死神と呼ばれた令嬢は“悪魔のハーブ”が繁茂する土地で救世主となる
冷たい石の床に、朝の光が細い線を引いていた。
実家の物置部屋。
窓は小さく、埃っぽい。
光の筋の中を、細かな塵がゆっくりと舞っている。
18年間、私――クロエ・ハルトマンの居場所は、ほとんどここだった。
「お姉様、いらっしゃる?」
軽やかな声と一緒に扉が開き、廊下の空気が流れ込んでくる。
物置にはそぐわない、甘い花の香りを含んだ空気だった。
入ってきたのは、妹のリリア。
淡い桃色のドレスに、艶やかな金髪。
その手には、朝露をまとった一輪の薔薇が握られている。
花びらの縁で、雫が朝の光をはじいた。
「見て! 今朝咲きましたの。わたくしが手をかざしたら、蕾がふわっとほどけたのよ。綺麗でしょう?」
「……ええ、とても」
嘘ではなかった。
息をのむほど綺麗な薔薇だった。
だからこそ、胸の奥がちくりと痛む。
「そうでしょう? お姉様にも差し上げますわ」
リリアは薔薇を差し出した。
長いこと花の香りに触れていなかった私の指が、思わず、勝手に伸びる。
私が手を伸ばしかけた、その瞬間。
「――いえ、お姉様が触れたら枯れてしまいますわね」
ひょいと引っ込められた薔薇の向こうで、彼女がくすくすと笑った。
小鳥のさえずりのような、悪意などかけらもないような、無邪気な声で。
「ごめんなさい、わたくしったら。うっかりしていましたわ」
(……うっかり、ね。今月に入って、もう三回目よ)
私は伸ばしかけた手を、そっと膝の上に戻した。
慣れている。
慣れているはずなのに、指先だけがいつまでも冷たかった。
「リリア、ここにいたのか」
父が顔を出した。
リリアの薔薇を見て、満足げに目を細める。
私には、一度も向けられたことのない目だ。
「さすがは神の愛し子だ。お前が手をかざせば、枯れ木にも花が咲く」
「まあ、お父様ったら」
「それに引き換え」
父の視線が、私に落ちた。
温度のない、床の染みでも見るような目。
「命を与える豊穣こそが正義だ。生命を奪うお前は、呪われた死神にすぎん」
「……」
反論はできなかった。
触れた植物の生命力を吸い取り、一瞬で枯らし尽くす。
それが私の力だから。
◇
数日後。
父が、一通の書状を手に物置へやって来た。
珍しく機嫌のよさそうな顔をしている。
それだけで、嫌な予感がした。
「喜べ、クロエ。お前に買い手が付いた」
「……買い手、ですか?」
聞き返した声が、掠れてしまった。
触れたものを枯らす、この私に?
冗談にしても、あまりに質が悪い。
「ヴェルデ領のアルフレッド伯爵だ。見ろ、この金額を」
後ろから覗き込んだリリアが、手を叩いて笑った。
「毒女が売れたわ! 厄介払いができた上に、お金まで! お姉様、初めて家の役に立てるわね! よかったじゃない」
父も、満足げにうなずいている。
差し出された書状に並ぶ数字は、私が一生かけても目にすることのない額だった。
(人生で初めて、私に値段がついたわ。しかも、こんなに高い値段が)
笑ってしまいそうになって、慌てて唇を引き結ぶ。
――ヴェルデ領。
かつては豊かな自然と農業を誇った土地。
だけど今は「死の大地」と噂されている。
そんな場所の領主が、呪われた娘を高値で買い取る。
(……生贄だ)
背筋が、すうっと冷えた。
(それとも、毒見役? 実験台? 北の魔女の薬の材料……?)
考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
けれど同時に、思ってしまった。
役立たずの私が、最後に家族の役に立てるなら、それはきっと、悪いことではないのだと。
この物置の外で必要とされることなんて、もう二度とないと思っていたから。
「……謹んでお受けいたします」
そう答えた私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
◇
出立の日、見送りには誰も来なかった。
分かり切ってはいたけれど、自分のこれまでの人生を否定されたみたいで、胸が苦しくなる。
私は手袋をもう一枚重ね、何にも触れないように膝の上で両手を固く組んだまま、馬車に揺られた。
窓の外を流れる野の花が、車輪の起こす風に揺れるだけで、申し訳なくなる。
そして七日間、私は到着したら最初に言う台詞を、ひたすら練習した。
(「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」。……違うわね。「お役に立てず申し訳ありません」。……それも違う。そもそも、生贄に台詞は求められているのかしら)
結論は、出なかった。
七日の旅を経て、馬車はヴェルデ領に入った。
そして私は、台詞の練習も忘れて、言葉を失った。
「…………緑」
見渡す限りの、緑だった。
畑も、街道も、家々の屋根までも。
背の低い青々とした草が、あらゆる場所を覆い尽くしている。
窓を開けた瞬間、鼻を突き抜ける強烈な清涼感に、思わず息が詰まった。
……ミントだ。
人の背丈ほどに茂った場所があり、井戸の縁を呑み込み、壁をよじ登っている。
風が吹くたびに、緑の海がざわりと波打った。美しいというより、ぞっとする光景だった。
「お嬢さん、ここは『ハーブの魔物』に飲まれたって噂ですよ」
御者が青い顔で呟いた。
「半年前に、悪徳商人が持ち込んだ珍しいミントがあっという間に……刈っても焼いても、翌日には元通りだって」
魔物。
確かに、そう呼びたくなる光景だった。
「――さあ、着きましたよ」
馬車が止まり、屋敷の門の扉が、ゆっくりと開く。
扉の前に立っていたのは、淡い金髪に、冷ややかな青い瞳の青年だった。
24歳でこの広大な領地を継いだ、若き領主。
すらりと背が高く、整った顔立ちは、遠目にも息を呑むほど美しい。
ただし、御者さんいわく、領民の前ですら滅多に笑わない。
ついたあだ名が「笑わない伯爵様」。
(――この方が、アルフレッド・ヴェルデ伯爵)
氷のような眼差しに射抜かれて、足がすくむ。
「遠いところを、よく来てくれた」
低い、静かな声だった。
私は手袋の上から両手を握りしめ、深く頭を下げた。
「クロエと申します。……先に申し上げます。私は、触れた植物を枯らしてしまいます。ですから、その、生贄でも実験でも、覚悟はできております」
七日間練習した台詞は、ひとつも出てこなかった。
声が、みっともなく震える。
沈黙が落ちた。
恐る恐る顔を上げると、伯爵様がひどく困惑した顔で私を見ていた。
「……待ってほしい。誰が、そんなことを言った」
「えっ」
「君を呼んだのは、生贄にするためなんかじゃない」
彼は一歩下がり、そして信じられないことに、私に向かって深く頭を下げた。
「単刀直入に言う。この土地を救ってほしい」
(……え? 私に向かって頭を、下げた?)
時が止まった気がした。
「半年前、隣国の商人が持ち込んだミントが領内で爆発的に広がった。除草も、焼却も、毒も効かない。刈れば根から倍に増える。このままでは今季の収穫は全滅し、領民は冬を越せない」
淡々とした口調の底に、押し殺した焦りが滲んでいた。
彼は顔を上げ、まっすぐに私を見た。
「調べ尽くして、ひとつの噂に辿り着いた。『触れた植物を一瞬で枯らす娘がいる』と。……僕は、それを救いだと思ったんだ」
救い。
その言葉が、胸の奥でゆっくり形を変えていく。
化け物のように疎まれてきた力が、誰かにとっての救いになるなんて。
考えたことも、なかった。
「ただし」と彼は続けた。
「これはただの頼みだ。嫌なら、断っていい」
「……え?」
「断っても、結納金は返さなくていい。君を実家に帰すこともしない。ここに残るのも、別の場所へ行くのも、君が選んでいい」
選んでいい。
18年間、一度も、誰からも言われたことのない言葉だった。
指先が、小さく震える。
私はぎゅっと手を握って、息を吸った。
冷たい空気と、ミントの香りが肺を満たす。
「……やらせてください」
自分の声が、はっきりと耳に届いた。
こんなにまっすぐに声を出したのは、生まれて初めてかもしれない。
「家のためでも、お金のためでもなく。……私が、やりたいと思いました。私の意思で、お役に立ちたいんです」
伯爵様は、少しの間、黙って私を見ていた。
それから、ほんのわずかに口の端を緩めた。
「ありがとう、クロエ」
(……笑った)
「笑わない伯爵様」が、笑った。
その笑みは、氷が溶けるみたいで、胸がとくんと鳴った。
◇
「――こちらがクロエ様のお部屋です」
「……ありがとうございます」
通された部屋は、不思議なくらい何もなかった。
窓辺にも、壁にも、天井にも、一つの装飾もない。
壁紙さえ、無地。
飾り気のない、けれど、隅々まで清潔に整えられた部屋だった。
侍女のマルタさんが、くすりと笑って教えてくれた。
「アルフレッド様が、三日がかりで片付けたんですよ。クロエ様のお部屋に、ミントが一本も入り込まないようにって。壁の隙間の根っこまで、ご自分の手で全部引き抜かれて」
「ご自分の、手で……?」
「ええ。使用人に任せればいいのにって言ったんですけどね。『彼女が安心して眠れる部屋にしたい』って、聞かなくて」
がらんとした部屋が、急にあたたかく見えた。
私が来る前に、顔も知らない私のためにあの方は。
その夜は、ふかふかの寝台の中で、何度も寝返りを打った。
誰かが私のために整えてくれた場所で眠るのは、あまりに慣れなくて、落ち着かなくて――それなのに、不思議と、少しも怖くなかった。
翌朝、食堂で伯爵様の手を見た。
窓から差し込む朝日の中で、指先に、細かな擦り傷がいくつもあるのがはっきりと見えた。
「……あ、あの」
「ん?」
「私の部屋――」
「ああ、よく眠れたかい?」
「あっはい、とても……ではなくて!」
伯爵様は驚いたように一瞬目を丸くしてから、すぐに優しく目を細めた。
「その、指――」
「ああ、これか。ミントは意外としぶとくてね」
何でもないように袖を引いて隠そうとする。
その不器用な優しさに、胸がきゅっと縮んだ。
お礼を言わなければ、と思うのに、言葉が喉につかえて出てこない。
「――ああそうだ。クロエ、好きな食べ物は?」
「え」
「何でもいい。甘いものでも、辛いものでも」
私は、答えられなかった。
好きなものを聞かれたことも、選んだこともなかったのだ。
出されたものを、出されたときに食べる。
それが、私の「食事」だったから。
「……分かりません」
恥ずかしくて、声が小さくなった。
「そうか」
伯爵様は、責めもせず、笑いもせず、ただ頷いた。
「では、これから一緒に探そう。僕も付き合う」
当たり前みたいな顔で言うものだから、私はまた、返事を忘れてしまった。
◇
その夜、私は思い切って尋ねてみた。
「伯爵様。どうして、呪いの噂のある娘を、領地に入れてくださったのですか」
「信じたというより、他に道がなかった」
彼は、少しだけ視線を落とした。
蝋燭の炎が揺れて、青い瞳に、淡い影が差す。
「正直に言うよ。父が亡くなってすぐ、このミントが広がり始めた。僕は領主として、何ひとつ守れなかった。……だから、君が来てくれて、本当に救われたんだ」
窓の外は、ミントの匂いで満ちた夜だった。
救われたのは、私のほうなのに。
そう言いかけて、言葉にならなかった。
「そういえば――」
彼は、ふと思い出したように言った。
「君の名前。クロエは、古い言葉で『新緑』という意味だそうだ」
「新緑……」
「枯らす力を持つ人に、新緑の名前。皮肉みたいだけど……僕は、いい名前だと思う」
名前のことで誰かに褒められたのは、初めてだった。
この名前を、私自身は、ずっと皮肉のように思っていたのに。
胸の奥にぽっと灯りがともって、私はうつむいたまま、小さく「ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。
◇
「――では、まずここから始めよう」
「はい」
最初に触れたのは、屋敷の庭を埋め尽くすミントだった。
石畳の隙間も、噴水の縁も、一面が緑に呑まれている。
風が吹くたび、むせ返るような香りが押し寄せて、頭がくらくらした。
手袋を外す。
素手で植物に触れるのは何年ぶりだろう。
指先に触れる空気が、やけに頼りなく感じられた。
「大丈夫だ。ゆっくりでいい。何か違ったら、すぐ手を離してくれ」
後ろで、伯爵様が見守っている。
背中に感じるその気配が、不思議と心強かった。
私は息を吸い、しゃがみこんで、震える指先を緑の葉にそっと当てた。
――ざあっ。
風のような音がした。
触れた場所から、緑がすうっと色を失っていく。
みるみる黒く変わり、次の瞬間、さらさらと崩れて、細かい灰になる。
灰は水面に落ちた雫の波紋のように広がり、手のひらを中心に、庭の半分が音もなく黒い砂地へと変わった。
「……すごい」
呆然と呟いたのは、伯爵様だった。
近くにいた従者の一人が、庭の柔らかい土を掘り返しながら叫んだ。
「根まで消えています! 一帯のミントがすべて消えました!」
「これなら……いける」
声が、わずかに弾んでいた。
クールな方だと思っていたのに、その横顔は少年のように明るい。
「ありがとう、クロエ。君は本当にすごい」
怖がられてきた力を、「すごい」と言われた。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
こんな言葉を、私は、ずっと誰かに言ってほしかったのかもしれない。
けれど、その力には代償があった。
庭の半分を灰にしたところで、指先が氷のように冷たくなり、視界がぐにゃりと歪んで、ふらりと目眩がしたのだ。
「クロエ!」
倒れかけた私の体を、伯爵様の腕が受け止めた。
「だ、大丈夫です。少し疲れただけで」
「大丈夫じゃない」
珍しく、強い声だった。
「力を使うと、こうなるんだな。……どうして言わなかった」
「言ったら、やめさせられると思って……」
「やめさせるとも」
あっさり言われて、私は目を丸くした。
「君が倒れない範囲で、だ。無理をして倒れたら、元も子もない。今日はもう終わり。明日からは、休み休みやろう」
領地を救うことより、私が倒れないことを選ぶ。
そんな人が、いるなんて思いもしなかった。
◇
それから私たちは、領内を巡り始めた。
最初の村に着くと、人々は私を遠巻きに見ていた。
母親の後ろに隠れた小さな子が、おびえた目でこちらを覗いている。
「あれが、領主様の呼んだ……」
「触れただけで草が枯れるんだろ? 植物以外に害はないのか……?」
当然の反応だ。
実家でも、ずっとそうだったから。
私は頭を下げて、静かに畑へ向かおうとした。
そのとき、隣を歩いていた伯爵様が、私の手をみんなの前で取った。
「皆、聞いてくれ」
ざわめきが止まる。
「彼女はクロエ。僕の客人で、この領地を救うために来てくれた人だ。怖がるのは構わない。だが、彼女を傷つける言葉だけは、領主として許さない」
静かな声が、広場に響いた。
私は、握られた手を見つめた。
実家では、私を庇ってくれる人など、いなかった。
――この人の隣では、俯かなくていいのかもしれない。
そう思えて、私は顔を上げて畑に向かった。
一つ大きく深呼吸をする。
そしてそのままミントに手を触れた。
青々としたミントが生命力を失って、サラサラとした灰に変わっていく。それが波のように広がって――
ひとつの畑が、真っ黒な更地になった時。
「…………あ」
村の老人が、膝から崩れ落ちた。
「ミントが……消えた……。ワシの畑が、土が……見えとる……」
ぽろぽろと、涙をこぼしている。
節くれだった手で、黒い土を愛おしそうにすくっては、何度も握りしめていた。
「ありがとう……ありがとう、お嬢さん……!」
一人が泣くと、堰を切ったように人々が駆け寄ってきた。
「聖女様だ!」
「聖女様がいらっしゃった!」
「ありがとう! ありがとう!」
私は固まったまま、動けなかった。
聖女? 私が? そんなはずがない。
私は毒女で、疫病神で――
「あの、違います、私は……」
「何言ってんだい、あんたは恩人だよ!」
恰幅のいい女性が、泥だらけの手で私の両手を包んだ。
驚いて引こうとしたけれど、彼女は離さなかった。
「ほら、これ食べな。朝からろくに食べてないんだろう?」
差し出されたのは、湯気の立つスープだった。
じゃがいもと豆の入った、素朴な、あたたかい料理。
器を持つ手に、じんわりと熱が伝わってくる。
ひと口飲んだ瞬間、視界がにじんだ。
「……おいしい、です」
「そりゃよかった! おかわりもあるよ!」
笑い声が弾け、子供たちがおずおずと近づいてくる。
「聖女様、うちの畑もお願いできる?」
「……ええ、もちろん」
人垣の向こうで、伯爵様が一歩下がって立っていた。
領主なのに、前に出ようとしない。
ただ私を見て、まるで自分のことのように、嬉しそうに笑っていた。
(……また、笑ってる)
「笑わない伯爵様」の噂は、いったいどこへ行ったのだろう。
その横顔を見た瞬間、胸の中で何かが、小さく音を立てた。
◇
季節がひとつ巡りかけた頃には、私たちの間に、いくつもの習慣ができていた。
朝は、食堂で「おはようございます」と言う。
窓から差し込む光の中で、伯爵様が「おはよう」と返してくれる。
そして夜は、伯爵様が淹れてくれた紅茶を飲みながら少しお話をして――「おやすみ」と言ってから眠るのだ。
たったそれだけのことが、一日の小さな楽しみになっていた。
「今日は、どこまで行ったんだ?」
「三つ目の村の、南の畑まで。ミントの根が深くて、少し時間がかかりました」
「無理は?」
「していません。ちゃんと、休みました」
「ならよし」
そんな会話を毎日続けるうち、私は少しずつ自分のことを話すようになっていた。
ある夜、彼が尋ねた。
「実家では、どんな暮らしをしていたんだ」
一瞬、喉が詰まった。
けれど、この人になら、と思えた。
「……物置、でした。窓の小さい部屋で。庭に出ると、枯らしてしまうから」
伯爵様は、何も言わなかった。
ただ、カップを持つ手に、わずかに力がこもったのが分かった。
「7歳のとき、庭を枯らしてしまってから、ずっと。……でも、慣れていますから」
「慣れるな」
低い声が、静かに落ちた。
「そんなものに、慣れるな。……君が悪いんじゃない」
「でも、実際に枯らしたのは、私で」
「君は、まだ七歳の子供だったんだ」
はっとした。
誰も、そんなふうには言ってくれなかった。
ずっと、私が悪いのだと思っていた。思い込むことでしか、あの暮らしに折り合いをつけられなかったから。
「力の使い方を、誰も教えなかった。そして、誰も守らなかった。それだけだ」
視界がにじんで、慌てて俯くと、頭に大きな手がぽんと乗った。
「泣いていい」
「だ、大丈夫……です」
「そうか。じゃあ、僕が勝手に隣にいる」
そう言って、彼はそれきり何も聞かず、ずっと隣にいてくれた。
またある夜は、伯爵様のほうがぽつりぽつりと話してくれた。
「以前話したが―――父は、領民思いの人だった。倒れてから、ひと月ももたなかった。その間にミントが広がり始めて……僕は、跡を継ぐ覚悟も準備もないまま、全部を背負うことになった」
窓の外の、ミントの影を見つめながら。
いつも凛としている横顔が、その夜だけは、少し年相応の青年に見えた。
「毎晩、帳簿を見ては、冬を越せる人数を数えていた。数えるたびに、減っていく。……あの頃は、眠れなかった」
「……今は?」
「眠れてる」
彼は、私を見て、少しだけ笑った。
「君が来てくれたから、ね」
心臓が、跳ねた。
(……期待しては、だめ)
私は、ミントを枯らすために呼ばれた人間だ。
この優しさは、きっと、その役目に対するものなのだから。
そう自分に言い聞かせて、私はカップの紅茶をゆっくりと飲み干した。
◇
領内の見回りが半分を過ぎた頃、私たちは屋敷の庭の真ん中で昼食をとった。
「ここで? 灰だらけですが」
「だからいいんだ。ミントに埋もれていた場所が、こうして見渡せる。……君の功績だ」
見上げると、空が広かった。
ミントの緑に覆われていた頃には、気づきもしなかった、澄んだ青空。
彼が敷いた布の上に、バスケットが広がる。
パン、チーズ、果物の砂糖煮。そして、小さな焼き菓子。
「好きな食べ物を探すと言っただろう。今日は、候補を持ってきた」
ひとつずつ、口に運ぶ。
甘いもの、酸っぱいもの、しょっぱいもの。
一口ごとに、「どう?」と覗き込まれて、そのたびに頬が熱くなった。
「……これ」
焼き菓子を、もう一度手に取った。
バターの香りと、素朴な甘さ。
「気に入った?」
「はい。……好き、です」
口にして、驚いた。
生まれて初めて、「好き」と言えたのだ。
「そうか。覚えておこう」
伯爵様が、心から嬉しそうに笑った。
光の中で、目尻が柔らかく下がる。
その笑顔を見ているうちに、私は気づいてしまった。
私は、この人の隣にいるのが、好きなのだと。
昼食を終えたころ。
「――これを君に」
伯爵様が小さな箱を差し出してきた。
「え、あ……」
中には薄い革の手袋が入っていた。
しなやかで、手首のところに、小さな若葉の刺繍。
私の手にぴったりと合う大きさだった。
「君の手に合わせて、仕立てさせた。今のは分厚くて、動かしにくいだろうから」
「……ありがとうございます。大切にします」
「あと、それと――」
伯爵様は何か言いかけて、やめた。
「……いや、また今度にしよう。ミントを片づけたら、話したいことがある」
「話したいこと、ですか」
「ああ。大事な話だ」
その「大事な話」が何なのか、私にはわからない。
けれど、ただ、期待に似た何かが胸の奥で、ことりと音を立てた。
◇
それから少しあと。
ちょうど出会って1年が過ぎた日、最後の畑の緑が灰になった。
黒く染まった大地の向こうに、夕日が沈んでいく。
空も、土も、人々の頬も、すべてが橙色に染まっていた。
領内のミントは、すべて消えた。
「終わった……」
呟いた私の周りで、領民たちが歓声を上げた。
抱き合って泣く人。
空に帽子を放る人。
「聖女様ばんざい!」という声が、いつまでも止まなかった。
その夜、屋敷では、領民も招いた祝宴が開かれた。
広間は笑い声と音楽に満ちて、料理の香りが廊下にまであふれている。
私は賑わいから少し離れて、廊下の窓辺にいた。
胸がいっぱいで、けれど、ほんの少しだけ、寂しかった。
終わったのだ。
そう思った途端、胸の奥に冷たい風が吹き込んだ。
そのとき、廊下の向こうから、声が聞こえた。
老執事のハンスさんの声だった。
「これでようやく、閣下もご縁談に戻れますな。先日も、王都の侯爵家から、改めて――」
「その話は、今は」
伯爵様の声が遮った。
足が、止まった。
ご縁談。
そうだ、何を勘違いしていたのだろう。
私は、ミントを枯らすために呼ばれた。
そして、ミントはもうない。
伯爵様のような方の隣には、きっともっとふさわしい人がいる。
毒女だった私なんかが隣にいていい理由なんて、どこにも――
『ミントを片づけたら、話したいことがある』
あの「大事な話」は、きっと。
(……ああ。そういうこと)
胸が、冷たく締めつけられた。
役目を終えた毒女が居座っていてはいけない。
優しい人だからこそ、断れずに私を置いてくれてしまう。
そうなる前に。
◇
深夜、私は小さな鞄に荷物をまとめた。
持ってきたものは少ない。
着替えが数枚と、領民たちがくれたお守りと、あの若葉の刺繍の手袋。
指先で手袋の刺繍をなぞると、涙が出そうになって慌てて鞄の底にしまった。
机に、書き置きを残す。
『伯爵様。一年間、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、生まれて初めて誰かの役に立てた気がします。どうかお元気で。 クロエ』
最後に、もう一行だけ書き足して、ペンが止まった。
『あなたの隣が、好きでした』
私は、その一行を、インクで黒く塗りつぶした。
夜の闇に紛れて、屋敷を出た。
行くあてなど、どこにもない。
やがて空が曇り、冷たい雨が降り出した。
外套はすぐに重くなって、足元がぬかるむ。
私は、街道沿いの古い石橋の下にうずくまった。
雨音に、嗚咽が溶けていく。
どれくらいそうしていたかわからない。
雨が一層強くなってきたころ、泥を跳ね上げる馬の足音が近づいてきた。
「クロエ!」
雨の中、伯爵様が馬から飛び降りた。
上着もはおらず、全身ずぶ濡れで、髪が額に張りついている。
「どうして……」
言い終わる前に、私は強く抱きしめられていた。
「行かないでくれ」
腕が、震えている。
濡れたシャツ越しに、速い鼓動が伝わってきた。
必死に走ってきてくれたのだと、体温が教えてくれる。
「書き置きを見た。……最後の一行も。黒く塗りつぶしてあったけれど、灯りに透かしたら読めた」
「……っ」
「過去形にしないでくれ。僕の隣に、これからもいてほしい」
「でも、侯爵家のご縁談が……私は、役目を終えた毒女で……」
「縁談?」
伯爵様は、一瞬きょとんとして、それから苦しそうに顔を歪めた。
「あの会話を、聞いたのか」
「……」
「断った。ハンスの言う縁談は、もう何度も断っている。僕には、結婚したい人がいるからと」
雨が、二人の間に降り注ぐ。
「僕の落ち度だ。君に言うべきことを、先延ばしにした。君が、恩や義理で頷いてしまわないように。ミントを片づけて、君が『役目』から自由になってから、ちゃんと君の意思で選んでほしかった。……それが、君をこんなに不安にさせた。すまない」
『選んでほしかった』
あの日の「断ってもいい」と、同じ優しさだった。
不器用で、遠回りで、けれど、どこまでも真っ直ぐな。
「役割なんて、関係ない」
彼は、私の両肩を掴んで、まっすぐに言った。
「毎朝、君が食堂で『おはようございます』と言うのが、僕の一日の始まりだった。夜、君に『おやすみなさい』と言うのが、一日の終わりだった。いつの間にか、それが当たり前になっていた」
青い瞳が、雨の中で、真剣に揺れている。
「……君を、愛している。ミントがあっても、なくても。力があっても、なくても。クロエという人が、好きなんだ」
頭が、真っ白になった。
愛している。
私を。
毒女だった、私を。
「そ、そんな……私は、触れたものを枯らす――」
「待ってくれ。ひとつ、見せたいものがある」
彼は、シャツの胸元に押し込んでいた小さな硝子瓶を取り出した。
雨から守るように、ずっと抱えていたのだ。
瓶の中には、黒い灰と、そこから顔を出した、ほんの小さな緑の芽。
「少し前、『死の大地』と呼ばれていた村はずれの畑に芽が出た。君が灰にしたミントが新しい命を育んだんだ」
「え……?」
「『大事な話』は、これだった。君に見せたかった」
彼は、雨に濡れるのも構わず、瓶を私の前に掲げた。
「ミントは、生命力の塊だ。その生命力が凝縮された灰は、最高の肥料になる。君の力は、命を奪っているんじゃない。命を、形を変えて、次へ渡しているんだ」
あの、さらさらと崩れる黒い灰。
ずっと、「死」の抜け殻だと思っていたもの。
「君は、命を奪う死神じゃない」
彼の声が、雨音を貫いた。
「命を育む、大地の母だ」
雨が、私の頬を打つ。
いや、頬を流れているのは、雨だけではなかった。
「私……ここに、いても……いいんですか……?」
「当たり前だ。ここが、君の家だ」
彼は、不器用に笑って、私の涙を親指で拭った。
「それとその……『大事な話』の続きなんだが」
「……はい」
「……僕の妻として、そばにいてくれないか」
私は、初めて声を上げて泣いた。
ずっとずっと、誰かにそう言ってほしかったのだと、やっと分かった。
「……はい。喜んで」
ようやく絞り出した返事に、彼が、泣きそうな顔で微笑んだ。
「それから、頼みがある」
「頼み、ですか」
「名前で呼んでくれ。ずっと、『伯爵様』と呼ばれるのが、少し寂しかった」
私は、小さく息を吸って、その名前を口にした。
「……アルフレッド様」
「うん」
雨の中で、彼は、世界で一番幸せそうに笑った。
◇
それから、ヴェルデ領は目覚ましい速さで変わっていった。
村はずれの「死の大地」には、様々な作物が実った。
小麦は黄金色に、野菜は瑞々しく、果樹は枝が折れるほどに。
「これは、国を変える力だ」
アルフレッド様は、収穫を前に嬉しそうに言った。
「除草剤も使わず、土も傷めず、雑草を根まで処理できる。その上、灰が肥料になる。これほど農業に理想的な力は、ない」
「……私の、力が」
「ああ。君の力が、だ」
屋敷の庭には、頑丈な囲いを設けた小さな「ミント農園」が作られた。
わざとミントを育て、私が収穫の前に枯らして灰にする。
命を巡らせるための、循環の畑だ。
その灰は、領民たちの手で「聖女印の肥料」と名づけられ、競って畑に撒かれた。
噂は、国じゅうに広まっていった。
◇
――その頃、ハルトマン子爵家では。
「ヴェルデ領が特製肥料で大豊作だと?」
噂を聞きつけた子爵は、膝を打った。
「毒女の力ではあるまい。あの土地の土が、元々良かったのだ。ミントを肥料にしているなら、うちでもできる」
「お父様、わたくしの『豊穣の力』でミントを育てれば、もっと立派な肥料が作れますわ!」
リリアは胸を張った。
(毒女の灰より、神の愛し子の育てたミントのほうが、よほど上等に決まっているもの!)
その根拠のない自信が、すべての間違いの始まりだった。
子爵は悪徳商人から、あの禁断のミントの種を密かに買い込み、領地じゅうの畑に撒いた。
最初の一週間は、順調に見えた。
「見ろ、こんなに早く芽が出たぞ!」
「さすが、神の愛し子様ですわ!」
畑一面に広がる若緑を前に、二人は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
そして、リリアが仕上げに、畑へ手をかざした瞬間だった。
緑が、爆ぜた。
ミントは狂ったように伸び上がり、人の背丈を超え、畑の柵を押し倒し、街道に溢れ出した。
刈っても刈っても、根から倍に増える。
「な、なによこれ……止まりなさい! 止まって!」
リリアが慌てて手をかざす。
「豊穣」の力が、さらにミントへ注がれる。
ミントはますます巨大化し、家々を呑み込み、街を覆い、ついには子爵邸の石壁までを這い上がった。
「やめろ、リリア! これ以上、力を使うな!」
「だって、止め方が分からないのよ! わたくしは、命を与えることしか……!」
彼女は、そこで初めて悟った。
植物を育てる力しか持たない自分には、間引く力も、止める力もないのだと。
領土全体が悲鳴を上げた。
王都の使者が青ざめて駆けつけた頃には、領地の半分が緑の海に沈んでいた。
「この厄災を招いたのは、誰だ!」
「あの女だ。『神の愛し子』が、ミントで汚したんだ!」
かつて彼女を崇めた人々が、石を握りしめて叫ぶ。
昨日まで花を捧げていた手が、今日は憎しみに震えていた。
王命が下った。
『リリア・ハルトマン。其の者、二度と植物に触れることを禁ず』
王の使者は、淡々と告げた。
「あなたが触れれば、増えてしまうのですよ。ご自分の手が、この国にとって何であるか、よくお考えなさい」
リリアは、真っ青になって自分の両手を見つめた。
かつて「神の愛し子」と崇められた手に、分厚い手袋がはめられる。
子爵は爵位を剥奪され、屋敷も領地も、被害の賠償のために差し押さえられた。
◇
――そして、数週間後。
ボロボロの外套を着た二人が、ヴェルデ領の屋敷の門前に現れた。
「クロエ! 助けてくれ、お前の力が必要なんだ!」
「お姉様、お願い、わたくしたち、家族でしょう?」
門を挟んで、泣きすがる声が響く。
リリアの両手には、分厚い手袋。あの日の私と、同じように。
私の足が、わずかにすくんだ。物置の暗がりも、冷たい視線も、一瞬で蘇る。
けれど、隣に立ったアルフレッド様が、そっと私の手を握ってくれた。
「君が決めていい」
その言葉が、背中を押してくれた。
私は、ゆっくりと門の前まで歩いた。
「お父様。リリア」
二人の目に、希望が灯る。
「私に、物置の中で『死神』と言い続けたのは、あなた方でした」
「そ、それは……!」
「命を与えることだけが正義だと、あなた方は言いました。ならば、与えすぎた命の責任も、どうぞ、ご自分たちで負ってください」
静かな声だった。
不思議と、震えはなかった。
「リリア。あなたはいつか、薔薇を差し出して、すぐに引っ込めたわね」
「……っ」
「もう、いらないの。私が欲しかったものは、全部、ここにあるから」
私は、まっすぐに二人を見つめた。
「自業自得です。お引き取りを」
アルフレッド様が、冷ややかに続けた。
「ヴェルデ領は、ハルトマン家との取引および援助を、一切行いません」
「そんな……お姉様ぁ!」
衛兵に引きずられていくリリアの声が、遠ざかる。
私は、一度も振り返らなかった。
のちに聞いた話では、ハルトマン家は取引先も領土も失い、跡形もなく没落したという。
◇
季節が、ひとつ巡った。
夕暮れの丘の上。
眼下には、どこまでも続く黄金色の麦畑が広がっている。
風が吹くたびに穂が波のように揺れ、夕日を受けて、きらきらと輝いていた。
ヴェルデ領は、国一番の農業大国になった。
ミントは囲いの中だけで育ち、私の手で灰に還り、また命を支える。
ほどよく制御された、豊かな大地だ。
「綺麗だな」
隣で、アルフレッド様が呟いた。
「はい。本当に」
私たちは、手をつないでいた。
手袋はしていない。
この手が触れても、彼は枯れない。
それが、何よりの救いだった。
「クロエ。渡したいものがある」
彼が、懐から小さな箱を取り出した。
開けると、指輪が入っていた。
台座には、翡翠で彫られた、小さな小さな若葉。
夕日を受けて、透きとおった緑が、ちらりと光る。
「君の手が触れても、枯れない植物を贈りたかった」
「……若葉」
「君の名前だ。枯らす力を持つ人に、新緑の名前。最初に会った夜は、皮肉みたいだと言ったけれど」
アルフレッド様は、少し照れたように笑った。
「今は、そうは思わない。君は、命を終わらせる人じゃない。命を、次へ渡す人だ。……だから、この名前は、君にぴったりだ」
左手の薬指に、指輪がそっと通される。
冷たいはずの翡翠が、彼の体温で、あたたかかった。
「私、昔は、自分の手が大嫌いでした」
指先を見つめる。細くて、小さくて、傷だらけの手。
「何も育てられない、何も咲かせられない、ただ奪うだけの手だと思っていたんです。……でも、今は違います」
顔を上げ、彼を見つめて、私は微笑んだ。
「リリアたちを見て、思ったんです。命を与えるだけでは、世界は回らないって。与えることと、巡らせること。……どちらも、大切なのですね」
「ああ」
アルフレッド様の青い瞳が、夕焼けの色を映して、柔らかく揺れた。
「ありがとう、クロエ。僕のところへ来てくれて」
「こちらこそ。……『断ってもいい』と言ってくれて、ありがとうございました」
「そんな前のことを」
「私にとっては、世界が変わった日ですから」
彼は、ふっと目を細めて、私の頬にそっと触れた。
顔が近づく。
夕日の中で、唇が、優しく重なった。
風が、麦の穂を揺らしている。
黄金色の大地の上で、私たちは、いつまでも寄り添っていた。




