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36.レギオン帝国の怪童

東方の国境線が「蒸発」したという報は、新生バルト帝国全土に衝撃を与えた。  


三國連合軍の精鋭すら翻弄したゼノンの「数式」による防御網が、物理的な熱量と質量によって強引に突破されたのである。


東部戦線から逃げ延びた数少ない兵士たちが語るのは、戦略魔法の応酬といった生易しいものではなかった。


それは、空を埋め尽くす鉄の巨鳥と、痛みを知らぬ鋼の兵団による、一方的な「蹂躙」の記録であった。


 ゼノンは即座に本陣を東部の要衝、要塞都市アイゼンへと移した。  


アイゼンの作戦会議室。


ホログラム地図を囲むのは、ゼノン、ハンス、ソフィア、そしてリィン。


彼らの前には、偵察用の使い魔が命懸けで持ち帰った「映像」が投影されていた。


「……何、これ。これが、人間のすることですの?」  ソフィアの声が、嫌悪と恐怖で微かに震える。


 映像に映っていたのは、かつてアステリア王国の肥沃な村だった場所だ。


そこには、村人の姿はない。代わりに、巨大な魔導ドリルを背負わされた「生体兵器」が、大地を抉り、魔力の源泉を強引に吸い上げていた。  


カイン・レギオン。彼は前世の軍事知識を、この世界の魔導と最悪の形で融合させていた。


人間を単なる「部品」や「燃料」として扱う、徹底した略奪的合理主義。


それは、民に豊かさを与えてシステムに組み込むゼノンの手法とは、対極にある地獄の風景だった。


「報告します。敵の先鋒、その指揮官を特定しました」  リィンが影から現れ、一枚の魔導写真を机に叩きつける。  


そこに写っていたのは、焼け野原の中で無邪気に笑う、十歳ほどの少年だった。


「名前はルカ。レギオン帝国四天王の一角……通称『怪童』。戦場で見つかった生存者の証言によれば、彼は『笑いながら、視界に入るすべての物質を分解していた』と」


「……子供だと? 冗談はやめろ。カインは、子供を戦場に立たせるほど追い詰められているのか?」  ハンスが憤怒に顔を歪めるが、ゼノンは冷淡に首を振った。


「違うぞ、ハンス。カインは、子供リソースを最も効率的な殺人兵器へと『加工』したのだ。

……あの少年の脳には、おそらく数万個の魔導演算素子が直接埋め込まれている。自我を削り、演算能力のみを極大化させた、生体CPUだ」


戦場に舞い降りた不条理

 アイゼン要塞の防壁が、突如として激しく震えた。  


警報が鳴り響く。だが、飛来する砲弾の反応はない。


空間そのものが、外部からの干渉によって「圧壊」を始めていた。


「防壁出力、急降下! 陛下、外側に……位相の歪みを観測しました!」  


ソフィアの叫びと同時に、ゼノンはバルコニーへと躍り出た。


 アイゼン要塞の巨大な門の前に、その少年——ルカは立っていた。  


銀髪をなびかせ、短パンにサスペンダーという、あまりにも戦場に似つかわしくない格好。


しかし、彼の周囲数百メートルは、物理法則が完全に崩壊していた。


大地は浮き上がり、重力はねじ曲がり、近づこうとした平民騎士団の精鋭たちは、叫ぶ間もなく「点」にまで圧縮され、消滅していく。


「あはは! 凄いなぁ、この要塞! 陛下が言ってた通り、とっても綺麗な『計算』で守られてる!」


 ルカが空を仰ぎ、無邪気に手を振った。


その瞬間、アイゼン要塞の第二隔壁が、目に見えない巨大な「不可視の拳」に叩かれたかのように、内側へ向かってひしゃげた。


「——観測。この世界の重力定数を、1.5倍に固定。……あはは、みんな動きが鈍いね! 蟻さんみたい!」


「貴様ぁっ!!」  


ハンスが憤怒と共に飛び出した。


ゼノンから与えられた魔導剣を抜き放ち、重力異常の中を強引に突き進む。


ハンスの体にはゼノン直筆の「加重相殺術式」が刻まれており、ルカの不条理な空間をある程度無効化できていた。


 だが、ルカは笑みを消さない。 「おじさん、強いね。でも、数式が『古い』よ」


 ルカが指先をハンスに向ける。 「物理演算・遮断カット。……おじさんの剣、今から『羽毛』と同じ重さにするね」


 ハンスの振り下ろした必殺の一撃。


だが、その剣はルカの髪一本に触れた瞬間、質量を失ったかのようにフワリと浮き上がった。


「なっ……!?」


「はい、お返し!」  


ルカが軽くハンスの胸元を突く。


その瞬間、ハンスの体は数トンの衝撃を受けたかのように吹き飛び、要塞の石壁を三枚貫通して深々と埋もれた。


数式ゼノンvs 狂気ルカ

「……そこまでにしておけ、失敗作」


 静かな、しかし氷のように冷たい声が戦場に響いた。  


ルカの背後に、いつの間にかゼノンが立っていた。転移の予兆すらない、完璧な座標移動。


「……わぁ。貴方がアスタルク? 違う、今はゼノン陛下、だっけ」  


ルカは興味深げに首を傾げた。彼の瞳には、人間らしい感情の色はなく、代わりに無数の魔導コードが流動している。


「カインにお前の解析データを送らせてもらったが、なるほど。脳の九割を欠損させ、代わりに古代遺跡から発掘した『演算結晶』を埋め込んだか。……兵器としては優秀だが、知性としてはゴミ以下だな」


「ゴミ……? ひどいなぁ。僕は、陛下に選ばれた『正解』なんだよ?」


 ルカの両手が青白く光る。


「ねぇ、ゼノン陛下。陛下の作ったこの要塞、今から『存在しなかったこと』にしていい? 空間の座標を全部ゼロにすれば、綺麗に消えると思うんだ!」


 ルカが全魔力を解放した。


アイゼン要塞を中心とした半径三キロメートルの空間が、不気味な黒いモヤに包まれ、文字通り「消失」しようとする。


 だが、ゼノンは一歩も動かない。


彼は自身の魔導デバイスを操作することもなく、ただルカの目を真っ直ぐに見据えた。


「——事象の固定アンカー。……ソフィア、全学生軍の演算リソースを私に回せ。このガキの『落書き』を、上から全て正解で書き換えてやる」


 ゼノンの足元から、白銀の幾何学模様が津波のように広がった。  


ルカが引き起こした空間の歪みが、ゼノンの展開する「絶対的なルール」に触れた瞬間、パズルのピースがはまるように、元の正常な座標へと強制的に戻されていく。


「な……えっ? 僕の計算が、上書きされる……!? そんなの、あり得ない!」


「あり得ないのではない。お前の演算が『雑』なだけだ。……ルカと言ったか。お前の脳にある結晶の耐久値を計算した。……あと十秒、私と演算の競り合いを続ければ、お前の頭は物理的に沸騰するぞ」


 ゼノンの瞳には、慈悲など微塵もなかった。あるのは、壊れた機械を廃棄しようとする技術者の冷徹な視線。


「く……あ、あああぁぁぁっ!! 頭が、熱い! 痛いよ、陛下ぁっ!!」


 ルカが頭を抱えて叫び声を上げる。彼の目、鼻、耳から、過負荷による鮮血が噴き出した。ゼノンとの「演算の速度勝負」に敗北した結果、生体脳が熱量に耐えきれなくなったのだ。


「……ルカ、そこまでだ」


 その瞬間、戦場を覆っていたすべての圧力が、嘘のように消失した。  


ルカの背後の空間が裂け、巨大な黄金の腕が現れて彼を回収する。


『ハハハ! 悪いね、アスタルク。うちの坊やが、少しはしゃぎすぎたみたいだ』


 空から降ってくる、聞き覚えのある不敵な笑い声。  ゼノンは空を見上げ、漆黒の瞳を細めた。


「……カイン。直接来ればいいものを」


『まあ待てよ。三日後だ。……三日後の正午、ヴェルダン平原でお前の顔を直接拝みに行く。……それまで、精々その『平和な王国ごっこ』を維持しておくんだな』


 声は消え、ルカも、不気味な歪みも消え去った。  


後に残されたのは、崩壊した要塞の一部と、圧倒的な「恐怖」の残滓。


 ハンスを救出したソフィアたちが、ゼノンの元へ駆け寄る。 「……陛下、今のは……」


「……レギオン帝国の『怪童』。だが、あんなものは四天王の中でも最弱の、単なる露払いだ」


 ゼノンは自らの手を強く握りしめた。その指先は、わずかに、しかし確かな怒りで震えていた。


「全軍に告ぐ。……三日後、この大陸のあるじが誰であるかを、決定付ける戦いを行う。……一人の死者も出すな。……私の数式に、敗北の文字はない」


 バルト帝国の兵士たちは、その静かな怒りに触れ、より一層の狂信的な忠誠を誓い、咆哮を上げた。  その火蓋は、あまりにも残酷な形で切って落とされた。"

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