30.祝福の足元で
side フェリシア
「あら? ベス様?」
噂を聞きつけ、足を運んだ孤児院の中庭。その一角で、ちょうど帰ろうとしている彼女の姿が目に入った。
王妃陛下から“視察に行くらしい”と聞いたときには、正直なところ、何を企んでいるのかと訝しく思った。慈善か、それともまた新たな政治的仕掛けか。ともあれ、気になった以上、見届けずにはいられなかったのだけれど。
こんなに早く帰るの?
「訪れると伺いましたので、孤児院を私がご案内しようかと存じましたが……もう帰られるのですか?」
私が声をかけると、ベス様は振り向きもせず、軽く答えた。
「ええ、服も汚れましたし」
……服?
目をやれば、白を基調とした清楚な装い。儀式服かしら。
素材は上質、仕立ても完璧。けれど腰のあたりにうっすらと土がついているのが見えた。
どうしたのかしら。転んだ? まさかね。
「ふふ、おかしなことをおっしゃいますのね。汚れるに決まっているではありませんか。ここは子どもたちが大勢いる施設ですのよ?」
わざとらしい微笑を浮かべながらそう言うと、視線を彼女の装いに滑らせる。髪にはエメラルドの髪飾り、耳元には宝石のあしらわれたピアス、胸元には控えめながらも高価なブローチ。
つまり――
掃除を手伝う気も、遊ぶ気も、本を読んであげる気さえ、最初からなかったのでしょうね。
「ベス様、私はいつもこの服で訪ねていますのよ。むしろ、ベス様のほうが市井にはお詳しそうですのに、今日は何のご用で?」
意地の悪い言い回しだったかしら。
でも彼女のむっとした顔が、思った以上に分かりやすくて、つい口角が上がる。
“市井”という単語が刺さった? それとも、“何のご用で”という問いかけが。
「祝福を与えに、です」
ああ、“何のご用で”の方ね。
けれど、真実はわかっている。新聞記者が出入りしているのを見れば、目的は明らか。国民人気を上げるため――ただ、それだけ。
「まあ、わざわざこの時期に?」
お披露目もまだ済んでいないというのに、祝福?
やるべきことは、他にいくらでもあるでしょうに。ダンスも、マナーも何もかもいくら時間が合っても足りないというのに。
焦るべきは人気取りより、すでに決定している“恥”だと思うのだけれど。
そんな時――
「あっ! フェリお姉ちゃんだ!」
高い声が響いて、振り返ると、見覚えのある少女がこちらへ駆けてきた。
「ララ。元気にしていた?」
ララの笑顔にほっとしながら、しゃがんで迎える。だが――
「あら? 服が泥だらけじゃない」
土のついた服を触った後、顔も触ったのか、頬にまでついている。ハンカチで顔を拭いてあげると暗い顔をしていることに気付く。
「うん……さっき精霊姫様に抱きついちゃったら、そのまま一緒に倒れちゃって」
まあ……なんてこと。泥の跡は、そういうことだったのね。
「怪我はない?」
「うん、大丈夫。ごめんなさいって言おうと思って走ってきたの」
こんなに小さな子に、そんな気を使わせて。胸がちくりと痛んだ。
「ベス様、わざとではないのですから、気にされませんわよね?」
「え、ええ……」
かろうじて絞り出されたその声。なんて不自然な返事かしら。“祝福を与える”と気負って来ておいて、子どもと共に泥に倒れる未来なんて、想定していなかったのでしょうね。
「よかったわね、ララ。ベス様、気にしていないって」
私はやさしく言いながら、ララの頭をそっと撫でた。そして次の一言に、ほんの少しだけ言葉を尖らせる。
「でも、せっかく“祝福”してもらったのに、そのすぐあとに転んじゃったのね。……なんだか、不思議よね」
“祝福”――本来なら幸福や加護をもたらすはずのもの。
けれど実際に起きたのは、祝福を受けた子が泥の上に倒れるという出来事。その祝福に意味なんてなかったかのように。
さて、ベス様。その程度の“祝福”で、民の心を掴めると思って?
そう言わんばかりの笑みを浮かべると、彼女の口元がわずかに引き攣った。その奥の苛立ちは、やはり隠せていない。
「さあ、今日は何して遊ぶ?」
私が笑いかけると、ララがぱっと顔を輝かせた。
「泥団子遊びがいい!」
「いいわね。私、丸めるの得意なの」
「わたしもー!」
子どもたちの明るい声があっという間に広がっていく。気づけば、周囲には小さな影がぽつぽつと集まり始めていた。手には泥、爪の間にも泥。それでも構うものかと、無邪気に笑いながら、彼らは泥の塊を握る。
それは、大人の価値や格式など、一切通じない世界。無垢で、自由で、そしてあたたかい。
そんな光景の中に、ふと視線を滑らせて、ベス様に声をかけてみた。
「ベス様も、いかが? どうせ汚れたようですし」
わざと「どうせ」を強調して。
「わ、私は……これからレッスンがありますので……」
その目が、一瞬こちらを見た。けれどすぐに逸らされた。口元は引きつり、瞳にはわかりやすい拒絶。
“なぜ私が泥にまみれなければならないの”――そんな言葉が顔に書かれているようだった。
“精霊姫”という名を着ていても、土にまみれた小さな世界には降りてこられない。祝福を振りまくことはできても、一緒に遊び、笑い、転ぶことはできない。
「残念ですわ。それでは、また」
礼儀正しく、けれどどこか含みを持たせて会釈する。そして私は、ララの小さな手を取った。
そのまま子どもたちの輪の中へと戻っていく。泥の匂い、無邪気な笑い声、あたたかな体温。それらは、貴族社会の冷たい空気よりずっと、人間らしい。
背中に感じるのは、取り繕うような足音と、静かな苛立ち。そしてそれと並ぶような敗北感。
“祝福”という名の飾りに、ほんの少し、綻びが走った瞬間だった。