22.優雅なる戦い
カップの取っ手をつまむように持ち上げ、ゆっくりと唇を寄せる。紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐり、口内に微かな渋みと華やかさを残していく。
もちろん、動きは丁寧に。肘の角度、指先の曲がり具合、そして視線の落とし方まで――すべてが“見られる”ことを前提とした作法で。
視線の端で、ベス様が私の真似をしてカップを口に運ぶのが見えた。
ため息でも出そうね。
わかっていらっしゃるかしら? 本来、令嬢として光栄に思っていただいてもよろしいはずですのよ?
さて、紅茶の余韻が残るうちに――
「では、ルキウス様。ベス様の作ったクッキーをいただきましょうか」
「ああ、そうしよう」
ルキウス様が手を伸ばし、クッキーをひとつ取って口に運ばれる。
ベス様の瞳が、その指先の動きに吸い寄せられるようについていく。期待と不安が綯い交ぜになった視線――まるで祈るように。
ひと噛み。
そして、ふわりとした笑み。
「飾り立てていないのに、どこか懐かしくて温かい味だね」
その瞬間、ベス様の顔が、ぱあっと明るくなる。
「まあ、嬉しいです!! ありがとうございます」
頬に手を添えて、少女のように喜びをあらわにして。
その姿に、私はティーカップを静かにソーサーへ戻しながら微笑んだ。
「ベス様」
声はあくまで穏やかに。
「顔に手を当ててはいけませんわ。これから、その手で王宮のカップやカトラリーに触れるのです。清潔さと所作は常に意識していただかないと」
「……」
「私がしていない所作は、控えてくださるようお願いいたします。今は、学びの場でもありますから」
静かな指摘に、ベス様の顔が引きつった。唇を噛む仕草は、おそらく無意識。
「フェリも食べるといい。ベス嬢、いいだろうか?」
ルキウス様の言葉に、ベス様は慌てて姿勢を正す。
「も、もちろんです。ぜひ!」
「では、遠慮なく」
私も一枚、クッキーをつまむ。厚みは控えめ、焼き色は素朴で、どこか手作りらしい温もりがある。口に含めば、さくりとした歯ざわりとともに、小麦の香りがふんわりと広がった。
ベス様も、また私の動きに合わせて、同じように口に運ぶ。
「素材の良さが、そのまま引き立っていて……とても誠実なお味ですわ」
「ありがとうございます?」
口元は笑っているのに、目だけが困惑している。
“褒められているのか、否か”――その判断がつかない、という顔。
ふふ。
「タルトはいかがですか? ルキウス様」
私は微笑みながらすすめた。
金縁のティーセットのそば、白磁の皿に載せられた小さなタルト。リュバーブと木苺の赤が、まるで花のように愛らしく彩っている。
「これは、リュバーブと木苺のタルトだね」
ルキウス様の声が少し上ずる。
「私の好きなタルトだ」
その一言に、ベス様の横顔がぴくりと動いた。驚きとも戸惑いともつかぬ表情が、わずかに顔に浮かぶ。
「ええ、そうですわね」
私は涼やかに笑って言う。
もちろん、ベス様は知らないでしょう。このタルトが、“殿下の秘密の好物”であることを。それを知っているのが、限られた者であるということも。そしてーー
「こちら、私が作りましたの」
「フェリが!?」
ルキウス様の声が、思わず弾む。その反応に、ベス様の顔から血の気が引く。
「え……うそ……」
小さくつぶやくその声は、紅茶の水面の揺れのように微かで、しかし確かに聞こえた。
「まさか、手作りお菓子が、かぶるとは思ってもみませんでしたわ」
私はわざとらしく驚いたふうに言う。
「最近、令嬢の間でお菓子作りが流行っていると聞きまして。私も試してみたくなったのです」
「フェリが、私のために?」
ルキウス様の瞳が、ほんのりと潤んだ気がした。周囲がざわつき始めるのがわかる。
「さっきベス様を注意したくせに、ご自分も使用人に迷惑をかけたのね!」
「ほとんど作ってもらったはずよ、きっと。なのに、ご自分の手柄のように言うなんて」
ふふ、だから聞こえていますわよ。でも、的外れですわ。
このタルトを形にするまで、私は何度も試作を重ねたもの。家柄に甘えて、何もしない令嬢と思われては困りますわね。
そもそも、うちの使用人たちは、試作や形が崩れたものを奪い合っていたのに、迷惑だなんて思っているかしら?
まあ、この場では言いませんけど。
「もちろん、公爵家の名において安全であるという書類を提出しておりますし、殿下の毒味役のチェックも通っていますわ」
にっこりと微笑む。
当然でしょう。
「フェリ、もう食べてもいいだろうか?」
ルキウス様が、子どものようにそわそわとする。
「ええ、どうぞ。召し上がってくださいませ」
銀のフォークが音もなく動き、殿下の手元からひと口分のタルトが運ばれる。
「っ!! おいしいよ、フェリ!」
その一言に、空気が変わった。彼の声は甘やかで、少し熱を帯びていた。
「サクッと軽やかに崩れる中に、上品なバターの香りと、木苺の甘みがほんのりと重なって……リュバーブの尖った酸味に、そっと寄り添うように調和する。最高だ」
ふふ、よかったわ。
私も一口いただく。甘みを抑えたタルト生地と、木苺のほのかな渋み。そして、ふいに広がる、リュバーブの酸味。
もちろん、ベス様もまた私の真似をしながら食べる。
「ベス様、いかがかしら?」
問いかけると、わずかに間を置いて――
「……おいしいです」
その声には、“認めざるを得ない”色が混じっていた。
「ふふ、嬉しいですわ」
私は紅茶を一口。芳香が鼻から抜け、至福の余韻が喉をくすぐる。
「フェリ、もう一ついいだろうか?」
ルキウス様が、まるで少年のような目を向けてくる。
「もちろんです。ルキウス様のために作ったのですから」
ルキウス様の喜びにあふれた顔と、ベス様の悔しさを噛みしめるような顔。
ああ、紅茶がとても美味しいわ。




