この前訪れた者です。あの、お願いがあって来たのですがぁ」
この前中で会った人は杖を付いていた。だから出てくるのに時間が掛かるのだろう。そう思い、私は待つことにした。
深い息を鼻から出しながら視線を下に向けると、小さな靴が落ちているのに気が付いた。
(子供の靴?)
私はしゃがんで床を見回した。すると、長い椅子の隙間から、草臥れた様子の細い足が見えた。
私はその瞬間、全身が身震いを起こした。
「大変!」
私は扉を引き放つと同時に、中に駆け込んだ。
「大丈夫?しっかりして!」
私は倒れていた子の上半身を静かに起こし、問いかけた。
「・・・・・・」
まだ幼い女の子だ。
「ねぇ聞こえる?返事をして!」
そう言うと、女の子はゆっくりと目を開けた。
「・・・よかった」
女の子は私の顔を見ると、逃げるように視線を逸らし、衰弱した腕で私から逃れようと力なく抵抗し始めた。
「安心して、私は、」
言葉が詰まった。
「私は・・・」
何者、なのだろう。
女の子は無言のまま、私の腕の中で抵抗を続けている。苦しそうに口を開け、訴えている。私は今までの経験で悟った。この子は失語障害であると。
(精神障害?それとも脳巣障害?この怯え方、きっと精神障害だろう)
「また君か、ここは教会ではなく家だと説明しただろう」
家の奥から杖を突いた若い男がようやく出てきた。
「そんなことより、この子はどうしたの?」
私は少し荒い声で言った。
「昨日からずっとここに居る。出て行くように言ったのだが、言うことを聞いてくれないでいる」
「それで?ずっと放っておいたの?」
「仕方ない」
若い男は間を作らずに、声色を変えずに言った。
「あなたそれでも人間なの?!」
「僕は人じゃない」
沸々と怒りがこみ上げてくる。
「よく平気な顔でそんなことが言えるわね」
女の子を抱く手にも力が入る。それを敏感に感じ取ったのか、女の子の体が強張った。私は自分を諌めた。
「とにかく、病院に連れて行かないと」
私は女の子を抱きかかえ、起き上がろうとした。しかし女の子は両手で椅子につかまり、放そうとしない。
「ねぇお願いだから言うことを聞いて」
私がそう言っても、女の子は首を振り、手を放そうとはしなかった。
(声は聞こえている。言葉の意味も分かっている。やっぱり声が出ないのは脳巣障害だからじゃない)
「ずっとこの様子のままなのだ。何とかしてほしい」
若い男の言葉に、再度怒りがこみ上げたが、今はそんな場合じゃない。
「見たところ、栄養失調みたい。何か食べる物はある?」
「無い」
「一つも無いってことはないでしょう?」
「何一つ無い。僕には必要ないからね」
本当に・・・腹が立つ!
「あなたって人は!」
「さっきも言ったが、僕は人じゃない。僕はロボットだ。人の形をした機械だ」
「もういい!」
私は女の子を椅子に下ろした。私の声に恐れを抱いたのか、しきりに震えている。
「この子を見ていて、危ないことをしないようにね。私は食料を買ってくるから」
私は一方的にそう言い放ち、教会を飛び出した。
「あの男・・・っ」
私は頭を振って雑念を払い、今、するべき事を一番前に置いた。
消化が良く、栄養のある献立を考えながら、私は形振り構わず走り続けた。
あの子の目には、恐怖心と不安が宿っていた。それに草臥れた足と靴。何かから逃げてきたように思える。何から?風の音?揺れる並木?車の走る音?人々の話し声?
あの子は私を怖がっていた。私が女だからだろうか?
(僕は人じゃない。僕はロボットだ。人の形をした機械だ)
私が人間だからだろうか?
「・・・まさかね」
私は肩で息をしながら、教会の扉を開いた。
「キッチンは何処?」
「右の奥」
若い男は椅子に座ったまま答えた。私は呼吸を落ち着かせながら、壁に沿って歩き出した。途中、あの子の様子を窺うと、静かに眠っていた。
「あなたは、何をしていたの?」
私が若い男に訪ねると、
「この子を見ていた。君がそう命じたではないか」
と言った。女の子に視線を向けると、隣に座っている若い男の裾を摘んでいるのが見えた。
「・・・キッチン、借りるわね」
キッチンは綺麗に整っていた。しかし、使い込まれた様子はなく、生活感が感じられない。
ガスコンロのつまみを捻ると、青白い炎が灯った。私はホッとしながら、壁に掛けられた鍋をコンロに置いた。続いて牛乳を注ぎ、ビスケットを割って入れた。
「出来たわよ」
私はお皿に盛った食事を二人のもとに運んだ。人肌程度に冷ましたにもかかわらず、大げさに湯気が出ている。秋だからだろうか?
「起きて、ご飯にしましょう」
私はお皿の乗ったお盆を椅子に置き、優しく女の子の肩を揺すった。
「・・・・・・」
女の子が目を覚ますと、再び瞳に不安と恐怖心が宿った。私は胸が痛くなった。
「安心して、ご飯を作ったから、一緒に食べましょう」
私はそう言って、女の子にお皿を差し出した。女の子は震える手を胸元に運んだ。
「みんなで食べましょう。お腹、空いたでしょ?」
女の子の目から恐怖心がゆっくりと消えていった。そして指先を伸ばし、お皿を受け取った。
私は・・・堪らなく、嬉しくなった。
「はい、これはあなたの分」
私は若い男にお皿を差し出した。
「僕の?」
「そうよ」
「せっかく作ってくれて済まないが、僕は食べるという行為が出来ない」
「・・・機械だから?」
「そうだ」
私は呆れて溜め息をした。
「もういいわ」
私は差し出したお皿を引っ込め、自分で食べ始めた。
「美味しい?」
私が女の子にそう話しかけると、視線を私に向け、小さく口を開いた。唇から言葉が生まれることはなかったが、不味くはないということは何となく分かった。
「それは美味いのかい?」
無機質な声で、若い男はそう言った。
「不味くはないと思うけど、私は料理が得意じゃないから」
「得意?得手不得手のことだな」
不思議な言い方をする。どこか違和感があって、何と言うか・・・。
「そう、ね。同じ物でも誰が作ったによって味は変わるから」
私は何となく、教えるように、学ばせるように言ってしまった。
「分からない」
彼は・・・本当にロボットなのだろうか?
私は食べ終えたお皿を椅子に置いた。
「ねぇ、手を出して」
若い男は無言で両手を差し出した。私は両手を摘んだ。
「!・・・体温が低い、冷たすぎる」
それに血管がないし、手触りに違和感がある。
「・・・どういうこと?」
「僕の体は常に20度を保つように造られている」
「この皮膚は?」
「これは人工皮膚だ」
私は恐る恐る脈を測った。
「・・・ない、脈拍がない」
「僕には心臓がない、従って呼吸もしない。だからだろう」
「・・・信じられない。あなた、本当に、」
「僕は機械だ。ロボットだ」
まるで映画だ。しかし、考えることに疲れているせいか、私はこれ以上疑う気になれなかった。
「あなたを生んだ人は?」
「造ったのは博士だ」
「今何処に?」
「分からない、5年前に出て行った」
「・・・そう」
「僕がロボットであると分かったかい?」
瞬きをしない彼の目からは、何も読めないし、何も感じない。ただじっと私を見据えている。目を逸らさずにはいられなかった。
「簡単には信じられない。でも現に、あなたは脈もなしに生きている」
理屈を探そうとする自分がいるのだけど、思考を止めようとする自分もいる。
「もうお腹いっぱい?」
私は空のお皿を抱えている女の子に問いかけた。
「・・・」
女の子は小さく頷いた。
「そう」
私は立ち上がり、空になったお皿を受け取った。女の子は俯いたまま小さく口を開いた。
「うん、また作ってあげるからね。そうだ、君の名前は?」
女の子は小刻みに首を動かした後、ポケットからハンカチを取り出し、私に見せた。ハンカチには刺繍が施されている。
「M―05・Ap11?」
「認識番号ではないか?それか、シリアル番号か」
「ふざけたこと言わないで!この子は人なのよ」
とっさにそう口にしてしまった。
「ごめんなさい」
差別的な言葉を、私は悔やみ、反省した。
「何故謝る?」
「・・・・・・」
「Ap11は、4月11日生。誕生日を意味しているのかしら?」
「誕生日とは?」
「生まれた日のこと。って、知らないの?」
「知らない」
嘘は言ってない。顔がそう物語っている。
「私の誕生日は4月13日。あなたが生まれた日は?」
「生まれた、という言葉は僕には正しくない。初めて起動した日は9月3日だ」
・・・深く考えないことにしよう。今はこの子のことが先。
「Mは・・・イニシャルかしら?だとしたら、特定するには難しいわね」
M・・・M・・・。そう心の中で跳ね返っている。そして、私の心の中にある名前とぶつかった。
「真理・・・」
「まり?確かにMだな」
「あ、違う、この名前は、」
心が震えた。
「聞いてみればいいだろう。君は真理という名なのか?」
男がそう尋ねると、女の子は男の袖を摘んだ。
「どういう意味だい?」
本当に真理という名前なのか、それとも気に入ったのか。どちらにしろ、私には辛い名前だった。
(思い出したくない?また逃げる?)
「・・・・・・」
(どうせ逃げられやしない。それなら、)
「真理が正しい名前なのかは分からない。けど、嫌じゃないみたい」
「そうなのか」
「そう思えるよ。だからそう呼んであげて」
「分かった」
男は素直に聞き入れた。偏見や差別が全く感じられなかった。その姿は、心のままに生きているように思える。確かに、人ではないのかも。
「あなたは?何て名前?」
「僕は名前を教えられない。そうプログラムされている」
何の為にそんなプログラムを?
「だが、名前を尋ねられた時は、「K」と答えるようにもプログラムされている」
「K?それも、イニシャル?」
「・・・そうなるね」
「そっか」
融通のきかない返答に呆れながら、私は窓に目を向けた。黒に近い群青の空が見えた。
「もう帰らなくちゃ」
「真理はどうすれば?」
「この子は、」
喉に詰まった言葉。
「・・・真理は」
私は無理やり吐き出させた。
「ここを出たがらない。外が怖いみたいなの。それに心の病気で、言葉を話せなくなってる。今は無理をさせては駄目。だからここに居させてあげて。明日、また来るから」
「分かった」
私は旅館に戻ることにした。
「それと、私の名前は「織」、憶えてね」
「しき、記憶した」
「それじゃ」
私は教会を後にした。
帰り道、色んなことが心の中を駆け巡っていた。真理のことやKのことは勿論だけど、一番は自分のことだ。
突然出逢ってしまった真理という名。いや、巡り会ったと言うべきかもしれない。あの子とは違うと分かっていても、心の中で重なってしまう。
「・・・・・・」
心に現れる陰りは、夜の山道と一緒だ。一寸先も見えない。前に広がるのは暗闇だけ。上には星が灯っている。でも、遠く、手の届かない灯り。
「・・・・・・」
それでも歩かなくちゃいけない。彷徨はなければ、いつまでもこの場所のままだ。
「本、明日借りなくちゃ」