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ヴァレンの夜

 この世界では、誰も死なない。誰も病まない。誰も苦しまない。

 だから人々は、自分の指の骨を折って笑う。


 通信端末が鳴ったのは、午前二時だった。


 ライラは審査報告書を閉じた。デスクの上に浮かぶ半透明のパネルが消え、部屋が暗くなる。端末に表示された名前を見て、溜息をついた。

 ヴァレン。

 三ヶ月ぶりだった。呼び出しの頻度は上がっている。内容も、毎回。


「ライラ、来て。今夜は本物よ」


 通信越しのヴァレンの声は高揚していた。背景に複数の笑い声と、何か硬いものがぶつかる音が混じっている。


「本物って何」

「痛み。本当の痛み。リミッターを外したの。全部」


 ライラは目を閉じた。

 痛覚フィルタ。骨折しても鈍い違和感、火傷しても温かさ。人類がこの機能を手にしてから、もう何百年になるだろう。痛みとは、管理すべきノイズだった。

 それを意図的に外す。


「すぐ行く」


 ライラは上着を掴んで部屋を出た。寝室の前を通りかかると、セドリックが規則正しい呼吸で眠っている音が聞こえた。起こす必要はない。彼が目を覚ますのは、AIが設定した最適起床時刻の午前六時四十二分だ。それ以外の時刻に起きたことは、ここ数年、一度もない。


          *


 ヴァレンの住居は都市の文化区画にあった。

 移動端末は使わなかった。AIが算出した最短ルートの通知を閉じ、自分の足で歩いた。十五分。深夜の都市は完璧に静かで、足元を照らす街路灯がライラの歩調に合わせて明度を自動調整した。街路樹は等間隔に並び、一枚の落ち葉もない。匂いもなかった。土の匂いも、草の青さも、夜気の湿りも。空気は清浄で、快適で、何の記憶も呼び起こさなかった。


 ヴァレンの住居にたどり着き、玄関に手をかざす。生体認証で解錠された。こういう夜のために、ヴァレンが事前に登録してくれている。


 ドアを開けた瞬間、音が押し寄せた。

 笑い声、呻き、何かがぶつかる鈍い衝撃音、そして短い悲鳴のような——しかし歓喜に近い叫び。広いリビングに十数人がいた。全員が裸足で薄い室内着を身につけ、床には柔らかい素材が敷かれている。壁は衝撃吸収パネル。準備は周到だ。部屋の中央の低いテーブルに、ナノマシン制御端末が置かれている。パネルに「痛覚フィルタ:無効」の表示が赤く点灯していた。


 一人の男が拳をテーブルの角に打ちつけた。

 骨が軋む鈍い音。男は顔を歪め、そして笑った。


「すごい。これが痛みか。本当に——すごい」


 隣の女が男の手を取った。中指が不自然な角度に曲がっている。折れている。数秒後、ナノマシンの自動修復が作動し、指の骨が内側からゆっくりと元の位置に戻っていった。皮膚の下で何かが蠢く、微かな音がする。十秒とかからなかった。痛覚フィルタが無効でも、修復機能は生きている。壊しても直る。だから何度でも壊せる。


 ライラは入口に立ったまま、部屋を見渡した。

 職業的な視線だった。AI倫理審査官として二十五年、AIが人間に対して行った判断を精査し、倫理基準への適合を評価する。それが仕事だ。今この瞬間も、ライラの思考は審査のフレームワークを自動的に適用していた。

 同意あり、恒久的損傷なし、介入基準未達。不適合事由なし。

 二十五年間、結論はいつも同じだ。一瞬で終わる。

 では、なぜ自分はここにいるのか。審査官として来たのではない。友人として来た。しかし友人として何ができる。ヴァレンを止められるのか。止めるべきなのか。止めることは——ヴァレンから何かを奪うことにならないか。


 壁際では、年配の男がじっと自分の掌を見つめていた。掌に小さなナイフで切り込みを入れ、血が滲むのを見ている。血は赤く、温かく、確かにそこにある。男は切り口を見つめながら小さく頷いた。何かを確認した表情だった。自分の身体が、まだ自分のものであること。ナノマシンが傷口を塞ぎ始めると、男は少しだけ名残惜しそうに目を細めた。

 別の場所では二人組が互いの頬を平手で打ち合っていた。一打ごとに乾いた音が響き、肌が赤く染まり、すぐに色が引いていく。二人とも笑っていた。だが笑い方が違う。片方は興奮で、もう片方はどこか哀しげに。

 ライラはその全てを眺めていた。審査官の目が自動的に記録を取り、分析し、分類する。しかし分類できないものが一つあった。この部屋に満ちている空気だ。それは快楽とも苦痛とも違う。もっと根源的な何か——飢えに近いもの。ここにいる全員が、何かに飢えている。


 部屋の奥で、若い女性が壁に背をつけて座り込んでいた。二十代だろう。両膝を抱え、頬に涙の跡がある。

 隣にいた男が声をかけた。「大丈夫? やめる?」

 女性は首を横に振った。「大丈夫。ただ——久しぶりすぎて」

 泣くことが久しぶりなのだ。痛みという理由があって、身体がそれに応える。その単純さが。


「ライラ!」


 ヴァレンが奥の壁際から手を振った。駆け寄ってきて、ライラの手を掴む。その手は温かく、わずかに震えていた。瞳孔が開き、こめかみに汗が浮いている。痛覚フィルタを外した状態では、身体の反応が制御を振り切ることがある。


「来てくれたのね。見て、見て」


 ヴァレンはライラを引っ張って、さきほどの若い女性のところへ連れていった。女性は自分の前腕を見つめていた。爪で引っ掻いた跡が赤く浮かんでいる。浅い傷。跡は見る間に薄れていく。女性はそれを見て、また泣いた。静かに、音もなく。


「彼女、泣いてるでしょう。痛みで泣けるの。いつ以来だと思う?」


 ライラはヴァレンの顔を見た。

 十五年前のヴァレンを知っている。都市で最も才能ある彫刻家と呼ばれていた頃の彼女を。硬質な天然石を削り出して作品にすることにこだわった。ナノマシンによる成形を使えば一瞬で完璧な造形ができる時代に、あえてノミと槌で石を割り、削り、磨いた。時間がかかり、失敗があり、思い通りにならない。そのことに意味があるとヴァレンは言った。

 ライラが審査室の棚に置いているのは、ヴァレンが二十八歳の時に作った小さな石の鳥だ。翼の先端が欠けている。最後の仕上げでノミが滑ったのだと、ヴァレンは悔しそうに笑った。「失敗作だから、あげる」。ライラはその欠けた翼が一番美しいと思った。

 今のヴァレンの手は、何も作っていない。壊すことと、壊されることだけを求めている。


「ヴァレン、帰ろう」

「なんで? まだ始まったばかりよ」

「痛覚フィルタを戻して。お願い」

「嫌よ」


 はっきりとした拒絶だった。


「だってこれが——ノミが石に当たった時の、手に返ってくるあの衝撃。覚えてる? あれに似てるの。石が押し返してくる感触。私はまだここにいるって、手が教えてくれる感触」


 ヴァレンの目に涙が浮かんでいた。泣いているのは痛みのせいではない。ライラにはわかった。この涙は、ほんの一瞬だけ取り戻した感覚の鮮やかさが、朝になればまた日常の無感覚に塗り潰されることへの、予感の涙だ。フィルタが戻れば、痛みは消える。痛みと一緒に、この切実さも消える。


「明日になれば全部元に戻る。痛みも、この感じも、全部消える。だから今夜だけ——」

「今夜だけ、をあなたは毎月言ってる」


 ヴァレンは黙った。数秒の沈黙のあと、口元だけで笑った。


「審査官はいつも正しいわね」

「正しくないわ。正しかったことが一度もない」


 ヴァレンが首を傾げた。ライラは自分の言葉に驚いていた。口をついて出た本音だった。

 二十五年。一度も不適合を出していない。それはAIの判断が常に最適であり、倫理基準を逸脱したことが一度もなかったということだ。完璧な記録。しかし完璧な記録とは、審査官が一度も意味のある判断を下さなかったということでもある。承認のスタンプを押すだけの二十五年。判断ではなく、手続きだ。押印機だって正しい。


「……ごめん。忘れて」


 ライラはヴァレンの肩に手を置いた。肩甲骨の硬さが掌に伝わった。かつてノミを振るっていた肩だ、と思った。


「せめてフィルタだけ戻して。修復機能があっても、フィルタなしの刺激を繰り返せば神経回路に負荷がかかる。あなたの脳が心配なの」

「脳なんてとっくに壊れてるわよ、みんな」


 ヴァレンはそう言って、しかし端末に手を伸ばした。「今夜はここまで」と参加者に声をかける。痛覚フィルタが再び有効になると、部屋の空気が変わった。

 変わった、というより——消えた。

 参加者たちの表情から鮮やかさが剥がれ落ちていくのが見えた。眉間の皺がなくなり、噛みしめていた歯が緩み、肩の力が抜ける。安堵ではない。関心の消失だ。先ほどまで拳を叩きつけていた男が、何事もなかったように立ち上がり、上着を羽織って出口に向かった。

 部屋が静かになった。呻きも笑い声も消え、衣擦れと足音だけが残る。管理された世界の、いつもの音に戻っていく。

 泣いていた若い女性が涙を拭いた。少し不思議そうに自分の頬に触れ、それから手を下ろした。立ち上がり、穏やかな表情で部屋を出ていった。もう泣く理由がない。


 ライラはその背中を見送った。

 消えたのは傷ではない。泣く理由が消えたのだ。


 ヴァレンだけが部屋に残っていた。端末を操作して衝撃吸収パネルの設定を戻しながら、独り言のように呟いた。


「次はもっといいの思いつくから」


 ライラは答えなかった。ヴァレンの横顔を見た。かつて石を彫っていた手が、制御端末のパネルを撫でている。あの手にノミを持たせたら、まだ彫れるのだろうか。

 思わないだろう、とライラは思った。彫ったところで、それより美しい形がAIによって数秒で生成される。手を動かす理由がない。だから壊す。壊すことだけは、代わりにやってもらえないから。


「おやすみ、ヴァレン」

「おやすみ。また呼ぶわね」

「……うん」


 また呼ぶだろう。そしてライラはまた来るだろう。来て、見て、不適合事由なしと結論して、帰る。


          *


 帰り道も、ライラは歩いた。

 深夜の都市は完璧に静かだった。ライラの靴音だけが響く。靴底を通して伝わる地面の感触は均一で、継ぎ目も段差もない。足がどこを踏んでいるのか、目を閉じたら区別がつかないだろう。

 ふと、靴を脱ぎたいと思った。ヴァレンの部屋では全員が裸足だった。靴底越しではなく、素足で地面に触れたかったのだろうか。ライラはその衝動に驚いた。驚いて、やめた。審査官が深夜の都市で裸足になったら、AIが異常行動として記録するだろう。記録されたところで不利益はない。しかし——記録されること自体を気にしている自分に気づいて、また驚いた。

 空を見上げると、星が見えた。どこからでも見える星だった。大気中のナノマシンが光害を制御しているから、都市の中心でも星が見える。きれいな空だった。いつでもきれいな空だった。曇りの日も、AIが雲の密度を調整して、ある程度の星空を維持する。星空はいつも最適な美しさで提供されている。美しいはずなのに、見上げるたびに何かが足りないと感じるのは——なぜだろう。

 雲に隠されて見えないはずの夜に、見えないことを悔しがる。そういう経験が、もうこの世界にはない。


 ヴァレンの言葉が頭に残っている。

 ノミが石に当たった時の衝撃。押し返してくる感触。それを痛覚パーティの中に見出そうとしている友人。完璧に舗装された道を歩く人間が、わざわざ靴を脱いで砂利の上を歩くようなものだ。

 それはヴァレンが壊れているからなのか。それとも、壊れているのはこの世界のほうなのか。


 審査官としての答えは明確だ。ヴァレンの行動は基準の範囲内。問題はない。

 しかし友人としてのライラは、別の問いを抱えていた。あの部屋に満ちていた飢え。あれを「基準の範囲内」と分類することに、今夜はわずかな抵抗を感じていた。壊れていく友人のほうが、自分より正直かもしれない——そんな不安が、靴底の下でかすかに軋んだ。


          *


 自宅に着くと、すべてが最適な状態で待っていた。

 室温二十二度。湿度四十五パーセント。間接照明が足元だけを柔らかく照らしている。何も頼んでいない。何も操作していない。


 寝室のドアを静かに開けた。

 セドリックが眠っていた。仰向けで、両手を体の横に添え、掛け布団は胸の位置で均等に折り返されている。呼吸は深く、規則正しい。寝返りさえほとんど打たない。

 穏やかな寝顔だった。苦痛のない、不安のない、完璧な眠り。

 ライラはセドリックの手を見た。右手の指が、わずかに丸まっている。何かを握る形。かつて毎日そうしていたように——ルーペを、ピンセットを、植物の標本を。七年前に研究をやめた後も、手だけがまだ覚えている。握るべきものがもうないことを、手はまだ知らない。

 セドリックが研究をやめたのは、環境管理が植物の成長を完璧に制御するようになり、予測不能な変化がなくなったからだ。観察すべき「未知」が消えた。セドリックは穏やかに笑って言った。「もう調べることがないんだ」。その言葉を聞いた時、ライラの胸に走った冷たいものを、今でも覚えている。あの日から、セドリックの穏やかさは変質し始めた。

 十年前も穏やかだったが、質が違った。あの頃の穏やかさには満足の手触りがあった。帰宅して夕食を作りながら「今日はイチジクの枝が三センチ伸びた」と嬉しそうに報告する、あの穏やかさ。小さな発見に小さな喜びを感じる、人間の穏やかさだった。

 今の穏やかさは、何もないから穏やかなのだ。喜びがないから不満もない。発見がないから失望もない。凪いだ水面。何も映していない。


 ライラは寝室のドアを閉めた。


 リビングに戻り、ソファに座った。棚の上に置かれた小さな石の鳥を見つめた。

 ヴァレンの作品だ。翼の先端が欠けている。薄い灰色の石から削り出された、手のひらに収まるほどの鳥。欠けた翼の断面には、ノミが滑った跡が残っている。


 ライラは石の鳥を棚から取り、掌に載せた。冷たい石の感触。欠けた翼の断面に親指を当てると、ノミの跡がわずかにざらついた。自分の指紋と、ヴァレンの失敗の跡。二つの不完全さが触れ合っている。

 この鳥をAIに見せたら、何と評価するだろう。欠けた部分を最適な角度で補填し、左右対称の完璧な鳥に仕上げる改善案を提示するだろうか。ヴァレンが滑らせたノミの跡を消し、「改善率98.4%」とでも表示するだろうか。

 それはもう、この鳥ではない。


 鳥を棚に戻した。

 明日も審査室に行く。案件を開き、読み、承認する。二十五年と一日目の完璧な記録が積み上がる。

 それでいい。それでいいはずだ。


 ——では、なぜ自分は今、欠けた翼を見つめているのだろう。


 寝室からセドリックの呼吸音が聞こえてくる。完璧に管理された、乱れのない呼吸。かつてセドリックは寝言を言う人だった。研究のことを夢に見て、寝ながら「三センチ……」と呟いたこともある。ライラは隣で笑いをこらえた。あの頃の眠りは不完全で、不規則で、時々ライラを起こした。それが嫌ではなかった。

 今の眠りは完璧だ。誰も起こさない。誰も笑わせない。


 ライラはソファの上で膝を抱えた。

 AIが推奨する就寝時刻はとうに過ぎていた。睡眠導入の制御を有効にすれば、三分以内に眠れる。

 今夜は、通知を閉じた。

 眠れないまま朝を迎えることを選んだ。


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