1・惨禍を欲する耳
「聖者の灰」
1・惨禍を欲する耳
秋の夜。いや、暁だろうか。虫の音と共にチリチリと音がする。音に釣られて薄っすらと目を開けると、窓の外が異様に明るいのに気が付いた。赤からオレンジ、オレンジから赤へと揺らめいている明かり。
少しだけ開いている窓からは、季節外れの燃えるような風が忍び込んできている。私は浴衣の胸元に薄っすらと汗が浮かんでいるのに気が付いた。
「・・・何、よぉ?」
私はゆっくりと起き上がり、窓辺に歩み寄った。
窓の外には大勢の人が旅館を取り囲んでいた。その先頭には銀色の耐熱服を着た消防隊の人が立っている。
「・・・火事!」
一瞬にして目を見開かされた私は、窓の外が紅蓮の炎に包まれているのに気が付いた。
消防隊の人が口元に両手を当て、何かを叫んでいる。私は動揺しながらも耳に意識を集中させた。
「落ち着けぇ、落ち着くんだぁ」
(そうよ、落ち着きなさい。落ち着いて自分をコントロールするの。できるでしょ?)
胸の中に自分の声が響いた。「自分をコントロール」その言葉に、私は激しい嫌悪感を抱いた。
「・・・こんな時に!」
しかし、その嫌悪感は恐怖心を塗り潰し、硬くなっていた体を脱力させた。
「とにかく今は、」
私は頭を振り、深い溜め息をついた。そして、自分の心の中にあるブラックボックスに手を触れた。
(名前は?)
「綾生子 織」
(年齢は?)
「31歳」
あ、違うか。一昨日32になったんだっけ。
「ふう・・・気が付けば32年かぁ。若いとは言えないよねぇ」
(趣味は?)
「読書、それから絵本収集。あとは嗜む程度だけど、コントラバス」
(ここは何処?)
「・・何処だっけ?名前も知らない町。電車の窓から見えた紅葉が綺麗で、何となく降りたんだよね」
(今居る場所は?)
「その町の旅館。今火事だけど」
(今何をしている?)
「私は今、」
自分の質問に答えようとしていると、ドタバタと激しい足音に声を遮られた。その足音はだんだんと近づいて来て、私の部屋の前まで来た。勢いよく襖が開けられると同時に、消防隊の人が声を上げた。
「大丈夫、」
勢いよく放たれた言葉は、
「・・・そうですね」
私の姿を見たせいか、萎んでいった。
「大丈夫ですよ。火傷は勿論、掠り傷一つありませんよ」
私は皮を剥き終わったミカンを頬張りながらそう伝えた。
「あの、火は消えましたので、ご安心を」
「ご苦労様」
酸味の強いミカンは暑い部屋に良く合う。そう思った、秋の夜明けだった。
「昨晩はご迷惑をお掛けしました」
「いえ、でも驚きました」
寝不足の私は欠伸を噛み潰し、瞬きを何度もしながら仲居さんに答えた。
「ところで、火事の原因って何だったんですか?」
私がそう聞くと、仲居さんは少し顔を曇らせた。不安、恐怖、それからお客さんへの申し訳なさが宿っているように見える。
「それが・・・放火らしいんです」
「放火?」
仲居さんは胸元に手を当て、不安を押し込めるように答えた。
「はい。ここ最近多いんです。町外れのゴミ置き場が燃やされたり、民家の納屋が燃やされたり、一軒家だったり」
放火は段々と対象が大きくなっているようだ。同一人物の犯行。エスカレート?ひどいかんしゃく、制御不可能な衝動?おそらく単独犯だろう。意外と若い?そう、思春期くらいの子供。だとしたら、家庭に問題が?
「・・・様、あやいし様?」
「え?あぁ、ごめんなさい」
悪い癖だ。いや、習慣かな。とにかく、そんなことを考えるために、ここにいるのではない。
「問題ないのなら、もうしばらくここに泊まりたいのですけど?」
「それは、大丈夫ですが、でも・・・」
「私は気にしないわ。もう一度秋刀魚のすまし汁が食べたいし」
「はい、そう伝えておきます」
「それから私は「あやなす」です」
「あ、すいませんでした」
仲居さんは勢いよく頭を下げた。
「いいのよ、珍しい苗字だしね」
私は何気なく外に目を向けた。透明感のある薄い雲がゆったりと流れているのが見える。
「観光に行ってきます。お昼は外で済ませます。夕飯は、お願いしますね」
「かしこまりました」
仲居さんはもう一度深く頭を下げた。
旅館の外に出て、日の光に目を細める。車の通りが極端に少ないせいだろうか、空気がとても綺麗で、淀みなく私の中を満たしてくる。川の水もとても綺麗で、水面で日の光がキラキラと輝いている。どれも初めて見る光景だった。澄みきった空気を思いっきり吸い込むと、鼻の中がツンとした。冬はもう近い。そう思える瞬間だった。私は当てもなく、道路の真ん中を流れている小川に沿って歩き始めた。
歩いている私の頭に何かが落ちてきた。髪を梳くようにそれを摘み取った。落ちてきたのは鮮やかに身を染めた楓だった。
「・・・紅」
鮮血を連想させる色。
「あぁ・・・」
きしむ鼓動に揺さぶられる体。血管を流れる血の音が聞こえる。徐々に硬直していく肉体。
(落ち着いて、自分をコントロールするの)
「・・・うる、さい!」
自分の声で我に返ると、雑念は姿を消した。辺りを見回すと、誰も私の声には反応していなかった。ただ流れるように歩みを進めている。
私はゆっくりと拳を開いた。手の平にはクシャクシャになった楓と、古い爪痕が残っていた。
「・・・ごめんね」
私はそう言った後、楓を小川に流した。微かな波紋が生まれると、楓はゆらゆらと流れていった。私はそれを追うように、再び歩みだした。
私は2ヶ月前まで、都会で精神科医をしていた。他のことには目を向けず、同期や男性と張り合うように仕事をこなし続けてきた。そんな私は今年の夏、宝くじで3億円を当てた。それから暫くして、私は逃げるように荷物をまとめ、家を飛び出した。何も考えずに駅まで走り、ゴミ箱に携帯電話を捨てた後、行き先も分からない電車に飛び乗り、あちこちを流れ続けた。その結果、私は今、名前も知らない町を歩いている。
(今思えば、何をあんなにムキになっていたのだろう)
そう考えたところで何も変わらない。反省でも言い訳でもあるからだ。それに過去は変わらない。人の足跡は決して消えない。心を失くさない限り。
私は町外れの、小さな山のふもとに辿り着いた。隙間なく紅葉を纏った木々は、私を誘うように風になびいている。
(・・・大丈夫、だよね)
さっきのこともあり、少し怖い気もしたが、私は木々の誘いに乗ることにした。もしかしたら、自分を傷つけたいだけかもしれない。そう考えても、私の足は止まらなかった。
(今も昔も一緒だ。私は一体、何をしたいのだろうな)
山道は不思議なことに、あまり人が踏み入れた様子はなかった。
(町外れだから?それとも、熊でも出るのかしら?)
木漏れ日に目を細め、手を翳しながら、眠っている山を起こさないように静かに歩き続けた。
歩き続けて10分位だろうか。山道は開けた場所に繋がった。そこには、手入れが行き届いている綺麗な教会が建てられていた。日の光に輝いているステンドグラスに惹かれるように私は歩み寄った。
「こんな所にも神様がいるのね」
私は扉を少しだけ引き、中を覗きこんだ。
「入りますよ?」
私は何故か、体を横にし、滑り込むように中に入った。
「誰も居ないんですかぁ?」
私の声が響いても返事はない。木霊が消えると、教会の中は静けさを取り戻した。
辺りを見回すと、壁に沿って大きなこげ茶色の本棚が目に付いた。本棚を目で追っていくと、部屋を一周してしまった。
「凄い本の数、まるで図書館ね」
私は本棚に綺麗に並んでいる本を眺めた。本棚には埃一つなく、本の保存状態も素晴らしいものだった。
「潔癖症?・・・!」
本の題名を流れるように眺めていると、私は一冊の本に目を奪われた。
「夜葬曲の・・・下巻!」
私はこの本の上巻を読んだことがあった。サスペンスとホラーを合わせたような作品。私はずっと下巻を探し続けていたが、見つけることが出来ないでいた。
「こんな所にあるなんてね」
私が人差し指で本を傾けた。その時だ、
「ここに神はいない」
声が響き渡った。
「あの、ごめんなさい」
振り返ると、杖を突いた若い男性が立っていた。
「あの、私、教会の中を見せてもらおうと思いまして」
「確かに外観は教会だが、ここは僕と主の家だ」
若い男は瞬き一つせず、私を見続けている。私は少しだけ、体が震えた。
「ごめんなさい、家だとは思わなくて」
「この外観では無理もない」
「すぐ、出て行きます」
「そうしてくれ」
若い男は表情一つ変えずに言い放った。
私は傾けた本を元に戻し、そそくさと扉に向かった。
「本当に、失礼しました」
若い男は何も言わず、私を見送った。
私は自分を落ち着かせる為に溜め息をつき、空を見上げた。真上にある太陽が、まだ正午であることを伝えている。私は扉から離れ、建物に目を向けた。
「どう見ても教会だよね」
そう呟くと、
(この外観では無理もない)
さっき聞いた声が、後に続いて心に聞こえた。
(悪い人じゃないよね)
そう思うと、瞬き一つしない瞳が後に続いて思い出された。
「・・・・・・」
私は山を降りることにした。