表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
(仮)魔王軍の軍師はコボルト  作者: 仲村千夏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/1

魔王軍大敗北

 魔王暦三二七年。


 人間軍との戦争は七年目に突入していた。


 魔王軍は強かった。


 圧倒的に強かった。


 オーガの重歩兵は人間の城門を叩き壊し、吸血鬼の騎兵は平原を駆け、竜族は空から炎を降らせる。


 局地戦だけを見れば、敗北など存在しないように思えた。


 だからこそ。


 誰も負けるとは思っていなかった。


 一匹を除いて。


「補給が限界です」


 魔王城地下、大戦議室。


 巨大な円卓を囲む将軍たちの中で、場違いなほど小柄なコボルトが立ち上がった。


 名はカーバス・ユウ。


 補給担当官であり、戦功も、爵位もない。


 軍議への参加を許されているのも、補給部門の責任者だからというだけだった。


 オーガ将軍が鼻を鳴らす。


「またそれか」


「またです」


 ユウは即答した。


「だから問題なのです」


 部屋の空気が冷える。


 ユウは続けた。


「現在、東部軍、西部軍、南部軍の三方面に戦力を展開しています」


 机の上に地図を広げる。


「問題は勝ちすぎていることです」


 その言葉に何人かが笑った。


 勝ちすぎている。


 普通なら聞き間違いだと思う言葉だった。


「勝っているなら問題なかろう」


 吸血鬼侯爵がワインを揺らしながら言った。


「勝っております。ですが、その勝利によって前線が伸びすぎています」


 地図上を指差す。


「本来なら一つの補給路で維持できた軍が、現在は三方向へ分散しています」


「だから何だ?」


 オーガ将軍が腕を組む。


「兵は前に出ている。敵は後退している。それだけだ」


「補給も前に出ています。しかし、倉庫は増えておりません」


 沈黙。


 誰も興味を示さない。


 ユウは慣れていた。


 補給の話など誰も聞きたがらない。


 勝利の話は好きだ。


 武勇伝も好きだ。


 だが兵糧や荷車の話は退屈だ。戦争はその退屈なもので決まる。


「現在、各軍への食糧供給は予定の七割まで低下しています」


「十分だろう」


「武器の補充は五割です」


「まだある」


「防具は四割を切りました」


「敵から奪えばいい」


 ユウは思わず耳を伏せた。


 いつもこれだ。


 数字を出しても意味がない。


「予備槍の在庫は二万本必要ですが、現在七千本しかありません」


「足りている」


「足りておりません」


「足りている」


 会話にならなかった。ユウは深く息を吐く。


 続けて、最も重要な報告を始めた。


「昨日、第三補給隊が襲撃されました」


 その言葉にようやく何人かが顔を上げた。


「盗賊か?」


「不明です」


「では問題ない」


「問題です」


 ユウは声を強めた。


「護衛兵三百名が全滅しています!」


 ざわめきが起こる。


 だが、それも一瞬だった。


 オーガ将軍が笑う。


「たかが三百だ」


「三百ではありません」


 ユウは地図を叩いた。


「これは補給路です」


 誰も答えない。それでもユウは続ける。


「補給隊が襲撃された位置を確認しました」


 紙束を広げる。


「過去二ヶ月で発生した襲撃事件と照合した結果、全てが同じ線上に存在しています」


 地図上に赤線が引かれる。


 それは魔王軍の補給路を切り裂くような線だった。


「偶然ではありません」


「だから何だ?」


「敵は補給路を把握しています」


 その言葉に一瞬だけ静寂が訪れる。


 吸血鬼侯爵は肩をすくめた。


「補給路を狙うなど当然だろう」


「はい」


 ユウは頷いた。


「だから問題なのです」


 誰も理解していない。


 理解しようともしていない。


「さらに奇妙なことがあります」


 地図の中央を指差す。


「敵主力軍です」


「何だ?」


「動きません」


「恐れているのだろう」


 笑い声が起こる。


 だがユウは笑わなかった。


「人間軍主力は三ヶ月間沈黙しています」


「それが?」


「不気味です」


 今度は露骨な失笑が起こった。


「不気味?」


「それが報告か?」


「犬は怯えやすいな」


 ユウの耳がぴくりと動く。


 だが反論しない。


 代わりに数字を並べた。


「東部戦線で敵二万撃破」


「うむ」


「西部戦線で敵一万八千撃破」


「素晴らしい」


「南部戦線で敵一万五千撃破」


「圧勝ではないか」


「はい」


 ユウは頷いた。


「では主力はどこへ行ったのでしょうか」


 誰も答えない。


「総計五万以上の敵兵が記録上から消えています」


 円卓に沈黙が落ちた。


 次の瞬間、オーガ将軍が豪快に笑った。


「ガハハハ、それの答えは“逃げた”のだろう!」


 将軍たちも笑う。


 ユウだけが笑わなかった。


 五万の軍隊は消えない。


 逃げるにも痕跡が残る。


 まして人間軍主力だ。


 それが何の情報もなく消えるなどあり得ない。


「私は敵が兵力を集結させていると考えます」


 ユウは言った。


「現在の我が軍は各地に散っています」


 バンっと、地図を叩く。


「もし敵主力が一軍を集中攻撃した場合――」


「勝つ」


 オーガ将軍。


「竜族がいる」


 吸血鬼侯爵。


「我らは強い」


 別の将軍。


 ユウは首を振った。


「竜族はいませんし、我らも生きています。勝ち負けあります」


 部屋の空気が止まる。

 殺気を出す者、苦笑する者様々な反応があった。


「何? 竜族がいないだと?」


 誰かが漏らした一言。ユウはそれに答える。


「ドラゴンナイト隊です」


 ユウは報告書を開いて続ける。


「現在、負傷と補給不足により出撃可能数は定数の三割以下」


 誰かが顔をしかめた。


「補充は?」


「ありません」


「なぜだ」


「鞍がありません」


 沈黙。

 その中でもユウの声が部屋に響き渡る。


「飛行装備も不足しています」


「予備は」


「ありません」


「……」


「竜種による広域航空支援は期待できません」


 ようやく数名の表情が変わった。


 危機感ではない。


 不快感だった。


 聞きたくない現実を聞かされた顔だ。


 ユウは最後の言葉を口にした。


「敵は我々を半包囲しようとしている可能性があります」


 完全に静まり返る。


「補給路襲撃、主力軍の沈黙、戦力分散、武器不足、防具不足、竜騎兵不足、全てが繋がっています」


 ユウは深く頭を下げた。


「戦線を縮小してください、軍を集結させてください、補給を立て直してください、今なら今なら、敵の攻勢に反撃が間に合います」


 沈黙。


 長い沈黙。


 オーガ将軍が立ち上がった。


「終わりか?」


 ユウは顔を上げる。


「はい」


「ならば次だ」


 将軍は地図の別の場所を指差した。


「東部攻略について話そう」


 ユウは固まった。


「……将軍?」


「会議を止めるな」


「ですが」


「敵は弱い」


「しかし」


「我らは勝っている」


 それで終わりだった。


 誰も補給の話をしない。


 誰も半包囲の話をしない。


 誰も消えた敵主力を気にしない。


 誰も、誰一人として、耳を貸さなかった。


 ユウはゆっくりと席に座った。


 目の前の地図を見る。


 赤線で描かれた補給路、消えた敵軍、分散した味方、不足する物資、沈黙する敵主力軍。


 嫌な予感だけがユウの胸に残った。


 彼は知らない、この会議から三ヶ月後。


 魔王軍史上最大の敗北が訪れることを。


 その敗北が、一匹の無名なコボルトの運命を変えることを。


 軍議から二十日後の今日、いつもの報告が届いた。


「東部戦線、勝利!」


 伝令の声が司令部に響く。


 オーガ将軍が満足そうに笑った。


「ほら見ろ」


 周囲の将軍たちも頷く。


「戦果は敵三千を撃破!」


 周囲が歓喜で沸く中、ユウはまっすぐな眼で伝令に聞いた。


「こちらの損害は?」


「我が軍五百!」


 おお、と再び歓喜の声が上がる。誰の目にも明らかな勝利だ。


 会議室で報告書を読んでいたユウだけは眉をひそめた。


 損害がこちらの軍が五百。


 数字だけなら小さい。


 だが問題はそこではない。


 失われた五百の中に補給隊護衛兵が百七十名含まれていた。


 さらに荷車四十両、馬百二十頭、牽引魔獣百体、矢二万本、保存食十五日分、その全てが失われていた。


 勝利の裏側、誰も見ていない場所で、戦争を支える血管が切られていた。


「オーガ将軍」


 ユウは口を開く。


「補給隊護衛の再編を願いたく」


「またか」


 オーガ将軍がうんざりした顔をする。


「勝ったのだぞ」


「ですが」


「勝ったのだ。これ以上は容赦しないぞ」


 体格差もあり、オーガ将軍の睨みと脅しに対しユウの視線は真っ直ぐに訴えたが、口はは黙った。


 言っても無駄だった。


 今はまだ。


 勝っているから。


 さらに十日後。


「西部戦線勝利!」


 また勝利。


 敵二千撃破。


 味方損害三百。


 連戦連勝。


 誰もが魔王軍の優勢を疑わなかった。


 ユウはひとり、報告書の束をめくり続けていた。


 めくる手が止まる。ある数字が手を止めた。


「……減っている」


 食料だった。


 急いで前線倉庫、補給量、消費量、全てを書き出す。


 間違いない。


 前線は補給より消費が上回っていた。


 じわじわと確実に、倉庫が空になっていく。


 まるで底の抜けた樽のように。


「まだ足りる」


 自分に言い聞かせる。


 一週間。


 いや十日程度なら持つ。


 だが、その先は危険だ。


 最も不気味なのは、人間軍主力が依然として現れないことだった。


 消えたまま、どこにもいない。


 まるで世界から姿を消したように。


 三十日後、東部戦線。


 魔王軍第六軍、敗北。


 その報告が届いた、司令部は一瞬だけ静まり返る。


「よくあることだ」


 オーガ将軍は笑った。


「戦争だからな」


 誰も気にしなかった。


 一軍が敗北した程度。


 これまでの勝利に比べれば小さな傷だった。


 だがユウは違った。


 報告書を読む。


 敵兵力三万。


 第六軍兵力八千。


 三倍以上。


「やはり」


 嫌な予感が現実になる。


 敵は兵力を集中していた。


 消えた主力。


 行方不明だった軍。


 全てがそこにいた。


「オーガ将軍」


 ユウは立ち上がる。


「敵主力を確認しました」


「そうか」


「兵力三万」


「少ないな」


 ユウは言葉を失った。


 三万が、少ない?


「敵は兵力集中を始めています」


「ならこちらも勝つ」


「集結命令を出してください」


「不要だ」


「ですが!」


 オーガ将軍は笑った。


「第六軍が弱かっただけだ」


 その一言で終わった。意見を、考えを述べたところで動くとも限らない。


 さらに二週間後。


 第九軍壊滅の報告が届く。


 今度は兵力一万、生存者二百。


 ほぼ全滅だった。


 ここにきて、司令部も焦りと緊張を覚えたが、その緊張はこれまでの勝利に酔いしれ、長く続かなかった。


「敵も損害を受けている」


 吸血鬼侯爵が言った。


「我が軍だけではない」


「そうですな」


「戦争だ」


「勝利のための犠牲だ」


 ユウは報告書を机に叩きつけた。


 普段の彼なら絶対にしない。


「違います!」


 部屋が静まり返る。


 ユウは地図を広げる。


「第六軍」


 赤印。


「第九軍」


 赤印。


「補給隊襲撃地点」


 赤印。


 線を結ぶ。


 円になる。


 誰の目にも分かる。


 敵は包囲網を形成していた。


「敵は我々を囲んでいます」


 沈黙。


「まだ完全ではありません」


 さらに線を引く。


「ですがあと一歩です」


 誰も口を開かない。


 ユウは続ける。


「今なら脱出、戦線を整理し、損害を最小限にできます」


 必死だった。


 これが最後だと思った。


 今しかない。


 今なら間に合う。


 だが。


 吸血鬼侯爵が口を開いた。


「臆病だな」


 ユウの耳がぴくりと動く。


「何です、と」


「二度負けた程度で慌てるな」


「二度ではありません」


「我らは百回勝っている」


 会議室に笑い声が広がる。


「その通りだ」


「勝利している」


「優勢だ」


「敵は追い詰められている」


 ユウは周囲を見渡した。


 誰も危機感を持っていない。


 戦果報告しか見ていない。


 補給、兵力、地図を見ていない。


 ひいては、戦争全体が見えていない。


 その夜。


 ユウは補給倉庫を歩いていた。


 かつて山のように積まれていた食糧袋。


 今は半分以下。


 武器庫。


 空白が目立つ。


 防具庫。


 補修待ちの鎧が積み上がる。


 竜騎兵基地。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


 巨大な竜たちは地面に伏せている。


 飛ばない、いや、飛べない。


 騎士たちも疲れ切っていた。


「出撃可能数は」


 ユウが尋ねる。


 整備長が答えた。


「二割」


 ユウは目を閉じた、終わっている。


 既に、誰も気づいていないだけで、戦争は崩壊を始めている。


 その頃。


 人間軍本営。


 巨大な地図の前で一人の将軍が笑っていた。


「魔王軍は気付いていないな」


 副官が頷く。


「はい」


 地図には無数の印。


 補給路、包囲網、集結した主力軍、全てが予定通りだった。


「勝たせろ」


 将軍は言う。


「もう少し勝たせろ」


 副官が不思議そうな顔をする。


「よろしいのですか?」


「構わん」


 将軍は笑った。


「獲物は油断した時が一番狩りやすい」


 その視線の先には。


 分散された魔王軍の旗。


 ゆっくりと閉じつつある包囲網。


 同じ夜。


 魔王軍司令部。


 祝宴が開かれていた。


 勝利を祝う宴。


 酒、肉、笑い声。


 将軍たちの自信。


 誰も敗北など考えていない。


 誰も。


 一匹を除いて。


 窓際に立つユウは夜空を見上げた。


 雲が厚く、星空は見えない。


 まるで何かが覆い被さってくるようだった。


 その時。


 伝令が駆け込んできた。


 顔面蒼白。


 息を切らしながら。


「報告!」


 宴の空気が少しだけ止まる。


 伝令は叫んだ。


「第十一軍より救援要請!」


 ユウの目が閉じられる。


 ついに来た。


「敵主力確認!」


 会場がざわつく。


「敵兵力――」


 伝令は震える声で告げた。


「六万!」


 宴の笑い声が、初めて止まった。


「六万だと……?」


 宴席から笑い声が消え、誰もが伝令を見つめる。


 オーガ将軍の顔から血の気が引いていた。


「間違いではないのか」


「確認済みです!」


 伝令は叫ぶ。


「敵主力六万!」


「さらに別働隊二万!」


「第十一軍は包囲されています!」


 静寂。


 重い沈黙だった。


 つい先ほどまで酒を飲み、勝利を語っていた将軍たちが言葉を失う。


 吸血鬼侯爵が呟く。


「そんな兵力……どこに隠していた」


 ユウは答えなかった。答えは数ヶ月前から分かっていた。


 だから警告したのに、誰も聞かなかっただけだ。


「現在の状況は」


 魔王が静かに尋ねた。


 その問いに誰も答えられない。


 若き魔王の顔からも笑みは消えている。


「誰も答えられないのか!?」


 魔王が怒声をあげてもユウは動じることなく、地図を広げた。


「現在我が軍が置かれている状況は半包囲です」


 赤い印を並べる。魔王軍を取り囲みにかかるように矢印も追加していく。誰からも反論はない。


 今なら誰の目にも見えた。


 敵は魔王軍をゆっくりと確実に囲んでいる。


「完全包囲までどれくらいだ」


「十日」


 ユウは答える。


「早ければ七日です」


 再び沈黙。


 七日。


 それはあまりにも短い。


「ならば全軍突撃だ!」


 オーガ将軍が立ち上がる。


「敵主力を叩く!」


「無理です」


 ユウは即答した。


「何?」


「勝てません」


 オーガ将軍の顔が赤くなる。


「貴様ッ!」


「兵力差だけではありません」


 ユウは冷静だった。


「現時点で食糧不足、武器不足、防具不足、竜騎兵不足、全てが不足した状態で連戦の影響で将兵共に限界を超えています! これらは以前から申し上げています!」


 誰も反論できない。


 なぜなら、全て現実だからだ。


 魔王が尋ねる。


「勝つ方法はないのか」


 ユウはすぐに首を振り、即答する。


「現時点ではありません」


 会議室の空気が凍る。


「ですが」


 地図を指差す。


「生き残る方法はあります」


 全員の視線が集まった。


 この部屋で初めてだった。


 将軍たちがコボルトの言葉を待ったのは。


「詳しく説明を」


 魔王が言った。


 ユウは深く息を吸って、吐く息と共に意見を出す。


「戦線を放棄します」


 騒然となる。


「何だと!」


「領土を捨てるのか!」


「正気か!」


 怒号が飛ぶ。


 しかし魔王だけは黙って聞いていた。


「続けて」


 ユウは頷く。


「敵の狙いは殲滅です」


 地図を叩く。


「領土ではありません」


 赤い円、包囲網。


「我々を閉じ込めることが目的です」


 さらに線を引く。


「ならば」


 一本だけ空いている場所。


 包囲網の薄い部分。


「ここを突破します」


 誰も言葉を失った。


「逃げるのか」


 オーガ将軍が唸る。


「撤退です」


 ユウは訂正した。


「生き残るための」


 翌日。


 全軍へ命令が下った。


 戦線縮小し集結、撤退する。


 将軍たちは不満があるも、状況が悪すぎた。


 逆らえない。


 各地の軍が動き始める。


 三方向に分散された部隊が一箇所へ向かう。


 この動きは人間軍もたちまち知るところとなり、敵も動いた。


「補給隊襲撃!」


「第八軍が攻撃を受けています!」


「第三軍より救援要請!」


 報告が止まらない。


 まるで敵は全てを知っているようだった。


 実際、知っていた。


 人間軍は魔王軍の動きを予測していた。


 だから包囲を確実に閉じてくる。


 撤退開始命令から五日後。


 魔王軍主力約四万。


 ついに集結する。


 本来八万いた軍は半分になっていた。


 死んだ、捕虜、行方不明になった。


 補給路で消えた。


 その結果が四万だった。


 ユウは地図を見ていた。次々に入る情報を敵味方含めて整理して地図に落とし込む。


 幾重にも重なっている線が狭まっているのが目に見えていた。


 このためユウは眠っていない。


 三日間。


 ずっとだ。


「カーバス・ユウ」


 声がしたほうを振り返ると、そこにいたのは魔王さまだった。


「少し休め」


「大丈夫です」


「大丈夫に見えない」


 ユウは苦笑した。


「その言葉は初めて聞きました」


 魔王も少し笑った。


「今まで誰も言わなかったからな」


 ユウはただ、頭を下げた。魔王さまからの労いの言葉が嬉しくも、畏れ多かった。


 突破作戦当日。


 夜明け前、魔王軍四万。


 そうそうたる軍勢とは、言えない。みんなどこか傷つき、ボロボロの武器と防具をあてがわれている。


 人間軍七万。


 数でも負けている。


 だが、突破しなければ終わりだった。


「開始します」


 ユウが言う。


「魔王様は中央」


「オーガ軍は先鋒」


「吸血鬼軍は側面警戒」


「全軍、一点突破」


 将軍たちが頷く。


 以前ならあり得なかった。


 誰も。


 コボルトの命令を聞かなかった。


 だが今は違う。


 生き残る方法を知る者が他にいない。


 だから従う。


 戦闘開始。


 地平線が燃えた。


 オーガ軍が突撃する。


 人間軍の盾陣を粉砕。


 血煙が舞う。


 続いて魔王直属軍。


 さらに吸血鬼騎兵。


 突破口が広がる。


 敵も必死だった。


「急いで閉じろ! 逃してはならん!」


 人間軍将軍の叫び。


 無数の兵士が押し寄せる。


 包囲網を維持するために。


 死力を尽くす。


 魔王が前に出た。


 漆黒の剣が振るわれる。


 衝撃波。


 大地が裂ける。


 人間軍の陣形が吹き飛ぶ。


 ユウは初めて見た。


 魔王の本気を。


 将軍たちが強いのは知っていた。


 将軍たちと比べても、魔王は別格だった。


 まるで災害。


 一人で戦場を書き換えていく。


「前進!」


 ユウが叫ぶ。


「止まるな!」


 突破口が開く。


 今しかない。


 ここを逃せば終わりだ。


 全軍が走る。


 ひたすら走る。


 捨てた物資。


 捨てた砦。


 捨てた領土。


 全てを背後に。


 夜。


 魔王軍は包囲網の外へ脱出成功し、少しの休息をとっていた。


 生き残ったが、誰も喜ばなかった。喜べなかった。


 失ったものが多すぎた。


 兵、領土、備蓄のほとんどを喪失。


 七年かけて築いた前線、全て失った。


 焚き火の前。


 誰も口を開かない。


 敗北だった。


 紛れもない。


 大敗北だった。


 そして。


 オーガ将軍がゆっくりと立ち上がる。


 彼はユウの前まで来た。


 ユウは身構える。


 怒鳴られると思った。


 責任を押し付けられると思った。


 だが。


 将軍は頭を下げた。


「……すまなかった」


 ユウは固まった。


 会議室で。


 何度も。


 何度も。


 無視された相手が。


 頭を下げている。


「お前が正しかった」


 静かな声だった。


「全部だ」


 周囲の将軍たちも黙っている。


 誰も反論しない。


 できない。


 現実が証明してしまったから。


 ユウは何も言えなかった。


 ただ。


 敗北の夜風だけが静かに吹いていた。


 敗走から二十日後。


 魔王軍はようやく国境山脈の内側へ帰還した。


 鋭く切り立った岩峰が連なる天然の要害。その谷間には歴代魔王たちが築き上げた城塞や見張り塔が並び、幾重もの防衛線が張り巡らされている。


 ここまで戻れば、人間軍も容易には追って来られない。


 本来なら、生還した兵士たちは安堵の息をつくはずだった。


 それでも。


 帰還した兵士たちの顔は暗かった。


 鎧は傷だらけで、泥と血に汚れている。腕を吊った者、足を引きずる者、仲間の遺品を抱えたまま歩く者もいた。


 誰も勝利の歌を口にしない。


 誰も武勇を語らない。


 誰がどう見ても。大敗北だった。


 七年に渡る戦争で積み上げてきたものが、たった一度の敗戦で崩れ去った。


 城下町でも空気は重かった。


 酒場では酔客たちが黙って杯を傾けるだけで、いつも響いていた笑い声は消えている。


 市場では商人たちが小声で話し、客も足早に通り過ぎていく。


 戦場から戻らない家族を待つ者たちの姿もあった。


 皆が知っていた。負けたのだと。


 ―――


 魔王城。


 大戦議室。


 高い天井に吊るされた魔導灯だけが淡く室内を照らしている。


 かつては勝利報告や戦果の自慢で賑わっていた部屋だった。


 今は違う。


 巨大な円卓を囲む将軍たちは皆押し黙り、視線を机へ落としていた。


 誰も目を合わせない。


 誰も先に口を開こうとしない。


 重苦しい沈黙だけが広がる。


 誰かが息を吐く音さえ妙に大きく聞こえた。


 その中で。


 玉座の横に立っていた魔王が静かに立ち上がった。


 黒い外套がわずかに揺れる。


 その衣擦れの音に、何人かの肩が微かに震えた。


「戦後会議を始める」


 静かな声だった。


 怒鳴り声、責める口調でもない。


 だからこそ重い。


 将軍たちは顔を上げられなかった。


「まず確認する」


 魔王の視線が円卓をゆっくり巡る。


 一人、また一人。

 その目が向けられるたび、胸の奥に沈めていた敗北の記憶が掻き起こされるようだった。


「我々は敗北した」


 沈黙。誰も反論しない。


 できない。


 その言葉は事実であり、傷口そのものだった。


「では敗因は何だ」


 問いが落ちる。


 それだけだった。それだけなのに。


 会議室の空気がさらに重く沈んだ。


 誰も口を開けない。


 視線が揺れる。


 だが誰とも目が合わない。


 責任という言葉が形を持って室内を漂っているかのようだった。


 ―――


 長い沈黙。


 あまりにも長い沈黙。


 やがて。椅子が軋む音が響いた。


 その音だけが異様に大きく聞こえる。


 オーガ将軍が立ち上がった。


 筋骨隆々の巨体は以前と変わらない。


 だが、その背中はどこか重く見えた。


 彼は一度目を閉じる。


 深く息を吸い、吐いた。


「私だ」


 低く絞り出すような声だった。


 全員の視線が集まる。


 逃げ場のない視線だった。


 それでもオーガ将軍は顔を上げた。


「私が補給の重要性を軽視した」


 拳を握り締める。


 節くれだった指が白くなる。


「敵を侮った」


 短い沈黙。


「戦力を分散させた」


 さらに沈黙。


「警告を無視した」


 最後の言葉を吐き出した瞬間、彼の肩がわずかに落ちた。


 誰も責めないし、誰も慰めない。


 だからこそ苦しかった。


 オーガ将軍は唇を噛み、しばらく言葉を探すように俯いた。


「責任は私にある」


 静かに告げた。


 その一言が石のように会議室へ沈む。


 しばしの間、誰も動かなかった。


 やがて、吸血鬼侯爵がゆっくりと立ち上がる。


 長い銀髪が肩から流れ落ちた。


 彼は視線を伏せたまま口を開く。


「私もだ」


 その声にはいつもの余裕がなかった。


「敵の動きを読み違えた」


 呼吸を整えるように間を置く。


「勝利を急ぎすぎた」


 言葉を終えたあとも顔を上げない。


 まるで自らの失策を見つめ続けているようだった。


 それをきっかけに。


 将軍たちが立ち上がる。


 責任を認める。


 言い訳はない。


 敗北を他人へ押し付ける者もいない。


 この世界では珍しいことだった。


 普通なら。


 敗戦の責任は弱い者へ押し付けられる。


 補給担当官など真っ先に首を切られる立場だ。


 今回は違った。


 誰もが知っている。


 警告していた者がいた。


 繰り返し。


 ―――


「カーバス・ユウ」


 突然名前を呼ばれる。


 会議室の隅に座っていたユウは顔を上げた。


 魔王だった。


「前へ」


「はっ」


 ざわめきが広がる。


 ユウはゆっくり立ち上がった。


 小柄なコボルト。


 周囲の将軍たちと比べれば子供のような体格だ。


 そのユウが将軍たちの間を歩いていく。


 視線が集まる。


 かつては軽蔑や嘲笑を向けていた者たちの視線だった。


 今は違う。


 円卓の中央へ立つ。


 魔王が尋ねた。


「お前はこの敗北を予測していたな」


「はい」


「なぜ分かった」


 ユウは少し考えた。


 答えは簡単だった。


「数字を含む情報です」


 将軍たちが顔を見合わせる。


 ユウは続けた。


「食糧、武器、防具、輸送量、損耗率、敵兵力、補給路、全て数字を含む情報です」


 静まり返る部屋。


 ユウは不思議そうに首を傾げた。


「皆様も見ていたはずです」


 誰も何も言わない。


「数字は嘘をつきません」


「だから分かりました」


 単純な話だ、特別な才能も、奇策でも、魔法でもない。


 ただ見ていただけだ。


 現場から届く数字を。


 その先にある現実を予想しただけ。


 ―――


 魔王は静かに頷く、周囲を見渡して発する。


「異論はあるか」


 誰も口を開かない。


 異論を言えない。


 今回の敗北で証明してしまった。


 正しかったのは誰かを。


 間違っていたのは誰かを。


 魔王は宣言した。


「ならば決めよう」


 全員が顔を上げる。


「本日をもって」


 魔王の声が会議室に響いた。


「カーバス・ユウを魔王軍軍師に任命する」


 沈黙。


 次の瞬間。


 椅子を引く音が一斉に響いた。


 将軍たちが立ち上がる。


 反対するためではない。


 敬意を示すためだった。


 オーガ将軍が最初に拳を胸へ当てる。


 吸血鬼侯爵も続く。


 次々と、全員が。


 かつて見下していたコボルトへ敬礼した。


 ユウは困ったように耳を伏せた。


 正直なところ、全く嬉しくなかった。


 むしろ嫌な予感しかしない。


 ―――


 会議終了後の夕暮れ。


 魔王城の城壁。


 冷たい風が吹き抜ける。


 ユウは石造りの胸壁にもたれながら遠くを見ていた。


 失われた領土の方向。


 夕日に染まる山々の向こう側だ。


 そこには何も見えない。


 ただ遠くの稜線が赤く染まっているだけだった。


「隣、いいかな」


 背後から声がした。


 振り返ると魔王が立っていた。


 ユウは慌てて頭を下げる。


「魔王様」


「軍師殿だろう?」


「やめてください」


 即答だった。


 魔王が思わず吹き出す。


「嫌なのか」


「嫌です」


「なぜ」


 ユウは真顔で答えた。


「責任が増えます」


 魔王はしばらく肩を震わせて笑っていた。


 その笑顔は久しぶりだった。


 敗戦以来初めてかもしれない。


 やがて笑みを収めると、魔王は遠くの空を見つめた。


「ユウ」


「はい」


「これから頼りにしている」


 短い言葉だった。


 そこには確かな信頼があった。


 初めてだった。


 自分の言葉を本気で聞いてくれる者が現れたのは。


 ユウは少しだけ考え、静かに頭を下げた。


「承知しました。微力ながら尽力いたします」


 魔王は満足そうに頷くと城の中へ戻っていった。


 一人残されたユウは空を見上げる。


 夕日がゆっくりと沈んでいく。


 戦争は終わっていない。失った領土も戻っていない。問題は山積みだ。


 軍の再編、補給の立て直し、竜騎兵隊の再建、国境防衛、難民対策、考えるだけで頭が痛くなる。


 その時だった。


 背後から慌ただしい足音が響く。


「ユウ軍師殿! 大変です!」


 その言葉を聞いて嫌な予感がいや、非常に嫌な予感が。


「……何事ですか」


 振り返ると若い兵士が息を切らしながら敬礼した。


「オーガ将軍と吸血鬼侯爵が喧嘩を始めました!」


 ユウは目を閉じ頭を抱える。本当に頭が痛い。


「理由は」


 恐る恐る尋ねる。


 兵士は真面目な顔で答えた。


「どちらが敗戦の責任を多く負うかで揉めています!」


 ユウは天を仰いだ。


 数秒。


 本気で逃げる方法を考えた。


 だが、無理だった。


 もう軍師なのだから。


「はぁ……行きます」


 重い足取りで歩き出す。


 夕日に照らされた小さな背中、その姿を見ていた者はまだ知らない。


 後にこのコボルトが魔王軍史上最高の軍師と呼ばれることを。


 本人だけは最後まで、自分をただの補給担当官だと思い続けることを。


 こうして、カーバス・ユウの苦労の日々が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ