20.異端児の数式
学園の変革は、音を立てて加速していた。
ゼノン・バルトが特別顧問に就任してからわずか二週間。
講義室からは美しい詠唱の声が消え、代わりに響くのは、魔力を極限まで圧縮した際の「シュッ」という鋭い風切り音と、鋼鉄の標的が貫通される乾いた音ばかりになった。
学生たちの目は、もはや夢見るエリートのそれではない。
獲物を狙う猟犬の鋭さが、その瞳に宿り始めていた。 だが、この急激な「軍事化」を、苦々しい思いで見つめる者たちがいた。
「——バルト顧問。貴殿のやり方は、もはや教育の範疇を超えている」
学園の最深部、浮遊する魔導書と無数の天球儀に囲まれた「賢者の間」。
重厚な円卓を囲む五人の老人たち——王国魔法界の最高権威『五賢者会』が、ゼノンを呼び出していた。
中央に座る議長、アルドスは、真っ白な髭を蓄え、その瞳には数世紀分の知識と自負を湛えている。
彼は王国で最も高い魔力量を誇り、一節の詠唱で城壁を崩すと言われる「現代魔法の象徴」であった。
「教育ではない。私は彼らを『兵士』に仕立てているのだ。帝国との戦争が始まれば、お前たちの教える優雅な魔法など、ただの松明にしかならんからな」
ゼノンは賢者たちの威圧をものともせず、円卓の上に無作法に腰掛けた。
背後には、影のようにリィンが潜んでいる。
「無礼な……! 貴様の言う軍事魔導とやらは、魔法の本質である『神秘』を汚す毒だ。美しき詠唱、精緻な陣法、それらこそが魔法を人知を超えた奇跡に昇華させるのだ」
一人の賢者が机を叩いて叫ぶ。ゼノンは鼻で笑った。
「神秘、か。笑わせるな。お前たちが『神秘』と呼んでいるのは、単に術式の効率化を怠り、無駄な贅肉を隠すための包帯に過ぎない。戦場で必要なのは奇跡ではない。確実な死だ」
「……平行線のようだな」
アルドスが静かに声を沈めた。
その瞬間、賢者の間に充満する魔力圧が跳ね上がり、周囲の空気がガラスが軋むような音を立てた。
「ならば、全校生徒の前で証明しよう。三日後、学園の大講堂にて『公開討論』を行う。……と言っても、言葉で議論するつもりはない。魔導師の議論とは、常に術式で行われるものだ」
「ほう。私を公衆の面前で叩き潰し、学生たちの信頼を取り戻そうというわけか。いいだろう、老いさらばば。その挑戦、受けてやる」
ゼノンが去った後、賢者の一人が不敵な笑みを浮かべた。
「アルドス殿、準備はよろしいのですか? あの小僧、カトウェル領では妙な仕掛け(トラップ)を使ったと聞いております」
「案ずるな。今回は『公式な決闘』。あのような小細工が通用する空間ではない。……それにな、私は既に『禁呪』の使用を王室から許可されている。あの若造に、本物の絶望を見せてやろう」
決戦前夜:影の躍動
決闘前夜、ゼノンは月明かりの下、ソフィアをはじめとする「選抜クラス」の学生たちの前に立っていた。
「ゼノン先生、本当に一人で戦うつもりですか? 五賢者会は、学園の防衛結界とリンクして戦うことができます。それは、学園そのものの魔力を背負って戦うのと同じですわ!」
ソフィアが焦燥を隠さずに告げる。彼女はゼノンの理論に触れ、今の学園がいかに無防備であったかを誰よりも理解していた。だからこそ、ゼノンという「師」を失うことを恐れていた。
「ソフィア、お前に教えた『軍事魔導・三式』は何だった?」
「……『情報の優位性』、です」
「そうだ。敵が自分たちに有利な土俵を用意したつもりでいる時こそ、最大の勝機だ。……リィン、進捗はどうだ?」
闇の中からリィンが姿を現した。
彼女の手には、学園の地下排水路の地図と、奇妙な魔導回路の断片が握られていた。
「……賢者たちが結界にアクセスするための『バイパス回路』、すべて特定しました。指定されたポイントに、先生の『妨害術式』をセット済みです」
「上出来だ。……ソフィア、明日お前たちは、壇上の私を見るな。結界が揺らいだ瞬間、私が教えた『同時演算』で学園全体の魔力供給路を一時的にジャックしろ。賢者共から『杖』を奪ってやる」
ゼノンの目的は、ただアルドスを倒すことではない。
学生たちに、「権威がいかに脆弱か」を身をもって体験させ、自らの手で旧時代の象徴を破壊させること。それこそが、最強の軍団を作るための最終工程だった。
公開討論:神話の崩壊
当日。大講堂には、三千人の学生と王都の貴族たちが詰めかけ、異様な熱気に包まれていた。
壇上には、五人の賢者が豪奢なローブを纏い、空中に浮かびながら魔法陣を幾重にも展開している。
対するゼノンは、普段着のまま、腰に一振りの短い剣を差しているだけだった。
「ゼノン・バルト! 貴殿の異端なる思想を、この地から永遠に排除する!」
アルドスの宣言とともに、決闘の鐘が鳴り響いた。
アルドスが杖を振るう。 「『古の契約に従い、天を覆う炎の審判を下せ——プロメテウスの焔!』」
現代魔法の極致。講堂の天井を突き抜け、上空に巨大な太陽のような火球が出現した。
その熱波だけで、観客席の学生たちが悲鳴を上げる。
これこそが、賢者会が学園の結界から魔力を吸い上げ、一人では到底不可能な出力を実現した「合体魔導」だった。
「ハハハ! これが神秘の力だ! 逃げ場はないぞ!」
ゼノンは、降り注ぐ炎の弾丸を見上げ、冷たく言い放った。
「——ソフィア、今だ」
観客席にいたソフィアたちが、一斉に隠し持っていた簡易魔導具を起動した。
ドォォォン……! 爆発音ではない。
学園全体を支える魔力の流れが、急激に「逆流」したことによる空間の軋み音だ。
「なっ……魔力の供給が止まった!? バカな、結界の制御を乗っ取られただと!?」
アルドスの顔が、驚愕で土色に変わる。
空中に浮かんでいた火球が、供給源を失って霧散していく。
「お前たちの欠点は、自分の足で立っていないことだ。他者の魔力、施設の結界……それらを奪われれば、お前たちはただの老いぼれに過ぎん」
ゼノンが地を蹴った。
詠唱はない。ただ、一瞬の踏み込み。
「軍事魔導・一式『断鎖』」
ゼノンの短剣が閃いた。
それはアルドスが慌てて張った多重障壁を、まるで熱したナイフがバターを切るように容易く切り裂き、彼の喉元でピタリと止まった。
「……ぎ、あああ……」
アルドスは杖を落とし、震えながら崩れ落ちた。
三千人の学生が見守る中で、王国最高峰の賢者が、言葉通り「何もできずに」敗北した。
「聴け、学生諸君」
ゼノンは倒れたアルドスを見下ろしたまま、会場全体に声を響かせた。
「今日、お前たちの神は死んだ。神秘は計算によって暴かれ、権威はただの一振りの刃に敗れた。……この世界を動かすのは、伝統ではない。力と、それを制御する意志だ!」
会場を支配したのは、静寂ではなかった。
それは、古い秩序を破壊した者への、狂気にも似た歓喜の叫びだった。
「「「ゼノン顧問! ゼノン顧問!!」」」
ソフィアたちが立ち上がり、拳を突き上げる。
この日、王立魔導学園は事実上、消滅した。
代わりに誕生したのは、ゼノン・バルトを総帥(統帥)とする、大陸史上最も効率的で冷酷な学生軍団「アカデミア・レギオン」であった。
ゼノンは、熱狂する学生たちを見つめながら、影の中で微笑むリィンに頷いた。
「——これで、カインと踊るための『舞台』は整ったな」
王都を揺るがす軍事クーデター。 その火の手は、今や王国全土へと燃え広がろうとしていた。




