28.幕間 心配 side 王太子
side 王太子
執務室には灯の揺らぎだけがある。
煌々と燃える燭台の光が、天井に不規則な影を描いていた。窓の外には、すっかり夜の帳が下りている。
涼風に揺れるカーテンの向こう、月明かりに照らされた庭園はひっそりと静まり返っていた。
そんな夜更け、机上の書類に目を落としながらも、私の思考はとっくに別の場所にあった。
「殿下、顔が青くなったり赤くなったりしていますよ」
控えていたカイエンが、面白がるように眉を上げる。
「一体、何をお考えで?」
「ああ、今日、ベス嬢とのダンスの練習に、フェリが来たんだ」
「ウィンチェスター公爵令嬢が? それはまた、珍しい」
「ベス嬢の仕上がりが気になったのだろう。世話役を引き受けている以上、当然といえば当然かもしれないが……」
私はそこで言葉を切った。
「今日のベス嬢は、足取りがいっそうおぼつかなくてな。バランスを崩すたび、私に寄りかかってきたんだ」
「見られている、という緊張のせいでしょうか?」
「どうだろうか。お披露目会も近いというのに……。ただ、ベス嬢がバランスを崩すたび、ふと視線を感じて……気づいたんだ。フェリが、こちらを悲しそうに見ていたことに」
それは、世話役としての目ではなかった。
審美でも批判でもなく――あれは、胸に何かを堪えているような、痛みを抱えた目だった。
「フェリの顔に、翳りがあった。ベス嬢のダンスの出来を心配している顔ではなかったと思う。……私たちの様子を見て、まさかとは思うが、何か誤解をしたのではないだろうか」
「そんな……しかし、感情を顔に出されるとは、よほど強く心が動かされたのでしょう」
私はうなずいた。
あのフェリが――いつも冷静沈着な彼女が、顔を曇らせた。
淡い嫉妬? それとも、考えたくはないが、私への失望か!?
あの眼差しは、諦念を含んでいるようだった。
「それで、顔が青くなったんですね?」
「まさか、気付かれるほど顔に出ていたとは」
「では、赤くなった理由は、なんですか?」
カイエンが茶を飲むような気軽さで聞いてくる。
まったく……。私は少し間を置き、照らされた書類の上で指先を組む。
「クロフォード夫人に言われて、フェリと手本を見せることになった」
「それだけのことで? 今さら照れる場面でもないでしょう」
「いや、一緒に踊ったことに照れたわけではないんだ。実は、踊っている最中、フェリが、ふと嬉しそうに笑ったんだ」
それはほんの一瞬の笑顔だった。感情が乗った微笑み。
けれど、あまりにも自然で、愛らしく、――見惚れるほどだった。
「それも珍しいですね」
「……フェリが、ベス嬢と踊る私を見て悲しくなり、そして私と踊って、嬉しそうにした。本当に、そんな単純なことなのか? カイエンは、どう思う?」
「次期、王太子妃とて、ひとりの女性です。殿下を想う気持ちは、案外――殿下のご想像以上かもしれませんよ」
想像以上か。だとしたら、嬉しいことなのだが。
フェリとの関係は政略で決まったものだ。だが、共に歩むうちに信頼が生まれ、私にとって彼女はただの婚約者ではなく、心から尊敬する人間となっていた。
そして……美しく成長していく彼女に、私はいつしか恋をしていた。
けれど、フェリの心の内は、ずっと分からなかった。
フェリの見透かせぬ表情の静けさの中に、私は幾度となく答えを探してきたが、喜怒哀楽を美しく内に抱え込む彼女の感情を、私は測りかねていた。
フェリの胸中に、私と同じ気持ちが存在するなら、いつか、伝え合える日が来るだろうか。
願わくば、その日が遠くないようにと、祈ろう――
「最近は、殿下のほうが感情を隠しきれていませんね」
「はは……気をつけるさ、公の場では」
「お気になさらず。いいと思いますよ。人間らしくて」
言葉を交わすうちにも、窓の外の空はさらに深く暗くなる。遠く、夜鳥の声が一つだけ響いた。静寂が、それを包み込む。
そんな中、カイエンがふと話題を変える。
「そういえば、精霊姫が『聖エルミナ教会』を訪問されるとか」
「……聖エルミナ教会を?」
私は思わず眉をひそめた。
「お披露目会の準備で忙しいはずだ。来賓名すら覚え切れていないと聞いている。それでも行くのか?」
「本日、庁官長が陛下に謁見し、直々に許可を得たそうです。強い希望だとか」
聖エルミナ教会――
街外れの丘にある古い教会が運営する孤児院。フェリが、何年も前から定期的に訪れている場所だ。
「併設する孤児院の子供たちとの交流をするそうですよ」
私は、眉間にしわを寄せた。
「孤児院訪問を否定するつもりはない。だが――」
王太子と精霊姫との婚姻とバカなことを言い出す者たちもいる。
おそらくは、ベス嬢自身も望んでいるのだろう。
しかし、フェリが何年もかけて積み上げたものを、簡単に真似できるはずもない。立ち居振る舞い、教養、品位、全てが滲むのは、時間の積み重ねの賜物だ。
フェリの“足跡”をなぞるような真似をしても――それは、真似にすらならない。
何より、私は、フェリを未来の王妃にと願ってきた。
それは両親も同じだ。心から望んでいる。それを、安易な思惑で掻き乱すような真似はしてほしくない。
「フェリには、余計な心配をさせたくないのだがな」
こうして心が騒ぐ夜は、どうしても彼女の顔が脳裏に浮かぶ。