24.堕ちた聖女の祈り
"王都がゼノンの「数式」によって塗り替えられていく中、唯一その浸食を拒む区画があった。
白亜の巨塔を冠する「中央大聖堂」。
そこは、太古の神を信仰する聖教会の本拠地であり、独裁者となったゼノンに反発する貴族や、変化を恐れる民衆が逃げ込む最後の避難所となっていた。
「——ゼノン・バルト。貴方が行っているのは、神の秩序への冒涜です」
大聖堂の重厚な扉を開け放ったゼノンの前に、一人の少女が立ちはだかった。
聖教会の至宝、聖女エレオノーラ。
その透き通るような銀髪と、慈愛に満ちた蒼い瞳は、戦火と粛清に揺れる王都において唯一の「救い」として、人々の信仰を集めていた。
彼女が祈りを捧げれば、重傷を負った兵士の傷もたちまち癒えると噂されている。
「秩序だと? 私の目には、無能な者たちが互いの傷を舐め合い、現実から目を背けている掃き溜めにしか見えんがな」
ゼノンは、祈りを捧げる信徒たちの間を、軍靴の音を響かせて堂々と進む。
背後には、冷徹な視線を隠さないリィンと、鋼の規律を纏った黒影部隊が控えていた。
祈りの「演算値」
「お下がりなさい! ここは神聖なる祈りの場。貴方のような、他者の痛みを解さぬ独裁者が立ち入る場所ではありません!」
エレオノーラが杖を掲げると、大聖堂内に柔らかな黄金の光が満ちた。そ
れは「神聖魔法」と呼ばれる、現代魔法とは異なる系統の術式。人々の心を安らげ、生命力を活性化させる力だ。
だが、ゼノンはその光を浴びながら、鼻で笑った。
「解析完了。……エレオノーラ、お前の言う『祈り』の正体は、周囲の魔素を自身の体質で変換し、対象の細胞分裂を強制的に加速させているだけに過ぎん。効率が悪すぎる」
「……何ですって?」
「お前が一人の傷を癒やすのに使う魔力量があれば、私の数式なら、百人の負傷兵を戦線復帰させられる。お前がここで一人を救っている間に、戦場では九十九人がお前の無能ゆえに死んでいる。それが、お前の言う『慈愛』の正体だ」
ゼノンの冷徹な言葉が、聖堂内に響き渡る。信徒たちの間に、動揺が広がった。
「いいえ、魔法は結果だけではありません! 救われた人々の心、その感謝が世界を——」
「心で帝国は倒せん。感謝で腹は膨れん。お前が提供しているのは、一時的な麻薬だ。現実を直視できぬ弱者に与える、甘い毒だ」
聖女の「手枷」
ゼノンはエレオノーラの目前まで歩み寄り、彼女の首にかかる重厚な金のロザリオを指差した。
「それに、お前自身も気づいているはずだ。そのロザリオに組み込まれた術式が、お前の魔力を吸い取り、教会の地下にある『隠し金庫』の防衛結界に転用されていることを」
エレオノーラの顔から血の気が引いた。
「それは……教会を守るための、尊い捧げ物だと聞いています……」
「司祭たちが贅沢三昧をし、裏で貴族と私腹を肥やすための結界だ。お前は神の代弁者ではない。教会の私欲を隠すための『魔力タンク』に過ぎない。……哀れなものだな、堕ちた聖女よ。自分の祈りが、不純な金貨の音に変換されているとも知らずに」
その時、聖堂の奥から、豪華な法衣を纏った大司教が現れた。
その顔は怒りで赤黒く染まっている。
「黙れ、無知なる簒奪者め! 聖女様を愚弄することは、全信徒への宣戦布告と知れ! 衛兵、この悪魔を排除せよ!」
聖教会の私兵たちが一斉に飛び出してきた。
だが、ゼノンが動くよりも早く、リィンの影が走った。
シュッ、という短い音と共に、私兵たちの武器が次々と床に落ちる。
死者はいない。だが、戦う意思を完全に削ぐ、精密な関節への打撃。
「邪魔だ。私は聖女に用があるだけだ」
契約の提示
ゼノンは、膝をつき、己の信仰が揺らぎ始めたエレオノーラを見下ろした。
「エレオノーラ。お前の魔力波形は極めて特異だ。それは『治療』ではなく、本質的には『生命エネルギーの再構成』だ。お前が教会という狭い鳥籠から解き放たれれば、死者をも戦列に引き戻す、最強の『再生官』になれる」
「私に……戦えというのですか? 人を殺すための、駒になれと……」
「逆だ。私の軍が最短で勝利を収めれば、戦死者の総数は最小限に抑えられる。お前の祈りを、数式という名の理性で制御しろ。そうすれば、お前は本当の意味で人々を救える」
ゼノンは、彼女の首からロザリオを引きちぎった。
結界の核を失った大聖堂が、微かに揺れる。
地下で魔力を吸い上げ続けていた装置が停止し、エレオノーラの体内に、本来の膨大な魔力が還流し始めた。
「……あ、ああぁ……!」
彼女の全身から、先ほどまでの「柔らかな光」ではない、直視できないほどの「烈火のような輝き」が溢れ出した。これが、教会が隠蔽し、搾取し続けていた聖女の真の力。
「その力をどう使うかはお前が決めろ。教会の闇に呑まれて朽ち果てるか。それとも、私の背後で数万の命を繋ぎ止める『断罪の旗』となるか」
ゼノンは背を向け、出口へと歩き出した。
「明日、教会のすべての帳簿を没収する。隠し財産はすべて、前線の兵たちの防具と、平民への食糧配給に回す。……文句があるなら、神に直接言え」
大聖堂に残されたのは、呆然と立ち尽くす聖女と、権威を剥ぎ取られた司祭たちの醜い叫び声だけだった。
エレオノーラは、自分の掌に宿る、今までとは違う重い魔力を見つめた。
ゼノンの言う「効率」という言葉が、呪いのように、しかし確かな希望のように彼女の胸に突き刺さっていた。
「……私の、祈りは……」
聖女の瞳から、純粋な信仰の涙がこぼれ落ちる。
それは、彼女が「神の道具」から、ゼノンと共に歩む「一人の兵士」へと堕ちていく——あるいは新生するための、儀式だった。"




