36.精霊姫は、悪役令嬢に宿る
歓声が沸き上がる中、俯いて、悔しさをにじませていたベス様が、ぐっと顔を上げて叫んだ。
彼女の潤んだ瞳が真っ直ぐに私を射抜いた。
「そのネックレスも精霊姫の座も、私のものよ! 人のものを奪おうだなんて、ひどいわ。返しなさいよ!」
ベス様がそう声を張り上げると、迷うことなく私の腕を掴んだ。瞳は潤んでいて、唇は震え、今にも零れ落ちそうな涙を抱えている。
ああ、本気で怒っているのね。いや、怒っているというより、怯えているのかしら。
でもーー
「あなただって私から奪おうとしていましたわよね?」
何を、とは言わない。
数人の視線がこちらに集まり、誰もがそっと息を呑んだ。
「何でおとなしく“悪役令嬢”でいてくれなかったのよ。――全部全部あなたのせいよ!!」
ベス様の叫びは、会場中に波紋を広げた。刺繍の光るボンネットが揺れ、天井のシャンデリアのきらめきがちらつく。
近くにいた近衛兵が、すっと前に出る。金具がかちりと鳴り、長靴の擦れる音が床に低く響いた。
彼らはベス様を引き離したが、それでも彼女は、どうにかして私に触れ続けようと、まだ必死に手を伸ばす。
大切なものが風にさらわれていくのを必死に掴もうとするかのようだ。指先が届きそうで届かない距離で、ベスの瞳が私を追う。
「離しなさいよっ!」
その声を残し、ベス様は近衛兵に連れられて会場の外へと連れ出された。私に複雑な気持ちを残して。
そんなときだった。
「ねえねえ、フェリ。なんか困ってる~?」
くるん、と光が舞い、ふわふわの髪に花飾りを揺らした精霊が、私の肩にとまるように現れた。
「あら、あなた、ミリーね」
「そうだよ。ミリーなの。気づいてくれてうれしい! 困ってる顔してどうしたの?」
なんとも軽やかな声。
その後ろには、ぴこぴこと羽音を立てながら、小さな精霊たちがぽん、ぽん、と現れていく。
「大丈夫よ。ありがとう」
精霊たちの軽やかな口調が、何とも言えない複雑な気持ちを軽くしてくれた。
その時ふと、心に浮かんだ疑問が、口をついて出た。
「そうだわ。ねえ? 私、悪役令嬢らしいのだけど、本当に私が“精霊姫”でいいのかしら?」
すると、精霊たちはいっせいに顔をしかめた。
「えー、なにそれ。誰が“悪”って言ったの~?」
「知ってる。あの人と、あの人ー!」
精霊たちがぷくっと頬を膨らませて、指をぴっと差す。
「俺も知ってる!」
別の精霊が手を挙げて、ぐいっと空中を指し示した。
「こいつと、あいつと……あっ、今隠れたやつも!」
「腹立っちゃうねー!」
ぴょこぴょこと跳ねながら、小さな体で一生懸命怒るその様子に、思わず頬が緩む。
ぬいぐるみのようにふわふわで、でもどこか真剣な、愛らしい怒り方。
「フェリ、仕返し、しようか?」
「きらきら攻撃とか?」
「つるつる床すべり作戦もあるよ!」
「頭にお花咲かせるのは~?」
宙をくるくる舞いながら、目を輝かせて次々にいたずらの案を口にする精霊たち。
その自由な発想と明るさに、私はふっと笑みを漏らし、そっと目を細めた。
「ありがとう。でも、今は大丈夫ですわ」
「ほんとに~?」
「ちょっとくらいなら、ぱぱっとやっちゃえるよ~?」
「ええ。王家と、父が既に動いていますわ。……精霊の“仕返し”がどれほどのものか、わからないのですもの。もし間違った方向に向かってしまったら、あなたたちにも悪いわ」
私が静かに告げると、精霊たちは一瞬ぽかんと口を開け、それから――
「うーん……慎重派!」
「そういうとこ、好き!」
次々にぽんぽんと褒め言葉が飛んできた。
「ふふ。ありがとう。あなたたちがいるだけで、本当に、心強いですわ」
すると精霊たちはきゃあっと笑い声を上げながら、くるくると空高く舞い上がっていく。
「ダンス、頑張って~!」
遠ざかっていく声が、まるで鈴の音のように軽やかに響いた。
私はその余韻を胸に残しながら、そっと一息をつく。
「予定が狂いましたが、このあとは……ダンスですわね」
誰にともなく、けれど自分自身を落ち着けるように、私はぽつりと呟いた。
そのとき――
「そうだね。では、フェリ、行こうか」
聞き慣れた、けれど今日は少し違って感じられる声。振り向けば、ルキウス様が微笑を浮かべ、静かに手を差し伸べていた。
私は、そっとその手に指を重ねる。周囲のざわめきがふわりと遠のいていく。
私たちは並んで、舞踏会場の中央へと歩みを進めた。
その先は、人々の視線が集中する舞台の中心。
石造りの大広間は、まるで呼吸を忘れたように静まり返っていた。貴族たちの視線が、まっすぐこちらに注がれているのがわかる。けれど、不思議と怖くはなかった。むしろ、彼の隣にいることが、私に芯のある強さを与えてくれていた。
一歩進むたびに、ドレスの裾が波のように揺れ、シャンデリアの光をやわらかく受け止める。
ルキウス様の歩調は、私にぴたりと寄り添う。
やがて音楽が始まり、そっと手を取られた瞬間――私は静かに問いかけた。
「ふふ、嬉しそうですね、ルキウス様」
彼は、少し照れたように微笑んだ。
「ああ。君がこれから大変なのは、ちゃんと分かってる。でも……婚約者も、精霊姫も、フェリであるということ。それが、嬉しくてね」
彼の目が真っ直ぐ私を見つめる。その眼差しの中には、愛しさが確かにあった。
「ええ。皆が祝福してくださいますわ」