2.酒臭い廃嫡候補
バルト男爵家の屋敷に足を踏み入れたゼノンを迎えたのは、同情の視線ではなく、隠そうともしない嫌悪と蔑みだった。
泥と返り血に汚れ、酒臭さを撒き散らしながら歩く彼の姿は、なるほど「落ちこぼれの長男」という評価に相応しい無惨なものだった。
「お帰りなさいませ、ゼノン様。またどちらの溝で寝ておられたのですか?」
廊下で立ち塞がったのは、執事のセバスだった。
言葉こそ丁寧だが、その目はゴミを見るような冷たさに満ちている。
かつてのアスタルクであれば、その場で首を撥ねている不敬だ。
「……風呂を用意しろ。それと、まともな食事だ」
「お戯れを。旦那様がお呼びです。今すぐ謁見の間へ。……ああ、その汚い格好のままで結構ですよ。どうせ、それが貴方にはお似合いですから」
セバスは鼻を鳴らし、先導する。ゼノンは何も言わず、ただ静かにその後ろ姿を追った。
謁見の間には、現在のバルト領主である父・ギルベルトと、その後妻、そして異母弟のレナードが揃っていた。
「ゼノン、貴様という奴は……!」
父、ギルベルトが机を叩いて立ち上がった。
その顔は怒りで赤黒く染まっている。
「昨晩も酒場で暴れ、路地裏で意識を失っていたそうだな! バルト家の名をこれ以上汚して何が楽しい! 貴様のような無能、我が家の長男として置いておくわけにはいかん!」
隣で後妻が扇子で口元を隠し、クスクスと笑う。
そして、十代後半の若さながら、学園で「才子」と謳われる弟のレナードが進み出た。
「父上、もうよしましょう。兄上には魔導師としての才能も、貴族としての矜持もありません。……兄上、潔く廃嫡届に署名してください。そうすれば、辺境の小さな村で余生を過ごすくらいの生活費は、僕の慈悲で出してあげますから」
レナードの手には、既に用意されていた書類があった。
ゼノンはそれを受け取り、一瞥する。そして、唐突に口を開いた。
「——慈悲、か。面白い言葉を使うな」
その声の低さに、レナードが眉をひそめる。
「なんだと?」
「お前たちが私をどう評価しようと勝手だ。だが、一つだけ勘違いしている。……この家を継ぐのは、私だ。貴様のような『手品師』ではない」
室内が凍りついた。 レナードは侮辱に顔を歪ませ、腰の杖を抜いた。
「手品師だと……! 僕の魔法が、学園でどれほど高く評価されているか知らないのか! 兄上のような魔力欠乏者に、教育というものを教えてあげます!」
レナードが短く詠唱を唱える。
彼の手の先から、激しい火球が形成された。
室内で放つにはあまりに無謀な、誇示するためだけの魔法だ。
「消えろ、出来損ない!」
放たれた火球がゼノンの顔面を襲う。
父も後妻も、それを見守った。「少し痛い目を見れば大人しく署名するだろう」という算段だ。
だが。 ゼノンは避けることすらしなかった。
彼は右手を軽く掲げ、飛来する火球の「核」を指先で弾いた。
ただそれだけで、猛烈な熱量を持っていたはずの火球は、霧散するように消えてなくなった。
「なっ……何をした!?」
「無駄が多すぎる。魔力の九割が、ただ光と音を出しているだけだ。
これでは、蝋燭の火を消すのにも苦労するだろうな」
ゼノンは瞬時に間合いを詰めた。
酒の脱力状態を逆に利用した、流れるような歩法。
驚愕に目を見開くレナードの喉元を、ゼノンは左手で掴み上げ、壁へと叩きつけた。
「がはっ……!? く、苦し……っ」
「レナード! 貴様、何をする!」
父が叫ぶが、ゼノンが放つ凄まじい「殺気」に、足がすくんで動けない。
かつて数百万の軍勢を率いた王の威圧感は、一地方の領主ごときが耐えられるものではなかった。
「レナード、お前に二つの選択肢をやろう」
ゼノンの目が、深淵のように黒く光る。
「一つ。このまま私に喉を潰され、無能として一生を終えるか。
二つ。私の足元に跪き、真の魔導を学び、私のためにその身を捧げるか」
「ふ、ふざけるな……っ、誰が貴様などに……!」
「そうか。では、三つ目の選択肢だ」
ゼノンはレナードを床に放り捨てると、その右手を踏みにじった。
「ぎあああああああぁぁぁっ!」
「痛覚こそが、最も優れた教育だ。……父上、セバス」
ゼノンは冷徹な目で、震える父と執事を見た。
「風呂を用意しろ。三十分以内だ。それから、私の部屋に最高級の肉と酒を持ってこい。……遅れた分だけ、この執事の指を一本ずつ折る。分かったな?」
もはや、そこには「落ちこぼれの長男」などいなかった。
そこにいたのは、自分たちを支配し、従わせ、従わぬ者は徹底的に破壊する——本物の「王」だった。
「は、はい……ただちに!」
執事のセバスが、転がるように部屋を飛び出した。
ゼノンは床で呻くレナードを見下ろし、冷たく言い捨てた。
「明日からは地獄だ。……喜べ。私に仕える者は、世界で最も『高く』まで連れて行ってやる」
ゼノンの瞳には、もはやこの小さな屋敷など映っていない。
彼の視線は、再び世界を統一するという、遥か高き頂だけを見据えていた。




