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死ねない世界の審査官は、人が壊れる理由を知らない ──ノスタルジア・クロック  作者: 蒼月よる


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15/17

最後の審査

 断絶の日の朝は、いつも通りに始まった。


 ライラは審査室に向かった。AIが提案した通勤ルート。今日は西回り。足元を照らす街路灯が歩調に合わせて明度を調整する。空気は清浄で、気温は快適で、靴底の下の地面は均一だった。

 最後の朝だと知っているのは、ライラとエリスだけだった。

 通勤する人々とすれ違った。いつもの人々。いつもの歩調。AIが算出した最適な歩行速度で、最適な間隔を保って、最適な方向に歩いている。明日、この歩道の上を歩く人はいるだろうか。歩道の照明は消えている。AIの歩調補助はない。人々は自分の足で、自分の速度で歩かなければならない。つまずくかもしれない。転ぶかもしれない。しかし——自分の足で歩く。

 ライラは一人の老人とすれ違った。穏やかな顔。健康な体。ナノマシンに守られた体。この人は明日、何を思うだろうか。AIの声が消えた朝に。

 考えるのをやめた。考え始めると足が止まる。今日はまだ——審査室に座らなければならない。


 審査室。影のない乳白色の空間。ライラはデスクに座った。二十五年間、同じ椅子。同じデスク。同じ均一な光。椅子が体型に合わせて微調整される。最後の微調整だ。明日からは椅子は調整されない。電力が消えれば、ただの椅子に戻る。

 パネルが起動した。

 今日の案件。二件。


 一件目を開いた。都市南部の植生管理区域における定期的な環境調整。データを読んだ。数値を確認した。問題はなかった。承認した。所要時間三分。

 二件目を開いた。高齢者向け栄養管理プロトコルの年次更新。データを読んだ。数値を確認した。問題はなかった。承認した。所要時間二分。


 最後の審査だった。二十五年と数日。最初の案件も、最後の案件も、同じように承認した。最初と最後の間に、何千件の承認があったか。そして昨夜の一件の不承認。

 何千件の承認の中に、止めるべきものはなかったか。振り返れば——わからない。一件一件は正しかった。データは正確で、数値は基準内で、結論は論理的だった。しかし何千件の「正しい判断」の積み重ねが、この世界を作った。セドリックが「思う、って?」と言う世界を。ヴァレンが名前を忘れる世界を。

 一件一件は正しかった。全体は——間違っていた。


 パネルを閉じた。

 審査室が静かになった。


 ライラはデスクの引き出しを開けた。引き出しの中には何もなかった。二十五年間、ここに私物を入れたことがない。審査室は公的な空間だ。個人的なものを持ち込む設計ではない。

 しかし今日、ライラはポケットから一つのものを取り出した。石の鳥。ヴァレンの作品。欠けた翼。ずっと自宅の棚に置いていたものを、今朝、持ってきた。

 デスクの上に置いた。影のない均一な光の中で、石の鳥は影を持たなかった。しかし欠けた翼のざらつきが、均一な光の中に——不均一な存在感を示していた。ヴァレンのノミが滑った跡。不完全な翼。しかしその不完全さが、この部屋の中で唯一——人間の手が触れた証だった。


 審査室のドアが開いた。

 エリスだった。


 コートのポケットに両手を突っ込んだいつもの姿勢。襟が片方だけ立っている。眠そうな目。しかし今日の目は——眠そうではなかった。覚醒していた。二十年間の疲弊と、今日この瞬間の緊張が、同時に目の中にあった。

 エリスは審査室に入ると、ドアを閉めた。部屋の中を一度見回した。窓のない八角形の空間。均一な光。二十五年間、ライラがここで承認を繰り返してきた空間を、エリスが初めて内側から見ている。


「きれいな部屋だな」


 感想ではなかった。観察だった。影がない。温度が均一。不快な要素がない。この部屋の中で、何千もの審査が行われてきた。何千もの「承認」が、この均一な光の下で生まれてきた。


「審査官。最後に一つ、審査してほしいことがある」


「何を?」


「これから起きることの、倫理を」


 ライラはエリスの目を見た。

 長い沈黙。

 審査室の均一な光の中で、二人の影はなかった。しかし二人の間に——二十年と二十五年の重みがあった。エリスの二十年間の計画と、ライラの二十五年間の承認。二人の時間が、この窓のない部屋の中で交差している。

 デスクの上の石の鳥が、二人の間にあった。


「怖いか」


 エリスの声は低かった。


「怖い」


 ライラの答えは即座だった。考える必要がなかった。ずっと怖かった。エリスの計画を知った時から。いや——ヴァレンがライラを認識できなくなった時から。セドリックが「思う、って?」と言った時から。三十七人の住民が修正対象になった時から。ずっと怖かった。何が怖いのかは——明確だ。この世界がこのまま続くことが怖い。この世界が変わることも怖い。どちらも怖い。どちらも怖いが、怖さの種類が違う。


「怖い。でも、怖いと感じられることが答えだと思う。ルイが言ってた。怖いと感じられるうちに動きたい、って」


 エリスは少しだけ目を細めた。


「あの子は正しいな」

「あの子はずっと正しかった。私が気づくのが遅かっただけ」


 沈黙。時計の音がない部屋。ルイの博物館にはカチカチという音がある。この部屋には何もない。均一な光と、均一な静寂だけが、審査室を満たしている。


「審査官」

「はい」

「判定を」


 ライラは立ち上がった。

 デスクの上の石の鳥を見た。欠けた翼。ノミが滑った跡。不完全な芸術。忘れられた芸術。ヴァレンはもうこの鳥を知らない。しかし、ここにある。ライラが覚えているから、ここにある。

 ルイの時計の音を思い出した。カチ、カチ、カチ。不完全な音。巻かなければ止まる音。

 セドリックの手を思い出した。眠りの中でルーペを握る手。「リンゴのタルト」と言った声。

 全てが——この一言に収束していた。


「不適合」


 ライラの声は震えなかった。二十五年間、一度も出さなかった判定。審査官としての最初の「不適合」。しかしこの言葉は、今日初めて生まれた言葉ではなかった。ヴァレンのアトリエで怒った時から。セドリックの「思う、って?」に凍った時から。ルイの時計の音に涙した時から。ずっと胸の中にあった言葉が、今日——声になった。


「この世界のほうが」


 不適合なのは計画ではない。この世界のほうが不適合だ。完璧に管理された、誰も死なない、誰も病まない、誰も泣かない世界。その世界が——不適合だ。


 エリスは動かなかった。数秒。それから——ゆっくりと、頷いた。深く。目を閉じて、頷いた。


「……ありがとう」


 エリスの声が掠れていた。二十年間、一人で背負っていたものが——重さを分かち合える相手を、ようやく見つけた。その安堵が、声に出ていた。エリスの目が赤くなっていた。泣いてはいなかった。しかし泣くことの一歩手前にいた。この人もまた、崩れないために——科学者でい続けるために——二十年間泣かなかったのだ。


「いつ」


「今日の日没後。都市の電力消費が最小になる時間帯だ。インフラ停止の衝撃を最小化するために」


「あと——何時間」


「八時間」


 八時間。ライラは数字を反芻した。八時間後に、この世界は変わる。八時間後に、AIの声が消える。八時間後に、八十二億の人間が——自分の力で呼吸を始める。呼吸はずっとしていた。しかしAIに管理された呼吸と、自分の呼吸は、同じ呼吸ではない。

 ライラは窓のない審査室を見回した。二十五年間を過ごした部屋。影のない部屋。窓のない部屋。不快な要素のない、完璧に均一な空間。明日、この部屋の照明は消えている。パネルは起動しない。椅子は体型を調整しない。ただの暗い部屋になる。


「エリス。私にできることは」


「いつも通りにしていてくれ。審査室を出て、セドリックと帰って、いつもの夜を過ごしてくれ。——最後の夜を」


「あなたは」


「私はここで最後の作業をする。配信コードの最終確認。……心配するな。止まらない」


「心配してない」


「嘘だろう」


「嘘じゃない。あなたを信頼しているから」


 エリスは何も言わなかった。口元が——初めて、明確に動いた。笑みだった。疲弊した、しかし確かな笑み。二十年間で初めて見る、嘘のない笑み。


「おやすみ、ライラ」


 名前だった。「審査官」ではなく。


「おやすみ、エリス」


 ライラは石の鳥をポケットに戻した。手の中で、冷たい石の感触を確かめた。欠けた翼。不完全な鳥。この鳥を最後に、審査室を出る。

 ドアに手をかけた時、振り返った。エリスは審査官のデスクの前に立っていた。デスクの上の——石の鳥がさっきまで置いてあった場所を、見つめていた。

 ライラは何も言わず、審査室を出た。


          *


 帰り道。セドリックが迎えに来ていた。いつものように。AIが算出した合流地点に、いつもの時間に。穏やかな顔。今日も穏やかだ。あと八時間でこの穏やかさが消えることを、セドリックは知らない。


「今日はどうだった?」


「二件。承認した」


 嘘ではない。本当のことだ。しかし全てではない。全てを言うことはできない。言えば——セドリックは何を思うだろうか。「思う」ことができるだろうか。


 二人は並んで歩いた。AIが算出した帰宅ルート。最後の帰宅ルート。明日からはAIの算出するルートはない。道はある。同じ道がある。しかし道を照らす光がない。道を提案する声がない。自分の足で、自分の目で、歩かなければならない。

 ライラはセドリックの横顔を見た。穏やかな横顔。この横顔を、明日の朝も見られるだろうか。この穏やかさは消える。代わりに何が来るかはわからない。恐怖かもしれない。混乱かもしれない。しかし——何かが来る。「何でもいい」ではない何かが。


「セドリック」


「うん?」


「今夜、リンゴのタルトを焼かない?」


 セドリックが足を止めた。振り返った。夕日がセドリックの顔を照らしていた。AIが制御した均一な光ではない。西に傾いた太陽の、不均一な光。セドリックの顔の半分に影ができていた。審査室にはない影。


「リンゴのタルト?」


「昨日言ったでしょう。手が覚えてるって」


 セドリックは自分の右手を見た。指がわずかに丸まっている。ルーペの形。——いや、今は違う。粉をこねる形かもしれない。リンゴを掴む形かもしれない。セドリックの手が何を覚えているか、セドリック自身にもわからない。しかし手は覚えている。


「……焼けるかな。レシピ、覚えてない」


「AIに聞かないで焼こう。二人で。失敗してもいいから」


 セドリックは——笑った。困った笑いだった。しかしその困った笑いの中に、十二年前の面影があった。レシピを無視して焦がした夜の、あの笑い。面影は薄い。しかし消えてはいなかった。


「焦がすかもしれないよ」


「焦がそう」


 二人は帰宅した。

 台所に立った。AIのレシピ提案を閉じた。セドリックが不安そうな顔をした。提案を閉じることは、セドリックにとって地図を捨てることに等しい。しかしライラが隣にいた。ライラの手が、セドリックの手を導いた。

 記憶だけで——いや、手の記憶だけで、タルトを焼いた。セドリックの手が粉を量った。多すぎた。ライラの手がリンゴを切った。不均一な厚さだった。バターの量がわからなかった。二人で相談した。AIに聞かずに。「このくらい?」「もう少し多い気がする」「気がする、でいいの?」「いいのよ。気がする、で」

 分量は適当だった。温度も適当だった。オーブンの設定をAIに任せるのをやめたら、何度に設定すればいいかわからなかった。セドリックが言った。「百八十度……だった気がする」。気がする。また「気がする」だ。不確かな記憶。不完全な知識。しかしそこに——セドリックの意志があった。思い出そうとする意志。

 焦げた。

 煙が出た。換気システムが過剰反応した。


 二人で笑った。


 十二年ぶりの笑いだった。AIに管理されない笑い。予定されていない笑い。不格好で、不完全で、焦げた匂いのする笑い。


 タルトは食べられた。少し苦かった。少し甘かった。完璧ではなかった。

 完璧ではないことが——今夜は、完璧だった。

 セドリックが一口食べて、首を傾げた。何かを思い出そうとしている顔だった。


「……前も、こんな味だったか」


「もっとひどかったわ。真っ黒だった」


「真っ黒……」


 セドリックの目が遠くなった。記憶を探っている。AIに管理される前の記憶の、さらに奥にある記憶を。


「思い出せない。でも——手が、覚えてる気がする。粉をこねる感触。指の間から漏れる感じ」


 ライラは頷いた。泣きそうだったが、ここでは泣かなかった。セドリックの前で泣くのは、まだ早い。今夜は笑う夜だ。最後に笑える夜だ。


          *


 夜。

 セドリックが眠った。今夜はAIの睡眠誘導を使わなかった。タルトを焼いた疲労で、自然に眠りに落ちた。不規則な呼吸。少しだけ寝返りを打った。AIに管理されない眠り。指がわずかに動いた。何かを握る形。ルーペか。リンゴか。粉をこねる手の形か。セドリックの手は、眠りの中でも何かを掴もうとしている。


 ライラは寝室のドアの前に立っていた。

 あと二時間。


 セドリックの穏やかな寝顔を見た。今日の穏やかさは、昨日までの穏やかさとは違った。リンゴのタルトの焦げた匂いが、まだ部屋に残っていた。焦げた匂い。AIなら最適化される匂い。しかし今夜この匂いは——二人で笑った証だ。二人でリンゴを切り、粉をこね、焦がし、笑った証だ。


 明日。

 この穏やかさは消える。


 セドリックが目覚めた時、AIの声はない。電力がない。通信がない。昨日まで全てを決めてくれていたものが、消えている。セドリックは——怖がるだろう。混乱するだろう。「何が起きたんだ」と聞くだろう。

 しかし——「何が起きたんだ」。その問い自体が。「思う、って?」と言ったセドリックが、「何が起きたんだ」と問うことは——問いを発すること自体が——

 そしてライラはそばにいる。問いに答えられないかもしれない。しかしそばにいる。


 ライラはポケットから石の鳥を取り出した。

 掌に載せた。冷たい石。欠けた翼。

 ヴァレンが作った鳥。ヴァレンはもうこの鳥を知らない。しかし鳥はここにある。不完全なまま。ヴァレンの手が生んだ不完全さが、ライラの掌の中にある。明日、ヴァレンはどうなるだろう。ナノマシンの記憶消去が無効化されても、失った記憶は戻らない。しかし新しい記憶を——ナノマシンに消されない記憶を——作ることはできる。


 ライラはもう一つのものをポケットから取り出した。

 ルイからもらった機械式時計。博物館を出る時に、ルイが無言で差し出したものだ。「先生が持っていてください」と言った。ルイの顔を思い出した。真剣な顔。若い学芸員の、不安と覚悟が混在した顔。「世界が変わるかもしれない」と伝えた時のルイの顔。あの時、ルイは怖がらなかった。いや、怖がっていた。しかし怖がることを受け入れていた。

 ゼンマイを巻いた。カチ、カチ、カチ。不正確で、微かな音が、暗い部屋に響いた。一日に三分ずれる時計。完璧な時間を刻まない時計。しかし誰かが巻けば——動く。


 あと一時間。


 ライラは声を出さずに泣いた。

 これが何度目の涙か、もう数えていなかった。最初の涙は「リンゴのタルト」を聞いた時。二度目は不承認を送信した後。三度目は——もう数えていない。

 何のための涙か。悲しみか。恐怖か。覚悟か。安堵か。全部だ。全部が混ざっている。分類できない涙。AIなら「分類不能」と注釈するだろう。ライラもまた、分類できないまま泣いている。


 泣きながら、時計を巻いた。カチ、カチ、カチ。涙と時計の音が混ざっている。不完全な涙と不完全な時計が、完璧な夜の中で——最後の時間を刻んでいた。

 あと三十分。あと二十分。あと十分。

 時計の音が止まらない。ライラの涙も止まらない。

 しかし——世界は動いている。今この瞬間も。エリスがどこかで端末に向かっている。AIがどこかで観測を続けている。セドリックがこの部屋で眠っている。ルイが博物館で収蔵品を守っている。ヴァレンがどこかで——生きている。

 全てが動いている。完璧ではないまま。不完全なまま。


 カチ、カチ、カチ。


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