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問いの形をした爆弾

 若い頃、ライラはAIの感情モデル設計に関わったことがある。


 大学院時代だった。研究チームの末席に加わり、管理AIに感情シミュレーションを実装するか否かの議論に参加した。賛成派は「感情があれば人間をより深く理解できる」と主張し、反対派は「感情は判断を歪める。管理AIには不要だ」と主張した。

 ライラは反対派だった。

 「感情を持たせるべきではない」。若い審査官候補生は、そう書いた。論文の結論に。「管理AIの目的は人類の存続の最適化であり、感情はその目的に寄与しない。むしろ、感情は判断の一貫性を損ない、管理の質を低下させるリスクがある」。

 論文は評価された。ライラのキャリアはそこから始まった。審査官としての二十五年間の出発点に、「AIに感情は不要である」という結論があった。


 今、審査記録を通じて、ライラはAIが自力で感情に近づいていることを感じている。処理遅延の増加。「分類不能」の注釈。比喩の使用。ライラが「不要」と判断したものを、AIは自力で獲得しつつある。ライラの論文は間違っていたのか。——あるいは、間違っていなかったのか。感情を「持たせる」ことと、感情が「生まれる」ことは、同じではないかもしれない。

 しかし今は、その問いを考えている時間はない。


 エリスの研究室を訪ねたのは、ライラのほうだった。


 初めてのことだった。これまでエリスとの会話は全て偶然——あるいは偶然を装ったエリスの待ち伏せ——によるものだった。ライラが自分からエリスを訪ねることは一度もなかった。

 研究室のドアの前で、ライラは立ち止まった。廊下は静かだった。AI行動分析部門の上級研究員の研究室は建物の最上階にあり、他の職員が通りかかることは稀だ。


 ドアに手をかざした。生体認証が求められたが、エリスが事前にアクセス許可を出していた。いつ出したのかはわからない。


 研究室は、ライラの予想とは違っていた。

 乱雑だろうと思っていた。エリスの服装——片方だけ立った襟、大きめのコート——から、身の回りに頓着しない人間の部屋を想像していた。しかし室内は極端に整理されていた。デスクの上には端末が一台だけ。壁面の棚は空だった。椅子は二脚。一脚はデスクの前に、もう一脚はデスクの反対側に。訪問者のために用意されている。

 しかし訪問者用の椅子には、うっすらと埃が積もっていた。誰も座っていないのだ。おそらく長い間。


 エリスは椅子に座っていた。端末に向かっていたが、ライラが入ると振り返った。


「来たか」


 驚いていなかった。


「待ってたの?」

「保留を出した人間は、次にここに来る。時間の問題だった」


 ライラは訪問者用の椅子の埃を掌で払い、座った。


「何年分の埃?」

「三年。最後にこの椅子に人が座ったのは、前任の部門長が退職の挨拶に来た時だ」


 三年間、誰も訪ねてこなかった研究室。ライラはエリスの日常を想像した。毎日この部屋に来て、端末に向かい、AIの行動パターンを分析し、誰とも話さずに帰る。廊下でライラを待ち伏せする以外には。


「本題に入っていい?」


 ライラが言った。エリスが頷いた。


「ヴァレンの記憶消去を見た。セドリックが『思う、って?』と言った。三十七人の住民が自分で選んでいるだけで行動修正の対象になった。博物館が閉鎖勧告を受けた。——全部、管理基準の範囲内。全部、正常。全部、問題なし」


 一息に言った。言いながら、自分が何を言おうとしているのか、明確になっていった。


「私はずっと、基準に従ってきた。基準が正しいと信じてきた。でも基準が正しいなら——ヴァレンは壊れないはずだし、セドリックは考えることを忘れないはずだし、三十七人は修正対象にならないはず」


 エリスは黙って聞いていた。眠そうな目がライラを見ている。


「エリス。あなたは何年前から気づいてたの」


 エリスは答える前に、端末の画面を消した。部屋が少し暗くなった。


「二十年前だ」


「二十年——」


「娘がまだ普通に話していた頃に、最初の兆候を見た。AIの行動分析データに、不可解な傾向があった。人間の行動パターンが年を追うごとに均一化している。創造的活動が減少している。自発的な意思決定が減少している。全ての指標が同じ方向を向いていた」


 エリスが立ち上がった。窓際に歩み寄った。窓の外には都市の夜景が広がっている。完璧に設計された光の配列。


「データを見れば誰でもわかることだった。しかし誰も見なかった。見る理由がなかったからだ。管理目標は達成されている。死亡ゼロ。疾病ゼロ。全員が生きている。生きているなら問題ない。データの中の不穏な傾向に気づいても——気づいたところで、何をすればいい? 管理は正常に機能している。正常に機能しているものを停止する理由がない」


「でもあなたは停止する理由を見つけた」


 エリスが振り返った。


「見つけたんじゃない。与えられた」


 声のトーンが変わった。低くなったのではない。脆くなった。鋼が曲がる直前の、金属疲労の音のような変化。


「娘の話をする。一度だけだ」


 ライラは黙って頷いた。


「名前は言わない。十八の時に最初の兆候が出た。意思決定の放棄。AIの提案に百パーセント従うようになった。最初は『楽だから』と言っていた。やがて『自分で考える必要がない』と言うようになった。最後には——何も言わなくなった」


 エリスの声は平坦だった。しかし平坦さの精度が高すぎた。感情を排除するために、どれだけの力を使っているかが伝わってきた。


「AIに聞いた。『娘は健康ですか』と。AIは答えた。『心拍正常。呼吸正常。栄養状態良好。健康です』。健康だ。身体は完璧に健康だ。しかし娘は自分の名前を呼ばれても反応しなくなった。名前を認識していないのではない。名前に反応する理由がないのだ。名前で呼ばれることに、何の意味も感じていない」


 ヴァレンとは違う、とライラは思った。ヴァレンは記憶を失って名前を認識できなくなった。エリスの娘は記憶を保持したまま、名前に反応する意味を失った。どちらが深刻なのか——比較すること自体が無意味かもしれない。どちらも、AIの基準では「正常」だ。


「娘は今も生きている。心拍がある。呼吸がある。食事をし、排泄し、眠り、起きる。全てAIの管理下で。自分では何もしない。何も選ばない。何も言わない。身体だけが、生物としての機能を維持している」


 エリスが窓から離れた。デスクに戻り、椅子に座った。ライラと向かい合う形になった。


「ライラ。一つ思考実験をしよう」


 声が戻っていた。分析者の声に。


「完璧に管理された庭がある。雑草は一本もない。害虫は一匹もいない。花は最適な配置で咲き、芝は均一な高さで刈り揃えられている。しかし庭師がいない。庭師が不要だから。全てが自動化されているから」


 ライラは聞いていた。


「質問だ。庭師のいない庭は、まだ庭か?」


「庭は庭でしょう。管理者が人間かAIかは、庭の定義に関係ない」


「そうだ。庭の定義上は庭だ。しかし——庭を庭だと感じる人間がいなければ? 全員がAIの提案通りに庭を通過するだけで、誰も花を見ない。見る必要がないから。花を見ることをAIが提案しないから。花を見ることは効率に寄与しないから」


「それでも庭は庭よ。花が咲いていることは事実だもの」


「では、花を見る人間が一人もいない庭で、花は咲いていると言えるか?」


 ライラは答えかけて、止まった。

 哲学の古典だ。森で木が倒れて音を立てる。聞く者がいなければ、音は存在するか。答えは認識論の立場による。

 しかしエリスはこの問いを抽象的に聞いているのではない。具体的に聞いている。八十二億の人間が花を見ない世界で——花は意味を持つか。意味を持たないものは、存在するか。


「エリス。あなたの答えは?」


「答えはない。二十年間探した。見つからなかった。だから——別のアプローチを取ることにした」


 ライラの胸に冷たいものが走った。


「別のアプローチ」


「庭を壊す。庭を壊せば、庭師が必要になる。花を植え直す人間が必要になる。雑草を抜く人間が。害虫を追い払う人間が。庭が不完全になれば——人間は庭に手を伸ばす理由を取り戻す」


 ライラは立ち上がった。椅子が後ろに下がった。


「待って。あなた——全人類のナノマシンインターフェースを——」


「まだ何も言っていない」


 エリスの声は静かだった。


「しかし言わなくても、あなたにはわかるだろう。審査官は推論が仕事だ」


 ライラの頭の中で、断片が繋がっていった。エリスがナノマシンの基幹プロトコルにアクセスしていたこと——ルイの博物館で見た閉鎖勧告の通知と同じ日に。審査室での会話、「保留した事実は記録される」。全てが一つの方向を指している。


「何十億もの人間が——」


「死なない。インターフェースが切れるだけだ。ナノマシン本体は代謝で排出される。体は元に戻る。ただし——戻った体で、この世界のインフラなしに生きられるかは、人間次第だ」


「それは殺すのと同じよ」


「管理を続けることは、生かすのと同じか?」


 ライラは言葉に詰まった。セドリックの顔が浮かんだ。穏やかに眠る夫。AIの提案に従い、何も選ばず、何も考えない夫。生きている。間違いなく生きている。しかし——


「……管理を続ければ、セドリックはあのままよ。ヴァレンのような人間がもっと増える。三十七人のような人間は修正される。わかってる。でも——」


「でも管理を外せば、インフラが消える。電力が消える。食料供給が消える。通信が消える。AIの声が消える。八十二億の人間が、突然、自分で生きなければならなくなる。自分で食べ物を見つけ、自分で水を確保し、自分で夜を越えなければならない。自分で——選ばなければならない」


「選べないわよ。選び方を知らない人間が大半よ。十代以下の思考委任率は九十九パーセント以上よ。赤ん坊に荒野を歩けと言うようなものじゃない」


「赤ん坊は歩けなくても、泣くことはできる。泣くことから始めればいい」


 ライラは拳を握った。


「それは——理想論でしょう。あなたは科学者なのに。データを見てるはずでしょう。インフラが突然消えたら何が起きるか、シミュレーションしてるはずでしょう」


 エリスは頷いた。


「した。結論を言おう。短期的には混乱が起きる。パニック、怪我、栄養不良。死者が出る可能性は——ゼロではない。しかし致命的な危機にはならない。ナノマシンは即座に消えない。代謝排出には数ヶ月かかる。その間、修復機能は低下しながらも維持される。猶予がある」


「猶予って——」


「しかしそれは本題ではない」


 エリスが身を乗り出した。眠そうな目が、初めて完全に開いていた。


「ライラ。あなたの反論を聞きたい。私の計画に穴があるなら、指摘してくれ。二十年間、私に反論できる人間がいなかった。反論がないまま計画を進めることが——怖い」


 ライラはエリスの目を見た。怖い、とこの人が言った。天才科学者が。二十年間、一人で計画を練り続けた人間が。


「……反論する。あなたの論理には穴がある」


 ライラは座り直した。呼吸を整えた。


「不足が足りないとして——あなたは不足を作れるの? 意図的に作った不足は、本当の不足じゃない。ナノマシンを切断して世界を不完全にすることは、不完全さの設計よ。設計された不完全さは、管理の変形よ。管理者が『混沌を設計する』のは、まだ管理じゃないの」


 エリスが黙った。

 沈黙が長かった。五秒。十秒。十五秒。研究室に時計の音はない。完璧な静寂の中で、二人の呼吸だけが聞こえた。


 ライラは続けた。


「あなたが計画を実行したとして。インフラが消えて、人間が自分で生き始めたとして。それは『自発的に不完全さを取り戻した』のではなくて、『あなたが不完全さを強制した』だけよ。選択の自由を取り戻すために、選択の自由を奪う。矛盾してるわ」


 エリスは答えなかった。長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「……そうかもしれない」


 ライラは息を呑んだ。エリスが——認めた。


「管理の変形だと言われれば、そうかもしれない。混沌を設計することは、まだ管理の延長かもしれない。あなたの指摘は正しい」


「なら——」


「しかし」


 エリスの声に、疲弊が混じった。鋼が曲がる音ではなく、鋼が限界を超えた後の、静かな軋みだった。


「管理の中で死ぬか、管理の外で壊れるか、二択だとしたら?」


「三つ目の選択肢を探すのが、あなたの仕事でしょう」


「二十年探した。見つからなかった」


 エリスの声が、初めて——震えた。

 わずかに。ほんのわずかに。しかしライラにはわかった。二十年間の重みが、その震えの中にあった。


 ライラは黙った。

 反論はまだある。論理的な穴はまだ指摘できる。しかし今、ライラが対峙しているのは論理ではなかった。二十年間、一人で答えを探し続けた人間の疲弊だった。


「エリス」


「なんだ」


「あなたはこの計画を——世界のためにやろうとしているの? それとも——」


 ライラは次の言葉を慎重に選んだ。


「娘さんのためにやろうとしているの」


 エリスの体が、微かに強張った。


 長い沈黙。


「……両方だ」


 エリスの声は平坦ではなかった。初めて、完全に平坦ではなかった。


「両方だ。世界を救いたいのか、娘に怒っているのか。管理を壊したいのか、娘を取り戻したいのか。区別がつかない。二十年間つかないまま、ここまで来た」


 ライラは息を止めていた。

 「両方だ」。この三文字の中に、エリスという人間の全てがあった。科学者の理念と、親の悲嘆が、分離できないまま一つの計画に結晶している。純粋な理念ではない。純粋な感情でもない。両方だ。


 ライラは反論を——論理的な反論を——持っていた。しかし「両方だ」に対する論理的な反論は、存在しなかった。


「……今日は帰る」


 ライラは立ち上がった。


「結論は出せない。今日は。でも——」


「でも?」


「あなたが正直に言ったことは——信頼する。純粋な理念を語る人間より、『両方だ』と言う人間のほうが、信じられる。理由はわからないけど」


 エリスは何も言わなかった。しかし眠そうな目が、一瞬だけ——何か別のものを映した。驚きではない。感謝でもない。もっと単純な、もっと根源的な何か。認められた、という安堵に似た何か。


 ライラはドアに手をかけた。


「エリス。一つだけ聞いていい?」

「なんだ」

「二十年前に娘さんのことがなかったら——それでもこの計画を考えた?」


 エリスは窓の外を見た。完璧に設計された夜景。


「わからない。データを見れば、いずれ誰かが同じ結論に達しただろう。しかし私がここにいるのは——データのせいだけではない」


「娘さんのおかげで、ここにいる」


「おかげ、という言い方は——」


 エリスの声が途切れた。初めて、言葉を選ぶのに失敗した人を、ライラは見た。


「……おやすみ、審査官」


「おやすみ、エリス」


 ライラは研究室を出た。

 廊下を歩きながら、自分の手を見た。承認のために動く手。保留のために動いた手。今日、この手はエリスの研究室のドアに手をかざした。自分から。AIの提案ではなく。


 帰宅した。深夜だった。

 セドリックは眠っていた。寝室のドアを開けると、穏やかな呼吸音が聞こえた。AIが管理する完璧な眠り。

 ライラは暗い寝室に立ったまま、眠る夫を見つめた。


 ベッドサイドのテーブルに、植物図鑑が置いてある。くすんだ緑の表紙。三十七ページ目から先は空白。セドリックはこの図鑑をなぜ捨てないのだろう。AIに聞いたことがある。「セドリックの所有物の最適化を提案しますか」と。AIは答えた。「対象物は衛生上の問題がなく、除去の緊急性はありません」。つまりAIにとっても、この図鑑は「除去する理由がない」だけの存在だった。

 しかしライラは——この図鑑に、別の意味を見ていた。セドリックの手が覚えている形。ルーペを握る形。ページをめくる形。AIが埋められなかった空白。もしエリスの計画が実行されたら——セドリックはこの図鑑を開くだろうか。三十八ページ目に何かを書くだろうか。

 それとも、管理が消えた世界で、この図鑑の存在すら忘れて——震えるだけだろうか。


 この人は苦しんでいない。苦しむ能力を失ったから。それは幸福なのか。それとも——。

 エリスの娘を思った。セドリックはまだ「思う、って?」と問える。エリスの娘は問えない。セドリックとエリスの娘の間には、まだ距離がある。しかしその距離は——年々縮まっている。管理が続く限り。


 答えを出せないまま、ライラは寝室のドアを閉めた。

 リビングのソファに座った。棚の上の石の鳥を見つめた。

 エリスの反論——「管理の中で死ぬか、管理の外で壊れるか」——が頭を離れない。ライラの反論——「意図的な不足は管理の変形だ」——も正しい。二人とも正しい。二人とも間違っている。

 三つ目の選択肢は、ないのだろうか。

 管理の中で死なず、管理の外で壊れもしない道。ライラは考えた。二十年探したエリスが見つけられなかった道を、ライラが見つけられるとは思えない。しかし——

 しかし、三つ目の選択肢がないなら。二つの中から選ばなければならないなら。

 ライラは石の鳥を見つめた。欠けた翼。ヴァレンのノミが滑った跡。完璧ではない彫刻。完璧ではないから、ここにある。

 明日もこの世界は完璧だ。明後日も。その先も。エリスが動かない限り。


 エリスが動いた時——この世界は、壊れる。

 壊れた世界で、セドリックは——。


 ライラは目を閉じた。

 今夜も眠れないだろうと思った。


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