6.バラ香る庭にて
side フェリシア
「フェリシア様。こちらの紅茶は、ラニール地方産のアールグレイでございます。お口に合いますでしょうか?」
ヴィアの家に仕える侍女イリスは完璧な所作でポットを引き、にこやかに微笑む。給仕ひとつとっても隙がない。
ポットからそっと注がれた紅茶は、澄んだ琥珀色に輝いていた。カップに立ち上る湯気には、ベルガモットの爽やかな香りに混じって、ほのかに野ばらのような柔らかな甘みが漂っている。
私はそっとティーカップの縁に唇を寄せた。
香りよし。味も申し分なし。
「さすがね、イリス。私の好みにぴったりだわ。ベルガモットの香りが爽やかで、渋みも控えめ。後味にほんのり甘さが残るのが、たまらないわ」
自然と目を細めてしまう。茶葉の質もさることながら、抽出の温度と時間が絶妙だ。今日の茶会は、幸先がいいわ。
「ライラ様、そのスコーンのお味はいかがでしょう?」
ライラが頬を緩めて答える。
「最高よ! この香ばしさと、ほろっと崩れる食感……どちらのお店の物かしら?」
「そちらは、シェフが焼き上げたものでございます。お土産に包んでありますので、よろしければお持ち帰りくださいませ」
「まあ、うれしいわ。喜んで持ち帰らせてもらうわ」
紅茶の香りがふわりと風に乗り、庭のバラの芳香と混ざり合う。
今日もヴィアの庭のバラは見事ね。
ヴィアは、生け垣に囲まれた庭の奥まった一角に、観覧席のような、こぢんまりとした特等席を設えてくれていた。
カップを手に、私はその「始まり」を待つ。
そろそろかしら――。
「あ、フェリシア様。来ましたよ」
ライラが声を潜めて私の耳元で囁いた。
「お二人とも、こちらのほうがよく見えます。どうぞ、ご移動くださいませ」
イリスに促され、私たちは静かに席を立つ。足音ひとつ立てず、庭の縁へ。
生け垣の隙間から覗いた先、広々とした芝庭の中央には白い石畳の小道。その終点には、きらびやかなティーテーブルが置かれている。そこに……いた。
「“ヒロイン”と令息たちが、集まってきましたね」
ライラの言葉に、私も視線を細める。
「ええ。アリー様、随分、気合いが入っているわ。でも……コーディネートがちぐはぐね。衣装係は何をしているのかしら?」
「ふふ、フェリシア様。衣装係などいませんわ。でも、男爵家の侍女のレベルもたいしたことないですわね。あれで出かけるのを止めないのだから」
それもそうね。
アリー様――彼女の身にまとったドレスは、まるで“色の競演”。エリオット様の色を思わせる青紫のドレス、ランス様の色の赤いネックレス、そしてコンラッド様の色である緑のイヤリング。何もかもが主張しすぎて、まとまりがない。
……目が疲れるわ。
「私だったら、隣にいることを恥ずかしいと思うけど。どう思う? ライラ」
「ご令息たちは、ご自分が贈ったプレゼントしか目に入っていませんのよ。全体など見ていないのですわ。がっかりですわね」
本当ね。自己愛に満ちたその姿勢は、むしろ哀れですらある。
「演目は“運命の恋の行方”でどうかしら?」
私が問えば、ライラが静かに笑った。
「ええ、そうですわね。一人は図書室で、一人は中庭で、アリー様と運命の出会い。エリオット様は階段で転びそうになったところを受け止められたとか」
アリー様、演出家でもあるのね。
「始まりますわ!!」
ライラが息を呑んで身を乗り出す。
「お招きいただきありがとうございます、オリヴィア様」
アリー様が気取った声で挨拶し、ヴィアがにこやかに応じる。さすがね、アリー様。すっかり気持ちを立て直してきたわ。
「ふふ、ようこそ我が公爵家へ。さあ、お座りになって」
一見、優雅な貴族の社交劇の始まり。
「オリヴィア、アリーは勇気を出して、招待を受けたんだ。アリーを傷つけることなどしたら許さないからな」
牽制するようなエリオット様の言葉が響いた。
「そんなことはしませんわ。楽しくお茶をたしなみ、お話ができたらよいと心から思っていますのよ」
「はっ! 本当だろうな。いいか、“お友達”だからな」
アリー様は潤んだ瞳で皆を見渡す。
「エリオット様、やめて。婚約者は大切にしないと」
「ああ、アリーは優しいな」
「本当だ。何をするかわからない者たちをかばう必要はないんだぞ」
令息たちがアリー様に寄り添う。
「いいえ。私が悪いの。みんなの優しさに甘えてしまって。一人でも大丈夫、婚約者を優先してあげてって言える強い人間ならよかったのだけれど……」
しおらしい態度。涙ぐんだ声。
「エリオット様、せっかくの紅茶が冷めますわよ」
ヴィアの涼やかな声がサロンに響いた。
ヴィアはカップを片手に、何事もなかったような穏やかな微笑を浮かべていた。けれど、その眼差しには冷たく澄んだ刃のような光が宿っている。テーブルを挟んでいた令息たちの表情が険しくなるのが、手に取るように分かった。
睨まれても、ヴィアは微動だにしない。優雅に唇を紅茶へと添えるその仕草は、まさに完璧な令嬢の所作。だが、その優雅さの裏には確固たる自信が見え隠れしていた。
――そして、サロンには紅茶を啜る小さな音が続く。
音を立てず、穏やかに。貴族のたしなみをよく心得た者たちの、洗練された動きだ。
一人を除いては。
ガチャ、ガチャ「……ごく、ごく……」
・・・・・・アリー様。
不躾に食器を鳴らす音。そして、その飲み方は、まるで水をがぶ飲みする農夫のよう。さらに、スコーンをかじるたび、乾いた破片がテーブルの上やドレスにこぼれ落ちる。
「アリー様、せっかくのドレスにお菓子のかけらがついていますわよ。食べ方、おわかりになりませんでしたか?」
ヴィアが、声色一つ変えずに告げた。その一言に、アリー様の肩がビクンと跳ねる。
「ひどいわ。そんな言い方……!」
抗議する声は震えていた。けれど、それは悲しみではない。羞恥と怒りが入り混じった、複雑な感情がその言葉ににじんでいる。
「一口食べる分の大きさにするとよろしいわ」
「自分のお皿の上は、どれだけ汚れても大丈夫ですわ。でもテーブルやドレスはお気をつけになって」
クラリス様とカルラ様が、淡々と指摘する。声には責める色がない。むしろ親切心とさえ思える。それが逆に、アリー様の感情を逆撫でしたのかもしれない。
「爵位が下だと見下しているのね……そんな子供みたいなことを……」
ことを――できていないのは、貴方ですわよ。
アリー様の唇が震える。だが、指摘された内容には一切触れず、ただ“立場”での攻撃にすり替えている。
「オリヴィア、貴様、わざと食べにくいスコーンを用意したのだな!」
突如、エリオット様が声を荒らげて立ち上がる。テーブルがぐらりと揺れた。その瞬間、サロンの空気がぴたりと凍りつく。
だがヴィアは、眉一つ動かさない。
「まさか。甘いお菓子が好きとおっしゃるから、シェフがわざわざジャムも手作りしたのよ。スコーンは、誰が食べても少しボロボロになりますけれど……あんなふうに口いっぱいに放り込む方がいらっしゃるとは思いませんでしたし、ジャムのついたナイフをテーブルクロスに直接置く方がいるとも思いませんでしたわ」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも正論だった。ヴィアの視線がゆっくりとアリー様へと向けられる。獲物を仕留める寸前の狩人のように。
アリー様の頬が、見る見るうちに紅潮する。怒りか、羞恥か。言葉は喉まで出かかっているのに、吐き出せずにいる。
私は、そんな様子を横目に見ながら、カップをそっと傾けた。琥珀色の液体が、しずかに唇を潤す。その香りと余韻を、じっくりと楽しむ。
「ふふ。二幕の終幕は、意外と早そうね」