5.幕間 ーその席は、私のものー side アリー
side アリー
「一度家に帰ったら、迎えに行くよ」
エリオット様の穏やかな声が、今日は腹立たしい。
「……他の皆はどうするの?」
思わず聞き返すと、エリオット様は、ほんの少し笑って、答えた。
「着替えに戻るが、私が全員迎えに行って、皆でアリーを迎えに行くよ」
その琥珀色の瞳が細められ、わずかに、口元が綻ぶ。楽しんでいるかのような――そんな微笑みだった。
「ええ、わかったわ」
家に帰る馬車に揺られながら、私は窓の外に目を向けた。蹄の音が一定のリズムを刻むたび、思考の波が静かに胸を満たしていく。
オリヴィア様が私を招待するなんて、一体どういうつもり?
今まで私に目もくれなかったくせに。
学院ですれ違っても、私に声をかけることなど一度もなかった。エリオット様と仲良くしている姿を見せつけても、冷たく、無関心で――私など、存在しないかのように扱っていたのに。
なのに、家に招待するなんて。……何を企んでいるのかしら。卒業間近で焦っているのかしら? 私に牽制したいのか、あるいは、釘を刺しに来たのか。
ふふ、けれど、それが何? 今更なのよ。
はじめは面倒に思ったけれど、むしろ、渡りに船だわ。
私は今日、あなたが用意した舞台で輝くのよ。
“愛されているのは私”という舞台を、向こうから差し出してくれたのなら――ありがたく利用させてもらうまで。“婚約者に蔑ろにされている”という現実を、あの方がた自身の目で確かめさせてあげるの。
エリオット様たちの隣に立つ私を見て、どんな顔をするのかしら。笑顔で寄り添い、エスコートされる私。
それに引きかえ、彼女たちはどう? 笑顔のひとつも向けられず、贈り物もされず、冷たい言葉ばかり浴びせられる日々。
それって、惨めじゃなくて?
ふふ……考えただけで、笑いがこみ上げる。
邸に着き、部屋に戻った私は鏡の中の自分を見る。ハニーブラウンの髪に、群青の瞳。背は高くないけれど、小柄なその体つきは“愛くるしい”とよく言われる。
周囲が勝手にそう評価するだけのこと。けれど、それをどう利用するかは、私の勝手でしょう?
私は“正妻の娘”ではない。母は、父の愛人だった人。父の正妻が亡くなったとき、ようやく私は母とこの家に引き取られた。
それまでは、ずっと市井の片隅で育った。粗野で乱暴な男たち、欲望と下心でねじくれた大人たち。そんな場所で、いつしか“貴族の娘”として扱われる日を夢見ていた。
でも、引き取られたのは学院に入学する年の直前。最初は、学院に通うなんて、面倒でしかなかったわ。礼儀作法に規則だらけの生活、つまらない虚飾の世界。
けれど――出会ってしまったの。
私の想像を遥かに超える、絵画から抜け出してきたような令息たちに。
整った顔立ち。気品ある所作。甘やかな声。あの粗野な男たちとはまるで違う。同じ“男”だなんて、到底信じられなかった。
そのとき私は悟ったわ。
これは夢物語ではない。貴族の世界に入り、やがて愛を勝ち取る――そんな、何百回も読んだ恋愛小説の筋書きが、今、私の現実に重なり始めたのよ。
そして私は、狙いを定めた。
エリオット様。
侯爵家の嫡男であり、令嬢の憧れ。端正な容姿と気高い雰囲気――そんな彼の隣に立つのは、当然この私。
次期侯爵夫人――それが、私の描く未来。
学院に入ってから「市井上がりの娘」だと蔑む声もあった。でも、私は諦めなかった。魅せ方を知っていたし、努力も惜しまなかった。
やがて周囲は、変わっていったわ。「お似合いだわ」と微笑む令嬢たち。そして、エリオット様ご自身も――冷たいオリヴィア様よりも、私と過ごす時間を選ぶようになった。
あと一歩。あとほんの少しで、彼は私のものになる。
そのためには、オリヴィア様に“非”がある婚約破棄が必要なの。だから私は、少しずつ周囲に“言葉”を流した。オリヴィア様が学院の規律を破ったとか、侍女を見下しているとか、エリオット様を振り回しているとか――。
誰かが「見たかもしれない」と思えばいい。記憶なんて曖昧で曇りやすいもの。人の印象は、空気のように変わる。
貴族社会なんて、そういう不確かな“気配”で動いているのよ。
そんな“噂の令嬢”を、果たして公爵家が守り続けられるかしら?
ふふ、無理よ。せいぜい、修道院行きが関の山。
さあ、見せてあげる――
本当に選ばれるのは、誰なのかを。エリオット様の隣に立つ私を、あなたのその澄ました瞳で見なさい。
そして理解するのよ、自分が“終わった”ことを。
あなたが招いたお茶会が、あなたの終焉になるだなんて――皮肉な話ね。今まで“婚約者”という立場にあぐらをかいていた罰よ。
*****
「あの青紫のドレスを持ってきて」
「はい、お嬢様」
エリオット様から贈られたドレス。
彼の瞳をそのままシルクに織り込んだような、深い紫が、青と黒の狭間で揺れる、そんな色。本来なら、大切にしまっておくべき一着。けれど、今日は、それを纏うにふさわしい。
私は侍女たちに手を差し出し、鏡の前に静かに腰を下ろす。
「髪はふんわりと……でも、後れ毛をきちんと整えて。ゆるく、品良く」
「かしこまりました」
絹のように柔らかな髪が、ゆっくりと指に梳かれていく。ゆるやかなアップに結われ、レースの小花飾りがそっと添えられる。
鏡の中には、絵本の挿絵から抜け出した姫君――そんな姿ができあがっていく。
「お似合いです、お嬢様。まるで天使のようですわ」
「ふふ、ありがとう。次、アクセサリー箱を」
クラリス様にも、カルラ様にも忘れがたい印象を残さなければ、意味がない。
「これと、これをつけるわ」
「……こちらと、こちら、でございますか?」
「そう。何度も言わせないで」
一つでも欠けたら完璧な“登場”が崩れてしまう。私は舞台の主演女優。全てが整っていて当然なのよ。
「急いで。時間がないの、早くして!」
「は、はいっ!」
ちょうどそのとき、廊下から声が届く。
「お嬢様、お迎えの方がいらっしゃいました」
急ぎ玄関に向かうと麗しい令息たち。
「やあ、アリー。そのドレス、とても似合っているよ」
「ピアスの宝石が君の輝きに負けそうだ」
「ネックレスが君の肌によく映えるね」
――そうでしょう? 予定通りよ。
ふふ、完璧。
「まあ、ありがとう。皆、優しいのね」
私は微笑む。品良く、控えめに、けれど誇らしげに。
さあ、オリヴィア様。
あなたのその完璧な仮面が、ゆっくりと、確実にひび割れていく様を――私はじっくりと観察させていただくわ。
首を長くして、待っていなさい。これが、あなたが開いた茶会の“真の幕開け”。
今日という一日を、心の底から――
後悔なさってくださいね。