17.死神を飼い慣らす方法
潜入前夜。バルト領の北端にある断崖に、リィンは一人立っていた。 その手には、一本の魔導通信石が握られている。それは暗殺組織「毒花」から、定期的な連絡を強要されるための呪物だった。
「……リィン、聞こえるか。ゼノン・バルトの暗殺はどうなった」
通信石から、低く不快な男の声が響く。かつてリィンが「父」と呼ぶことを強要された、組織の首領のひとりだ。
「失敗した。……奴は、怪物。再度の機会を待っている」
「無能め。猶予はあと三日だ。それまでに奴の首を獲れなければ、お前の妹たちの『毒』の供給を止める。分かっているな?」
リィンの指が白くなるほど通信石を握りしめた。
彼女がどれほどゼノンに心酔しようとも、組織に残された「妹分(部下たち)」という人質が、彼女を過去に繋ぎ止めていた。
「……妹たちには、手を出すな」
「ならば結果を出せ。道具が意思を持つな——」
通信が途切れた。リィンの瞳から、絶望の雫がこぼれ落ちる。
だがその時、背後の闇から、静かだが抗いようのない威厳を湛えた声がした。
「——道具、か。奴らには、私の部下をそう呼ぶ無礼のツケを払わせねばならんな」
ゼノンだった。彼はいつからそこにいたのか、気配すらさせずにリィンの背後に立っていた。
「ゼノン様……。すみません、私は……あなたを裏切って……」
「裏切り? お前は一度として私を裏切っていない。ただ、一人で抱えきれぬ荷物を背負っていただけだ」
ゼノンは歩み寄り、リィンの手から通信石を取り上げた。
そして、驚くリィンの目の前で、その石に自身の圧倒的な魔力を注ぎ込んだ。
「な、何を……! 逆探知されます!」
「それでいい。探知させるためにやっている」
ゼノンの魔力は、通信の回線を逆流し、数百キロ離れた「毒花」のアジトへと「座標」を叩き込んだ。
「リィン、顔を上げろ。お前を縛る鎖は、今この瞬間、私がすべて断ち切る」
ゼノンが指を鳴らす。
闇の中から、ハンス率いる精鋭部隊「黒影」が現れた。
彼らは既に、ゼノンがリィンの魔力波形から割り出した「毒花」の拠点座標を共有していた。
「ハンス。リィンの妹たち——人質の少女らをすべて救出せよ。
抵抗する者は、この世の誰よりも凄惨な死を与えろ。……『王の影』を傷つけようとした報いだ」
「御意に、我が主」
ハンスたちが夜の闇へと消えていく。
リィンは呆然とその場にへたり込んだ。
自分の力では一生かかっても抗えないと思っていた巨大な組織が、ゼノンの一言で「駆除対象」へと成り下がったのだ。
「……どうして。どうして、私なんかのために、そこまで……」
「言ったはずだ。お前は私の所有物(武器)だ。私の許可なく、お前に触れることは神ですら許さん」
ゼノンは跪き、震えるリィンの肩を抱き寄せた。
冷徹な支配者の顔ではなく、かつて広大な帝国を守り抜いた「王」としての、力強い温もりがそこにあった。
「リィン、泣け。……今日、お前の過去は死んだ。明日からは、私のためにだけ生きろ」
「……あ、あああああぁぁっ……!」
リィンの眼から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
暗殺者として育てられ、感情を殺し、ただ怯えと諦めの中で生きてきた少女。彼女の魂は、この夜、ゼノンという絶対的な光によって救済された。
数時間後。ハンスから「救出完了」の通信が入る。
リィンは、こびりついた過去の汚れをすべて洗い流したような、澄んだ瞳でゼノンを見上げた。
「……ゼノン様。私のすべてを、あなたに捧げます。
あなたの影となり、光を遮るすべての不浄を私が刈り取ります」
「よろしい。……では、約束の場所(学園)へ向かうぞ。
そこには、お前が最初に屠るべき『獲物』が山ほどいる」
王への絶対的な服従。それは恐怖ではなく、極限の救済から生まれた「愛」にも似た忠誠だった。
翌朝、バルト領を発つ馬車の中には、以前よりも深く、鋭い殺気を隠し持った、真の「死神」がいた。 標的は、魔導学園。
大陸で最も権威ある学び舎が、ゼノンの「軍事魔導」という名の嵐に飲み込まれるまで、あとわずか。




