う、浮気ですって!!? そーですか!それなら言ってやりますよ!!
アリシア・クライゼンは、夫のローゼンをとても愛している。
それはもう、本人に面と向かって言えるくらいには愛しているし、周囲に知られても特に困らないくらいには愛している。北国の領主であるローゼンは、普段こそ無口で落ち着いていて、初対面の者には少し近寄りがたい印象を与える人だったけれど、アリシアからすれば、彼ほど分かりやすい人もなかなかいなかった。
そんな事もあってか、アリシアとの夫婦喧嘩というものを、ほとんどしたことがなかった。
優しくて、少し不器用で、そして少しばかり心配性な夫。
けれど、その日、アリシアは初めて思った。
この人、意外と面倒なところがあるわね、と。
◇
そのきっかけは、王都で開かれた舞踏会だった。
クライゼン領は北国にあるため、ローゼンが王都の華やかな催しに顔を出すことは多くない。もちろん領主として必要な付き合いはあるし、王家からの招待を邪険に扱うような人でもない。けれど彼は、音楽と香水と人の噂で満ちた広間よりも、雪に閉ざされた領地の執務室の方がよほど似合う人だった。
だからその夜、ローゼンが礼装に身を包んでアリシアの隣に立っているだけで、何人もの貴族がちらちらと視線を向けていた。
北国の領主夫妻。
そう呼ばれる二人は、王都では少し珍しい存在だった。ローゼンは相変わらず静かで、必要な挨拶を丁寧にこなすものの、自分から話題を振ることはあまりない。一方のアリシアは、南部で育った令嬢らしく、社交の場での振る舞いに慣れていた。微笑み、言葉を返し、相手の家や近況を自然に思い出しながら、場に合わせて会話を繋ぐ。
それは、夫人として当然の振る舞いだった。
少なくとも、アリシアはそう思っていた。
「アリシア様ではありませんか」
ふいに声をかけられ、アリシアは振り返った。
そこにいたのは、南部にいた頃の知人だった。伯爵家の子息で、名をルシアンという。アリシアの兄と付き合いがあり、実家の茶会にも何度か顔を出していた人である。淡い栗色の髪に、人当たりのよい笑み。懐かしい相手ではあるが、それ以上の何かがあったわけではない。
「まあ、ルシアン様。お久しぶりです」
「本当に。北国へ嫁がれてから、なかなかお目にかかれませんでしたね。お元気そうで何よりです」
「ええ。最初は寒さに驚きましたけれど、今では随分慣れました」
「アリシア様が北国に慣れたのですか?それは驚きですね」
「人間、意外と何とかなるものですよ。もっとも、冬の朝に窓を開けるたび、今でも少し後悔しますけれど」
アリシアがそう言うと、ルシアンは楽しそうに笑った。
ただ、それだけだった。
昔の知人と再会し、近況を話し、少し冗談を交わしただけ。舞踏会では珍しくもない会話である。アリシア自身、その程度のつもりでいた。
けれど、夫の方はそうではなかったらしい。
ルシアンと別れ、アリシアがローゼンのもとへ戻ると、彼はいつも通り静かに立っていた。周囲から見れば、普段と何一つ変わらない北国領主に見えただろう。
けれど、アリシアには分かった。
「ローゼン、何か変よ。大丈夫?」
アリシアがそう尋ねると、ローゼンは静かにこちらを見た。
アリシアは、ぱちりと瞬きをした。
「ちょっと心配で……」
「……私にはそんな事はないわよ?」
「分かっている」
「分かっている人の言い方ではなかったわ」
アリシアがそう返すと、ローゼンは少しだけ言葉に詰まった。本人としては、責めるつもりなどなかったのだろう。けれど、今の言い方ではまるで、アリシアが少し声をかけられただけでふらふらと誰かについて行くように聞こえる。
それは、少し面白くない。
「君を疑っているわけではないよ」
「そう?」
「ああ。ただ、王都の舞踏会には色々な者がいる。親切そうに近づいてくる者もいれば、家名や噂を利用しようとする者もいる。君は人当たりが良いから、相手が勘違いすることもあるかもしれない」
アリシアは、ゆっくりと瞬きをした。
今の言葉が、ローゼンなりの心配から出ていることは分かる。分かるのだけれど、それはそれとして、聞き流せる言い方ではなかった。
「つまり、それって私が浮気をして、結婚を蔑ろにしようとしているって思っているって事よね!?」
思ったよりも、声が大きかった。
近くで談笑していた夫人が、驚いたようにこちらを振り返る。隣にいた令嬢も、扇の陰からちらりと視線を向けてきた。楽団の音は変わらず流れているし、大広間全体が静まり返ったわけではない。けれど、少なくとも周囲の数人には、今の声が届いてしまったらしい。
ローゼンも、ほんの少しだけ目を見開いた。
「悪かった、アリシア。そんな声を大きくしなくても」
「大きくもなるわよ。貴方、今かなり失礼なことを言ったのよ?」
「君を疑ったわけではない」
「そうは見えなかったわ」
アリシアは扇を胸元で握り、少しだけ頬を膨らませた。
「私はただ、昔の知人と少し話しただけよ。それなのに、変な男が彷徨いているだとか、相手が勘違いするだとか言われたら、まるで私がその気になれば簡単に誰かへ心を移すみたいじゃない」
「そういう意味ではないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
ローゼンは答えようとして、言葉を止めた。
その一瞬の沈黙で、アリシアは大体分かってしまった。これは心配だけではない。もちろん心配もしているのだろう。ローゼンはそういう人だ。けれど、それだけならこんなに言葉を選ばない。
アリシアは、じっと夫を見上げた。
「嫉妬したの?」
「……本当に心配したんだ」
ローゼンは困ったように視線を落とした。
その態度に、アリシアは少しだけむっとした。嫉妬されたことが嫌なのではない。むしろ、そういう感情を向けられること自体は、少し嬉しくもある。けれど、それを心配という言葉で包んだ結果、アリシアが軽率な妻のように聞こえるのは納得がいかなかった。
「私はね、ローゼン。貴方に嫉妬されるのが嫌なんじゃないの。でも、私が他の殿方を見るみたいに言われるのは嫌なの」
アリシアは扇を目元に当てた。
泣いてはいない。けれど、泣いているふりをするくらいは許されると思った。
「ひどいわ、ローゼン。私は、心の底から愛しているのに!貴方が夜にあんなことやこんなことをしておいて、私が他の殿方を見るわけがないでしょう!!」
「ち、ちょっと待って欲しい。何を言い出しているんだい?」
「それに、私が他の殿方に心を移すですって? そんなことできるわけないでしょう!貴方があんなに大事にして、あんなに優しくして、あんなに離してくれないのに!」
「アリシア。周りに聞こえている」
「聞こえればいいのよ!私は浮気なんてしませんって、はっきり分かっていただけるでしょう!貴方が私を!こんなに貴方なしではいられない妻にしたんでしょう!」
ローゼンは完全に言葉を失った。
その様子を見て、アリシアは扇で目元を隠したまま、さらに肩を震わせた。もちろん、本当に泣いているわけではない。涙など一滴も出ていない。けれど、声の震わせ方も、俯き方も、少しだけ傷ついた妻のように見せるのも我ながらに名演技だと思った。
さすがのローゼンも、このまま大広間の真ん中に立たせておくのはまずいと思ったのだろう。
「アリシア、少し来てほしい」
そう言うなり、彼はアリシアの手を取った。
強引というほどではない。けれど、いつものような余裕もないらしい。アリシアの指先を包む手は温かく、少しだけ力が入っていた。ローゼンは周囲に短く会釈をし、それ以上誰にも声をかけられる前に、アリシアを連れて大広間の端の誰もいないバルコニーへ向かった。
アリシアは扇で目元を隠したまま、素直についていった。
もちろん、泣いてはいない。
だが、泣いているふりを続けたまま連れて行かれるのは、なかなか悪くなかった。周囲からは、夫に宥められている妻に見えただろう。実際には、夫婦の夜の話を大声で暴露しかけた妻を、夫が慌てて避難させているだけなのだが」
ローゼンは人目がないことを確かめてから、ようやくアリシアの手を離した。
「アリシア」
「何よ」
アリシアはまだ扇を目元に当てたまま答えた。
ローゼンは深く息を吐く。
「まず、泣いていないね」
「泣いているわ」
「その割には涙が出ていないようだね」
「心では泣いているの」
「その割には、かなり楽しそうに聞こえる」
「あら、そう?」
アリシアが扇を少し下ろすと、ローゼンは本当に困ったようにこちらを見ていた。
その様子が可愛くて、アリシアは少しだけ口元を緩める。
「君は、どうしてあんなことを言うんだ」
「貴方が変なことを言うからでしょう?」
「ごめん、嫉妬していた」
あまりにも素直に言われたので、アリシアは一瞬だけ言葉を失った。
さっきまで、心配だの、変な男だの、家名や噂を利用する者がいるだの、ずいぶん遠回しなことを言っていたくせに、二人きりになった途端にこれである。そういうところがずるいのだ。こちらがもう少し文句を言おうとしていたのに、先に謝られてしまうと、怒るに怒れなくなってしまう。
アリシアは扇を閉じたまま、そっと周りを見た。
右を見る。誰もいない。
左を見る。こちらも誰もいない。
硝子扉の向こうから舞踏会の音楽は聞こえているが、バルコニーには二人だけだった。アリシアはそれを確認すると、少し背伸びをして、ローゼンの頬に口づけた。
「うっ……アリシア。何をしているんだ」
ローゼンは小さく息を詰めた。
冷静な北国の領主とは思えないほど、分かりやすく動揺している。その反応が可愛くて、アリシアは満足げに微笑んだ。
「良いじゃない。これでおあいこね?」
「おあいこ?」
「ええ。貴方は私に変な疑いをかけました。私は人前で少し言いすぎました。だから、おあいこ。仲直りの印よ?それに、これで私に変な虫が付かないから結果オーライよ!」
アリシアが胸を張って言うと、ローゼンは目を伏せて、静かに息を吐いた。
「結果オーライ、なのかい?」
「そうよ。だって、王都の舞踏会で北国領主の妻に近づくと、夫婦の熱い事情を聞かされるかもしれないって広まるでしょう?」
「それはそれで、かなり問題があるとは思うけどね」
アリシアは改めて、ローゼンを押し潰してしまうかくらいに強く抱きしめ直した。
「愛しているよ、ローゼン。本当の本当に」
「ありがとう。ただ、舞踏会で夫婦の夜の話をするのは控えてほしい。社会的に死んでしまいそうだ」
大広間に戻れば、また彼は北国の領主らしい顔をするだろう。周囲から見れば、何事もなかったように見えるかもしれない。
けれどアリシアは知っている。
この人は嫉妬するし、心配もする。そして、妻が少し泣いたふりをしただけで慌てて手を取ってくれる優しい男なのだと。
アリシアはそれが、とても愛おしかった。
「そろそろ戻りましょうか」
「戻れると思うかい?帰ろうと思ったよ」
「大丈夫よ。堂々としていればいいの」
アリシアがそう言って身を離そうとすると、ローゼンの腕がほんの少しだけ緩むのをためらった。
それに気づいて、アリシアはにっこり笑う。
「あら。離したくないの?」
「……少しだけ」
「まあ」
アリシアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しくなってもう一度ローゼンに抱きついた。
「ええ。とてもいいわ」
夜風の冷たいバルコニーで、二人はもう少しだけそのままでいた。大広間では音楽が続き、王都の貴族たちはきっと、北国領主夫妻の妙な口論についてひそひそ話を始めているに違いない。
けれど、アリシアは気にしなかった。
夫婦喧嘩というには甘すぎて、惚気というには少し騒がしい。
それでも、これは確かに初めての夫婦喧嘩だった。そしてアリシアは、その相手がローゼンでよかったと、心の底から思っていた。
舞踏会へ戻ったあと、アリシアは心配して声をかけてきた知人に、何食わぬ顔で微笑んだ。
「大丈夫ですわ。少し夫婦喧嘩をしただけですもの。バルコニーで彼が私を抱きしめてくださって、愛していると何度も……いえ、一度でしたけれど、とても深く言ってくださいましたから。もうすっかり仲直りしましたわ」
隣でローゼンが、恥ずかしそうに目を閉じた。
「アリシア」
「なあに?」
「……帰ろう」
「あら、まだ曲は残っているわよ?」
「これ以上いると、君が何を話すか分からない」
そう言われて、アリシアは楽しそうに笑った。結局その夜、北国領主夫妻は少し早めに舞踏会を後にした。
そして翌日、王都には「クライゼン夫妻は喧嘩をしても結局ただの惚気になるらしい」という噂が広まった。
ローゼンはしばらく舞踏会に行けないと頭を抱えたが、アリシアは少しも気にしなかった。
何しろ、誤解ではなかったのだから。
アリシア&ローゼンのシリーズはまだまだ続きます!!
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