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16.毒花の隠れ家(後)

「……嘘」


 翌朝、バルト領の隠れ庭園で、リィンは驚愕の声を漏らした。  


彼女の目の前には、ゼノンが昨夜のうちに調合した、見たこともない琥珀色の薬液が置かれていた。


「飲め。それはお前の体内に蓄積された『暗殺組織の自爆薬トリガー』を中和し、魔力回路の癒着を剥がす特効薬だ」


「どうして……こんな処方、王立魔導図書館の禁書にしかないはず……。あなたは、何者なの?」


 リィンは震える手でその瓶を受け取った。  


暗殺組織「毒花」の少年少女たちは、幼少期から特殊な毒を投与され、組織の命令に背けば全身の魔力が暴走して死ぬように調教されている。


彼女が昨日、ゼノンに敗北しても自爆しなかったのは、単にゼノンの魔力制圧がそれを上回ったからに過ぎない。


「私はただ、効率を重んじる男だ。死にかけの暗殺者より、万全の死神の方が役に立つ。それだけだ」


 リィンが薬を飲み干すと、全身を激しい熱が駆け巡り、次の瞬間、長年彼女を苛んでいた重苦しい「鎖」が消え失せる感覚があった。  


魔力が、かつてないほど清らかに、力強く循環し始める。


「……信じられない。体が、軽い……」


「喜ぶのはまだ早い。今日からは、その増幅した魔力を使って『影の歩法シャドウ・ステップ』を再定義してもらう」


 ゼノンは地面に一本の線を引いた。


「リィン、お前の隠蔽魔法は『光の屈折』に頼りすぎている。それでは魔力感知レーダーに引っかかる。真の隠密とは、光ではなく『他者の認識』を操ることだ。……来い、実戦で教える」


 それからの一週間、リィンにとってそれは、昨日までの「地獄」が「遊戯」に思えるほどの、高次元の訓練だった。  


ゼノンは、彼女が姿を消した瞬間に、まるでそこにいるのが当然であるかのように彼女の首元に指を突きつける。


「遅い。意識を飛ばせ。殺気という概念を、呼吸と同じ無意識に沈めろ」 「左足に魔力が溜まっている。音を消すことに集中しすぎて、大気の振動を無視しているぞ」


 リィンは、打ちのめされるたびに、恐怖ではなく、言い知れぬ「充足感」を抱き始めていた。  


かつての主(組織の長)は、自分を「磨り潰す石」として扱った。


だが、ゼノンは自分を「最高の刃」として研ぎ澄ませている。


「……ゼノン様。なぜ私に、これほどの技術を教えるのですか? 私はあなたを殺そうとした敵なのに」


 ある夜、月明かりの下でリィンが尋ねた。  ゼノンは、かつて統一王アスタルクとして、多くの裏切りと忠誠を見てきた目を向けた。


「敵とは、利用価値がない者の呼称だ。私に利益をもたらし、私の意志を遂行する者は、過去がどうあれ『臣下』と呼ぶ。……リィン、お前はもう『毒花』の道具ではない。私の影だ」


 ゼノンは、彼女の額にそっと手を置いた。


「お前が私の背後を守る限り、私は世界のどこへでも背を向けて進める。……その重責、背負えるか?」


「…………はい」


 リィンの瞳に、初めて確固たる「光」が宿った。  それは暗殺者の冷徹な光ではなく、一人の武人としての、そして一人の少女としての、狂おしいほどの忠誠心だった。


「よろしい。試験は終わりだ。……ハンス!」


 闇の中から、ハンスが姿を現した。彼はリィンの気配に気づき、反射的に剣の柄を握る。


「……ゼノン様、この娘は確か……」


「今日から彼女は、バルト軍隠密部隊『影踏衆かげふみしゅう』の隊長だ。ハンス、彼女に必要な物資と、潜入用の身分証ライセンスを用意しろ」


 ハンスは驚愕したが、リィンから放たれる「以前とは別次元の気配」を感じ取り、すぐに深く頷いた。


「承知いたしました。……リィン殿、不調法な者たちばかりですが、よろしく頼みます」


「……こちらこそ」


 リィンは短く答えたが、その手にはゼノンから授けられた、魔力を吸い込み無音の爆発を引き起こす「漆黒の双剣」が握られていた。


「リィン、先行しろ。目的地は王立魔導学園。……そこで、退屈しているエリート共の鼻柱を折る準備をしておけ」


「御意——」


 風が吹き抜けた瞬間、彼女の姿はかき消えた。    王、盾、そして影。  ゼノンの覇道を支えるピースが、また一つ、残酷なまでに美しく組み合わさった。"

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