暮らしは思いがけず穏やかで
歩きながらアドリアンナは尋ねた。
「わたしを探しに来てくださったのですか?」
無言に耐えきれなかったのではなく、わざわざそんなことをする人がいるなんて信じられなかったためだ。アドリアンナの質問にフェルナンは気を害したようだった。
「当たり前だろう。君を無事に家に返すというのが、俺と君との約束だったはずだが?」
律儀な人だ、とアドリアンナは思う。
わたしを見捨てていれば、遥かに早くお荷物を片付けられるのに。
「君が早朝からバタバタとなにかをしているのには気づいていた。城を出ていったのにもな。瘴気が濃くなってきたし、帰りがあまりにも遅いから探しに来た。逃げ出したのでないのなら、の話だったが」
「逃げ出すなんてしませんわ」
ここ以外行く所などないのだから。
聞いたフェルナンは低く唸る。
「それに君に何かあったら、君を寄越したオフィーリアが悲しむから」
アドリアンナは目を丸くした。意外に思えた。
この方は、とても可愛らしい人かもしれない。決してその恋が叶うことはないのだろうが、想い人を想い行動するなんて素敵だと素直に思うし、少年よりも純情だ。
暗い感情は薄れ、アドリアンナは思わず微笑んだ。
「また笑っているな」
背中ばかり見ていたから、彼が半顔をこちらに向けていたことに気づかなかった。
やはりアドリアンナを寄せ付けないかのような鋭い視線であり、その目で見られると萎縮してしまう。
彼の気を悪くしてしまったかもしれないと急いで笑みを引っ込めたが、その様子を見て、フェルナンはますます不愉快そうに眉を顰めた。咎めるようなことを言われるだろうかと思ったが、彼は問いを発した。
「さっきはなぜ笑っていたんだ」
いつ笑っただろうかと考えていると彼は重ねて言った。
「狼に対してだ」
笑っていただろうか。そうなのかもしれない。安らぎを覚えたことは確かだった。
死を前にして救いを感じたなどとまさか言えるはずもない。
「……忘れてしまいました」
そう言うと、ふん、とつまらなそうにフェルナンは鼻を鳴らし顔を前に戻す。だが彼はまた言った。
「その髪、どうした」
アドリアンナの不自然に切り取られた髪に対して言っていることは明白だった。
細かいところまでよく見ている。
「切ったんです。その……必要でしたから」
指摘され、後ろめたさを抱いた。
瘴気の研究などと、気味が悪いことに使った事実を告げ、引かれたくはなかった。
「自分で望んで?」
問いに頷くと、そうか、と彼は言った。
「ならいい」
興味はもう、失せたようだった。
それから再び無言が続いた。
アドリアンナは見失わないように彼の背中ばかりを見つめる。わざわざ探して、狼から助けてくれた。
(優しい人だわ)
彼という人が少しだけ分かったように思う。呪われ公爵という噂からはかけはなれた人だ。常識もあり、良心もある。他人に対する礼儀を持っている。
(だけど、わたしが疎まれている娘だと知ってしまったら、きっとこの優しさも無くなってしまう……)
彼が当たり前のようにアドリアンナを人間扱いしてくれる気遣いは嬉しかったが、それが貴族の娘として大切に育てられ傷でも付けたら大変なことになるという明白な理由からであるということは想像に易い。そうして自分の浅ましさに気づき愕然とした。
(わたし、彼の優しさを得るために嘘を吐いたんだわ)
自分のための醜い保身をした。
背中の傷は転んだものではない。家族によるものだ。幼い頃は父によるもので、現在はほとんどは養母によるものだ。彼等はアドリアンナをしつけるために鞭で打つ。傷跡は深く、今も残っていた。
そういう時に痛いのは、体よりも心だった。誰にも望まれないのに死ぬこともできず、ただ生きながらえている自分の存在が耐え難く疎ましく感じるのだ。
家族から遠く離れた今でさえ、自分は生まれてくるべきではなかったという心と体に刻み込まれた呪いが消えることはない。
「フェルナン様。先程は助けてくださって、本当にありがとうございました」
不意に浮かんだ諦観も希死も今はない。
アドリアンナの礼には、ああ、という曖昧な返事が返ってきただけだった。




