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15.第2幕:諸侯動乱編 毒花の隠れ家(前)

バルト領が帝国の先遣隊を破ってから一週間。  


祝杯の喧騒が収まり始めた執務室に、一筋の「違和感」が忍び込んだ。


 ゼノンは深夜、書類を整理しながら、背後に広がる影の揺らぎに視線を落とさずに言った。


「……殺気は消せているが、香りが甘すぎる。そんな香料を使っていては、標的に近づく前に鼻の利く猟犬に噛み殺されるぞ」


 部屋の隅、闇が凝固したかのように一人の人影が姿を現した。  


そこに立っていたのは、十五歳ほどに見える小柄な少女だった。


漆黒の装束に身を包み、手には魔力を帯びた薄氷のような短刀を握っている。


「……私の気配を察知した人間は、あなたが初めて」


 少女の声は、感情が欠落した機械のように冷たかった。  


彼女は、王都の裏社会で「毒花どくばな」と恐れられる暗殺組織の最高傑作、リィン。周辺領主たちの生き残りが、全財産を投げ打って雇った最後の切り札だった。


「リィンと言ったか。その短刀、刀身に『魂を腐らせる毒』が塗ってあるな。


かすり傷一つで、魔導師の魔力回路を内側から焼き尽くす……合理的だ」


「説明は不要。あなたは、死ぬから」


 リィンの姿が、かき消えるように消えた。  


魔導による高速移動「瞬歩」ではない。


肉体の限界を超えた跳躍と、光を屈折させる「隠蔽魔法」の複合技。次の瞬間、彼女の刃はゼノンの喉笛のどぶえを捉えていた。


 キィィィィン!


 高い金属音が、深夜の室内に響く。  


リィンの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。    


彼女の短刀は、ゼノンの喉元数ミリのところで、指先ほどの小さな「魔力の膜」に防がれていた。それも、ただの障壁ではない。刃の先端に一点集中させた、極小かつ超高密度の「反発陣」だ。


「……今のがお前の全力か?」


「くっ……!」


 リィンは即座に距離を取り、袖口から無数の「毒針」を放った。  


それらは扇状に広がり、回避不能のタイミングでゼノンを襲う。しかし、ゼノンは立ち上がることさえしなかった。


 彼が指を弾くと、空気中の水分が瞬時に凍りつき、薄い氷の壁を形成した。毒針はその壁に突き刺さり、無力に床へ落ちる。


「お前の技術スキルは素晴らしい。だが、目的が狭すぎる。『一人を殺す』ことしか考えていないから、世界の流れが見えないのだ」


「黙れ……! 私は、任務を完遂するだけ!」


 リィンが再び地を蹴る。彼女は自らの命を削り、魔力を過負荷オーバーロードさせて加速した。それは、暗殺者の誇りを賭けた最後の一撃。


 だが、ゼノンは彼女の動きよりも早く、その手首を掴み上げた。


「がはっ……!?」


「魔力回路が悲鳴を上げているぞ。そんな戦い方をしていれば、あと一年も持たずに廃人だ。……もったいないな。お前のような逸材を、あのようなゴミどもに使い捨てにさせるとは」


 ゼノンの瞳が、昏い黄金色に光る。  それは恐怖ではなく、圧倒的な「支配者」の慈悲だった。


「リィン。私を殺せなかった罰として、お前に新しい任務をやる」


「……殺せ。失敗した暗殺者に、価値なんてない」


「価値は私が決める。……今日から、お前は私の『影』となれ。私の敵を、その毒と刃で沈める庭師だ」


 ゼノンは彼女の首筋に手を置き、過負荷で暴走していた彼女の魔力回路に、自身の魔力を流し込んだ。  荒れ狂っていた魔力の流れが、嘘のように静まり、リィンの全身を心地よい温かさが包み込む。それは、彼女が生まれて初めて感じた「癒やし」だった。


「……なぜ。私を、助けるの?」


「死体は何も生み出さないが、忠実な死神は一国を滅ぼす武器になるからだ。……リィン、お前の人生を私に売れ。代償に、お前を蝕む毒を消し、誰も届かない『影の頂点』へ連れて行ってやる」


 リィンは、自分の手首を掴むゼノンの手の温もりを見つめた。  暗殺組織では「道具」として扱われ、失敗すれば廃棄されるはずだった自分。そんな自分を、この男は「武器」として定義し、その先の景色を見せると言った。


「…………わかった。私の命、あなたの好きにして」


 リィンはその場に膝をつき、短刀を床に置いた。  バルト領の覇王に、最強の「隠密部隊」の種となる少女が降った瞬間だった。


「よろしい。まずはその甘い香りを捨てろ。……明日から、お前には『魔導学園』への潜入を命じる。私の進軍を邪魔する連中の首を、あらかじめ数えておくのが仕事だ」


「……御意。我がマスター


 暗闇に溶けるように、リィンは再び姿を消した。  


ゼノンは窓の外、遠く輝く王都の灯りを眺めながら、静かに独りごちた。


「駒は揃いつつある。……さあ、次は腐った学園の連中を、内側から壊すとしよう」

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