29.一対一万の戦術
"ヴェルダン平原を埋め尽くしたのは、三國連合軍が誇る鋼の濁流だった。
西のカスティア重装歩兵が地響きを鳴らし、北のウラル騎兵が砂塵を巻き上げる。
南の運河からはレムリアの魔導艦隊が砲門を開き、その威容はまさに「世界の意思」がゼノン一人を押し潰そうとしているかのようだった。
「見ろ、あの惨めな軍勢を! わずか数千のガキ共と平民で、我ら五万の連合軍に立ち向かおうというのか!」
連合軍総大将、エドワード公爵が嘲笑と共に剣を抜く。
対するバルト軍。ゼノンは最前線に、一列に並んだ学生軍「アカデミア・レギオン」を配置していた。
彼らは杖を持たず、背負っているのは筒状の奇妙な魔導デバイス「バルト式加速筒」のみ。
「ソフィア、敵第一陣との距離は?」
「……三千二百。ウラル軽騎兵、突撃体系に入ります。計算上、あと四十秒で接触しますわ」
ソフィアは、自身の脳と同期した演算回路を通じて、戦場を「数値の羅列」として捉えていた。
彼女の瞳に、もはや戦いへの恐怖はない。あるのは、数式が正しく解けるかどうかの確信だけだ。
魔法の「物流」
「よし。ハンス、重力定数を『四倍』に固定。全学生、演算リンク開始」
ゼノンの号令と共に、学生たちが一斉にデバイスを地面に突き刺した。
彼らが展開したのは、防御壁ではない。
平原の地下に、あらかじめリィンが仕掛けていた「魔力導線」を起動させ、戦場全体の重力バランスを意図的に歪ませる広域術式だった。
「突撃ィィッ! 踏み潰せぇっ!」
ウラルの騎兵一万五千が、咆哮と共に加速する。
だが、彼らがバルト軍まで残り五百メートルの地点に踏み込んだ瞬間、異変が起きた。
「な……馬が……体が重い!?」
突如として、その地点だけ重力が数倍へと跳ね上がった。
猛スピードで駆けていた騎兵たちは、自らの慣性と重力に耐えきれず、次々と前のめりに転倒。後続は止まれず、山のような落馬の連鎖が起きた。
一万五千の精鋭が、戦う前に「自重」によって自滅していく。
「これが一対一万の基本だ。敵の『運動エネルギー』をそのまま自壊に転用する。
……無駄な魔力を使う必要すらない」
弾道演算の雨
「おのれ、卑怯な術を! 全艦隊、斉射! 奴らを塵にしろ!」
南の運河から、レムリアの魔導艦隊が一斉に火球と雷撃を放った。数千の魔法が空を覆い、バルト軍を飲み込もうとする。 だが、ゼノンは動かない。
「リィン、熱源データの転送を」 「……完了。すべての魔法の『核』を特定しました」
ゼノンが指を弾くと、学生軍が一斉にバルト式加速筒を空へ向けた。
「軍事魔導・二十二式『因果逆転』。……撃て」
学生たちが放ったのは、攻撃魔法ではない。
飛来する魔法の「中心核」に干渉し、その進行方向を180度反転させる「ベクトルの書き換え」だった。
「な……馬鹿な!? 我らの魔法が戻ってくるだと!?」
空中で魔法の雨が静止し、次の瞬間、放った主であるレムリア艦隊へと猛烈な勢いで逆流した。
自分の魔法で爆発し、沈没していく魔導艦。運河は一瞬にして火の海と化し、三國連合の南翼は一分足らずで消滅した。
死神の「効率」
戦場に、絶望的な悲鳴が響き渡る。
五万の兵士たちは、自分たちが戦っている相手が「人間」ではなく、「物理法則そのものを操る何か」であることに気づき始めた。
「エドワード公爵。お前は五万という『数』が力だと信じていたな」
ゼノンは、混乱に陥った敵陣の中央へ、一歩ずつ歩みを進める。
彼の周囲では、近づこうとする兵士たちが、不可視の魔力の刃によって寸分狂わず急所を貫かれ、沈黙していく。
「だが、私にとって一万も五万も同じだ。数式を一度解くか、五回解くかの違いに過ぎない。お前たちが束になってかかってこようとも、この『戦場の計算書』からは逃れられないのだ」
「く……くるな! 悪魔め、くるなぁっ!!」
かつての騎士道精神はどこへやら、公爵は腰を抜かし、後退りした。
バルト軍の損害は、ゼロ。 対する連合軍の損害は、すでに二万を超えていた。
これが、ゼノンの提唱する「一対一万の戦術」。
勇猛果敢な突撃も、伝統ある魔法も、すべては「非効率なロス」として処理され、消えていく。
「——さあ、最後の一行を書き込むとしよう。……ソフィア、出力を最大にしろ。この平原そのものを『正解(灰)』にする」
ゼノンの右手に、黒い光が凝縮される。
それは、大陸の軍事史を永遠に変える、戦慄の結末への序曲だった。




