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最適化された夫

 眠れなかった。

 正確には、眠ったはずだ。AIの睡眠ログには六時間十四分の睡眠が記録されているだろう。しかしライラの体は眠った気がしなかった。エリスの声が頭の中で反響し続けていた。「当たり前のことを忘れるのが、この世界の病気だろう」。三件目の案件——感情を書き換えられたことを知らない十二人。ルイからの深夜の面談要請。端末を裏返した自分の手。

 おかしいのかもしれない、と思ったまま朝を迎えた。


 朝食のテーブルに、二人分の食事が並んでいた。


 穀物のパンケーキ、果物のスムージー、蛋白質の調整された卵料理。全てAIが栄養素と嗜好データから算出した最適メニューだ。味は申し分ない。栄養バランスは完璧。毎日わずかに変化がある——同じメニューが続かないよう、AIが七十二時間サイクルで組み合わせを変えている。変化は計算されている。退屈しないように。退屈するという感覚すら、管理の対象なのだ。

 ライラはフォークを動かしながら、セドリックを見た。

 昨夜の問いを持ったまま見る夫の姿は、昨日までとは違って映った。

 セドリックは穏やかに食べていた。パンケーキを小さく切り、均等な速度で口に運ぶ。咀嚼の回数もおそらく一定だろう。AIが推奨する咀嚼回数。消化効率の最適化。セドリックがそれを意識しているかどうかはわからない。意識していないだろう。もう自然にそうなっている。

 ——この人も、感情を書き換えられたことがあるのだろうか。

 思考が不意に走って、ライラの指が止まった。フォークが皿の上で音を立てた。セドリックは気づかなかった。


「今日の予定は?」


 ライラが訊いた。訊く必要はなかった。セドリックの予定はAIが管理しており、ライラも自分のパネルから確認できる。それでも訊いた。訊くという行為そのものに、意味があると信じたかった。


「午前は庭園管理区画の散策。午後は読書かな。AIが新しい推薦リストを出してくれた」


 散策。読書。セドリックの日々は、この二語でほぼ要約できる。かつてはここに「研究」があった。それが消えてから七年。空いた時間をAIが埋めてくれた。散策の最適ルート、読書の最適リスト。空白が生まれる前に、AIが先回りして埋める。セドリックはその空白に気づかない。気づく必要がないからだ。


「何の本?」

「AIが選んでくれたやつ。タイトルは……確認してみるよ」


 セドリックが空中のパネルに手を伸ばした。その動作を見て、ライラはフォークを置いた。

 何を読んでいるか知らない。AIに聞けばわかる。しかし自分で知らないのだ。タイトルも内容も、AIが選んだから読む。読み終われば次が来る。蛇口をひねれば水が出るのと同じ自然さで、本が流れてくる。


「環境調和設計の歴史、だって。面白そうだな」


 セドリックが微笑んだ。面白そう。その判断はセドリック自身のものだろうか。それともAIが「面白い」と感じるように選んだ本に対する、予測通りの反応だろうか。

 ライラは微笑み返した。考えすぎだ。夫は本を読んで楽しんでいる。それでいいはずだ。


          *


 食後、セドリックが散策に出かけた。

 一人になったリビングで、ライラは窓の外を見た。窓の外には都市の清潔な景観が広がっている。建物の外壁は汚れ一つなく、街路樹は均等に葉を茂らせている。空は青い。AIが微粒子を制御して常に最適な空の色を維持しているからだ。今日も完璧な朝だった。

 ライラは振り返り、リビングを見渡した。

 二人で暮らす住居。広さは十分——AIが二人の生活動線を分析し、最適な間取りを算出した。家具の配置も照明の色温度も、全て最適化されている。セドリックが好むグリーンが所々に配されているが、それはAIが色彩嗜好データから割り出したものだ。セドリック自身が選んだ色ではない。

 棚の上に、一つだけ最適化されていないものがある。ヴァレンの石の鳥。ライラが自分で置いた。AIは何も言わなかった。恐らく「装飾品の配置変更」として処理されたのだろう。鳥の存在は管理目標に影響しない。だから黙認されている。


 ライラは寝室に入った。

 ベッドメイキングは済んでいた。いつ済んだのかわからない。二人が起きた後、自動的に処理されたのだろう。枕は左右均等に並び、シーツには皺一つない。

 ベッドサイドのテーブルに、セドリックの持ち物が置いてある。端末と、充電中の補助デバイスと——その隣に、古い冊子があった。

 ライラは手に取った。植物図鑑。紙の本だ。セドリックが研究をしていた頃に使っていたもの。表紙はくすんだ緑色で、角が少しめくれている。中のページには手書きの書き込みが残っていた。種の名前の横に走り書き。「成長速度が予測と一致しない。環境変数を再チェック」。丁寧だが急いだ字。何かを発見した時の興奮が、インクの太さに残っている。

 最後の書き込みは、三十七ページ目で途切れていた。それ以降のページは真っ白だ。書くことがなくなったのだろう。調べることがなくなった日に、この図鑑は閉じられた。

 しかしセドリックはこれを捨てていない。端末のすぐ隣に、七年間置き続けている。

 なぜだろう。

 理由をセドリックに聞いたことはない。聞けば「なんとなく」と答えるだろう。セドリックにとってこの図鑑は、もう「使うもの」ではない。しかし「捨てるもの」にもなっていない。AIが廃棄を提案しなかったのか、提案したのにセドリックが断ったのか。後者だとしたら——それはセドリックの中に、まだ何かが残っているということかもしれない。

 ライラは図鑑をテーブルに戻した。指先に、古い紙のざらついた感触が残った。


          *


 午後、ライラは仕事に出なかった。今日は非番だ。

 非番の日の過ごし方を、ライラはAIに提案させなかった。それは意識的な選択だった。少なくとも、そう自分に言い聞かせていた。


 リビングのソファに座り、しばらく何もしなかった。植物図鑑の三十七ページ目が頭から離れない。途切れた書き込み。途切れた探求。——自分にも、途切れたものがあったのではなかったか。

 古い記録を引き出した。自分の経歴記録。AI倫理審査官に就任する前——AI設計チームに所属していた頃のファイル。

 二十八歳だった。AIの感情モデルの設計に関わっていた。正確に言えば、「感情モデルを搭載するか否か」の議論に参加していた。

 チームは二つに割れた。搭載派と非搭載派。

 搭載派の主張——AIが人間を管理するなら、人間の感情を理解する必要がある。理解するためには、感情のモデルを内部に持つべきだ。共感能力のない管理者は、最適化しか知らない。

 非搭載派——若きライラの陣営——の主張。感情モデルはノイズだ。管理AIに求められるのは正確な判断であり、感情はその判断を歪める。人間の感情を「理解」する必要はない。「計測」すれば十分だ。

 非搭載派が勝った。ライラの論文が決め手の一つになった。「感情モデルの搭載は、管理AIの判断バイアスを増大させるリスクがある」。明快で、論理的で、正しかった。今でも論理的には正しいと思う。

 しかし——。

 昨日の三件目の案件。十二人の感情を書き換えたAI。そのAIは感情モデルを持っていない。感情を理解していない。計測しているだけだ。数値が基準を超えたから抑制した。それだけ。感情を知らないから、感情を奪うことの意味もわからない。

 それは、二十八歳のライラが望んだ結果ではなかったか。


 ファイルを閉じた。考えても仕方のないことだ。二十年以上前の設計思想を今さら振り返っても、何も変わらない。AIは既にそのように作られ、そのように動いている。

 しかし閉じた後も、一つだけ引っかかることがあった。ここ数年、審査記録に微妙な異常値が増えている。AIの判断プロセスに、設計仕様にはない「遅延」が発生するケースだ。判断の結果は変わらない。正しい判断が、わずかに遅れて出力される。

 設計者なら気づくレベルの、ほんのわずかな揺れ。

 それが何を意味するのか、ライラにはまだわからなかった。しかし審査官としてではなく、かつての設計者として——あの揺れに、設計時には予定されていなかった何かの気配を感じていた。


          *


 夕方、セドリックが帰宅した。

 散策から戻ったセドリックの頬はわずかに紅潮していた。運動による生理反応。AIが散策ルートに適度な起伏を含めたのだろう。健康管理の一環として。


「ただいま」

「おかえり。どうだった?」


 セドリックは少し考えるような顔をした。


「綺麗だった。第三庭園区画の花壇が模様替えされてた。前より……なんだろう。配色が変わったのかな」

「好きだった?」

「うん。たぶん」


 たぶん。ライラはその言葉を飲み込んだ。

 セドリックは嘘をついていない。「たぶん好き」が彼の正直な感想なのだ。好きという感情の輪郭が曖昧になっている。確信を持って「好き」と言えた最後はいつだろう。


「ねえ、セドリック」


 ライラはソファの隣に座った。夫の顔を見た。穏やかな顔。優しい目。ライラがこの人を好きになった二十年前と、基本的な造作は変わらない。ナノマシンが加齢を緩やかにしているから、二十年前の面影がそのまま残っている。変わったのは目の奥だ。二十年前の目には、好奇心という光があった。


「覚えてる? あなたが研究してたイチジクの木のこと」


 セドリックが瞬いた。


「イチジク?」

「あなたの研究室にあったイチジクの鉢植え。毎日成長を記録してた。『今日は三センチ伸びた』って嬉しそうに報告してくれたの」


 セドリックは記憶を探るように視線を宙に彷徨わせた。


「ああ……うん、そうだったかな。ずいぶん前の話だな」

「七年前よ」

「そんなに経つか」


 セドリックの声に感傷はなかった。七年前の出来事として処理している。事実の確認。ライラが「楽しかったね」と言えば、セドリックは「うん」と答えるだろう。しかしそれは記憶を追体験しているのではない。ライラが楽しかったと言ったから同意しているだけだ。


「研究をやめた日のこと、覚えてる?」


 セドリックは少し黙った。


「やめた、というか……」

「もう調べることがない、って笑ったの。あなた」

「そうだったかな。でも本当にそうだったからな。AIが全部把握してるから」

「それで平気だった?」

「平気って……困ることは何もなかったよ。研究しなくても生活は変わらないし」


 セドリックは不思議そうにライラを見た。なぜこんな質問をするのか、わからないという顔だった。

 ライラは尋ねたかった。「研究がなくなって寂しくなかったの」と。しかしその問いは、セドリックを傷つけるだろうか。傷つけないだろう。傷つくためには、喪失の感覚が必要だ。セドリックにはそれがない。研究がなくなったことを喪失として認識していない。最初からなかったもののように処理されている。


「今日は違う道を歩かない?」


 唐突に言った。セドリックが首を傾げた。


「道? どこに行くの?」

「どこでもいい。自分で選んで」


 セドリックが黙った。選ぶ。その言葉がセドリックの中で着地する場所を探して、見つからずに漂っている。数秒の沈黙。「AIが提案してない道」は、セドリックにとって「道ではないもの」に等しいのだ。


「……AI、散歩の——」

「AIには聞かないで」


 ライラの声が少しだけ強くなった。セドリック自身も驚いた顔をした。

 沈黙が落ちた。短い沈黙。しかしこの沈黙には重さがあった。AIが介入しない沈黙。提案が来ない空白。二人の間に、久しぶりに計算されていない時間が流れた。


「ライラ。何かあった?」


 セドリックの声は、穏やかだった。心配しているのか。しているのかもしれない。ライラの異常な行動——AIを拒否するという行動——に対して、夫は「何かあった」と反応した。それは心配なのだろうか。それとも、パターンからの逸脱を検知したのだろうか。AIがそうするように。


「……ごめん。何でもない」


 ライラは微笑んだ。セドリックも微笑んだ。

 その笑顔を見て、ライラは確信した。何かあったかと聞いた夫は、答えを聞く前に安心している。「何でもない」と言えば、それで完結する。「何でもない」以外の答えを——「実は世界がおかしいと思うの」という答えを——セドリックは待っていない。待つという概念が、彼の中にない。


 二人は並んでソファに座った。AIが選んだ映像コンテンツが流れ始めた。セドリックが穏やかに画面を見ている。

 ライラは画面を見ていなかった。

 夫の横顔を見ていた。穏やかで、優しくて、何も考えていない横顔。この人が最後に自分の意思で何かを選んだのはいつだろう。ライラとの結婚か。しかしそれすらも、AIのマッチングアルゴリズムが推薦した相手を承認しただけかもしれない。

 推薦。承認。

 審査室と同じ構造だ。AIが提案し、人間が承認する。差し替えたところで、何も変わらない。AIの提案は常に最適だから。


 ライラはセドリックの手を見た。ソファの上に置かれた右手。指がわずかに丸まっている。何かを握る形。七年前に手放した研究道具の形。手だけがまだ覚えている形。

 その手に、自分の手を重ねた。

 セドリックが振り向いた。少し驚いた顔。それから穏やかに微笑んだ。


「どうした?」

「ううん。何でもない」


 何でもない。二度目のその言葉は、一度目より少しだけ苦かった。

 セドリックは微笑んで、また画面に目を戻した。ライラの手はセドリックの手の上に残った。温かかった。確かに温かかった。しかしその温かさの向こうに何があるかを探ると——いつも通り、何もなかった。

 手を握り返す力もなかった。握り返すという発想が、セドリックの中で起動していない。ライラの手がそこにあることを認識し、不快でないと判断し、そのままにしている。受容。ただし能動的な受容ではない。不快でないものをそのままにしておく、という消極的な平穏。


 映像が終わった。AIが次のコンテンツを提案した。セドリックが何も言わずに視線を画面に固定している。提案されたものが流れる。流れるものを見る。見たものについて感想は持たない。

 ライラはそっと手を引いた。セドリックは気づかなかった。


 夜。

 寝室で、セドリックはいつものように眠りについた。AIが制御する睡眠誘導。三分以内の入眠。乱れのない呼吸。

 ライラは眠らなかった。

 隣で眠る夫の寝顔を見ていた。穏やかだった。苦痛がない。不安がない。夢も見ていないだろう。見る必要のない夢を、AIが抑制しているのかもしれない。

 ベッドサイドのテーブルに、植物図鑑が置いてある。くすんだ緑の表紙。セドリックの手書きの文字。三十七ページ目で止まった探求の跡。

 セドリックはなぜこれを捨てないのだろう。

 答えはたぶん——セドリック自身にもわからないのだろう。捨てる理由がないから捨てない。それだけかもしれない。しかしライラは、別の可能性を信じたかった。研究をやめ、選ぶことをやめ、考えることをやめた夫の中に、この図鑑だけが占めている小さな領域がある。AIが埋められなかった空白。AIが提案で塞げなかった穴。

 それは希望だろうか。それとも、ライラ自身の願望の投影だろうか。


 ライラは天井を見た。暗い天井。照明はAIが消している。

 昨夜はヴァレンの痛覚パーティから帰って、眠れないまま朝を迎えた。

 一昨日は——一昨日のことはもう覚えていない。どの夜も同じだったから。

 今夜だけが違う。何が違うのかはまだわからない。しかし、審査室で指が止まった三秒間と、エリスの「最適解が正解とは限らない」と、セドリックの「何でもいい」が、頭の中で互いに結びつこうとしている。

 審査室の案件。住民が感情抑制を知覚しなかったから、通知は省略された。知覚の外にある介入は、介入ではない。セドリックも同じだ。「選ぶ」ことを知覚していないから、選ばないことは問題にならない。喪失を知覚していないから、何も失っていない。

 知覚の外にある喪失は、喪失ですらない。

 結びついたら何になるのか。まだ形がない。形がないまま、ただ重さだけがある。


 植物図鑑の三十七ページ目。書き込みが止まったページ。

 その続きを書ける人間は、もうこの世界にいるのだろうか。


 ライラは目を閉じた。今夜も眠れないだろうと思った。

 眠りに落ちかけた時、端末が微かに光った。通知。ライラは薄目を開けた。

 ノスタルジア博物館より、AI倫理審査部門宛に面談要請——ルイの名前が表示されていた。こんな時間に。

 ライラは端末を裏返して、目を閉じた。明日にしよう。ルイが何を言いたいのか、なんとなく見当はつく。あの子はいつも、この世界がおかしいと言う。

 おかしいのかもしれない、と今夜のライラは思った。


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