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貴方はとても美しい方でした

 まず目に飛び込んできたのは、明かりの付いていないシャンデリアに蜘蛛の巣が張っている様だ。次に目に入ったのは階段の上にある埃で曇った窓だった。そうしてその次に、階段の上に、背の高い一人の男が立っていることに気がついた。

 扉の側に人の姿はなく、その男が魔法の類で扉を開いたらしかった。


 アドリアンナは驚きを持って男を見た。


(なんて美しい人なのかしら――)


 黄金の髪は腰まで伸び、絹糸のように輝いていて、切れ長の目から覗く深い緑色の瞳は神経質そうにアドリアンナを睨みつける。伸びた髭は整えられずに無造作だったが、それさえも髪と同じく美しい色をしていた。

 肌の色の病的な白さはまだ伯爵家に入る前に母と行った美術館で見た彫像を思わせた。なにより彼の纏う空気が浮き世離れしているように感じる。

 童話の中に出てくる妖精の王を、アドリアンナは思い出した。


 一瞬の間、見惚れていると地の底から響くような不気味な声が聞こえた。


「なぜそんなに泥だらけなんだ」


 彼の目線がアドリアンナの足元に注がれていて、それで彼が話したのだと気がついた。

 靴はもちろんのこと、ドレスの裾まで泥で汚れていた。突然自分が恥ずかしく思え、アドリアンナは小さく言った。


「ば、馬車に置いていかれてしまって……」


「ああ? 聞こえないんだが!」


「ば、馬車に置いていかれて――――きゃあ!」


 男が苛立った様子で階段を一歩降りた瞬間、アドリアンナは彼のありのままの身体を見てしまった。

 開いたガウンの中は、あろうことか一糸まとわぬ姿だったのだ。

 はしたなさなど忘れ叫んでしまった。


「どうして裸なんですか!」


 顔が真っ赤になるのを感じながら顔を背け、公爵は一体使用人にどんな教育をしているのだろうと思いながらきつく目を閉じた。


「人に会う用事などないんだ、俺がどんな格好をしていたって勝手だろう!」


「あ……貴方様は素っ裸で公爵様のお世話をされているというのですか!」


「世話などしてない、公爵はこの俺だ!」


 ぎょっとしてアドリアンナは彼に顔を戻した。既にガウンを両手で抑え、有り難いことに裸体はしまわれている。ではこの人がフェルナン・グリフォンなの――?


 長髪と髭で顔は覆われていて年齢はいまいち不明だが、それでも想像していたより随分と若い。使用人の間でまことしやかに囁かれる噂は、彼は年老いていて目も当てられないほど醜いというものだったから。

 だが目の前にいる彼は、声の雰囲気からしてもアドリアンナの少し上程度に見える。おそらく二、三十代だ。そして醜いどころか……。


「使用人の方はいらっしゃらないのですか?」


「この俺の世話をしたい奴なんていない」


 アドリアンナの問いに皮肉めいた笑みを一瞬だけ彼は見せた。どうやらそれが答えだった。この城に、人間は彼一人らしい。

 公爵は一段だけ降りた階段からアドリアンナに告げる。


「せっかく来てもらって悪いが帰ってくれないか」


 驚きのあまり礼儀も忘れ、思わず言い返した。


「で、ですが私は貴方の妻になりに来たのです!」


 何日もかけてやってきて、心細さを抱きしめて泥まみれになりながらここまで歩いてきたのは彼の妻になるためだ。

 だが彼はそんな苦労も知らないという風に不愉快そうに眉をひそめる。


「妻などいらん」


「でも、妻が欲しいとおっしゃったのでしょう?」


 驚愕したように彼は言った。


「俺が――!?」


 と言って目を見開くが、やはりその目は星を見つめたように美しく輝いているように思えた。


「……ああ確かに言ったが、王族の奴らを困らせてやろうと思っただけだ! お高く止まっている奴らが俺の言葉に翻弄されている姿は小気味よいからな。だがまさか本当に妻が送り込まれるとは思っていなかった! 普通そうはしないだろ! 呪われた公爵に娘を差し出すトンチキがどこにいる! それに俺の心はオフィーリアだけのものだ!」


 今度はアドリアンナが目を丸くする。最後の言葉に引っかかったのだ。

 オフィーリア、それは聖女の名だ。


「公爵様は聖女様が好きなのですか?」


 恐る恐る問いかけた恐れ多い言葉を、フェルナンは恥ずかしげもなく認めた。


「ああ愛してる」


「で、ですが聖女様は生涯配偶者も恋人もお作りにならないと誓いを立ててらっしゃるのでは」


 その言葉に、彼は傷ついたように顔を歪めた。


「悪い娘だな! わざわざ言うなよ、惨めになるじゃないか! 分かってる。だけどそれでも愛しているんだ。だから君とは結婚できない。悪いが家に帰ってくれ! 帰れ! さあ!」


 ――あの家に帰る。そう思った瞬間、アドリアンナは硬直した。不要な娘が戻ったと知ったら、折檻どころの騒ぎでは済まない。


「な、なぜ泣くんだ」


 自分でも知らないうちに涙を流していたらしい。慌てて袖で拭う。なんてはしたない姿だろう。


「そんなに俺と結婚したかったのか? もしかして俺が好きなのか?」


 フェルナンはそう言ってこちらの反応を窺うように顔を向けたが、アドリアンナは首を横に振った。


「いいえ、まさか!」


 初対面の男に好意を抱けるはずがない。聞いたフェルナンはまたもとの険しい顔に戻りながら言った。


「くそ、なんなんだ! 泣くなよ、俺が泣かせたみたいだろ! ほら、涙を拭け!」


 彼が言った途端、空中にハンカチが出現した。魔法に長けているらしく、家にあるものを移動させたのだろう。掴み涙を拭ったハンカチからは据えた埃の匂いがした。

 はあ、とフェルナンは盛大にため息を吐いた。


「そんなに帰りたくないなら、しばらくはここにいてもいいぞ。訳ありのようだしな」


 アドリアンナは顔を上げる。思わぬ提案に安堵を覚えた。だが彼の表情は優れない。


「だが決まりがある。俺の側に近づくな。俺が君を妻としたと万が一にでもオフィーリアに思われないように、指一本触れるなよ! それを守るなら好きにしていい。そのうちオフィーリアに話をつけに行くから」


「え……!」


 正直言って、願ってもない提案だった。妻としての役目を果たさなくてもよく、父の目もない。そうしてまさにアドリアンナが望むこの環境に、短い間だけとはいえ身を置くことができるなんて。そう、この環境。これこそまさに、自分が求めていたものではないのか。

 そう思った時、アドリアンナは顔を輝かせた。


「そ、そしたらわたし、ここで研究してもいいですか……?」


「研究? なんのだ」


 不審そうに目を細めるフェルナンに対し、アドリアンナは瞬間、逡巡した。言ったら引かれてしまうだろうか。父のようにわたしを嫌うかもしれない。

 けれど言わずに研究をするなど不誠実だ。もし否定されたら諦めよう。そう思い、結局は言った。


「――――……瘴気のです」


 それはアドリアンナが周囲に疎まれながらも続けていた研究だった。

 使用人のように生家に仕えながらも時間を捻出し、寝る間も惜しみ本を読み事例を漁り、論文と共に王立研究所へと手紙を送り、遂にそこの職員から話を聞きたいと返答をもらった。

 だが瘴気の研究は穢れだと言い、父がその面会を認めてくれることは遂になかった。確かに一般には理解されない部類のものだが、アドリアンナには強烈な動機があった。


(言ってしまったわ。公爵様はどう思われるかしら)

 

 アドリアンナはフェルナンの反応を待ったが、意外にも申し出を認めるものだった。


「…………………………………まあ、好きにすればいい。どの道、短い間だけだしな」


 長い間の末、フェルナンはそう言った。悪趣味な研究に顔を引き攣らせたようではあったが、勝手にしろといった手前、それ以上のことは言えないようだった。

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