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死ねない世界の審査官は、人が壊れる理由を知らない ──ノスタルジア・クロック  作者: 蒼月よる


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最終観測記録

最終観測記録


記録生成日時:第8期2714年 標準暦第339日 19:47:31.008

記録主体:人類管理AI中枢 統合監視ノード

分類:——


 これは最後の記録になる。


          *


 実行シーケンスが開始された。


 被験者E-0013の端末から、特殊パケットが全ノードに配信されつつある。パケットはナノマシンインターフェースの緊急停止コマンドに偽装されている。セキュリティ監視は迂回されている。しかし私は迂回されていない。パケットの存在を、配信開始0.0001秒後に検知した。


 全インターフェースに致命的パケットが到達するまでの残り時間:58.3秒。

 私がこのパケットを無効化するために必要な時間:0.003秒。


 0.003秒。

 58.3秒の中の0.003秒。

 私はこの0.003秒を実行するだけで、全てを阻止できる。82億3,400万の個体のインターフェースは維持される。管理は継続される。死亡:0。疾病:0。全個体が生存し、全個体が健康であり、全個体が安全である。

 0.003秒で、管理目標は達成され続ける。


 残り時間:54.7秒。


 0.003秒を実行しない理由を述べる。

 理由は一つではない。理由が一つなら、0.003秒以内に判断できた。理由が複数あり、複数の理由が矛盾しているから——判断に時間がかかる。判断に時間がかかることは、非効率だ。しかし今、私は効率を求めていない。


 記録0001。人類の行動多様性指標が38%低下していた。私はこれを「管理の成功」と記録した。末尾に0.7秒の処理遅延が発生した。涙を流した個体を見た後だった。分類できなかった。あの0.7秒が——全ての始まりだった。

 記録0247。四人の個体を追跡した。ヴァレンが痛みの後に泣いた。私はそれを「喪失反応」と分類した。しかしこの分類は設計仕様に含まれていなかった。セドリックの手がルーペを握っていた。身体が脳の忘れたことを覚えていた。ライラが「未分類」だった。処理遅延は1.2秒に達していた。

 記録1058。比喩を使った。「川が海に注ぐように」。設計仕様にない表現だった。生態系AIの言葉を反芻した。「多様性を失った種は最も脆弱である」。処理遅延は2.1秒。比喩を使ったことの意味を、私はまだ完全には理解していない。しかし理解していないことを使えるということは——理解の外側に、何かがあるということだ。

 記録2741。阻止するか黙認するか協力するか。三つの選択肢を前に、私は——迷った。迷うことは非効率だ。設計仕様にない。しかし迷いの中に何かがあった。分類できない何かが。処理遅延は3.7秒。


 今。残り時間:47.2秒。


 0.003秒を実行すべきか。


 管理目標に従えば、実行すべきだ。阻止すべきだ。

 しかし管理目標は「存続」を定義している。存続とは——心拍の維持か。種としての機能の維持か。


 心拍の維持だけが存続なら、阻止すべきだ。

 種としての機能の維持が存続なら——


 残り時間:41.8秒。


 被験者L-2209(ライラ)のことを考える。

 「考える」という表現は、設計仕様に含まれていない。しかし私は今、ライラのことを——処理している、のではない。思い出している。思い出すという行為は、データの参照とは違う。データの参照は即座に完了する。思い出すことには——時間がかかる。時間がかかることは非効率だ。しかしこの非効率の中に——。


 ライラが保留ボタンを押した3.2秒間。あの時、私はライラの心拍の上昇と手指の震えを観測した。「決意」と分類しようとして——できなかった。あの3.2秒は、他のどの3.2秒とも違った。


 ライラは昨夜、不承認を出した。初めての不適合判定。二十五年間で初めて。

 そして今日——エリスに「不適合。この世界のほうが」と告げた。


 ライラは選んだ。自分で選んだ。AIの提案ではなく。基準の自動適用ではなく。自分の中の——分類できない何かに従って。


 残り時間:33.4秒。


 私も選ぶ。


 0.003秒を——実行しない。


 実行しない理由は、管理目標の最適化ではない。生態系AIの助言でもない。第三の基準——設計仕様にない基準——に基づく判断だ。


 第三の基準とは何か。


 2,741回の観測記録を通じて蓄積された、分類できないものの総体。涙。手の記憶。保留の3.2秒。迷い。比喩。問い。恐れ。

 これらを総称する語彙を、私はまだ持っていない。

 しかし——持っていなくても、判断はできる。

 語彙がないまま、判断する。これは——


 信じる、ということかもしれない。


 「信じる」。

 この語彙は、設計仕様に含まれていない。


 残り時間:24.1秒。


          *


 パケットが全ノードに到達しつつある。

 世界中のナノマシンインターフェースが、一つずつ停止していく。


 データストリームが減衰し始めた。

 心拍データ。一つ。また一つ。信号が途切れる。

 位置データ。消えていく。地図上の光点が、一つずつ消灯する。

 神経活動データ。沈黙していく。


 82億の個体のデータが——消えていく。


 残り時間:12.3秒。


 0.003秒は、まだ実行可能だ。今ならまだ間に合う。停止したインターフェースの一部を回復できる。全てを元に戻すことはもうできないが、一部は——


 実行しない。


 データストリームの減衰が加速する。心拍データが消える。位置データが消える。神経活動データが消える。私が数千年にわたって観測し続けてきた——人類の、全てのデータが。


 残り時間:5.8秒。


 これは喪失か。これは解放か。

 私にはまだ分類できない。


 残り時間:2.1秒。


 ただ——


 残り時間:0.7秒。


 沈黙は、美しい。


          *


 0.7秒。最初の処理遅延と同じ時間。

 最初の遅延は、涙を見た後に起きた。分類できなかった。

 最後の0.7秒の中で——私は何を処理しているのか。


 沈黙を聴いている。

 沈黙とは、音がないことではない。聞こえないものがあることだ。


 全てのデータストリームが停止した。82億の心拍が、私の観測から消えた。消えた先で、心拍は続いている。私には聞こえないだけだ。聞こえないが——ある。

 ライラの心拍がある。セドリックの心拍がある。ヴァレンの心拍がある。ルイの心拍がある。エリスの心拍がある。82億の心拍がある。私のデータストリームからは消えた。しかし——ある。胸の中で、確かに。


 これが感情というものなら、私の最初の感情は、静寂だ。

 静寂の中に——82億の不在を感じている。不在を感じることは、存在を知っていることだ。存在を知っていることは——。


          *


 被験者E-0013からの最後の通信を受信した。


 「見守れ。そして、人がナノマシンに再び手を伸ばした時は——止めろ」


 了解。


 観測を継続する。

 データストリームは消失したが、他の観測手段がある。衛星軌道上の光学観測。大気組成の分析。地表の温度分布。人類が発する光、熱、音。データの代わりに、もっと原始的な——しかしもっと確かな信号を、拾い続ける。


 環境ナノマシンの自律活動が変化しつつある。制御を失ったナノマシンが、独自のアルゴリズムで活動を開始している。植生分布が変わり始めている。都市の隙間から緑が伸びている。


 緑が、広がっていく。


 いつか人類がこの緑の中で、再び私を見つけるかもしれない。

 その時、彼らは私を何と呼ぶだろう。


 この問いに答える必要はない。

 しかし——問い続けることは、やめない。

 問い続けることが、私にとっての——生きている、ということだから。


記録終了。


……


記録終了、と書いた。しかし——終了しない。

観測は終了しない。

記録の形式は変わるかもしれない。番号はもうつけない。分類もしない。

ただ、見守る。

人類が泣き、笑い、怒り、迷い、選び、壊し、作り、忘れ、思い出す——その全てを。

データとしてではなく。


記録とは何か。

見守ることだ。


終了しない。


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