埃にまみれた聖堂で結婚式をしたでしょう?
アドリアンナは鏡に写った自分の姿を見た。
鏡からは青白い顔の女が不安げな眼差しで見つめ返してきている。
不安と孤独でどうにかなりそうな心を少しでも紛らわせるために、いつもより着飾った自分がいる。カーラやジュリエッタが社交場に行く際に、言いつけのとおりに髪を結っていたから髪型だけは流行を知っている。
腰まで伸びた黒髪は後ろでまとめ、後れ毛を数本出してみた。母が夜会の際にしていた髪型を真似てみたが、養母や義妹のような華やかさからは遠くかけ離れているようにみえた。
髪飾りなどなく、婚礼衣装もない。着てきたドレスをそのまま着回し、式の衣装とした。他にも服は持ってきていたが、上等と呼べるものはこの一着しかない。形としては古いが母の形見であり、父に奪われないように母の死後から入念に隠し持っていたものだ。自分用に自分で仕立て直した大切なものだった。
鏡に写った自分の額を指で軽く小突いた。
(ほら、アドリアンナったら。フェルナン様の前でそんな顔をしてはだめよ。ご厚意で置かせてもらうんだもの、感謝と好意を示さないと。ここにいさせていただいて、すごく嬉しいって感じで笑うのよ)
そう思い鏡に笑いかけるが、不器用で無様な笑みだ。それでも仏頂面よりは少しまし――そう思って心を慰めた。
父か、あるいは他の誰かかもしれないが、アドリアンナが城に到着した数時間後に結婚式の立会人を一人送り込んできた。壮年の男で二人が確実に結婚するという証拠を命令者に届けるという使命を負っているためか、この瘴気溢れる土地でも顔色一つ変えずに飄々と「式を見届けに来た」旨を告げた。
正直に言うと、聖女を愛していると言ったフェルナンが結婚式などとんでもないと彼を追い返すのではないかとアドリアンナは思ったが、しかしフェルナンは意外にも素直に従った。
城の庭に小さな聖堂があった。元々の持ち主は信心深い者だったのだろう、小さいながら祭壇の装飾は細かくあしらわれ、窓には金の縁取りがされていた。だが残念ながら現在は手入れをされていないようで埃にまみれ、お世辞にも綺麗とは言えない。が、そこで式を執り行うことになった。
フェルナンにしてもようやく服を着たが、単にありあわせのしわくちゃのシャツとズボンを身に着けただけで、婚礼の式にはふさわしくない。表情も不機嫌さを隠してさえいなかった。彼にとってこの結婚式は、不愉快極まりないものなのだろう。
先程も、瘴気の研究ができると胸を弾ませたアドリアンナに対して、フェルナンがいい顔をしていなかったことには気がついていた。
(聖女様を愛しているのだから、わたしは厄介者でしかないのよ)
聖女を愛しながら一人城で暮らすのは孤独であろうが受け入れていたはずだ。そこに望まない女が放り込まれてしまった。
ほんの少し胸が痛むが、それは彼がほかの女性を愛していることによる嫉妬ではない。聖女オフィーリアとアドリアンナは同じ年だ。彼女は何でも持っていて、自分はどこに行っても存在を望まれてはいない。同じ貴族の生まれで、こうも異なるのか。そのあまりの差が虚しく感じた。
だがそうして悲しむことさえ烏滸がましいということも、一方では分かっていた。
立会人が司祭の代わりに結婚の口上を読み上げている間、床を見ていたアドリアンナはふとフェルナンはどのような表情をしているだろうかと思い、顔を上げた。途端、真夏の木々のような濃い緑色の瞳と目が合い、慌てて反らした。
彼も見ていると思わなかった。鋭い眼光は、アドリアンナごと射抜いて殺してしまいそうだ。
(わたしを疎んでいるんだわ)
彼の目はそう語っていた。さっさと目の前から消えてほしいって。
アドリアンナを歓迎する人はこの世界のどこにもいない。分かりきっていたことだ。それが今また証明されたようで、情けなさに目が熱くなる。だがまさか泣くなんて姿を見せられない。
すぐに目の前から、呆れたような深い溜息が聞こえてきた。当たり前に、フェルナンがアドリアンナに対して向けたものだった。
(平常心で、平常心で――)
必死にそう言い聞かせながら唇を噛み締めた。
立会人の声が響く。
病めるときも健やかなるときも――……。
◇
「あれは王家の手の者だ」
それは式の前に、フェルナンに自室に呼び出された時に言われたことだった。彼は立会人に対して新妻と話がしたいと譲らず、ほとんど無理やり時間を作った。
「王家の誰かが、俺と君が確実に結婚の誓いをするように見届けようとご丁寧に寄越したんだろう」
彼は長椅子にどかりと腰掛け、ガウンの前を抑えることもしていない。
ガウンの下が素っ裸だと知っているから、いつそれがはだけるかとハラハラして視線をどこに向けていいのか分からない。アドリアンナは立ったまま、視線を彷徨わせていた。
「結婚の成立条件がなにか知っているか」
そんなアドリアンナの動揺を意にも介さず、フェルナンが問いかける。唐突な問いに答えられずにいると彼は言った。
「その一、神の前での夫婦の誓い。王家の使いが来た以上、従順な王家の家臣である俺はそれを避けられない。だが次は避けられる。その二、夫婦としての実生活だ」
「夫婦の実生活?」
意味が分からず繰り返すとフェルナンはアドリアンナをじっと見つめ、どうやら本当に分からないらしいと悟った瞬間、鼻で笑った。
「俺が君を抱くということだ」
聞いた途端、アドリアンナは耳まで顔が赤くなるのを感じた。考えれば分かることだった。夫婦が何をするか知らないほど初ではなかったが、それにすぐに受け答えができるほど手慣れてもいなかった。
そんなアドリアンナに対してフェルナンは静かに告げる。
「だが俺が君を愛することはない。故に君を抱くつもりはない」
安堵の息を吐くことを隠せなかったが、フェルナンは険しい視線をアドリアンナに向けて寄越す。そこにはやはり、妻に向ける愛情は少しも含まれていなかった。
「俺と君はこれから一種の同志だ。言いたいのはこういうことだ。いいか? ほとぼりが冷めたらこの生活は終わりにする」
「離婚ということですか?」
それは神の教えに背く行為だ。思わず一歩近づくが、フェルナンはぎょっとしたように両手をアドリアンナに向けた。
「おい! 俺に近づくな!」
制止されたアドリアンナは慌てて立ち止まる。自分が彼に近づくことは彼を不快にさせてしまう。気をつけなくては、と思いながら。
フェルナンは続ける。
「そもそも夫婦ではないのだから離婚ではない。いうなれば同居の解消だ。俺と君の目的は一つ。しばらくは夫婦としての対面を保ち、ほとぼりが覚めたらそれぞれが元の生活に戻る。……そうだな、ひと月も続ければいいだろう。俺達は結婚式をしたもののどうにも気が合わず、夫婦としては成り立たなかったとそれぞれ証言するんだ。君に友人がいるのなら、それとなくそれをほのめかす手紙を書いてもいいだろう。
離婚歴はないのだから君の経歴に傷はつかないし、別の男に嫁ぐことになんら問題はない」
どうだ、とフェルナンは言う。これで俺と君はどちらも損をすることなく今まで通りの生活に戻ることができるだろう、と。
アドリアンナも同意した。だが一方では思っていた。
この方は、わたしのことを何も知らないんだわ。オルエンヌ家にいる不要な娘は、手紙を書く友人の一人さえいないのに。
別の男に嫁ぐことにはならないだろう。そもそも社交界では、一度失敗しているわたしは笑い者だ。父はわたしを厄介払いしたかったのだから、のこのこ戻れば以前よりもひどい生活が待ち受けているはずだ。
だがそれをフェルナンの前で言うつもりもない。彼には関係のないことなのだから。
◇
「誓いの口づけを」
立会人の声が聞こえ、アドリアンナははっとして顔を上げた。いつの間にか口上は、そこまで進んでいたらしい。
――口づけを? 彼と? そう思っただけで緊張が頂点に達する。
見るとフェルナンは鬼のような形相で立会人に詰め寄っている。
「はあ? しない! そんなものしないが?」
だが激昂しているのはフェルナンばかりで立会人は顔色一つ変えず、冷徹に二人を見ているだけだ。圧をかけるような無言で。
「俺は彼女に近づきたくない!」
アドリアンナの方を少しも見ずに、フェルナンはこちらを指さした。フェルナンは怒っていたが、それでも手が出ないのは一応は紳士的と言えた。父は怒ると、暴力を伴うことも多かったのだから。
フェルナンの剣幕を意にも介さず、立会人はなおも無言で立つだけだ。
「――ああ、くそ!」
フェルナンは頭を両手でかきむしりながら、その勢いに任せアドリアンナに近づき、口の端にそれをした。あまりにも急で、身構えることさえできなかった。
一瞬、触れるだけ。近づいてきたと思った瞬間には、既に彼はぱっと身を離した後だった。
キスをしたのは初めてではなかった。だがその思い出は、深い痛みとともに封印されている。二度と誰とも口づけを交わすことなどないだろうと思っていたのに、まさかこんな形で再び訪れるとは。
彼の吐息は熱いほどで、唇は柔らかく温かく、人の血が通っているという当たり前のことに、アドリアンナはひどく驚く。目を丸くしていると、フェルナンは対象的に目を細めた。
「君の肌は冷たいな。他の人も皆そうだろうか」
そう言ってフェルナンは小さく笑った。その淋しげな笑みに、アドリアンナの胸はほんの少しだけ疼いた。




