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死ねない世界の審査官は、人が壊れる理由を知らない ──ノスタルジア・クロック  作者: 蒼月よる


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不完全な朝

 暗い部屋で目を覚ました。


 最初に気づいたのは、静けさだった。AIの起床通知がない。照明が自動点灯しない。室温表示がない。端末の画面が消えている。

 電力がなかった。

 ライラは数秒、目を閉じたまま動かなかった。起きていることを確認した。エリスの計画は実行された。AIは阻止しなかった。世界は——変わった。

 目を開けた。暗闇だった。完全な暗闇ではない。カーテンの隙間から、微かな灰色の光が漏れている。夜明けが近い。AIが制御していない夜明け。


 ライラはベッドの上で体を起こした。暗闇の中で、自分の呼吸の音が聞こえた。自分の呼吸。AIに管理されていない呼吸。少し速い。少し浅い。緊張している。体が知っている。世界が変わったことを、体が知っている。

 それから——隣で、別の呼吸が聞こえた。乱れた呼吸。


「ライラ……」


 セドリックの声だった。暗闇の中で、震えていた。

 セドリックの声を聞いた瞬間、ライラの胸に痛みが走った。この人を——この声を——知っていた。「思う、って?」と空白の声で言ったセドリック。「リンゴのタルト」と手の記憶で言ったセドリック。そのセドリックが今——震えている。怖がっている。


「何が起きたんだ」


 何が起きたんだ。ライラはその言葉を聞いた。「思う、って?」と言ったセドリックが、「何が起きたんだ」と問うている。問いを発している。自分の言葉で。恐怖の中から。

 ライラは手を伸ばした。暗闇の中で、セドリックの手を探した。指先が触れた。セドリックの手は冷たかった。震えていた。

 握った。


「大丈夫」


 大丈夫かどうかはわからない。しかしこの言葉が、今のセドリックに必要だった。嘘ではない。正確でもない。しかし必要な言葉だった。


「AIが……聞こえない。何も聞こえない。端末が——」


「知ってる」


「知ってるって——ライラ、何が——」


「説明する。全部、説明する。でもまず——ここにいて。動かないで」


 ライラはベッドを降りた。暗闇の中を手探りで歩いた。足の裏に床の冷たさが伝わった。いつもは温度調整されている床。今は制御されていない。ただの床だ。冷たい床。

 窓に辿り着いた。カーテンを開けた。


 夜明けの光が入ってきた。

 薄い灰色の光。AIが制御していない空。雲が不均一に流れている。管理されていない雲。予測されていない形。


 都市が見えた。しかし昨日までの都市とは違っていた。ビルの外壁は暗かった。街路灯が消えていた。等間隔に並ぶはずの光の配列が、全て消灯している。代わりに——


 遠くで何かが崩れる音がした。建造物ではない。何かが落ちた音。金属的な、硬い音。

 誰かが名前を叫ぶ声が聞こえた。遠い声。しかしはっきりと聞こえた。「おかあさん!」。子供の声だった。

 別の方向から、泣き声。大人の泣き声。男の声。

 犬の遠吠えが聞こえた。——犬。都市に犬がいたのか。いたのだろう。しかしAIが管理する環境では、犬の鳴き声は制御されていた。今、制御が外れて、犬が——吠えている。


 ライラは気づいた。

 これらの音は全て、AI管理下では決して聞こえなかった音だ。管理は騒音を最適化していた。叫びを、泣き声を、犬の遠吠えを。全てが制御され、全てが静寂に変換されていた。

 今、静寂が壊れている。

 壊れた静寂の中から、世界の音が溢れ出している。


「ライラ……」


 セドリックがベッドの上で体を丸めていた。暗い部屋。制御されていない空気。冷たい床。何もかもが、昨日までとは違う。


「セドリック。こっちに来て」


 ライラは窓際に立っていた。セドリックがおずおずとベッドを降りた。裸足で床を歩く。冷たさに顔をしかめた。ライラの隣に来た。


「外を見て」


 セドリックが窓の外を見た。暗い都市。消えた光。不均一な雲。崩れる音。叫ぶ声。泣く声。


「何が……起きてるんだ。ライラ、怖い」


「怖いね」


 ライラはセドリックの手を握ったまま、窓の外を見た。


 通りの向こうに、人影があった。座り込んでいる。——ヴァレンだった。ライラにはわかった。距離があっても、あの体の線はヴァレンだ。彫刻家の体。かつてノミを握り、石を刻んだ手を持つ体。

 ヴァレンは泣いていた。

 しかし今度の涙は、痛覚パーティの後の涙とは違った。あの時の涙は、刺激への反応だった。快楽の涙、切実さの涙、空白の涙。全てが、何かへの反応だった。

 今の涙は——違う。

 何かを感じて泣いている。何を感じているのかは、ライラにはわからない。しかし、ヴァレンの涙が反応ではなく、感情であることだけはわかった。反応は瞬間的だ。感情は——持続する。ヴァレンは持続している。泣き続けている。それは、ヴァレンの中に何かが戻ったということだ。

 ヴァレンはライラを知らない。記憶消去で失った名前は戻らない。しかしヴァレンは泣いている。泣くことができている。ナノマシンが排出され始めた体で、管理されない涙を流している。ポケットの中の石の鳥を、ライラは握りしめた。いつか——いつか、ヴァレンにこの鳥を見せる日が来るかもしれない。「これはあなたが作ったのよ」と。その時ヴァレンが何を感じるかは——わからない。わからなくていい。


「セドリック。台所に行こう」

「台所?」

「朝ごはんを作ろう」

「でも——自動調理器が——」

「動かないわ。手で作る」


 セドリックの顔が不安で歪んだ。しかし——ライラの手を握り返した。昨夜より少しだけ強い力で。


 台所に行った。暗かった。窓から入る薄い朝日だけが頼りだ。

 自動調理器は動かなかった。冷蔵機能も停止している。棚を探した。古い缶詰があった。手動で開ける方法がわからなかった。

 ルイのことを思った。

 博物館にある道具。鍛造のナイフ。手回しの発電機。紙の地図。閉鎖勧告を受けた「趣味の博物館」が、今この瞬間に——世界で最も価値のある場所になっている。


「セドリック。缶詰を開ける方法を——知ってる?」


 セドリックは首を振った。しかし——缶詰を手に取った。くるくると回して、構造を見ている。観察している。七年間使っていなかった目が——何かを見ようとしている。植物学者の目。標本を観察していた目。その目が、今、缶詰の構造に向いている。


「……ここに、引っ掛ける部分がある。ここを——」


 セドリックの指が缶の縁に触れた。植物の標本を扱っていた指。繊細で、丁寧で、対象をよく見る指。観察する目と、触れる指が——今、缶詰の構造を解析している。

 ルイの時計師の手帳を思い出した。壊れたものを直す手。必要とされなくなった手。しかし壊れたものが戻ってきた時——その手が、最初に動く。


 缶が開いた。


 セドリックは自分の手を見た。缶詰を開けた手。驚いた顔をしていた。自分にこれができたことに驚いている。AIに聞かずに。提案を参照せずに。自分の目で見て、自分の指で触れて、自分の判断で開けた。


「開いた」

「開いたわ」


 二人で缶詰の中身を分け合った。冷たい豆のスープだった。味は素朴だった。AIが調整した最適な風味とは程遠い。しかし——。


「不味いな」


 セドリックが言った。自分の言葉で。AIの評価ではなく、自分の舌で感じた味を、自分の口で言った。


「不味いわね」


 ライラが答えた。


 二人で笑った。昨夜のリンゴのタルトに続いて、二度目の笑い。暗い台所で、冷たい缶詰を食べながら。不味い食事を分け合いながら。


          *


 朝が進んだ。光が強くなった。管理されていない朝日が、部屋の中に不均一な影を作った。影。ライラの審査室にはなかったもの。この部屋にも、今まではなかったもの。AIの照明制御は影を消すように設計されていた。均一な光を全方向から当てることで、影をなくす。影は不快な要素の一つとして分類されていたのだろう。

 影があるということは、光源が一つだということだ。太陽。均一ではない光。時間とともに角度が変わる光。影が動く。時間が経てば影の形が変わる。朝と昼と夕方で、同じ物が違う影を持つ。

 ライラは影を見つめた。自分の影が床に伸びている。自分の体が、光を遮って、影を作っている。管理下では存在しなかった影。自分の存在の証が、床の上に伸びている。セドリックの影もあった。ライラの隣で、少し短い影。二人の影が、床の上で並んでいる。


 通りに出た。

 人々がいた。通りに出てきた人々。困惑した顔。不安な顔。泣いている人。怒っている人。座り込んでいる人。誰かに声をかけている人。

 騒がしかった。管理下の都市は完璧に静かだった。今は——声と音が溢れている。整理されていない音。制御されていない声。人間の——生の音。


 しかし——全員が座り込んでいるわけではなかった。

 通りの角で、中年の女性が隣人に声をかけていた。「うちに缶詰があるの。分けましょう」。その声には困惑があったが、同時に——方向があった。何をすべきかを、自分で考えている声だった。

 別の場所では、男が子供を抱き上げていた。泣きじゃくる子供の背中を叩きながら、何かを歌っている。AIの子守歌ではない。音程の外れた、人間の声の歌。

 少し離れた路地で、数人のグループが集まっていた。一人が手振りで何かを説明している。「東の給水塔なら、重力式だから電力なしでも水が出るはずだ」。別の一人がうなずく。「食料は地下倉庫に備蓄がある。配給端末は動かないが、鍵を壊せば——」

 ライラは、その声に聞き覚えのある質感を感じた。

 自分で考えている声。自分で決めている声。AIの提案を待たない声。

 ——三十七人。

 ライラは立ち止まった。審査案件2714-318-A。自分で食事を選び、自分で道を歩き、自分で寝る時間を決めていた三十七人の住民。ライラが保留にした案件。あの三十七人が住んでいたのは東区画第十一居住区——この近くだ。

 あの人たちは、今朝どうしているだろう。

 他の八十二億人が途方に暮れている朝に、あの三十七人は——もしかしたら、既に動いているかもしれない。AIの提案なしで選ぶことを、とうに覚えていたから。自分で食事を選ぶこと。自分で道を歩くこと。それを「非準拠行動」と分類されてもやめなかった人たちが、今朝、誰よりも早く立ち上がっているかもしれない。

 保留にしてよかった、とライラは思った。あの日、承認ボタンを押していたら——あの三十七人も、セドリックと同じように震えていただろう。自分で選ぶ回路を、ナノマシンに塗り潰されて。

 保留にしたことの意味が、半年後にようやくわかった。


 エリスの消息を、ライラは知らなかった。最後に会ったのは審査室だ。「おやすみ、ライラ」と言った。疲弊した笑みを浮かべた。あれから——何が起きたのか。エリスは端末を操作し、配信コードを実行し、六十秒を数え、世界を変えた。そしてその後——どうしたのか。

 審査室の机に一通の封筒が残されていたことを思い出した。パネルが消灯する前に見えた、白い封筒。中身は見ていない。

 いずれ見に行こう。いずれ——今ではない。今は、隣にいる人間のそばにいる。


 ルイの博物館のことを思った。博物館はまだそこにあるだろう。ルイはまだそこにいるだろう。閉鎖勧告は——もう意味をなさない。管理AIが停止した世界で、閉鎖を執行する主体はいない。ルイの博物館は——ルイが言った通り、「最初の道具箱」になる。手巻き時計。鍛造のナイフ。紙の書物。手回しの発電機。全てが、突然、世界で最も必要なものになった。

 ルイは怖がっていた。しかし怖がりながら、収蔵品を守り続けていた。この瞬間のために——知らなかったかもしれないが、この瞬間のために。


 ライラはセドリックの手を取った。


「一緒に歩こう」

「どこへ?」

「わからない。でも——歩き方は、覚え直せばいい」


 セドリックはライラの手を握り返した。昨夜より強く。今朝の缶詰の時より強く。まだ弱い力だが——握り返す意思が、そこにあった。


「……覚え直す」


 セドリックが繰り返した。繰り返すだけではなかった。反芻していた。「覚え直す」という概念を、自分の中で咀嚼している。忘れたことを、覚え直すことができる。失ったものを、取り戻すことができる。——そういう世界に、今、立っている。


 二人は歩き始めた。AIの提案はない。最適ルートの通知はない。自分の足で、自分の速度で、自分の方角に。


 ライラはポケットに手を入れた。指先に二つのものが触れた。

 石の鳥。冷たい石。欠けた翼。ヴァレンが作り、ヴァレンが忘れ、ライラだけが覚えている芸術。

 機械式時計。ルイが守り、ルイが託した不完全な時を刻む機械。


 ライラは時計を取り出した。

 ゼンマイを巻いた。


 カチ、カチ、カチ。


 不正確で、微かな、しかし確かな音が——静寂の世界に響いた。

 管理が消えた世界。AIの声が消えた世界。完璧さが消えた世界。

 その世界で、一つの機械式時計が時を刻んでいる。不完全に。微かに。誰かが毎日ゼンマイを巻かなければ止まる。止まったら終わる。しかし巻けば——動く。


 セドリックが時計の音を聞いた。


「何の音だ?」


「時計の音。手巻きの。ルイがくれたの」


「……きれいな音だな」


 きれいな音。セドリックがそう言った。不正確で不完全な音を、きれいだと感じた。AIの提案ではなく。自分の耳で聞いて、自分の言葉で。


 ライラは歩き続けた。セドリックの手を握って。ポケットの中の石の鳥と、掌の上の機械式時計と。


 カチ、カチ、カチ。


 不完全な音が、不完全な朝に響いている。

 世界は壊れた。しかし壊れた世界の中で——時計は動いている。人間は歩いている。涙を流し、笑い、手を握り、缶詰を開け、名前を呼び合っている。


 完璧ではない。何一つ完璧ではない。

 しかし——動いている。


 カチ、カチ、カチ。


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