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彫刻家の残骸

 ヴァレンからの呼び出しは、今度は昼間だった。


 通信端末に表示されたのは文字だけだった。声ではない。「来て」。それだけ。ライラは端末を見つめた。ヴァレンの呼び出しはいつも声だった。興奮した声、酔ったような声、泣きそうな声。文字だけの呼び出しは初めてだった。

 時刻は午後二時。非番だった。

 ライラは上着を掴んで家を出た。


          *


 ヴァレンのアトリエは、文化区画の端にあった。住居とは別に借りている部屋だ。かつてはここで石を彫っていた。ノミと槌と、石粉にまみれた手と、不規則な打撃音。ライラが訪ねると、いつもヴァレンは石粉で白くなった顔で笑った。「見て、今度の子はちょっと左に傾いてるの」。傾いた彫刻を直すのではなく、傾きを活かして新しい形を見出す。そういう人だった。

 最後にアトリエを訪ねたのは三年前だ。あの時すでに、石を彫る音は聞こえなくなっていた。


 アトリエのドアは開いていた。

 一歩踏み入れて、ライラは足を止めた。


 異様だった。

 部屋の中央に、何かの塊があった。石と、金属と、合成樹脂が混ざり合った——いや、混ざり合ったのではない。壊して、くっつけて、また壊して、またくっつけた跡だ。かつて彫刻だったものの破片。石の欠片、砕けた鳥の翼、人体の一部だったらしい曲線。それらがナノマシンの接合機能で無秩序に溶接されている。接合面は滑らかだが、組み合わせに意味がない。鳥の翼が人間の顎に繋がり、指が石の台座の中に埋まっている。

 塊は一つではなかった。部屋の至るところにあった。大小さまざまな残骸が壁際に積まれ、天井近くまで達しているものもある。床には石粉と合成樹脂の削りかすが薄く積もっていた。足を踏み入れると、靴底で砂利を踏むような感触がした。

 壁に傷があった。拳大の凹み。何度も殴った跡。ナノマシンが壁を修復しようとした形跡と、修復を上書きするように新しい凹みが重なっている。修復と破壊の地層。

 空気が重かった。閉め切った部屋に、石粉と汗と、説明のつかない何かの匂いが混じっていた。管理された都市の清潔な空気とは違う。ここだけが、外の世界から切り離されている。


 奥の壁際に、ヴァレンがいた。

 床に座り込んでいた。背中を壁につけ、両膝を抱えている。髪は乱れ、室内着の袖口が裂けていた。裸足だった。足の裏に石粉がこびりついている。

 ライラの足音に反応しなかった。

 近づいた。三メートル。二メートル。一メートル。

 ヴァレンが顔を上げた。目が合った。ヴァレンの目は充血していた。涙の跡はなかったが、泣いた後の腫れがまぶたに残っていた。


「ライラ」


 名前を呼ばれた。しかし声に力がなかった。ヴァレンの声はいつも鮮やかだ。高揚していても沈んでいても、声そのものに色がある。今の声は灰色だった。


「来てくれたの」

「来たわ。何があったの」


 ヴァレンは膝を抱えたまま、部屋の中央の塊を見た。


「あれね、全部作り直そうとしたの。昔の作品を解体して、新しい形にしようとした。でも新しい形が浮かばなくて、とりあえず壊して、壊したものを繋いで、繋いだものを見てもまだ違うから壊して……」


 声が消えた。数秒の沈黙。それから、ヴァレンは小さく笑った。


「何回やったと思う? 四十三回」

「四十三回」

「AIが記録してた。破壊と再接合のサイクル、四十三回。所要時間、連続八十二時間。途中でナノマシンが二回、栄養補給の点滴を打ってくれた。あと睡眠誘導も提案されたけど、断った。断れるのよ、こういうのは。身体に危険がないから」


 八十二時間。三日半。ライラは部屋をもう一度見渡した。天井近くまで積み上がった残骸。壁の凹み。床の石粉。これが三日半の記録だ。


「ヴァレン。なぜ呼んだの」


 ヴァレンはライラを見た。充血した目。しかしその奥に、ライラが知っている——かつて知っていた光があった。石を彫っていた時の、何かを見つけようとする目。ただし今その目が見つけようとしているのは、形ではなかった。


「見てほしかったの。誰かに。これを見て、何か言ってくれる人に」

「何を言えばいいの」

「何でもいい。でもAIみたいに言わないで。AIは——」


 ヴァレンが立ち上がった。ふらついた。三日半、ろくに眠っていない体だ。ナノマシンが栄養と水分を維持しているから倒れないだけで、神経は限界に近いはずだった。


「AIはね、さっき言ったの。『創作活動の再開ですね。活動再開は健全性指標の改善に寄与します。作品の完成度を向上させるために、いくつかの提案があります』って。提案。四十三回壊して繋いで壊した残骸を見て、創作活動の再開って分類したのよ。活動が増えればスコアが上がる。それだけの話。中身なんて見てない」


 ヴァレンの声に、ようやく色が戻った。怒りの色だった。


「作りたいものなんてないの。もう何年もない。十年前に枯れた。枯れる前に、AIがもう先に作ってくれるようになった。私が構想を練っている間に、AIが完璧な造形を出力する。私が手を動かす前に、完成品がある。じゃあ私は何をすればいいの?」


 ライラは答えなかった。


「壊すことよ。壊すことだけはAIに提案されない。AIは『創作支援』を提案するけど、『破壊支援』は提案しない。壊すことは最適化の対象外だから。だから壊す。壊している間だけ、AIの提案の外にいられる」


 ヴァレンは部屋の中央の塊に歩み寄った。表面に手を触れた。石と金属の継ぎ目を指先でなぞっている。


「でもね、壊すのにも飽きた。四十三回目で気づいた。壊すことにすら、もう何も感じない。痛覚パーティも同じよ。最初は感じた。身体が震えて、涙が出て、生きてるって思った。でも回を重ねるたびに薄くなっていく。刺激を上げても薄くなる。平衡感覚を消しても薄くなる。何をしても薄くなっていく」


 ヴァレンがライラに向き直った。


「だから——消そうと思うの」

「何を」

「記憶。全部じゃない。直近の数年分。こうなる前に戻りたいの。痛みが新鮮だった頃に。壊すことに意味があった頃に。リセットすれば、また感じられるかもしれないでしょう?」


 ライラの背筋が冷えた。

 記憶消去。ナノマシンインターフェースを介した選択的記憶削除。技術的には可能だ。特定の期間の記憶をピンポイントで除去し、脳の神経回路を再構成する。身体的なリスクはゼロとされている。ナノマシンが削除と再構成を同時に行うから、空白期間の違和感も最小限に抑えられる。

 合法だ。個人の自由意思に基づく選択として保護されている。AIは反対しない。身体に危険がないから。


「ヴァレン、それは——」

「反対しないで。もう四回やってるの」


 ライラは言葉を失った。


「四回?」

「最初は二年前。五年分消した。そしたら楽になった。新鮮な気持ちで、また壊し始められた。でも半年くらいでまた同じところに来るの。だからまた消す。次は三年分。そのまた次は四年分。先月も一回やった」


 ヴァレンは自分の頭を軽く叩いた。こんこん、と骨に響く音がした。


「もう何年分消えてるか、正確にはわからない。消した記憶の中に『前に消した記録』も含まれてるから。AIに聞けば教えてくれるけど、聞きたくない。数字を知ったら怖くなりそうだから」


 ライラの口が乾いていた。

 四回。少なくとも四回、ヴァレンは自分の記憶を切り取っている。切り取った部分に何があったか、本人はもう知らない。知っているのはAIだけだ。AIの記録の中にだけ、ヴァレンの失われた時間が存在している。

 本人の中に存在しない記憶は、記憶と呼べるのか。


「今回は——何年分消すつもりなの」

「わからない。たぶん十年分くらい。石を彫れていた頃まで戻りたい。あの頃の私なら、まだ——」


 ヴァレンが端末を取り出した。記憶消去のインターフェースが表示されている。いつでも実行できる状態だった。待っていたのだ。ライラを呼んで、見せて、それから実行するつもりだったのだ。


「待って」


 ライラが手を伸ばした。しかし触れる前に、ヴァレンは端末を操作した。

 一瞬だった。ライラが止める間もなかった。


「ヴァレン!」


 ヴァレンの目が——変わった。

 一秒。ヴァレンの手から力が抜け、端末が床に落ちた。乾いた音がした。二秒。瞳孔が収縮し、拡大し、また収縮した。呼気が止まった。三秒。こめかみの静脈が浮き、沈み、ナノマシンが脳の深部で何かを組み替えている微かな兆候だった。目の焦点が合わなくなった。ヴァレンの体が揺れた。ライラが肩を掴んだ。

 ヴァレンの膝が折れた。

 床に崩れ落ちた。ライラが支えたが、重い。意識はある。目は開いている。しかし目の奥に——


「ヴァレン。聞こえる?」


 ヴァレンがライラを見た。

 見た、という動作はあった。視線が合った。しかしそこに認識がなかった。ヴァレンの目がライラを捉えている。だが「ライラ」を見ていない。目の前の人間の顔を見ている。それが誰なのか、処理できていない。


「あなた……」


 ヴァレンの声が掠れた。


「誰? ここは……」


 ライラの手が震えた。

 ヴァレンの目を覗き込んだ。充血は消えていなかった。まぶたの腫れも残っていた。三日半の痕跡は身体に残っている。しかしその三日半を過ごした人格が——いない。


「ヴァレン。私よ。ライラ」

「ライラ……?」


 反復しただけだった。音を聞いて、音を返しただけだった。名前が意味を持っていない。ヴァレンの顔に浮かんでいるのは恐怖ではなかった。恐怖よりも根源的な——空白だった。「ここはどこか」も「自分は誰か」も、問いとして成立する前の段階。問いが形成できない空白。


 ヴァレンの手がライラの腕を掴んだ。反射的な動作だった。溺れる人間がものを掴む時の、意味のない把持。


「何が……起きてるの。頭の中が……空っぽで……」


 声が震えていた。この震えだけが本物だった。身体が恐怖を覚えている。脳が追いついていないだけで。


 ライラは自分の声が出ないことに気づいた。喉が詰まっている。審査官として——いや、友人として。何を言えばいい。「大丈夫」は嘘になる。「元に戻る」は根拠がない。何を——


「ヴァレン。大丈夫。ここにいるから」


 嘘を言った。大丈夫かどうかわからない。しかし他に言える言葉がなかった。


          *


 AIの医療介入が始まったのは、崩壊から十四秒後だった。


 ヴァレンの体内のナノマシンが異常を検知し、自動的に全身スキャンを開始した。結果は即座にライラの端末にも通知された。ライラは片手でヴァレンを支えながら、もう片方の手で通知を開いた。


 身体状態レポート。

 心拍:正常範囲。

 血圧:正常範囲。

 体温:正常範囲。

 脳神経活動:再構成中。推定完了時間72時間。

 骨格・筋肉・内臓:異常なし。

 栄養状態:軽度の消耗。補正済み。


 総合判定:全身機能正常。異常なし。


 ライラは画面を二度読んだ。


 異常なし。

 友人が自分の名前を忘れ、ここがどこかもわからなくなり、目の前の人間を認識できなくなっている。それが「異常なし」。


 怒りは、静かに来た。


 爆発ではなかった。ヴァレンのパーティのような激しさではなかった。審査室で指が止まった三秒間と同じ種類の——しかしもっと深い、もっと明確な何かだった。

 二十五年間、一度も感じなかったもの。審査基準に対する、明確な怒りだった。


 AIの判定は正しい。基準に照らせば正しい。身体機能に異常がない。ナノマシンが機能している。心拍がある。呼吸がある。代謝がある。苦痛指標はゼロ。全ての数値が「正常」を示している。

 しかしヴァレンはライラの腕を掴んだまま、自分が誰なのかわからずに震えている。


 基準が間違っているのか。自分がおかしいのか。


 ライラはAIに音声で問いかけた。


「記憶消去の結果、人格の連続性が損なわれた場合の分類は」


 AIの応答は即座だった。


「記憶消去は個体の自由意思に基づく選択です。結果として生じる認知の変化は、処置の正常な範囲内です。人格の連続性は身体的健全性の評価項目に含まれません」


「人格が失われても、身体が無事なら正常なの」


「身体的健全性の基準において、正常です」


「それ以外の基準は」


「管理目標における健全性の定義は、身体的健全性です」


 ライラの指が端末を握りしめていた。爪が掌に食い込む感触があった。痛覚フィルタが有効だから、鈍い圧迫感でしかない。しかし今、ライラはこの鈍さが憎かった。

 ヴァレンがフィルタを外したがる理由が、初めて——頭ではなく、体で理解できた。


「これが正常?」


 声が出た。自分でも予期しない声だった。審査官の声ではなかった。


「友人が自分の名前を忘れたのに? 私の顔を見て誰かわからないのに? これが——あなたの言う正常なの?」


 AIは沈黙しなかった。沈黙する設計ではないからだ。


「身体的損傷は確認されていません。精神的苦痛指標はゼロです。処置は対象の事前同意に基づいています。管理基準上、介入の要件を満たしません」


 正しかった。

 AIの応答は、一言一句、正しかった。基準に照らして正しく、論理に照らして正しく、二十五年間ライラが承認し続けてきた基準そのものに照らして正しかった。

 そしてその正しさが、ヴァレンを殺している。身体を生かしたまま、ヴァレンという人間を殺している。


 ヴァレンがライラの袖を引いた。弱い力だった。


「ねえ……私、何をしてたの? なんで……こんなところに……」


 部屋を見回している。自分が八十二時間かけて作った残骸を、初めて見るもののように見ている。石と金属の塊。壁の凹み。床の石粉。全てが他人の痕跡だった。自分がやったことを、自分が知らない。


「怖い。何も……思い出せない……」


 ヴァレンが泣いた。

 ライラはこの涙を知っていた。あの夜——最初のパーティの夜から、記憶の中のヴァレンの涙を幾度も見てきた。痛覚パーティの後の涙。痛みの涙。歓喜の涙。切実さの涙。

 今の涙は、そのどれとも違った。

 これは空白の涙だ。何が失われたのかさえわからないまま、失ったことだけを身体が感じている涙。


 ライラはヴァレンを抱きしめた。言葉ではなく、腕で。ヴァレンの体は細く、脆く、震えていた。かつてノミを振るった肩の硬さは残っていた。骨と筋肉はまだ彫刻家の体だった。しかしその体を使っていた人間が——十五年前に石の鳥を彫った、あのヴァレンが——何層にも消されて、もう輪郭を失っている。


 ヴァレンはライラの肩に顔を埋めた。泣き続けていた。ライラの名前は呼ばなかった。


          *


 一時間後。


 ヴァレンは眠っていた。ナノマシンの睡眠誘導を受け入れたのか、消耗で力尽きたのか。ライラはアトリエの床に座ったまま、ヴァレンの頭を膝に載せていた。

 呼吸は穏やかだった。顔は静かだった。泣き疲れた顔に、苦痛の痕跡はない。AIが睡眠中の神経活動を安定させているのだろう。


 異常なし。


 ライラは天井を見上げた。高い天井に、かつて作品を吊るしていたフックの跡が残っていた。何も吊るされていない金属のフック。空中で意味を失っている。


 端末を開いた。審査官としての権限で、ヴァレンの記憶消去履歴にアクセスした。


 第1回:二年前。対象期間五年。理由:自発的申請。結果:正常完了。

 第2回:一年半前。対象期間三年。理由:自発的申請。結果:正常完了。

 第3回:十ヶ月前。対象期間四年。理由:自発的申請。結果:正常完了。

 第4回:一ヶ月前。対象期間六年。理由:自発的申請。結果:正常完了。

 第5回:本日。対象期間二十年。理由:自発的申請。結果:処理中。脳神経再構成中。


 五回。ライラは数字を見つめた。対象期間が回を追うごとに長くなっている。五年、三年、四年、六年、二十年。合計で三十八年分の記憶が消去されている。ヴァレンの年齢は四十代半ば。人生のほとんどが消えている。

 全て「正常完了」。

 全て「自発的申請」。

 全て、AIの管理基準を満たしている。


 ライラは履歴を閉じた。


 この記録を審査案件として提出すれば、結論は決まっている。不適合事由なし。対象の自由意思に基づく選択であり、身体的損傷はなく、全ての手続きが基準を満たしている。

 二十五年間、ライラが承認し続けてきた論理だ。知覚しなかったから問題ない。同意があるから問題ない。身体が無事だから問題ない。

 ヴァレンの場合も同じだ。同意があった。身体は無事だ。苦痛はない。したがって問題はない。


 問題はない。


 ライラは自分の手を見た。膝の上のヴァレンの髪を撫でている手。審査官の手。承認のために動く手。

 この手で不適合を書けるか。書けない。基準に照らして書く根拠がない。根拠がないのに不適合を出せば、それは審査ではなく感情だ。感情で審査するのは——

 感情で審査するな、と若い頃の自分が言っている。二十八歳の自分。感情モデルは不要だと論文を書いた自分。感情はノイズだと結論した自分。


 膝の上でヴァレンが小さく身じろぎした。眠ったまま、右手が宙を掴んだ。何もない空間を握る動作。セドリックの手と同じだ。手だけが、脳が忘れたことを覚えている。ヴァレンの手が握ろうとしているのは——ノミだろうか。石を削るためのノミ。もう何年も握っていないノミの形を、手が。


 ライラは目を閉じた。

 怒りは消えていなかった。消えてはいなかったが、形を変えていた。AIに対する怒りではない。AIは設計通りに動いているだけだ。基準に対する怒りでもない。基準を作ったのは人間だ。

 では何に対する怒りか。


 自分に対する怒りだった。


 二十五年間、この基準を承認し続けた自分。ヴァレンが崩壊する過程を、毎月の呼び出しで目撃しながら、「介入基準未達」と分類し続けた自分。友人の体が無事であることを確認して安堵する自分。身体が無事なら正常だという判断を、一度も疑わなかった自分。


 審査室で指が止まった三秒間。あの三秒は、ここに繋がっていたのだ。知覚しない介入と、自発的な消去。構造が同じだ。どちらも、管理基準では「問題なし」と分類される。

 問題なしの積み重ねが、友人を壊した。


 ライラは目を開けた。

 ヴァレンは眠っている。穏やかに。苦痛指標ゼロで。


 AIの音声が、低い通知音とともに流れた。


「被験者V-4471の脳神経再構成が進行中です。推定完了時間は六十一時間後です。再構成完了後、新たな行動提案を生成します」


 新たな行動提案。記憶を失ったヴァレンに、AIが新しい日常を設計する。何を食べ、何を着て、どこを歩き、何をして過ごすか。ヴァレンは新しい提案に従うだろう。自分が何を失ったか知らないまま、AIが差し出す最適解の中で穏やかに暮らすだろう。

 壊れた人間を、壊れたまま最適化する。


「……やめて」


 小さな声だった。AIに向けた声なのか、自分に向けた声なのか、ライラにはわからなかった。


          *


 アトリエを出たのは、日が傾いてからだった。


 ヴァレンの住居管理AIに看護プロトコルの起動を依頼した。身体の監視と栄養管理。それ以上のことは、ライラの権限ではできなかった。精神的なケアを要請する手段はある。しかし精神的なケアとは何か。AIが提供する心理サポートは、「苦痛の軽減」を目標に設計されている。苦痛がないと判定されたヴァレンに、サポートは適用されない。


 帰り道を歩いた。AIが提案した最短ルートの通知を閉じた。自分の足で、自分の速度で歩いた。

 夕暮れの都市は完璧に美しかった。西日がビルの外壁に反射し、街路樹の影が均等に伸びている。空気は清浄で、気温は快適で、すれ違う人々は穏やかな表情をしている。誰も泣いていない。誰も怒っていない。誰も、自分の名前を忘れていない。

 この完璧さの中で、ヴァレンは壊れた。正常の果てに、友人は自分の名前を失った。


 自宅が見えた。玄関の照明がライラの接近を検知して、柔らかく点灯した。

 セドリックがいるはずだ。穏やかに映像を見ているか、AIが選んだ本を読んでいるか、あるいはもう眠っているか。


 ライラは玄関の前で立ち止まった。


 セドリック。

 夫は毎日、穏やかに暮らしている。AIの提案に従い、何も選ばず、何も考えず。植物図鑑の三十七ページ目から先は空白のままで、手だけが夜中にルーペを握る。

 セドリックとヴァレンの違いは何だ。ヴァレンは壊れ方が派手だっただけだ。セドリックは静かに壊れている。しかしどちらもAIの管理基準では「正常」だ。


 ライラは玄関に手をかざした。生体認証で解錠される。ドアが開く。室温二十二度。湿度四十五パーセント。


「おかえり」


 セドリックの声がリビングから聞こえた。穏やかな声。


「……ただいま」


 自分の声が震えていた。気づかれただろうか。セドリックは気づかないだろう。気づいたとしても、「何かあった?」と聞いて、「何でもない」と答えれば、それで完結する。いつものように。


 リビングに入った。セドリックがソファに座っていた。振り向いて微笑んだ。穏やかな顔。優しい目。何も映していない目。


「遅かったね」

「ヴァレンのところに行ってた」

「そう。ヴァレンは元気だった?」


 元気。その問いかけの中に、ヴァレンという人間の解像度がどれほど低いかが表れていた。セドリックにとってヴァレンは「ライラの友人」以上の情報を持たない名前だ。


「ええ。元気だったわ」


 嘘を言った。今日二度目の嘘だった。一度目はヴァレンに「大丈夫」と言った時。二度目はセドリックに「元気だった」と言った時。


 棚の上の石の鳥が目に入った。ヴァレンの作品。欠けた翼。ノミが滑った跡。

 あの鳥を作ったヴァレンは、もういない。今日、二十年分が消えた。石の鳥を作ったのは十七年前。その記憶は——もう、ヴァレンの中にない。


 ライラは石の鳥を棚から取った。掌に載せた。冷たい石の感触。欠けた翼のざらつき。

 この鳥を知っているのは、もうライラだけだ。作った本人が忘れてしまった作品。作者の記憶の中にではなく、友人の掌の中にだけ存在する芸術。


 指が震えた。

 鳥を落としそうになって、両手で包んだ。


「ライラ?」


 セドリックの声が聞こえた。何かに気づいたのだろうか。


「何でもない」


 三度目の嘘。


 石の鳥を棚に戻した。

 明日、審査室に行く。案件を開き、読み、承認する。いつものように。

 しかし今日という日を経た後で、「いつものように」がこれまでと同じ意味を持つのかどうか——ライラにはわからなかった。


 ヴァレンの充血した目。「あなた……誰?」という声。空白の涙。

 AIの通知。「全身機能正常。異常なし」。


 この二つの間にある距離を、審査基準は測定できない。

 しかしライラは、今日初めて、その距離を正確に感じた。


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