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森で助けてくださったこともありました

 初日は到着と結婚式の疲れで食事も取らずに眠り込んでしまったから、今日から一日たりとも無駄にはできなかった。


 今朝もこの地を霧が覆い、太陽を隠してしまい、光の輪郭がわずかに見えるだけである。自室に決めた部屋の窓からそんな景色を見たアドリアンナだが、気分はまずまずだった。目標ができたからである。


 条件その一、フェルナンの自室には近寄らないこと。

 条件その二、フェルナンの側に近寄らないこと。


 共同生活を円滑にするためにフェルナン・グリフォンが提案したのはそのようなことで、それさえ守れば後は好きにしていいとのことだった。アドリアンナは拍子抜けした。


 加えてこの城にある物は、どれだけ使ってもよいという。

 アドリアンナが口にした瘴気の研究も好きなだけしてよいとのことだった。衣食住が満ち足りて、その上好きなことができる。あり得ないほどの好条件に裏があるのではないかと疑ったが、単に自分の生活に干渉しなければアドリアンナの存在は無視することにしたようだった。

 

 古びた城は現代風の家具もなく、カーテンさえ以前の持ち主が使っていたものをそのまま使っているのではないかと思えるほど埃だらけの体たらくであったため、研究に使えそうなものを探すのも一苦労だ。

 だが屋敷に戻される前にできるだけ瘴気に触れておきたかった。アドリアンナは、この地で瘴気の謎を解き明かし、それを再び文章にまとめることを目標に決めたのだ。


 城を見て回り、手頃なものを集めながらアドリアンナは考えた。


(考えてみたら、これは絶好の機会でしょう? 誰にも邪魔されることなく、研究に没頭できるんだもの。瘴気が発生する原因を突き止めることができたら、後の世の人にだって絶対に役に立つはずよ)


 そうやって自分の心を鼓舞した。


 アドリアンナは魔法が使えないが、使えない者にも幾分かやりようはある。見つけた紙の数枚に魔法陣を注意深く正確に描き、それを持ったまま森へと入った。

 城を見失わないようにしながら歩き、ちょうどよい場所を見つける。巨岩が複数重なり、空気の吹き溜まりができている場所があった。瘴気はこの場所に溜まり、周囲よりも濃い霧を作り出す。


 ――ここがわたしの実験場ね。


 アドリアンナは紙に描いた魔法陣を取り出し、三角柱になるように岩や木に配置した。それを二度繰り返し、二つの三角柱を作る。


 魔法の根源である魔力は未だに全てが解明されているわけではないが、常に側にある存在として人類は上手く付き合ってきた。

 生物の体にも、空気中にも魔力は存在し相互に通い合っている。アドリアンナのように自ら魔法が使えない者であっても、その助けを全く借りないということはない。


 アドリアンナが貼り付けた魔法陣は主には野外で暖を取る際などに利用されるものだ。空間の中で焚き火を起こせば簡易な暖房設備になる。

 場の固定を意味し、三つ以上を配置することにより空間を生み出す。三角柱にしたのは立方体よりも魔法陣の数が少なくて済むからだ。紙に書いた魔法陣は数が多ければ多いほど、壊れる危険が高まった。

 

 力の強い魔術師が相応な魔力を込め作る魔法陣とは異なり、空気中に存在する魔力を使用するアドリアンナの魔法陣は、隙間もあればたわみもあり、空気は緩やかに流動を続けるだろうし、雨に濡れたり破られたりしてしまえばたちまち効果は無くなる。


(完全な密閉はできない以上、完璧な理論にはならないかもしれないけれど、ひとまずは第一歩よ)

 

 家にいる時に瘴気を入手することはできなかったため、アドリアンナは過去の論文や事例などから仮説を立てただけだ。だがこの地ではその仮説を立証することができる。


 瘴気は不思議だ。

 遮られた空間にすぐに入ってくることはできないが、いつの間にか中に忍び込む。そうしてひとたび忍び込んだら、たちまち建物内で濃く広がるのだ。過去に瘴気が発生した際、教会内に逃げ込んだ者たちなど、数時間は生きていたが外よりも濃い瘴気に当たりほとんどは死んだ。


 数度、瘴気の大量発生が複数の国を襲い人々はその対応を学んできた。濃い瘴気に遭遇した場合に取る行動は一つ。諦めることである。

 諦めた結果は一部の例外を除き、次の二択だ。死ぬか、辛うじて生き延びひどい後遺症に悩まされながら残りの生を歩むか――だが生き残った場合も数年のうちに皆死んだ。


 その瘴気を、アドリアンナは解き明かしたいのだ。皆のためというのは浅ましい建前で、本当は自分自身のために。

 後ろ暗い思いに身を委ねながらもアドリアンナは持論を検証すべく、自らの髪の一房を切り、片方の三角柱の中へと置いた。

 今日はここまでにしておこう、そう思い戻ろうとした時だ。いつの間にか霧がひどく濃くなり城が見えない。

 

 さああ、と血の気が引くのを感じた。迷った。帰り道が分からない。

 ぱんくずを置いてそれを動物に食べられてしまい帰り道が分からなくなった童話を思い出したが思い出した所で意味がない。


(だ、大丈夫、大丈夫よ――)


 霧が晴れるのを待てばいい。晴れることがあるのかは分からないが。

 アドリアンナはその場に立ち尽くした。と、その時だった。低い唸り声とともに体に何かが突進してきた。


「きゃあ!」


 衝撃に短い悲鳴を上げた。

 目の端を黒い毛の塊が横切った。鋭い爪が背中を掠め血が滲む。その獣は獲物を一発で仕留められずに再び距離を取る。


 アドリアンナはその獣を真正面から見た。

 一匹の巨大な狼だった。群れがいる様子はない。追われたのだろうか。だがその毛並みは美しく、見事な金色の瞳をしていた。冷徹で人の持ちうる情など欠片もない生き物だ。

 腹をすかせているのだろうか、その口からはよだれが滴っていた。アドリアンナを食い殺すつもりでいることに間違いはなかった。


 驚くことに恐怖はなかった。代わりに自嘲が漏れた。

 普通、こんな時、もっと叫んだり泣いたりするのかもしれない。だが出たのは、襲われた際に驚いて上げた悲鳴だけだ。

 それに叫んでも、周囲に人はいないから助けが来ることもない。そう思えば諦めは早々についた。


 生きたいと思う強烈な動機も無かった。アドリアンナが死んでも泣く人もいない。そんなことを、こんな死の間際で知るなんて馬鹿みたいだわ。

 だけどようやく解放される。この地獄のような世界から。

 

「あなたがわたしを救ってくれるのね」


 そう思ったら心からの笑みが出た。目を閉じて両手を広げる。群れを追いだされた一人ぼっちの狼に殺されるなんて、わたしに相応しい最期かもしれないと、そう思いながら。


 だが死は訪れなかった。

 目を閉じていたから、その瞬間に何が起きたのか正確なところは分からない。だが周囲が閃光し、狼の悲鳴が聞こえ、目を開いた時には目の前に怒りの形相を浮かべたフェルナンが立っていた。

 アドリアンナが口を開く前には既に、フェルナンの怒号が飛ぶ。


「君は――君は馬鹿なのか! なぜ抵抗しないんだ!」

 

 フェルナンが現れた驚きで、咄嗟に反応ができなかった。立て続けに彼は言う。


「帰り道が分からなくなるほど遠くに行くな、子供じゃないんだから! 挙句の果てに、身を守る物を一つも持たずに獣がいるこの森で殺されかけるなんて、どれだけ愚かなんだ!」

 

 目だけで周囲を見渡すが、狼の姿はどこにもない。彼が、恐らくは魔法を使って追い払ったようだ。

 アドリアンナの混乱はまだ解けない。狼が現れたことも、フェルナンが突然現れ、勘違いでなければアドリアンナを助けてくれたことも、まだ理解できていなかった。

 だがフェルナンの方はそんなアドリアンナを意にも介さず近寄ってくる。


「傷を見せろ」

 

 答えられずにいる間にも彼はアドリアンナの背に周り狼に裂かれた傷を見た。

 身じろぎ一つせずアドリアンナはそれを受け入れる。そもそも他人に対して抵抗という術を持っていなかった。

 うん、と彼は言う。


「君に触れるが、一瞬だけだ。治療のためで他意はないし君を傷つける意図もない」


 そう断りを入れた後、彼の指が触れる感覚があった。熱を持ち、骨ばった大きな指だ。アドリアンナは呼吸を殺しじっとしていた。

 触れられた箇所がくすぐったい。だが確かに、痛みは消えていく。

 アドリアンナの無言をどう受け取ったのか、フェルナンは気まずそうに言った。


「……後少しだから我慢してくれ。こうやって丁寧に治療すれば傷も残らない」

 

 そこでふいに彼は言葉を切った。指も止まる。


「この傷、本当に今日ついたものか? それもこんなに大量に?」


 腹の底が熱くなる。羞恥と情けなさに体が震えた。

 彼の視線がますますアドリアンナの背に注がれるのを感じた。驚愕しているようであった。背中を確認することはできないが、服が破れきっと大部分が露わになってしまったに違いない。だから背にある大量の傷跡を知られてしまった。迂闊だった。あまりにも、迂闊だった。


「む、むかし――昔に、転んでしまってついた傷です」


 咄嗟に嘘を吐いた。嘘だと気づかれてしまっただろうか?

 永遠とも思われる間があったように感じた。

 フェルナンは黙り込んだが、狼に付けられた傷の治療は再開された。彼の興味が傷跡から失せたことに、アドリアンナは安堵した。


「終わったぞ」

 

 というやいなや、体にぱさりと彼のマントがかけられる。


「そんな、貸していただくなんていけません!」


 ぎょっとして立ち上がるが、フェルナンは既にアドリアンナから離れた場所にいて、拒否するように両手を向けた。


「おい近づくな! 距離を取ってくれ!」


 彼は目線を反らして言う。


「君は半裸なんだ。そんな娘と共に歩くことはできない。黙ってそれに包まれていてくれ」


 アドリアンナは改めて自分の姿を見た。裂かれた背中は大きく露出し、肩の服も破れ前側もはだけそうだ。


「ひゃあ!」と顔が熱くなり、返そうとしていたマントできつく体を覆った。

 

 フェルナンは眉を顰めた。


「狼に襲われても平然としていたのに、それには顔を赤くするのか? 君は変わってる」


 言ってから彼は踵を返し歩き始めた。

 

「城まで戻るから、俺の後を付いてこい。くれぐれも近寄りすぎるなよ、だがはぐれないようにな」


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