それはまさしく魔法みたいに
翌朝、アドリアンナが支度を済ませ部屋の外に出ると、城の中が心做しか明るくなっていることに気がついた。
くすんでいた窓も磨かれ朝日が見え、そこかしこにあった蜘蛛の巣も埃も綺麗さっぱり無くなっていた。
「掃除しておいたぞ」
「きゃあ!」
背後から突然かけられた声に驚き悲鳴を上げながら振り返った。声の主なんて一人しかいない。
――服は着ている。良かった。アドリアンナはまずそこを確認してしまう。
フェルナンは廊下の離れた場所に立っていて、不敵な笑みを浮かべていた。
「どうやって……?」
数日かけて掃除をするつもりでいたが、彼はそれを朝の少しの時間で終わらせてしまったらしい。
「俺は魔法が使えるんだ。やる気さえあればこんなの簡単さ」
得意げに見えるのは気の所為ではないだろう。珍しく善行をした子供が褒めて欲しくて親に報告する姿のようだ。
「貴族令嬢ともあろう君がせこせこと掃除をして回っていると、まるで俺がさせているみたいで気になって気分がささくれ立つからな。まあ、確かに城が汚かったのは認めよう。掃除をした今、わずかながら過ごしやすくなったこともな」
フェルナンはそわそわした様子で落ち着き無く言った。
「ところで今日も作るのか? 料理だよ」
突然の話題の転換に置いてけぼりをくらいかけながらも、おずおずとアドリアンナは言った。
「お嫌いでなければ……」
その言葉にフェルナンはぱっと顔を輝かせる。
「そうか! では昨日のように部屋の前に置いておいてくれたまえ。俺はそれを食べるから」
それだけ言うと彼は廊下の奥に姿を消した。どうやら料理のことを伝えたかったらしい。アドリアンナは拍子抜けした。
昨日立ち行った食材庫は、中々に酷い有様だった。卵は腐っているものがいくつもあったし、しなびた野菜と、かじりかけのパンとやはりかじりかけの肉があっただけだ。フンや羽が落ちていることを見るに、きっと食料として生きた鶏も届けられたこともあったのだろうが、どうやら逃げたらしい。
衛生状況とフェルナンの食生活が心配になっていたが、人の手によって作られた食事は彼の心と胃袋を掴んだようだ。
警戒していた犬が、餌をあげたらころりと懐いたような気分だ。そんな経験はなかったが。
実験場に行く前に試してみたいことがあったため、アドリアンナは中庭に出た。庭を見渡してみると、かすかに畑の形跡が残っている。レンガで几帳面に区切られた畑の跡を見て、アドリアンナは前の住人にますます好感を抱いた。
以前の畑よりも小さな区画をレンガで囲み、地下で見つけたクワを振り上げ、力任せに振り下ろす。鉄のクワは地面に突き刺さり、土をわずかにえぐり取った。
(え、嘘。これだけ……?)
想定よりも遥かに小規模に耕せただけだ。それも地面の浅い部分を少しだけ。
(これじゃあ日が暮れてしまうわ)
アドリアンナは手を止め腕を組み耕した場所を見下ろして、もっと効率的にできないものだろうかと考えた。だが結局は手を動かすしかないという結論に至った。
(子供の頃見た領民達は畑を耕す時、もっと腰を落として膝を使っていたわ。それに結構早さを付けていたはずよ。要は振り子と同じだわ)
そう思い、振り上げては振り下ろす。速さを付けてクワを使うと最初の頃よりは上手く土を耕せる。案外様になってきているような気がした。
アドリアンナがそうやってクワと格闘していた時だ。ふいに頭上から大声が振ってきた。
「おい! なんだ? 君、今度は何をしている!?」
見上げると眉根を寄せたフェルナンが二階の窓から顔を出していた。
父の大声はひどく苦手だったが、フェルナンの声は不思議と恐ろしいとは今は感じない。それが彼の人柄によるものであるということは、アドリアンナにも分かっていた。
「えっと、畑を――」
と言いかけて気がついた。
はっきりしない奴は好きじゃないと、彼は昨日言っていた。これ以上彼の気分を悪くさせてはならないと、アドリアンナは精一杯声を張り上げた。
「畑を作ろうと思いまして! 食材庫に種をいくつか見つけたんです!」
フェルナンはわかりやすく閉口した。
貴族令嬢が畑など――ときっと思ったことだろうが、アドリアンナの奇妙な行動自体には、もう諦めたのか物申すことはなかった。代わりに彼が口にしたのは至極真っ当な質問だった。
「だが育つ頃には君はいないだろう?」
アドリアンナは声を張り上げた。
「ひと月の間でも芽が出て成長すると思うんです! もし葉物だったら、食べることができると思いますわ! ここで暮らす間の楽しみを持ちたくて!」
腹の底から声を絞り出しそう叫んだ。大きな声を出すなんて何年ぶりだろうと思うが、やってみると気分は案外悪くない。
瘴気の霧が周囲を包み、陽の光は少ないが、全く光が当たらないというわけではない。森でも植物は生えていたし、きっと芽は出るだろうと考えた。
以前の城の持ち主も、ここで畑を作っていた。耕した形跡があるし、食材庫に種があったことを見るに作物は育つということだろう。
短期間で二人分の食材が賄えるとは思わないが、日々の慰めが欲しかった。種が芽吹く姿を想像するのは気分が明るくなる。
母も植物が好きだった。領地を回って領民達の畑を一緒に手伝ったこともある。畑を耕しているとその思い出をが蘇り、心が温まった。
そうか、とフェルナンが頷いて窓の奥に姿を消したのを見て、アドリアンナも作業を再開させる。だがそう時間が経たないうちに、再び彼の声がした。
「くそ、まどろっこしいな。ちょっと脇にどいてろよ!」
彼がそう言った時には既にアドリアンナの体はふわりと宙に浮き、見る間に畑が形を成してく。まるで見えない農民が大量に作業しているかのように。
土が見事に柔らかくなったところで、アドリアンナの体はゆっくりと地面に降ろされる。間違いなくフェルナンの魔法だった。
「あ、あり、ありがとうございます!!」
二階を見上げ、窓から顔を出すフェルナンにそう叫ぶと、はは、と彼は笑った。
――屈託のない笑みで。心底おかしそうに。
あまりにも美しい笑みだったため、アドリアンナはしばらくの間見つめてしまう。ああ本当に、天使のようだ。
彼はまだ笑っていて、微笑みとともに言った。
「そこまで声を張り上げなくてもちゃんと聞こえてるよ。君は本当に変わってるな」
種を撒き土を被せ、水を遣ったところで、実験場に行くことにした。まだ昼前で、空は明るい。日が暮れる前に戻ってきて、ついでに薪を集めよう。本格的にオーブンが動くようになったら、もっときちんとした料理を作ることができる。
生家で時折料理をすることもあったが、当たり前のように無反応か父か養母の機嫌が悪ければ投げつけられた。誰かが喜んでくれるのは、それだけで新鮮だった。
「君ィ! どこに行くんだ!」
城を出ようとしたところで、フェルナンの声が飛んできた。どうやら彼はアドリアンナの行動を逐一気にかけているらしい。
彼はやはり城の窓からこちらに身を乗り出すようにして見つめていた。
「森へ行ってきます! 昨日と同じ場所です。日暮れまでには戻りますわ」
「馬鹿なのか君は!」昨日飲み込んだであろう言葉を彼は今日は口にした。
「昨日狼に襲われたばかりじゃないか! 奴は君を見つけたら、今度こそ食い殺すぞ! あれはただの狼でなく、魔力を帯びた魔生物なんだぞ。普通よりも余程強くて賢い生き物だ」
アドリアンナは答えられずにいると、フェルナンは大きく舌打ちをした後に言った。
「俺も行くから、待ってなさい」




