その優しさが消えてしまうのが怖かったのです
城に戻った途端、フェルナンは「では」と言うやいなや自室に駆け足で戻りかける。その背に向かって急いで話しかけた。
「あ、あの、あのフェルナン様! このお城の掃除をさせていただいてもよろしいでしょうか……? も、もちろん、お許しがいただければのお話ですけれど」
この城に足を踏み入れた時から、暗い空気には気づいていた。それが曇った窓や黒ずんだ壁、埃まみれのあちこち――によるものだということも。だから今朝起きてから考えていたのだ。
優先順位としては二番目だから、実験場を作り終えてから申し出るつもりだった。
聞いたフェルナンは鬼の形相で振り返る。
「掃除……?」
まるで初めて聞いた単語を反芻するかのような反応だ。
――ああ、また怒らせるようなことを言ってしまったわ。アドリアンナは彼の表情からそう理解した。が、彼は次に思案するように周囲を見渡し、目をぎょろりと一回転させた後で不審者を見るような目つきでアドリアンナを見て言った。
「……まあ、構わないが」
「ありがとうございます!」
その返事に、ほっと息を吐いて礼を言う。
腑に落ちないとでも言いたげにしばらくアドリアンナを見ていたフェルナンだったが、やがて自分の目的を思い出したかのように、早足で自室へと去っていった。
一人になったアドリアンナは早速掃除に取り掛かる。
城はいくつも部屋があるが、大まかな作りは屋敷と一緒だ。この国のほとんどの貴族の屋敷では使用人の部屋は、離れがない場合は一階か地下にあり、彼等が主人の世話や屋敷の整備をするために使う道具も大抵の場合同じ場所に置いてあった。
この城も例に漏れず地下があった。半地下になっているそこには、料理場や使用人がかつて住んでいたであろう部屋、そうして考えた通りに掃除道具が収まった部屋があった。
(フェルナン様は手を付けていないのかもしれないけれど、以前の持ち主はここで生活をするためのものを一式揃えていたみたいだわ。きっと丁寧で几帳面な人だったのね)
道具を一つ一つ手に取る。古いが、使えそうだった。
(新しい布が手に入れば、カーテンを縫ってもいいかもしれないわ)
この城の、白い壁に合うような色で。何色が良いだろうか。窓の外の森の色に合うように、薄緑色なんて意外と良いかもしれない。絨毯はそれより濃い緑にして――。
(なんてね、お許しがいただけたらだけど。とにかく、できる限りこのお城を綺麗にしましょう)
生家で使用人同然の下働きをしていた技術がこんな風に役に立つとは思わなかったが、たったひと月ではあるものの、この城で暮らせることの恩を返したかった。
夢中で掃除をしていたから、時間が過ぎていたことに気づかなかった。窓を拭いているときに、外が真っ暗で驚くと同時に我に返り、ようやく自身が空腹であることに気がついた。
そういえば、ここに着いてから何も食べていない。緊張状態が続いて空腹を感じる暇が無かった。
アドリアンナは階下から上を見上げた。正確に言うと、フェルナンの部屋がある位置を。
意を決し、アドリアンナはそこへ向かう。
「あの――」
と声をかけながら部屋の扉を控えめに叩くとすぐに怒鳴り声が聞こえた。
「部屋に近づくなと言っただろう! 言う事を守れないのなら出ていってもらうが!」
アドリアンナの体は硬直した。人の怒りをぶつけられるのなんて慣れているはずなのに、出会ったばかりの男の怒鳴り声に恐怖してしまう。扉を叩いていた手が震え、それをもう片方の手で抑えた。
(なんて情けないの? わたしは何一つろくにできないんだわ。お優しいフェルナン様を怒らせてしまったなんて)
アドリアンナが動けずにいると、扉がゆっくりと開く。
フェルナンは部屋の奥に立っていて、気まずそうな顔をこちらに向けていた。やはり魔法により扉を開いたらしい。
彼は怒ってはいないようだった。アドリアンナの目を見て、それから視線を床に向け、静かに言った。
「……なんの用なんだ」
両手を握りしめたまま、アドリアンナは一つ一つ確かめながら言葉を口にした。そうしなければ彼の態度を前にして、自分の望みを見失ってしまいそうだった。
「あの、何か、食べるものはありますか?」
一瞬の静寂があった。聞こえた声は力ないものだった。
「ああ、食べ物か……。ほら、これでいいか」
と聞こえた次には、目の前に黒パンが浮かび上がった。アドリアンナは目を見張る。
昨日ハンカチを出した時もそうだが、一瞬にして物を移動させるなど、恐ろしいほど高度なことをやっている。アドリアンナは魔法を使えないが、それでも複雑な術式と高い魔力が必要であるということは分かる。おまけに、何度か王都にいる宮廷魔術師達の魔法を見たことがあるが、彼等は魔法陣を空中に描くことで魔法を使っていた。それが常識であるが、フェルナンのそれは魔法陣の気配さえない。
強大な魔力を持つものは時に魔法陣を使わないという記述を本で読んだことがあるが、もしフェルナンがそうだとすると、とんでもない才能に恵まれているということだ。
などと考えているうちにもパンはアドリアンナの手の中に収まり、それを見たフェルナンは鼻で笑う。
「もしかして、ここに来てから何も食べてないとか言わないよな? はは、まさかな」
図星を突かれたアドリアンナは何も言えない。その様子を見てフェルナンは察したようである。
「嘘だろ!? 君は、どれだけ……!」
――馬鹿なんだ! そう言われるような気がしたが、フェルナンはしかし言葉を飲み込んだ。長い沈黙の後に彼は言った。
「食材庫は地下にあって、ひと月に一度馬車で当月分のものが届く。好きに出入りしていい。地下の場所は分かるか?」
「はい」
うむ、と彼は頷いて、今夜の用事は以上とでも言いたげに扉を閉めようとした時に、アドリアンナは言ってしまった。
「あの……たいのですが」
「ああ? 何か言ったか?」
意を決して言葉を発したつもりだったが、フェルナンには届かなかったらしい。彼は顔をしかめた。
「君は声が小さくていかん。聞こえないぞ、はっきり話してくれないか!」
「や、やっぱりいいです」
「なんだよ!」
彼は苛立った様子でずかずかと歩み寄ってくると、空いた扉の枠に手をかけた。
「話したいことがあるなら言ってくれ。はっきりしない奴は好きじゃない」
近い。とても近い場所に彼がいる。近寄るなと言ったのは自分の方なのに、自分から近寄るのは気にしないのだろうか――?
「あ、あの、差し支えなければ食材で料理をお作りしてもよろしいでしょうか……?」
「……料理」
むっつりと、彼はそう繰り返した。怪訝そうな顔を浮かべ、異様な存在を見るような目つきでアドリアンナの頭からつま先を一瞥した後、投げやりのような口調で言った。
「もうなんでもいい。なんでも好きにしてくれ! 君が何を言い出してももう驚かないし、俺は全てを許可しよう! もうなんでも好きにしていいから、頼むから雨に濡れた捨て猫のような哀れっぽい潤んだ瞳で俺を見ないでくれないか!」
――結局、その夜アドリアンナは簡単な夕食を作った。二人分。
料理とも言えない本当に簡単なもの。パンの上にチーズと保存用の塩漬け肉を薄く切って乗せただけの、本当に本当に簡単なもの。庭に野生のハーブがあったから、それもサラダにして添えてみた。
彼の分の料理を部屋の前に置き、声をかけずに立ち去った。眠る前にちらりと見ると扉の前にあった皿は無くなっていた。




