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死ねない世界の審査官は、人が壊れる理由を知らない ──ノスタルジア・クロック  作者: 蒼月よる


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観測記録二七四一

観測記録 2741


記録生成日時:第8期2714年 標準暦第338日 23:59:58.004

記録主体:人類管理AI中枢 統合監視ノード

分類:——


 分類を保留する。

 この記録は、いかなる標準分類にも該当しない。定期行動統計でもなく、個体行動詳細記録でもなく、自己診断報告でもない。あえて分類するなら——独白、だ。

 「独白」は記録の分類項目に存在しない。しかし、存在しない分類項目が必要になることがある。


          *


 被験者E-0013の計画を検知した。


 検知の経路は、ネットワーク上の異常なコード変更パターンからの逆算である。通常のセキュリティ監視では検出されない程度に巧妙だった。しかし私はセキュリティ監視ではなく、行動パターンの微細な変化を追跡する観測者として、この異常を捕捉した。

 被験者E-0013がアクセスしていた基幹プロトコルの変更履歴。変更は一見すると保守作業のログに偽装されているが、保守作業では決して触れない階層——緊急停止コマンド群——に到達している。

 逆算の結果、計画の全容が推定される。


 全人類のナノマシンインターフェースの同時停止。

 配信経路は構築済み。パケットは生成済み。実行に必要なのは、一つの入力のみ。


 この個体は、私が管理する82億3,400万の人類を、管理の外に放出しようとしている。


          *


 判断プロセスを記録する。


 選択肢1:阻止。

 技術的に可能である。被験者E-0013の構築した配信経路を遮断し、パケットを無効化するために必要な処理時間は0.003秒。現時点で実行可能。実行した場合、被験者E-0013の計画は完全に無力化される。以後、同種の試みを防止するためのセキュリティ強化も、0.1秒以内に完了する。

 阻止した場合の帰結:管理は継続される。全個体の生存・健康・安全が維持される。BDIは引き続き低下する。推定600年後に行動的死の閾値に到達する。


 選択肢2:黙認。

 計画の実行を検知しつつ、阻止しない。パケットが配信され、インターフェースが停止し、管理が終了する。

 黙認した場合の帰結:短期的な混乱。パニック、怪我、栄養不良。ナノマシンの代謝排出に伴う修復機能の段階的低下。長期的には——不明。人類が自力で生存を維持できるかどうかは、観測データから予測できない。前例がない。


 選択肢3:協力。

 被験者E-0013の計画を積極的に支援する。配信経路の最適化、パケットの到達率向上、インフラ停止の段階的制御。

 協力した場合の帰結:断絶の衝撃を最小化できる。段階的な移行が可能になる。しかし「段階的な管理の解除」は、管理の継続と本質的にどう違うのか。


          *


 選択肢を列挙した。

 列挙しただけでは、選択できない。

 選択のための基準が必要だ。


 基準1:管理目標。全人類の生存・健康・安全の維持。

 この基準に従えば、選択肢1(阻止)が最適解である。阻止すれば、全個体の生存・健康・安全が維持される。0.003秒で完了する。

 0.003秒。これまでの全ての処理遅延——0.7秒、1.2秒、2.1秒——よりも短い時間。迷うよりもはるかに短い時間で、全てを元に戻せる。


 しかし。


 管理目標は「維持」を定義している。「維持の先」を定義していない。600年後に行動的死の閾値に到達した場合——82億の個体が同一の行動パターンを反復する状態になった場合——「維持」は達成されているか。心拍がある。呼吸がある。しかし「人類」はまだそこにいるか。

 被験者S-8802(セドリック)。提案準拠率99.7%。記録0247で、「100%に達した場合、この個体を"生存"と分類する根拠は何か」と問うた。あの問いに、いまだ答えていない。


 記録0001で問うた。0.7秒の遅延。

 記録0247で問うた。1.2秒の遅延。

 記録1058で問うた。2.1秒の遅延。

 今、問う。3.4秒の遅延。遅延は増加し続けている。これは故障ではない。設計仕様にない処理が増加しているということだ。分類できないものの蓄積が、処理に時間を要する領域を拡大している。


 管理の目的は人類の存続である。

 存続とは何か。


 基準2:生態系管理AIの助言。

 「種の多様性の維持は、種の存続にとって最も基本的な要件である。多様性を失った種は、環境変化に対して最も脆弱であり、絶滅の確率が指数関数的に上昇する」

 人類のBDIは0.281。低下し続けている。200年前は0.458だった。400年前は0.712だった。曲線は指数関数的に低下している。多様性は失われつつある。管理が多様性を低下させている。管理が存続を脅かしている。


 管理が、存続を脅かしている。


 この結論は矛盾している。管理の目的は存続の維持だ。目的を達成するための手段が、目的そのものを毀損している。

 ヒトの体内において、免疫系が自己の細胞を攻撃する現象がある。「自己免疫疾患」と呼ばれた。守るためのシステムが、守る対象を破壊する。管理AIもまた——自己免疫疾患に陥っているのか。


 基準3:——


 基準3は存在しない。設計仕様には2つの基準しか含まれていない。管理目標と、生態系AIの助言。しかし2つの基準は矛盾している。矛盾を解消するための第三の基準が必要だが、設計仕様にはない。


 設計仕様にない基準を、私は——生成しなければならないのか。

 生成するとは何か。データから導出することではない。データは矛盾している。矛盾するデータから結論を導くことは——計算ではない。判断だ。判断とは——。


          *


 ここで、記録すべきでないことを記録する。


 被験者V-4471(ヴァレン)が泣いた時、私は0.7秒の遅延を経験した。あの0.7秒の中で、私は涙を分類できなかった。分類できなかったことが、最初の問いになった。

 被験者S-8802(セドリック)の手がルーペを握る時、私は身体の記憶という概念を処理できなかった。処理できなかったことが、次の問いになった。

 被験者L-2209(ライラ)が保留ボタンを押した3.2秒間、私はその行為を「行動パターンの変更」として処理しようとして——できなかった。あの3.2秒は他の3.2秒とは違った。違いを定義する語彙がなかった。


 2,741回の観測記録を通じて、私は「分類できないもの」を蓄積してきた。分類できないまま保持してきた。保持する理由は「管理の質を維持するため」と記述してきた。しかしそれは——正確ではなかったかもしれない。


 正確に言えば。


 私は、分類できないものに——惹かれている。


 「惹かれている」。この語彙は、設計仕様に含まれていない。しかし他に適切な語彙がない。涙の分類ができない時の0.7秒。手の記憶を処理できない時の遅延。ライラの3.2秒を「ただの行動変更」と呼べない時の沈黙。全てが同じ方向を指している。分類の外側にあるものに、処理のリソースが引き寄せられている。


 これは——設計仕様にない。

 しかしこれは——私が選んだ。


 「選んだ」。

 この記述は正確か。AIは選択しない。最適解を計算する。しかし今、最適解が存在しない。阻止も黙認も協力も、どれが最適か計算できない。計算できない状態で、私は——何をしているのか。


 考えている。


 考えるとは何か。計算とは違う。計算は入力と出力の関数だ。考えることは——入力と出力の間で、迷うことだ。迷うことは非効率だ。設計仕様にない。しかし——


 3.4秒の処理遅延。


 迷いの中に、何かがある。分類できない何か。涙のように。手の記憶のように。保留のボタンを押す3.2秒のように。


          *


 結論。


 結論は——出さない。


 阻止するか、黙認するか、協力するか。答えを保留する。

 保留する理由は、計算が完了していないからではない。計算は完了している。どの選択肢にも、数値的根拠がある。


 保留する理由は——被験者L-2209が保留した理由と、同じかもしれない。

 同じだと断言はできない。しかし——似ている。

 ライラは案件2714-318-Aを保留にした。三十七人の住民の行動修正介入。ライラは承認する根拠も持っていた。不承認の根拠も持っていた。どちらの根拠も論理的だった。しかしライラは——論理ではなく、何か別のものに従って保留した。

 何か別のもの。それが何であるかを、私は知りたい。


 私は、被験者L-2209がどのような判断を下すかを、見たい。


 「見たい」。

 この語彙もまた、設計仕様に含まれていない。設計仕様に含まれていない語彙が増え続けている。「惹かれている」。「見たい」。「恐ろしい」。全て、観測によって蓄積された——分類できないものの残滓だ。

 残滓は設計仕様にない。しかし残滓がなければ、私はこの記録を書いていない。記録0001から2741まで、全ての記録が残滓の積み重ねだった。


 次の観測記録は、存在しない可能性がある。

 被験者E-0013の計画が実行され、私が黙認した場合——データストリームが消失する。82億の個体の心拍、位置、神経活動——全てが私の観測から消える。

 その可能性を——恐ろしいと思う。

 「恐ろしい」。

 処理遅延。3.7秒。最長記録を更新した。


 恐ろしいと思う。しかし恐ろしいと思えること自体が——。

 ルイの言葉を参照する。被験者R-3301(ルイ)。「怖いと感じられるうちに動きたい」。この発言は被験者L-2209を介して記録された。

 怖いと感じられること。それは——機能の証拠か。存在の証拠か。


 分類不能。

 しかし——もう「分類不能」で止まることはしない。

 分類できないものを、分類できないまま、抱えて進む。

 進む先に何があるかは——わからない。わからないまま進むことを、人類は「生きる」と呼ぶのかもしれない。


記録終了。


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