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死神と呼ばれた令嬢は“悪魔のハーブ”が繁茂する土地で救世主となる

作者: 加糖 甘
掲載日:2026/10/17



冷たい石の床に、朝の光が細い線を引いていた。


実家の物置部屋。

窓は小さく、埃っぽい。

光の筋の中を、細かな塵がゆっくりと舞っている。


18年間、私――クロエ・ハルトマンの居場所は、ほとんどここだった。


「お姉様、いらっしゃる?」


軽やかな声と一緒に扉が開き、廊下の空気が流れ込んでくる。

物置にはそぐわない、甘い花の香りを含んだ空気だった。


入ってきたのは、妹のリリア。

淡い桃色のドレスに、艶やかな金髪。

その手には、朝露をまとった一輪の薔薇が握られている。

花びらの縁で、雫が朝の光をはじいた。


「見て! 今朝咲きましたの。わたくしが手をかざしたら、蕾がふわっとほどけたのよ。綺麗でしょう?」

「……ええ、とても」


嘘ではなかった。

息をのむほど綺麗な薔薇だった。

だからこそ、胸の奥がちくりと痛む。



「そうでしょう? お姉様にも差し上げますわ」


リリアは薔薇を差し出した。

長いこと花の香りに触れていなかった私の指が、思わず、勝手に伸びる。


私が手を伸ばしかけた、その瞬間。


「――いえ、お姉様が触れたら枯れてしまいますわね」


ひょいと引っ込められた薔薇の向こうで、彼女がくすくすと笑った。

小鳥のさえずりのような、悪意などかけらもないような、無邪気な声で。


「ごめんなさい、わたくしったら。うっかりしていましたわ」


(……うっかり、ね。今月に入って、もう三回目よ)


私は伸ばしかけた手を、そっと膝の上に戻した。

慣れている。

慣れているはずなのに、指先だけがいつまでも冷たかった。


「リリア、ここにいたのか」


父が顔を出した。

リリアの薔薇を見て、満足げに目を細める。

私には、一度も向けられたことのない目だ。


「さすがは神の愛し子だ。お前が手をかざせば、枯れ木にも花が咲く」

「まあ、お父様ったら」

「それに引き換え」


父の視線が、私に落ちた。

温度のない、床の染みでも見るような目。


「命を与える豊穣こそが正義だ。生命を奪うお前は、呪われた死神にすぎん」

「……」


反論はできなかった。

触れた植物の生命力を吸い取り、一瞬で枯らし尽くす。

それが私の力だから。



◇



数日後。

父が、一通の書状を手に物置へやって来た。

珍しく機嫌のよさそうな顔をしている。

それだけで、嫌な予感がした。



「喜べ、クロエ。お前に買い手が付いた」

「……買い手、ですか?」


聞き返した声が、掠れてしまった。

触れたものを枯らす、この私に?

冗談にしても、あまりに質が悪い。


「ヴェルデ領のアルフレッド伯爵だ。見ろ、この金額を」


後ろから覗き込んだリリアが、手を叩いて笑った。


「毒女が売れたわ! 厄介払いができた上に、お金まで! お姉様、初めて家の役に立てるわね! よかったじゃない」


父も、満足げにうなずいている。

差し出された書状に並ぶ数字は、私が一生かけても目にすることのない額だった。


(人生で初めて、私に値段がついたわ。しかも、こんなに高い値段が)


笑ってしまいそうになって、慌てて唇を引き結ぶ。



――ヴェルデ領。

かつては豊かな自然と農業を誇った土地。

だけど今は「死の大地」と噂されている。

そんな場所の領主が、呪われた娘を高値で買い取る。


(……生贄だ)


背筋が、すうっと冷えた。


(それとも、毒見役? 実験台? 北の魔女の薬の材料……?)


考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨らんでいく。

けれど同時に、思ってしまった。

役立たずの私が、最後に家族の役に立てるなら、それはきっと、悪いことではないのだと。

この物置の外で必要とされることなんて、もう二度とないと思っていたから。


「……謹んでお受けいたします」


そう答えた私の声は、自分でも驚くほど静かだった。



◇



出立の日、見送りには誰も来なかった。

分かり切ってはいたけれど、自分のこれまでの人生を否定されたみたいで、胸が苦しくなる。


私は手袋をもう一枚重ね、何にも触れないように膝の上で両手を固く組んだまま、馬車に揺られた。

窓の外を流れる野の花が、車輪の起こす風に揺れるだけで、申し訳なくなる。


そして七日間、私は到着したら最初に言う台詞を、ひたすら練習した。


(「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」。……違うわね。「お役に立てず申し訳ありません」。……それも違う。そもそも、生贄に台詞は求められているのかしら)


結論は、出なかった。



七日の旅を経て、馬車はヴェルデ領に入った。

そして私は、台詞の練習も忘れて、言葉を失った。


「…………緑」


見渡す限りの、緑だった。

畑も、街道も、家々の屋根までも。

背の低い青々とした草が、あらゆる場所を覆い尽くしている。

窓を開けた瞬間、鼻を突き抜ける強烈な清涼感に、思わず息が詰まった。


……ミントだ。


人の背丈ほどに茂った場所があり、井戸の縁を呑み込み、壁をよじ登っている。

風が吹くたびに、緑の海がざわりと波打った。美しいというより、ぞっとする光景だった。


「お嬢さん、ここは『ハーブの魔物』に飲まれたって噂ですよ」


御者が青い顔で呟いた。


「半年前に、悪徳商人が持ち込んだ珍しいミントがあっという間に……刈っても焼いても、翌日には元通りだって」


魔物。

確かに、そう呼びたくなる光景だった。





「――さあ、着きましたよ」


馬車が止まり、屋敷の門の扉が、ゆっくりと開く。

扉の前に立っていたのは、淡い金髪に、冷ややかな青い瞳の青年だった。


24歳でこの広大な領地を継いだ、若き領主。

すらりと背が高く、整った顔立ちは、遠目にも息を呑むほど美しい。


ただし、御者さんいわく、領民の前ですら滅多に笑わない。

ついたあだ名が「笑わない伯爵様」。


(――この方が、アルフレッド・ヴェルデ伯爵)


氷のような眼差しに射抜かれて、足がすくむ。



「遠いところを、よく来てくれた」


低い、静かな声だった。

私は手袋の上から両手を握りしめ、深く頭を下げた。


「クロエと申します。……先に申し上げます。私は、触れた植物を枯らしてしまいます。ですから、その、生贄でも実験でも、覚悟はできております」


七日間練習した台詞は、ひとつも出てこなかった。

声が、みっともなく震える。


沈黙が落ちた。

恐る恐る顔を上げると、伯爵様がひどく困惑した顔で私を見ていた。


「……待ってほしい。誰が、そんなことを言った」

「えっ」

「君を呼んだのは、生贄にするためなんかじゃない」


彼は一歩下がり、そして信じられないことに、私に向かって深く頭を下げた。


「単刀直入に言う。この土地を救ってほしい」


(……え? 私に向かって頭を、下げた?)


時が止まった気がした。




「半年前、隣国の商人が持ち込んだミントが領内で爆発的に広がった。除草も、焼却も、毒も効かない。刈れば根から倍に増える。このままでは今季の収穫は全滅し、領民は冬を越せない」


淡々とした口調の底に、押し殺した焦りが滲んでいた。

彼は顔を上げ、まっすぐに私を見た。


「調べ尽くして、ひとつの噂に辿り着いた。『触れた植物を一瞬で枯らす娘がいる』と。……僕は、それを救いだと思ったんだ」



救い。

その言葉が、胸の奥でゆっくり形を変えていく。

化け物のように疎まれてきた力が、誰かにとっての救いになるなんて。

考えたことも、なかった。


「ただし」と彼は続けた。


「これはただの頼みだ。嫌なら、断っていい」

「……え?」

「断っても、結納金は返さなくていい。君を実家に帰すこともしない。ここに残るのも、別の場所へ行くのも、君が選んでいい」


選んでいい。

18年間、一度も、誰からも言われたことのない言葉だった。


指先が、小さく震える。

私はぎゅっと手を握って、息を吸った。

冷たい空気と、ミントの香りが肺を満たす。


「……やらせてください」



自分の声が、はっきりと耳に届いた。

こんなにまっすぐに声を出したのは、生まれて初めてかもしれない。


「家のためでも、お金のためでもなく。……私が、やりたいと思いました。私の意思で、お役に立ちたいんです」



伯爵様は、少しの間、黙って私を見ていた。

それから、ほんのわずかに口の端を緩めた。


「ありがとう、クロエ」


(……笑った)


「笑わない伯爵様」が、笑った。

その笑みは、氷が溶けるみたいで、胸がとくんと鳴った。



◇



「――こちらがクロエ様のお部屋です」

「……ありがとうございます」


通された部屋は、不思議なくらい何もなかった。

窓辺にも、壁にも、天井にも、一つの装飾もない。

壁紙さえ、無地。


飾り気のない、けれど、隅々まで清潔に整えられた部屋だった。



侍女のマルタさんが、くすりと笑って教えてくれた。


「アルフレッド様が、三日がかりで片付けたんですよ。クロエ様のお部屋に、ミントが一本も入り込まないようにって。壁の隙間の根っこまで、ご自分の手で全部引き抜かれて」

「ご自分の、手で……?」

「ええ。使用人に任せればいいのにって言ったんですけどね。『彼女が安心して眠れる部屋にしたい』って、聞かなくて」


がらんとした部屋が、急にあたたかく見えた。

私が来る前に、顔も知らない私のためにあの方は。


その夜は、ふかふかの寝台の中で、何度も寝返りを打った。

誰かが私のために整えてくれた場所で眠るのは、あまりに慣れなくて、落ち着かなくて――それなのに、不思議と、少しも怖くなかった。



翌朝、食堂で伯爵様の手を見た。

窓から差し込む朝日の中で、指先に、細かな擦り傷がいくつもあるのがはっきりと見えた。


「……あ、あの」

「ん?」

「私の部屋――」

「ああ、よく眠れたかい?」

「あっはい、とても……ではなくて!」


伯爵様は驚いたように一瞬目を丸くしてから、すぐに優しく目を細めた。


「その、指――」

「ああ、これか。ミントは意外としぶとくてね」


何でもないように袖を引いて隠そうとする。

その不器用な優しさに、胸がきゅっと縮んだ。


お礼を言わなければ、と思うのに、言葉が喉につかえて出てこない。



「――ああそうだ。クロエ、好きな食べ物は?」

「え」

「何でもいい。甘いものでも、辛いものでも」



私は、答えられなかった。

好きなものを聞かれたことも、選んだこともなかったのだ。

出されたものを、出されたときに食べる。

それが、私の「食事」だったから。


「……分かりません」


恥ずかしくて、声が小さくなった。


「そうか」


伯爵様は、責めもせず、笑いもせず、ただ頷いた。


「では、これから一緒に探そう。僕も付き合う」



当たり前みたいな顔で言うものだから、私はまた、返事を忘れてしまった。



◇



その夜、私は思い切って尋ねてみた。


「伯爵様。どうして、呪いの噂のある娘を、領地に入れてくださったのですか」

「信じたというより、他に道がなかった」


彼は、少しだけ視線を落とした。

蝋燭の炎が揺れて、青い瞳に、淡い影が差す。


「正直に言うよ。父が亡くなってすぐ、このミントが広がり始めた。僕は領主として、何ひとつ守れなかった。……だから、君が来てくれて、本当に救われたんだ」


窓の外は、ミントの匂いで満ちた夜だった。

救われたのは、私のほうなのに。

そう言いかけて、言葉にならなかった。




「そういえば――」


彼は、ふと思い出したように言った。


「君の名前。クロエは、古い言葉で『新緑』という意味だそうだ」

「新緑……」

「枯らす力を持つ人に、新緑の名前。皮肉みたいだけど……僕は、いい名前だと思う」


名前のことで誰かに褒められたのは、初めてだった。

この名前を、私自身は、ずっと皮肉のように思っていたのに。

胸の奥にぽっと灯りがともって、私はうつむいたまま、小さく「ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。




◇



「――では、まずここから始めよう」

「はい」


最初に触れたのは、屋敷の庭を埋め尽くすミントだった。

石畳の隙間も、噴水の縁も、一面が緑に呑まれている。

風が吹くたび、むせ返るような香りが押し寄せて、頭がくらくらした。


手袋を外す。


素手で植物に触れるのは何年ぶりだろう。

指先に触れる空気が、やけに頼りなく感じられた。


「大丈夫だ。ゆっくりでいい。何か違ったら、すぐ手を離してくれ」


後ろで、伯爵様が見守っている。

背中に感じるその気配が、不思議と心強かった。

私は息を吸い、しゃがみこんで、震える指先を緑の葉にそっと当てた。


――ざあっ。


風のような音がした。

触れた場所から、緑がすうっと色を失っていく。

みるみる黒く変わり、次の瞬間、さらさらと崩れて、細かい灰になる。

灰は水面に落ちた雫の波紋のように広がり、手のひらを中心に、庭の半分が音もなく黒い砂地へと変わった。


「……すごい」


呆然と呟いたのは、伯爵様だった。

近くにいた従者の一人が、庭の柔らかい土を掘り返しながら叫んだ。


「根まで消えています! 一帯のミントがすべて消えました!」

「これなら……いける」


声が、わずかに弾んでいた。




クールな方だと思っていたのに、その横顔は少年のように明るい。


「ありがとう、クロエ。君は本当にすごい」


怖がられてきた力を、「すごい」と言われた。

胸の奥が、じんわり熱くなる。

こんな言葉を、私は、ずっと誰かに言ってほしかったのかもしれない。



けれど、その力には代償があった。

庭の半分を灰にしたところで、指先が氷のように冷たくなり、視界がぐにゃりと歪んで、ふらりと目眩がしたのだ。


「クロエ!」


倒れかけた私の体を、伯爵様の腕が受け止めた。


「だ、大丈夫です。少し疲れただけで」

「大丈夫じゃない」


珍しく、強い声だった。


「力を使うと、こうなるんだな。……どうして言わなかった」

「言ったら、やめさせられると思って……」

「やめさせるとも」


あっさり言われて、私は目を丸くした。


「君が倒れない範囲で、だ。無理をして倒れたら、元も子もない。今日はもう終わり。明日からは、休み休みやろう」


領地を救うことより、私が倒れないことを選ぶ。

そんな人が、いるなんて思いもしなかった。



◇




それから私たちは、領内を巡り始めた。

最初の村に着くと、人々は私を遠巻きに見ていた。

母親の後ろに隠れた小さな子が、おびえた目でこちらを覗いている。


「あれが、領主様の呼んだ……」

「触れただけで草が枯れるんだろ? 植物以外に害はないのか……?」


当然の反応だ。

実家でも、ずっとそうだったから。

私は頭を下げて、静かに畑へ向かおうとした。

そのとき、隣を歩いていた伯爵様が、私の手をみんなの前で取った。



「皆、聞いてくれ」


ざわめきが止まる。


「彼女はクロエ。僕の客人で、この領地を救うために来てくれた人だ。怖がるのは構わない。だが、彼女を傷つける言葉だけは、領主として許さない」



静かな声が、広場に響いた。

私は、握られた手を見つめた。


実家では、私を庇ってくれる人など、いなかった。

――この人の隣では、俯かなくていいのかもしれない。

そう思えて、私は顔を上げて畑に向かった。


一つ大きく深呼吸をする。

そしてそのままミントに手を触れた。

青々としたミントが生命力を失って、サラサラとした灰に変わっていく。それが波のように広がって――

ひとつの畑が、真っ黒な更地になった時。


「…………あ」


村の老人が、膝から崩れ落ちた。


「ミントが……消えた……。ワシの畑が、土が……見えとる……」


ぽろぽろと、涙をこぼしている。

節くれだった手で、黒い土を愛おしそうにすくっては、何度も握りしめていた。


「ありがとう……ありがとう、お嬢さん……!」


一人が泣くと、堰を切ったように人々が駆け寄ってきた。


「聖女様だ!」

「聖女様がいらっしゃった!」

「ありがとう! ありがとう!」


私は固まったまま、動けなかった。

聖女? 私が? そんなはずがない。

私は毒女で、疫病神で――


「あの、違います、私は……」

「何言ってんだい、あんたは恩人だよ!」


恰幅のいい女性が、泥だらけの手で私の両手を包んだ。

驚いて引こうとしたけれど、彼女は離さなかった。


「ほら、これ食べな。朝からろくに食べてないんだろう?」


差し出されたのは、湯気の立つスープだった。

じゃがいもと豆の入った、素朴な、あたたかい料理。

器を持つ手に、じんわりと熱が伝わってくる。

ひと口飲んだ瞬間、視界がにじんだ。



「……おいしい、です」

「そりゃよかった! おかわりもあるよ!」


笑い声が弾け、子供たちがおずおずと近づいてくる。


「聖女様、うちの畑もお願いできる?」

「……ええ、もちろん」



人垣の向こうで、伯爵様が一歩下がって立っていた。

領主なのに、前に出ようとしない。

ただ私を見て、まるで自分のことのように、嬉しそうに笑っていた。


(……また、笑ってる)


「笑わない伯爵様」の噂は、いったいどこへ行ったのだろう。

その横顔を見た瞬間、胸の中で何かが、小さく音を立てた。



◇



季節がひとつ巡りかけた頃には、私たちの間に、いくつもの習慣ができていた。


朝は、食堂で「おはようございます」と言う。

窓から差し込む光の中で、伯爵様が「おはよう」と返してくれる。

そして夜は、伯爵様が淹れてくれた紅茶を飲みながら少しお話をして――「おやすみ」と言ってから眠るのだ。


たったそれだけのことが、一日の小さな楽しみになっていた。



「今日は、どこまで行ったんだ?」

「三つ目の村の、南の畑まで。ミントの根が深くて、少し時間がかかりました」

「無理は?」

「していません。ちゃんと、休みました」

「ならよし」


そんな会話を毎日続けるうち、私は少しずつ自分のことを話すようになっていた。




ある夜、彼が尋ねた。


「実家では、どんな暮らしをしていたんだ」


一瞬、喉が詰まった。

けれど、この人になら、と思えた。


「……物置、でした。窓の小さい部屋で。庭に出ると、枯らしてしまうから」


伯爵様は、何も言わなかった。

ただ、カップを持つ手に、わずかに力がこもったのが分かった。


「7歳のとき、庭を枯らしてしまってから、ずっと。……でも、慣れていますから」

「慣れるな」


低い声が、静かに落ちた。


「そんなものに、慣れるな。……君が悪いんじゃない」

「でも、実際に枯らしたのは、私で」

「君は、まだ七歳の子供だったんだ」


はっとした。

誰も、そんなふうには言ってくれなかった。

ずっと、私が悪いのだと思っていた。思い込むことでしか、あの暮らしに折り合いをつけられなかったから。


「力の使い方を、誰も教えなかった。そして、誰も守らなかった。それだけだ」


視界がにじんで、慌てて俯くと、頭に大きな手がぽんと乗った。


「泣いていい」

「だ、大丈夫……です」

「そうか。じゃあ、僕が勝手に隣にいる」



そう言って、彼はそれきり何も聞かず、ずっと隣にいてくれた。





またある夜は、伯爵様のほうがぽつりぽつりと話してくれた。


「以前話したが―――父は、領民思いの人だった。倒れてから、ひと月ももたなかった。その間にミントが広がり始めて……僕は、跡を継ぐ覚悟も準備もないまま、全部を背負うことになった」


窓の外の、ミントの影を見つめながら。

いつも凛としている横顔が、その夜だけは、少し年相応の青年に見えた。


「毎晩、帳簿を見ては、冬を越せる人数を数えていた。数えるたびに、減っていく。……あの頃は、眠れなかった」

「……今は?」

「眠れてる」


彼は、私を見て、少しだけ笑った。


「君が来てくれたから、ね」


心臓が、跳ねた。


(……期待しては、だめ)


私は、ミントを枯らすために呼ばれた人間だ。

この優しさは、きっと、その役目に対するものなのだから。

そう自分に言い聞かせて、私はカップの紅茶をゆっくりと飲み干した。



◇




領内の見回りが半分を過ぎた頃、私たちは屋敷の庭の真ん中で昼食をとった。



「ここで? 灰だらけですが」

「だからいいんだ。ミントに埋もれていた場所が、こうして見渡せる。……君の功績だ」


見上げると、空が広かった。

ミントの緑に覆われていた頃には、気づきもしなかった、澄んだ青空。


彼が敷いた布の上に、バスケットが広がる。

パン、チーズ、果物の砂糖煮。そして、小さな焼き菓子。


「好きな食べ物を探すと言っただろう。今日は、候補を持ってきた」


ひとつずつ、口に運ぶ。

甘いもの、酸っぱいもの、しょっぱいもの。

一口ごとに、「どう?」と覗き込まれて、そのたびに頬が熱くなった。


「……これ」


焼き菓子を、もう一度手に取った。

バターの香りと、素朴な甘さ。


「気に入った?」

「はい。……好き、です」


口にして、驚いた。

生まれて初めて、「好き」と言えたのだ。


「そうか。覚えておこう」


伯爵様が、心から嬉しそうに笑った。

光の中で、目尻が柔らかく下がる。


その笑顔を見ているうちに、私は気づいてしまった。

私は、この人の隣にいるのが、好きなのだと。





昼食を終えたころ。


「――これを君に」



伯爵様が小さな箱を差し出してきた。


「え、あ……」


中には薄い革の手袋が入っていた。

しなやかで、手首のところに、小さな若葉の刺繍。


私の手にぴったりと合う大きさだった。




「君の手に合わせて、仕立てさせた。今のは分厚くて、動かしにくいだろうから」


「……ありがとうございます。大切にします」



「あと、それと――」


伯爵様は何か言いかけて、やめた。


「……いや、また今度にしよう。ミントを片づけたら、話したいことがある」

「話したいこと、ですか」

「ああ。大事な話だ」


その「大事な話」が何なのか、私にはわからない。

けれど、ただ、期待に似た何かが胸の奥で、ことりと音を立てた。




◇



それから少しあと。

ちょうど出会って1年が過ぎた日、最後の畑の緑が灰になった。

黒く染まった大地の向こうに、夕日が沈んでいく。

空も、土も、人々の頬も、すべてが橙色に染まっていた。


領内のミントは、すべて消えた。



「終わった……」



呟いた私の周りで、領民たちが歓声を上げた。

抱き合って泣く人。

空に帽子を放る人。

「聖女様ばんざい!」という声が、いつまでも止まなかった。




その夜、屋敷では、領民も招いた祝宴が開かれた。


広間は笑い声と音楽に満ちて、料理の香りが廊下にまであふれている。

私は賑わいから少し離れて、廊下の窓辺にいた。


胸がいっぱいで、けれど、ほんの少しだけ、寂しかった。

終わったのだ。

そう思った途端、胸の奥に冷たい風が吹き込んだ。


そのとき、廊下の向こうから、声が聞こえた。

老執事のハンスさんの声だった。


「これでようやく、閣下もご縁談に戻れますな。先日も、王都の侯爵家から、改めて――」

「その話は、今は」


伯爵様の声が遮った。

足が、止まった。


ご縁談。

そうだ、何を勘違いしていたのだろう。

私は、ミントを枯らすために呼ばれた。

そして、ミントはもうない。


伯爵様のような方の隣には、きっともっとふさわしい人がいる。

毒女だった私なんかが隣にいていい理由なんて、どこにも――


『ミントを片づけたら、話したいことがある』

あの「大事な話」は、きっと。


(……ああ。そういうこと)


胸が、冷たく締めつけられた。


役目を終えた毒女が居座っていてはいけない。

優しい人だからこそ、断れずに私を置いてくれてしまう。

そうなる前に。




◇




深夜、私は小さな鞄に荷物をまとめた。


持ってきたものは少ない。

着替えが数枚と、領民たちがくれたお守りと、あの若葉の刺繍の手袋。

指先で手袋の刺繍をなぞると、涙が出そうになって慌てて鞄の底にしまった。


机に、書き置きを残す。


『伯爵様。一年間、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、生まれて初めて誰かの役に立てた気がします。どうかお元気で。 クロエ』


最後に、もう一行だけ書き足して、ペンが止まった。


『あなたの隣が、好きでした』


私は、その一行を、インクで黒く塗りつぶした。




夜の闇に紛れて、屋敷を出た。

行くあてなど、どこにもない。


やがて空が曇り、冷たい雨が降り出した。

外套はすぐに重くなって、足元がぬかるむ。

私は、街道沿いの古い石橋の下にうずくまった。


雨音に、嗚咽が溶けていく。




どれくらいそうしていたかわからない。

雨が一層強くなってきたころ、泥を跳ね上げる馬の足音が近づいてきた。


「クロエ!」



雨の中、伯爵様が馬から飛び降りた。

上着もはおらず、全身ずぶ濡れで、髪が額に張りついている。



「どうして……」


言い終わる前に、私は強く抱きしめられていた。


「行かないでくれ」


腕が、震えている。

濡れたシャツ越しに、速い鼓動が伝わってきた。

必死に走ってきてくれたのだと、体温が教えてくれる。


「書き置きを見た。……最後の一行も。黒く塗りつぶしてあったけれど、灯りに透かしたら読めた」

「……っ」

「過去形にしないでくれ。僕の隣に、これからもいてほしい」


「でも、侯爵家のご縁談が……私は、役目を終えた毒女で……」

「縁談?」


伯爵様は、一瞬きょとんとして、それから苦しそうに顔を歪めた。


「あの会話を、聞いたのか」

「……」

「断った。ハンスの言う縁談は、もう何度も断っている。僕には、結婚したい人がいるからと」


雨が、二人の間に降り注ぐ。


「僕の落ち度だ。君に言うべきことを、先延ばしにした。君が、恩や義理で頷いてしまわないように。ミントを片づけて、君が『役目』から自由になってから、ちゃんと君の意思で選んでほしかった。……それが、君をこんなに不安にさせた。すまない」



『選んでほしかった』

あの日の「断ってもいい」と、同じ優しさだった。

不器用で、遠回りで、けれど、どこまでも真っ直ぐな。


「役割なんて、関係ない」


彼は、私の両肩を掴んで、まっすぐに言った。


「毎朝、君が食堂で『おはようございます』と言うのが、僕の一日の始まりだった。夜、君に『おやすみなさい』と言うのが、一日の終わりだった。いつの間にか、それが当たり前になっていた」


青い瞳が、雨の中で、真剣に揺れている。



「……君を、愛している。ミントがあっても、なくても。力があっても、なくても。クロエという人が、好きなんだ」


頭が、真っ白になった。

愛している。

私を。

毒女だった、私を。


「そ、そんな……私は、触れたものを枯らす――」

「待ってくれ。ひとつ、見せたいものがある」


彼は、シャツの胸元に押し込んでいた小さな硝子瓶を取り出した。

雨から守るように、ずっと抱えていたのだ。

瓶の中には、黒い灰と、そこから顔を出した、ほんの小さな緑の芽。


「少し前、『死の大地』と呼ばれていた村はずれの畑に芽が出た。君が灰にしたミントが新しい命を育んだんだ」

「え……?」

「『大事な話』は、これだった。君に見せたかった」


彼は、雨に濡れるのも構わず、瓶を私の前に掲げた。


「ミントは、生命力の塊だ。その生命力が凝縮された灰は、最高の肥料になる。君の力は、命を奪っているんじゃない。命を、形を変えて、次へ渡しているんだ」


あの、さらさらと崩れる黒い灰。

ずっと、「死」の抜け殻だと思っていたもの。


「君は、命を奪う死神じゃない」


彼の声が、雨音を貫いた。


「命を育む、大地の母だ」


雨が、私の頬を打つ。

いや、頬を流れているのは、雨だけではなかった。



「私……ここに、いても……いいんですか……?」

「当たり前だ。ここが、君の家だ」


彼は、不器用に笑って、私の涙を親指で拭った。


「それとその……『大事な話』の続きなんだが」

「……はい」

「……僕の妻として、そばにいてくれないか」


私は、初めて声を上げて泣いた。

ずっとずっと、誰かにそう言ってほしかったのだと、やっと分かった。



「……はい。喜んで」


ようやく絞り出した返事に、彼が、泣きそうな顔で微笑んだ。




「それから、頼みがある」

「頼み、ですか」

「名前で呼んでくれ。ずっと、『伯爵様』と呼ばれるのが、少し寂しかった」



私は、小さく息を吸って、その名前を口にした。


「……アルフレッド様」

「うん」


雨の中で、彼は、世界で一番幸せそうに笑った。



◇



それから、ヴェルデ領は目覚ましい速さで変わっていった。


村はずれの「死の大地」には、様々な作物が実った。

小麦は黄金色に、野菜は瑞々しく、果樹は枝が折れるほどに。



「これは、国を変える力だ」


アルフレッド様は、収穫を前に嬉しそうに言った。


「除草剤も使わず、土も傷めず、雑草を根まで処理できる。その上、灰が肥料になる。これほど農業に理想的な力は、ない」

「……私の、力が」

「ああ。君の力が、だ」


屋敷の庭には、頑丈な囲いを設けた小さな「ミント農園」が作られた。

わざとミントを育て、私が収穫の前に枯らして灰にする。

命を巡らせるための、循環の畑だ。


その灰は、領民たちの手で「聖女印の肥料」と名づけられ、競って畑に撒かれた。

噂は、国じゅうに広まっていった。



◇



――その頃、ハルトマン子爵家では。


「ヴェルデ領が特製肥料で大豊作だと?」


噂を聞きつけた子爵は、膝を打った。


「毒女の力ではあるまい。あの土地の土が、元々良かったのだ。ミントを肥料にしているなら、うちでもできる」

「お父様、わたくしの『豊穣の力』でミントを育てれば、もっと立派な肥料が作れますわ!」


リリアは胸を張った。


(毒女の灰より、神の愛し子の育てたミントのほうが、よほど上等に決まっているもの!)


その根拠のない自信が、すべての間違いの始まりだった。

子爵は悪徳商人から、あの禁断のミントの種を密かに買い込み、領地じゅうの畑に撒いた。

最初の一週間は、順調に見えた。


「見ろ、こんなに早く芽が出たぞ!」

「さすが、神の愛し子様ですわ!」


畑一面に広がる若緑を前に、二人は勝ち誇った笑みを浮かべていた。

そして、リリアが仕上げに、畑へ手をかざした瞬間だった。



緑が、爆ぜた。



ミントは狂ったように伸び上がり、人の背丈を超え、畑の柵を押し倒し、街道に溢れ出した。

刈っても刈っても、根から倍に増える。


「な、なによこれ……止まりなさい! 止まって!」


リリアが慌てて手をかざす。


「豊穣」の力が、さらにミントへ注がれる。

ミントはますます巨大化し、家々を呑み込み、街を覆い、ついには子爵邸の石壁までを這い上がった。


「やめろ、リリア! これ以上、力を使うな!」

「だって、止め方が分からないのよ! わたくしは、命を与えることしか……!」


彼女は、そこで初めて悟った。

植物を育てる力しか持たない自分には、間引く力も、止める力もないのだと。


領土全体が悲鳴を上げた。

王都の使者が青ざめて駆けつけた頃には、領地の半分が緑の海に沈んでいた。



「この厄災を招いたのは、誰だ!」

「あの女だ。『神の愛し子』が、ミントで汚したんだ!」


かつて彼女を崇めた人々が、石を握りしめて叫ぶ。

昨日まで花を捧げていた手が、今日は憎しみに震えていた。


王命が下った。


『リリア・ハルトマン。其の者、二度と植物に触れることを禁ず』


王の使者は、淡々と告げた。


「あなたが触れれば、増えてしまうのですよ。ご自分の手が、この国にとって何であるか、よくお考えなさい」


リリアは、真っ青になって自分の両手を見つめた。

かつて「神の愛し子」と崇められた手に、分厚い手袋がはめられる。


子爵は爵位を剥奪され、屋敷も領地も、被害の賠償のために差し押さえられた。



◇



――そして、数週間後。



ボロボロの外套を着た二人が、ヴェルデ領の屋敷の門前に現れた。


「クロエ! 助けてくれ、お前の力が必要なんだ!」

「お姉様、お願い、わたくしたち、家族でしょう?」


門を挟んで、泣きすがる声が響く。

リリアの両手には、分厚い手袋。あの日の私と、同じように。

私の足が、わずかにすくんだ。物置の暗がりも、冷たい視線も、一瞬で蘇る。

けれど、隣に立ったアルフレッド様が、そっと私の手を握ってくれた。


「君が決めていい」


その言葉が、背中を押してくれた。

私は、ゆっくりと門の前まで歩いた。


「お父様。リリア」


二人の目に、希望が灯る。


「私に、物置の中で『死神』と言い続けたのは、あなた方でした」

「そ、それは……!」

「命を与えることだけが正義だと、あなた方は言いました。ならば、与えすぎた命の責任も、どうぞ、ご自分たちで負ってください」


静かな声だった。

不思議と、震えはなかった。


「リリア。あなたはいつか、薔薇を差し出して、すぐに引っ込めたわね」

「……っ」

「もう、いらないの。私が欲しかったものは、全部、ここにあるから」


私は、まっすぐに二人を見つめた。


「自業自得です。お引き取りを」


アルフレッド様が、冷ややかに続けた。


「ヴェルデ領は、ハルトマン家との取引および援助を、一切行いません」

「そんな……お姉様ぁ!」


衛兵に引きずられていくリリアの声が、遠ざかる。

私は、一度も振り返らなかった。

のちに聞いた話では、ハルトマン家は取引先も領土も失い、跡形もなく没落したという。




◇



季節が、ひとつ巡った。



夕暮れの丘の上。

眼下には、どこまでも続く黄金色の麦畑が広がっている。


風が吹くたびに穂が波のように揺れ、夕日を受けて、きらきらと輝いていた。


ヴェルデ領は、国一番の農業大国になった。

ミントは囲いの中だけで育ち、私の手で灰に還り、また命を支える。

ほどよく制御された、豊かな大地だ。



「綺麗だな」


隣で、アルフレッド様が呟いた。


「はい。本当に」


私たちは、手をつないでいた。

手袋はしていない。

この手が触れても、彼は枯れない。

それが、何よりの救いだった。


「クロエ。渡したいものがある」


彼が、懐から小さな箱を取り出した。

開けると、指輪が入っていた。

台座には、翡翠で彫られた、小さな小さな若葉。

夕日を受けて、透きとおった緑が、ちらりと光る。



「君の手が触れても、枯れない植物を贈りたかった」

「……若葉」

「君の名前だ。枯らす力を持つ人に、新緑の名前。最初に会った夜は、皮肉みたいだと言ったけれど」


アルフレッド様は、少し照れたように笑った。


「今は、そうは思わない。君は、命を終わらせる人じゃない。命を、次へ渡す人だ。……だから、この名前は、君にぴったりだ」


左手の薬指に、指輪がそっと通される。

冷たいはずの翡翠が、彼の体温で、あたたかかった。


「私、昔は、自分の手が大嫌いでした」


指先を見つめる。細くて、小さくて、傷だらけの手。


「何も育てられない、何も咲かせられない、ただ奪うだけの手だと思っていたんです。……でも、今は違います」


顔を上げ、彼を見つめて、私は微笑んだ。


「リリアたちを見て、思ったんです。命を与えるだけでは、世界は回らないって。与えることと、巡らせること。……どちらも、大切なのですね」

「ああ」


アルフレッド様の青い瞳が、夕焼けの色を映して、柔らかく揺れた。


「ありがとう、クロエ。僕のところへ来てくれて」

「こちらこそ。……『断ってもいい』と言ってくれて、ありがとうございました」

「そんな前のことを」

「私にとっては、世界が変わった日ですから」


彼は、ふっと目を細めて、私の頬にそっと触れた。

顔が近づく。


夕日の中で、唇が、優しく重なった。



風が、麦の穂を揺らしている。

黄金色の大地の上で、私たちは、いつまでも寄り添っていた。



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