35.東方からの不穏な風
新生バルト帝国の建国を祝う熱狂は、数日が経過してもなお、王都グラン・ガルドを包み込んでいた。
かつて重税に喘ぎ、明日をも知れぬ命だった平民たちは、今やゼノンがもたらした「最適化」の恩恵を受け、清潔な衣類を纏い、腹を満たしている。
彼らにとって、ゼノン・バルトはもはや政治的な指導者ではない。世界の不条理を書き換え、自分たちに「未来」という名の数式を与えてくれた、文字通りの救世主であった。
だが、その安寧を切り裂く「風」は、東の国境を越えてやってきた。
その日の午後、王都の魔導演算塔を監視していたソフィアは、自身の端末が吐き出す異常な数値に、喉の奥が凍りつくような感覚を覚えた。
「……何、これ? 空間の歪み係数が、計測不能……?」 彼女の脳内にある演算補助回路が、警告の赤光を明滅させる。それは、これまで戦ってきた三國連合軍の魔導師たちが束になっても届かない、圧倒的かつ暴力的な「熱量」の接近を示していた。
同時刻、王城のバルコニーにいたゼノンは、自らの魔導デバイスを介さずとも、その「気配」を察知していた。 東の空が、あり得ない速度で変色していく。
夕焼けにはまだ早い。それは大気が異常な高熱によって電離し、プラズマ状に変質した際に放つ、不気味な紅蓮の色だった。
「……ようやく来たか、カイン。相変わらず、挨拶の仕方が品性のかけらもない」
ゼノンの呟きと共に、王都の鐘が鳴り響いた。
それは避難を促す警告音ではなく、バルト帝国軍——平民騎士団と学生軍へ向けた「総員戦闘配置」の号令だった。
絶望の観測
東部国境の守備にあたっていた平民騎士団の第4師団からの通信が、謁見の間に投影された。
投影された映像は激しく揺れ、ノイズが走っている。その背景に映し出された光景に、居合わせた文官たちは絶句した。
地平線を埋め尽くすのは、銀色の重装甲に身を包んだ「軍勢」だった。
しかし、それらは人間の歩法で進軍してはいない。機械的な関節駆動音を響かせ、一糸乱れぬ等間隔で大地を削りながら進む。
カイン・レギオンが作り上げた「改造兵」。
個体としての痛みを取り除き、反射速度を極限までブーストされた、死を恐れぬ殺戮機械の群れである。
そして空を見上げれば、巨大な岩塊が浮遊していた。
いや、それは岩ではない。カインが強引に浮遊術式を組み込み、武装化した「要塞島」である。
『陛下、報告します……! 敵、推定数五万! 魔法の射程が、こちらの倍以上……! 防壁が、一瞬で……あ、あああぁぁぁっ!』
映像は、眩いばかりの紅い閃光と共に途絶えた。
閃光が放たれた後には、国境の強固な砦も、そこにいた数百の兵士も、塵一つ残さず蒸発していた。
「報告を終了しますわ」 ソフィアが唇を噛み切りそうなほど強く結び、震える声で告げる。 「東部第4師団、全滅。
生存者……ゼロ。……陛下、これは『戦争』ではありません。ただの『消去』です」
王の静寂、臣下の熱狂
場が絶望に支配されようとしたその瞬間、ゼノンが静かに立ち上がった。
その足音一つで、謁見の間の喧騒が霧散する。
「ソフィア。演算を止めるな。敵の出力が高いのは想定内だ。
……カインの理論は『最大出力の衝突による粉砕』。私の理論は『最小手数による構造崩壊』。……どちらが上か、それを証明する機会が来ただけだ」
ゼノンの声には、一欠片の動揺もなかった。それどころか、彼の瞳には冷徹な知的好奇心の光さえ宿っている。 その姿を見たハンスが、力強く拳を胸に当てた。
「陛下……! 我ら平民騎士団、この日のために命を磨いてまいりました。あの東方の化け物どもに、陛下の導き出した『正解』の味を教えてやります!」
ハンスだけではない。ソフィアも、リィンも、そしてエレオノーラさえもが、ゼノンの背中に向けて狂信的なまでの敬畏を抱いていた。
三國連合を赤子のように捻り潰したその手腕。飢えを消し、理不尽な身分を消したその知略。
彼らにとって、ゼノンは負けるはずのない存在だった。東方から迫る不気味な風でさえ、主君の偉大さをより際立たせるための「前座」に過ぎないのだ。
「全軍に布告しろ。……これよりバルト帝国は、大陸全土を巻き込む『最適化工程』の第2段階に入る」
ゼノンは、自身の魔導外套を翻し、前線へと向かうための転移門へ歩み出した。
「カイン……。お前の言う『暴力』が、私の『数式』の前にどれほど無力か。……数十年ぶりの再会だ。たっぷりとお前の絶望を演算してやろう」
不穏な影の正体
一方、東部国境。 煙を上げる砦の跡地に、一人の男が降り立った。
黄金の髪をなびかせ、贅を尽くした軍服に身を包んだ青年——皇帝カイン。彼は、自分たちが焼き尽くしたばかりの死の灰を愛おしそうに眺め、空を仰いだ。
「あはは! 見てよ、この焦げた匂い! 懐かしいなぁ、アスタルク(ゼノンの前世の名)の魔力の匂いが混じってる」
カインの背後から、不気味な気配が立ち上る。それは彼が寵愛する四天王たちと、無感情に武器を構える数万の改造兵たち。
「アスタルク。お前はまた、綺麗な『平和』なんていう脆い箱庭を作ってるんだね。……いいよ、俺が全部壊してあげる。お前のその冷たい脳みそが、恐怖で沸騰するまでさ」
カインが指を鳴らした瞬間、さらなる極大の熱線が、バルト帝国の第2防衛ラインへと向かって放たれた。
空を裂く紅の光。 バルト帝国の平穏な日々は、この瞬間に幕を閉じた。
これから始まるのは、富を奪う戦争ではない。
この世界の「理」をどちらが書き換えるのかを決める、転生者同士の知略と暴力の衝突。
次回、「第3幕:帝国激突編」。 その幕開けを告げる風は、もはや止まることを知らなかった。




