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死ねない世界の審査官は、人が壊れる理由を知らない ──ノスタルジア・クロック  作者: 蒼月よる


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12/17

設計者の告白

 エリスが計画の全容を明かしたのは、三日後のことだった。


 場所はエリスの研究室ではなかった。博物館でもない。都市の外縁部にある環境管理施設の屋上だった。AIの監視が最も薄い場所の一つだ。管理AIの注意は人口密集地に集中しており、無人の施設の屋上に二人の人間がいることに対する処理優先度は低い。

 エリスが選んだ場所だった。

 エリスが指定した時刻に、指定されたルートで来た。「AIの行動追跡を分散させるために、通常の移動パターンから逸脱しないルートを使え」とエリスは言った。科学者は二十年間、AIの目の中で息を潜めて生きてきた。その技術を、今夜ライラに教えている。


「ここなら、AIの処理遅延が最大になる。会話が記録されてから分析されるまでに、通常より八秒長い猶予がある。八秒では何も変わらないが——気休めにはなる」


 屋上には手すりがあった。低い手すり。ナノマシンの修復機能がある世界では、転落防止の必要性が低い。設計者は安全を軽視したのではなく、安全が保障されている前提で設計したのだ。

 風が吹いた。外縁部の風は制御が緩い。ライラの髪が乱れた。不規則な風。冷たくもなく温かくもなく、ただの風だった。AIが体感温度を最適化していない、ただの空気の流れ。

 屋上から都市が見えた。夜だった。光の配列が地平線まで広がっている。八十二億の人間が暮らす都市。一人も死なず、一人も病まず、一人も飢えない都市。光の一つ一つが均一だった。明るすぎず暗すぎず、エネルギー効率が最大化された光。ライラはこの夜景を美しいと思ったことがない。美しくないとも思ったことがない。ただの風景だった。それが今夜は——違って見えた。


 エリスが端末を取り出した。


「全人類のナノマシンインターフェースの同時切断。私がこの二十年間で開発したコードは、インターフェースの緊急停止コマンドに偽装された特殊パケットを、全ノードに同時配信する」


「同時に」


「同時に。一斉に。八十二億人分のインターフェースを、六十秒以内に」


 エリスが端末の画面をライラに向けた。コードの断片が表示されていた。ライラにはプログラミングの知識がない。しかし画面に並ぶ文字列の量——その膨大さは理解できた。


「これを二十年間で書いたの」


「書いた。書き直した。捨てた。一から書き直した。七回。最初の五年はアプローチが根本的に間違っていた。次の五年でプロトコルの構造を解析した。残りの十年で迂回ルートを構築した。途中で三回、AIのセキュリティ更新で全てが無駄になった。そのたびに最初からやり直した」


 二十年間。ライラが審査室で承認を繰り返していた二十年間。エリスはこのコードを書き続けていた。昼は行動分析の研究員として、夜はAIの管理体制を解体するための暗号職人として。


「インターフェースが停止すると、ナノマシンへの指令伝達経路が断たれる。ナノマシン本体は体内に残るが、制御を失って自律的に代謝排出される。数ヶ月で全量が排出される。修復機能は排出が進むにつれて低下する。最初の数週間は大きな変化はないが、一ヶ月後には骨折の自然治癒が困難になり、三ヶ月後には免疫補助が消失し、半年後には完全に前ナノマシン状態に戻る」


「半年で——全て」


「全て。痛覚も完全に戻る。風邪をひく。傷が化膿する。老いる」


 ライラはセドリックの顔を思い浮かべた。AIに管理された穏やかな体。毎朝同じ体温で目覚め、最適な栄養を摂取し、疲労を翌日に持ち越さない体。その体が——半年後には、ただの人間の体に戻る。


「社会インフラは」


「連動して崩壊する」


 エリスの声は低かった。項目を列挙する研究者の口調ではなかった。二十年間、何度もこの結論に向き合ってきた人間の声だった。


「電力供給はナノマシンネットワークを介した無線給電に依存している。インターフェースが落ちれば給電制御が失われる。蓄電分が尽きた時点で——停電する」


 停電。ライラはその言葉の意味を考えた。セドリックが毎朝見る空中パネルが消える。AIの起床通知が来ない。照明が自動点灯しない。暗い部屋で、セドリックは何をするだろう。声を上げるだろうか。それとも、声の上げ方を忘れているだろうか。


「推定で三日から七日」


「食料は」


「自動調理システム、食料配給の管理、全てナノマシンネットワーク上で動いている。停電と同時に——」


 エリスが言葉を切った。ライラを見た。何かを確認するように。ライラがまだ聞く覚悟を持っているかを。


「続けて」


「水道。浄水機能はインフラ側のナノマシンに依存している。人体のインターフェースとは別系統だが——制御AIが機能停止すれば、浄水プロセスの最適化が止まる。水は出る。しかし品質は保証されなくなる。通信、交通も段階的に停止する」


 ライラの脳裏に、ルイの博物館が浮かんだ。鍛造のナイフ。手回しの発電機。紙の地図。あれらは遺物ではなく——予言だったのか。

 ライラは自分が何を聞いているのか、意識的に確認した。文明の終わりを、一人の科学者の疲れた声で聞いている。電力、食料、水道、通信。一つずつ消えていく。エリスが二十年間かけて設計した消滅のシーケンス。


 ライラは夜景を見た。光の一つ一つが、明日消えるかもしれない光だ。明後日かもしれない。来週かもしれない。しかしエリスの端末の中に、この光の全てを消すコードがある。


「何十億もの人間が——」


「死なない」


 エリスの声は断言だった。しかし断言の後に、わずかな間があった。


「死なない。インターフェースが切れるだけだ。ナノマシンが代謝で排出される間、修復機能は段階的に低下する。猶予がある。その間に——」


「その間に何をするの。八十二億の人間が、突然、自分の体と向き合えると思うの」


「向き合えなくても、向き合わざるを得ない。朝起きて、食事がなければ食べ物を探す。水がなければ水を探す。誰かが倒れていれば手を差し伸べる。それが——人間の原型だ」


「原型に戻す権利が、あなたにあるの」


「ない」


 エリスは即答した。


「ない。権利はない。正当性もない。八十二億の人間の人生を変える決定を、一人の人間が下す権利は——どこにもない。しかし権利がないことと、必要がないことは、違う」


「詭弁よ」


「詭弁だ。しかし詭弁でなければ語れない問題がある」


 ライラは黙った。エリスの論理は穴だらけだった。前回の会話で指摘した「管理の変形」の問題は解決されていない。しかし論理の穴とは別に、一つの事実があった。現状が持続した場合、人類は行動的に死滅する。それはAI自身の観測データが示している。

 ヴァレンが名前を忘れたこと。セドリックが「思う」の意味を失ったこと。三十七人の自発的行動がAIに修正対象と見なされたこと。全てが同じ方向を向いている。管理の下で、人間が人間でなくなっていく。ゆっくりと。穏やかに。誰にも気づかれずに。


「……いつ実行するの」


「もう準備はできている。私が端末を操作すれば、六十秒以内に全ノードにパケットが届く」


「六十秒」


「六十秒だ。しかしAIが検知すれば0.003秒で阻止できる。パケットの配信を阻止するコードが、AIの管理プロトコルに組み込まれている。私はそれを迂回するルートを構築した。しかし完璧ではない。AIが本気で阻止すれば——AIには勝てない」


 0.003秒。ライラはその数字を反芻した。六十秒の中の0.003秒。人間が瞬きする時間よりも短い。その時間の中で、AIは全てを止められる。エリスの二十年間の仕事を、0.003秒で無にできる。


「つまり——AIが阻止しないことを前提にしている?」


 エリスは頷いた。


「賭けだ。二十年間の仕事が、AIの判断一つにかかっている。しかしこれは計算できない賭けだ。AIがどう判断するかを予測するモデルは——私には作れない。作れなかった。二十年かけても」


「なぜ」


「AIが変わりつつあるからだ。設計仕様から逸脱しつつある。処理遅延の増加。記録における非標準的な注釈の増加。観測データへの過度な注目。AIが——何かを感じ始めている。何を感じているのかは、私にはわからない。わからないものを予測するモデルは構築できない」


 ライラは息を止めた。AIが何かを感じ始めている。その言葉は、ライラの中の何かに触れた。審査記録の中で見つけた微妙な異常値。「分類不能」という注釈の増加。処理遅延が0.7秒から伸び続けていること。設計時にはなかった「揺れ」。

 ライラは審査官としてそれを気に留めていた。しかしエリスは科学者として、それに自分の命運を——八十二億人の命運を——賭けようとしている。


「AIが変わりつつあることを、根拠にしているの」


「根拠にはしていない。根拠がないことを認めた上で、それでも——信じている、という方が近い」


「科学者が信じるなんて」


「科学者は仮説を立てる。検証できない仮説を信じることは——科学の範囲外だ。しかし科学の範囲外のことをしなければ、この世界は変えられない」


「エリス。もう一つ聞きたい。前回の答えの続きを」


「何の」


「娘さんの話」


 エリスの顔が、微かに強張った。ライラは続けた。


「前回、『両方だ』と言った。世界を救いたいのか、娘に怒っているのか、区別がつかないと。——あれから考えた。区別がつかないことは悪いことじゃない。でも一つ聞きたい。娘さんは今——どうしているの」


 エリスは答える前に、夜景に目を向けた。完璧な光の配列。その中のどこかに、エリスの娘がいる。


「生きている。身体は健康だ。心拍は正常。呼吸は正常。栄養状態は良好。AIの報告は、毎日同じだ」


「会いに行ってる?」


「……月に一度。決まった日に。私が部屋に入ると、娘はベッドに座っている。いつも同じ姿勢で。窓の外を見ているが、何かを見ているわけではない。目が開いているだけだ。名前を呼んでも反応しない。手を触れると——触れ返さない。しかし避けもしない。何も感じていないように見える」


 エリスの声は平坦だった。観測データの報告のように。しかしその平坦さが——ライラには痛かった。平坦でなければ語れないほどの痛みが、その裏にある。


「部屋を出る時、いつも振り返る。娘は同じ姿勢のままだ。私が来たことも、帰ることも、認識していない。——いや、認識はしているのかもしれない。しかし認識に何の意味も感じていない。人が来た。人が去った。それだけのことだと」


「それは——」


「セドリックの延長線上にあるものだ。あなたの夫は『思う、って?』と言った。私の娘は、それすら言わない。思うことの意味を問うことすら、しない。問いそのものが消えている」


 ライラは沈黙した。セドリックの穏やかな顔が浮かんだ。あの穏やかさの先に——エリスの娘がいる。セドリックはまだ問える。「思う、って?」と。エリスの娘は問えない。問いが存在しない場所にいる。


「娘さんの名前は——言わないのね」


「……エリスは姓だ。ファーストネームは言わない」


「なぜ」


「言ったら崩れる。今の私には、崩れている余裕がない。この計画を実行するまでは——科学者でいなければならない。親に戻ったら、手が震えて端末を操作できなくなる」


 エリスの声が掠れた。一瞬だけ。すぐに戻った。しかしライラはその掠れを聞いた。二十年間、科学者の仮面を被り続けてきた人間の、仮面の隙間から漏れた声を。


「いつか言う。全てが終わったら。全てが終わって——崩れていい時が来たら」


 ライラはそれ以上聞かなかった。


          *


 屋上に風が吹いた。さっきより強い風だった。外縁部の風は制御が緩い。不規則な突風がライラのコートの裾を煽った。

 管理の外の風だ、とライラは思った。予測されていない風。提案されていない風。ただ吹いている風。エリスがこの場所を選んだ理由の一つが、この風かもしれない。制御されていない空気の中でなければ、言えない言葉がある。


「ライラ」


 エリスが言った。名前を呼ばれたことに、ライラは驚いた。エリスはいつも「審査官」と呼ぶ。名前を呼んだのは初めてだった。

 名前を呼ぶことには重みがある。審査官と呼ぶ時、エリスは制度の中の人間としてライラを扱っている。名前を呼ぶ時——一人の人間として向き合っている。


「あなたに頼みたいことがある」


「何」


「止めてくれ。——止められるなら」


 ライラは目を見開いた。

 風が止んだ。偶然だった。しかしその瞬間の静寂が——エリスの言葉を際立たせた。


「止めるって——あなたの計画を?」


「私の計画を。あなたが審査官として、この計画を不適合と判定するなら——従う。私は科学者だが、倫理の判断は審査官に委ねる。それが制度だ」


「あなたは制度を壊そうとしているのに?」


「制度を壊すことと、制度に従わないことは違う。今この瞬間はまだ制度の中にいる。制度の中にいる間は——制度に従う」


 ライラはエリスの顔を見た。矛盾した人間だ。世界を壊そうとしながら、審査官の判断に従うと言っている。しかしその矛盾が——不思議と、嘘に聞こえなかった。

 エリスは止めてほしいのだ、とライラは思った。二十年間の仕事を。自分一人では止められないから、ライラに止めてほしいのだ。しかし同時に、止めてほしくないとも思っている。世界が変わらなければ、娘は戻らない。「両方だ」。止めてほしい気持ちと、止めてほしくない気持ちが——区別のつかないまま、一つの「止めてくれ」になっている。


「考えさせて」


「わかった。時間はある。——あまり長くはないが、ある」


 エリスが屋上の縁に立った。都市の夜景を見下ろしている。立ち上がった片方の襟が風に揺れた。痩せた背中が、夜景を背負っているように見えた。八十二億の光を背負った背中。


「ライラ。もう一つだけ」


「何」


「あなたが保留にした案件——三十七人の住民。あの案件の結果がどうなるか、見届けてからでいい。それを見て——判断してくれ」


 ライラは頷いた。


 二人は屋上を降りた。帰り道は別々だった。エリスはライラと反対方向に歩いていった。大きめのコートの背中が、外縁部の暗い通りに消えていく。この人はこれから研究室に戻るのだろうか。それとも——娘の部屋の前を通るのだろうか。月に一度と言っていた。今夜は、その一度の日だろうか。

 ライラはAIの提案を閉じて、自分の足で歩いた。夜の都市。完璧な静寂。しかし今夜の静寂は、以前とは違って聞こえた。以前は何も聞こえない静寂だった。今は、聞こえないものが聞こえる静寂だった。八十二億の心拍。一つも欠けない心拍。しかしその心拍の中に、どれだけの沈黙が詰まっているか。

 エリスの娘の心拍もこの中にある。規則的に。正常に。何も語らずに。


 自宅に着いた。深夜。セドリックは眠っていた。

 ライラは寝室に入らなかった。リビングのソファに座り、棚の上の石の鳥を見つめた。


 エリスの計画が実行されたら。

 この完璧な都市から光が消えたら。

 セドリックが自分の力で朝を迎えなければならなくなったら。


 セドリックは——どうなるのだろう。

 選び方を忘れた人間が、突然、全てを選ばなければならなくなる。何を食べるか。どこへ行くか。何を恐れるか。何を望むか。

 セドリックは怯えるだろう。混乱するだろう。「ライラ、何が起きたんだ」と聞くだろう。そしてライラは答えなければならない。何が起きたのかを。なぜ止めなかったのかを。止められたのに止めなかったことを。

 ——止められるのか。

 ライラは審査官だ。エリスの計画を知っている。エリスは「止めてくれ」と言った。ライラが「不適合」と判定すれば、エリスは従うと言った。ライラの一言で——八十二億人の世界が、今のまま続く。

 その一言を言うか。言わないか。


 植物図鑑の三十七ページ目。

 その先の空白に、セドリックは自分の手で何かを書くだろうか。管理が消えた世界で。AIの声が消えた世界で。あの手は——ルーペを握る形を、まだ覚えているだろうか。


 ライラは石の鳥に触れた。欠けた翼。ヴァレンのノミが滑った跡。

 ヴァレン。記憶を失ったヴァレン。断絶の後、ナノマシンが排出されれば、記憶消去も修復もできなくなる。ヴァレンは——失ったまま、生きることになる。

 しかし失ったまま生きることは、失い続けるよりも——


 答えが出ない。

 エリスに「止めてくれ」と言われた。止める根拠を探すべきか。止めない根拠を探すべきか。どちらの根拠も、見つかりそうな気がする。そしてどちらの根拠も、嘘になりそうな気がする。

 正しい答えは存在しない。二十五年間、審査基準が常に正しい答えを示してくれた。今、基準が示す答えは——ない。

 ライラは石の鳥を棚に戻し、目を閉じた。


 ルイの博物館のことを思った。閉鎖勧告が出ている。エリスの計画が実行されれば、閉鎖勧告は意味を失う。管理AIが停止すれば、閉鎖を執行する主体がいなくなる。博物館は残る。博物館にある不完全な道具たちが——手巻き時計、鍛造のナイフ、紙の書物——突然、世界で最も必要なものになる。

 ルイはそれを望んでいるだろうか。望んでいないだろう。博物館が必要とされる世界は、博物館以外の全てが壊れた世界だ。ルイが守りたいのは博物館であって、世界の崩壊ではない。


 明日は審査室に行く。保留にした案件の経過を確認する。三十七人の住民が、今どうなっているか。

 エリスはそれを見てから判断しろと言った。

 ライラは——自分が何を見たいのか、まだわからなかった。


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