34.精霊たちの祝福
「ちょ、ちょっと、どこに行くのよ!」
声の主は、大きなアクルム石にしっかりと手を添えたままのベス様だった。
手は動かせないので、せめて目だけでも状況を追おうとしているのだろう。首を忙しなく振って、視線で精霊たちを追いかけている。
けれど、その精霊たちは、彼女の元から離れては儚く消えていく。
精霊たちは、“アクルム石”に触れている者のごく限られた範囲にしか“姿”を現せないのだ。
精霊たちは、ベス様の近くを離れたことで、姿が見えなくなった。でも、完全に消えたわけではなく、彼らは依然として存在している。
と、いうことは、あの速さなら今、私の体にぶつかっているのかしら? 別に痛くはないけれど。
ふと、隣に立つルキウス殿下に目をやると――あら、ふふふ。
精霊の流れに気づいたのか、口元がわずかに開き、目はまんまるに見開かれている。普段の聡明さや余裕のある笑みはどこへやら、私を見るその表情はまるで少年のように驚きに染まっていた。
こんな無防備なお顔、初めて拝見しますわ。
つい、くすりと笑いそうになってしまった、ちょうどそのとき――。
「待ちなさいよ!」
耳をつんざくような声が、響いた。
ベス様が叫びながら、片手を宙に伸ばす。その視線の先には、ふわふわと漂う一体の小さな精霊がいた。
ベス様の手が、精霊の足に、触れた。次の瞬間、精霊の動きがぴたりと止まる。
……なるほど。
アクルム石に触れた状態であれば、精霊にも“干渉”もできるのね。これは、非常に興味深い発見だわ。
ただ、彼女のその手には、焦りと執着が絡みついていて、強引に引き止めようとする必死の想いがありありと伝わってくる。
その指先はわずかに震えていて、何か大切なものを失いかけている人の、最後の抵抗のようだった。
「な、何……!? 離してよっ!」
その声は、精霊のものだった。
澄み渡る鈴の音のように軽やかで、一陣の風鈴が揺れるように涼やかだったけれど、その音色の奥には、ほんの少しの怒りと困惑が入り混じった感情が滲んでいた。
小さな身体を必死に揺らし、もがいている精霊は、なんとか離れようとしているのだけれど、ベス様の手は固くその足元を離そうとしなかった。
「どこに行くのよ。ちゃんとここにいてくれないと、私が困るじゃない!」
彼女の手は精霊の足元をぎゅっと握りしめ、その縋るような声音には、抑えきれない不安と執着が滲んでいる。
けれど、その手の中で、精霊はぷいっと顔を背けて言った。
「やめてよ! 離して! あの子のところに行きたいの!」
ベス様の瞳が瞬間、揺らいだ。けれど苛立ちと困惑の入り混じった声で問い返す。
「……あの子って、誰のことよ?」
小さな指が真っ直ぐに伸びる。その指先を私はじっと見つめた。
――あら、あら。
その指が示していたのは、間違いなく私だった。
「姫のところに行きたいの!」
ベス様の肩が、息を呑んだかのように小さく震えた。
聞き間違いでなければ、ええ、私を姫と言ったわね。
呆然と立ち尽くし、言葉を失った彼女の横で、別の精霊が小さな羽音のような軽やかな音を響かせながら、ベス様の手をぺしぺしと叩き始めた。
「ノルーを放して!」
その精霊の声は高く透き通り、透明なガラスを揺らす風のようだったが、その響きの奥には確かな怒りが込められていた。
「ねえ、“姫”って何? 精霊姫は私よ!」
ベス様の声は叫びにも似て、苦しげに震えていた。必死に自分の正当性を訴えるその声に、周囲の空気が張り詰める。
そのときだった。
「あなたが? 誰が、そんなこと言ったの?」
静かでありながら鋭く、氷の刃のように鋭利な精霊の問いかけが、ベス様の心に深く切り込んでいった。
「精霊庁の人が! だって、私の周りに精霊がいたし、お菓子持ってる? って話しかけてきて!」
ベス様が必死に反論するその瞬間、精霊がくすりと笑った。
「ふーん、あなたお菓子、持っていたんじゃない? それって、たまたま精霊がそばにいて、たまたまお菓子に惹かれて寄ってきただけなんじゃないの?」
その言葉は、あまりにもあっけらかんとしていて、かえって残酷だった。
「た、たまたま……?」
ベス様の精霊を握っていた手から、ふっと力が抜ける。
その一瞬の隙間を縫うように、捕まれたままだった精霊――ノルーが、するりと手の間から抜け出した。風のように軽やかに宙へ舞い上がる。
「ノルー、行こう!」
「うん!」
二体の精霊は嬉しそうに笑いながら宙で舞い、私のもとへ一直線に向かい、ふっと消えた。
ベス様は言葉を失い、口をわずかに開けたまま、呆然と精霊が消えた空間を見つめていた。
その顔には、言いようのない敗北の色が濃くのしかかっていた。