1.泥水の中の戴冠(転生と目覚め)
冷たい雨が、容赦なく頬を叩く。 鼻を突くのは、安酒の酸っぱい臭いと、湿った泥の土塊の香りだ。
「……酷いものだな」
ゼノン・バルトは、ぬかるんだ路地裏で上体を起こした。
指先一つ動かすだけで、全身を鋭い頭痛が突き抜ける。
視界は霞み、内臓はひっくり返りそうなほど不快だ。
ふと己の手を見れば、白く細い。剣を握ったタコもなければ、魔力を練り上げた跡もない、ひどく柔弱な手だった。
だが、その瞳だけは違った。
つい先ほどまで死の淵にあったはずの男の目は、数百年前に大陸を一つに束ね、神々すら恐れさせた軍事国家の主——統一王アスタルクの鋭利な光を宿していた。
(私は、死んだはずだ。宿敵カイルとの決戦。互いの胸を貫き、それで終わったはずだが……)
流れ込んでくるのは、この体の持ち主——ゼノンとしての、あまりに無様な記憶だ。
バルト領主の長男という地位にありながら、魔力量は平民以下。
高貴な儀式魔法一つ満足に扱えず、継母や異母弟からは「バルト家の汚物」と罵られる日々。
現実から逃げるように酒に溺れ、昨夜も酒場の裏で野垂れ死にかけたというわけか。
「……ふん。これほどまでに『無』の状態から始まるのは、悪くない」
ゼノンはふらつく足取りで立ち上がった。
路地の奥から、下卑た笑い声が聞こえてくる。
「おいおい、生きてたのかよ。バルト家の『出来損ない』様よぉ」
現れたのは、三人の男たちだ。
この街のならず者だろう。
手には鈍く光る短刀と、低級な魔導具の杖を握っている。
記憶によれば、この男たちに金を巻き上げられ、暴行を受けたのがトドメとなったらしい。
「まだ金を持ってるんだろ? 出しな。
死に損なった祝いに、俺たちが酒を奢ってやるからよ」
男たちがじりじりと間合いを詰める。
ゼノンは静かに、己の内側に意識を向けた。
(魔力量は……確かに、失笑ものだな。前世の私の百分の一にも満たん)
だが、ゼノン——アスタルクは、不敵に口角を上げた。
今の世の魔導師たちは、魔力量の多寡を競い、大掛かりな詠唱で派手な火力を出すことしか能がない。
それは、戦場においては「無駄」の極みだ。
(魔法とは、軍事技術だ。一滴の魔力で、一人の敵を確実に、最も効率的に殺す。それが『真理』よ)
ゼノンは、体内にわずかに残る魔力を練り上げた。
大気を震わせるような詠唱はない。
ただ、指先に魔力を集中させ、極限まで「圧縮」し、針のような鋭利な形状へと変える。
「あぁ? 何黙ってんだよ。おい、やってまえ!」
一人がナイフを突き出し、突っ込んでくる。
ゼノンは動かない。 ただ、指先をわずかに向けた。
「——穿て」
シュッ、という小さな空裂音。
次の瞬間、突っ込んできた男の膝が、内側から爆発したように弾けた。
「があああぁっ!?」
男は前のめりに転倒し、泥水を撒き散らす。
残りの二人が呆然と立ち尽くした。何が起きたのか理解できていない。
ゼノンが放ったのは、初歩中の初歩であるはずの『魔弾』だ。
だが、それは本来の「火球」のような形ではなく、極限まで絞り込まれた、貫通力特化の不可視の針。
「何をした……!? 貴様、詠唱もせずに……!」
「詠唱? あのような無意味なダンスが、戦場で何の役に立つ」
ゼノンは冷徹な一歩を踏み出す。
泥だらけの服、酒の臭い。
しかし、そこから放たれる圧倒的な威圧感に、男たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「次は、眉間だ」
「ひっ、ひぃい!」
杖を持った男が、狂ったように魔導具を起動させようとした。
だが、遅い。 ゼノンの指先から放たれた二発目の魔弾が、杖の核を正確に射抜き、爆破させる。
「ぎゃあああ! 俺の、俺の手がぁ!」
「失せろ。今の私は機嫌が悪い」
ゼノンの冷酷な声に、動ける二人は負傷した仲間を抱え、文字通り脱兎のごとく逃げ出した。
静寂が戻った路地裏で、ゼノンは空を仰いだ。
雨はいつの間にか止んでいた。
「魔力操作の精度は……指先一つでこれか。だが、鍛え直せば問題ない」
彼は泥に汚れた上着を脱ぎ捨て、自身の屋敷がある方向を見据えた。
そこには、彼を蔑み、追い出そうとしている「家族」たちがいる。
「アスタルクとしての統一は終わった。ならば今度は、ゼノンとして始めるとしよう」
彼は確信していた。
かつて世界を制した「恐怖」と「恩賞」の統治。
それを再び、このぬるま湯のような世界に刻み込んでやるのだと。
ゼノン・バルトの。 いや、再誕した王の、二度目の世界統一がここから始まる。




