2.噂という名の台本
「それは、つまり、悪役令嬢になるっていうこと?」
ヴィアはカップを手にしたまま、じっと私を見つめていた。午後の柔らかな陽光が、彼女の淡い色の髪を透かし、ひと房ごとに金糸のような輝きを与えている。揺れる紅茶の水面に、その光がきらりと映り込んだ。
「ええ、そうよ」
私は視線を逸らさず、静かに微笑んだ。
「私、子どものころから数えきれないほど舞台を観てきたの。どんな役でも演じる自信はあるわ。“悪役令嬢”なんて、さすがに見たことがないけれど……だからこそ、挑み甲斐があると思わない? 卒業まで残り三ヶ月――ふふ、楽しみが増えたわね」
胸の奥が、わずかに高鳴る。未知の役に立つときの、あの感覚だ。
「よろしいのですか? フェリシア様」
ライラが、珍しく困惑を隠さない表情を浮かべていた。いつもならすぐに楽しげな計算を始める彼女が、慎重になっている。
「そうよ、フェリ。私はもともと、婚約が壊れることも想定に入れていたけど」
「ええ、私もです。どうせ卒業と同時に家を離れるつもりで……私には、家名よりも大切なことがありますから」
二人の言葉は、迷いのないものだった。
「だから、多少評判が悪くなっても私たちは痛くも痒くもない。でも、フェリ――あなたは違うわ。王太子妃として、周囲の期待を一身に背負って生きてきた。せっかく頑張ってきたのに、評判が悪くなったら……」
ヴィアの声には、はっきりとした気遣いが滲んでいた。
そうね。
私は、王太子妃になること自体に疑問を持っているわけではないけれど――
「ふふ、大丈夫よ。ルキウス様との関係は良好ですし、ヒロインにとっての“悪役”になればよいのでしょう?」
脳裏に浮かぶのは、“精霊姫”と呼ばれるベス様の姿。澄んだ瞳の奥に、時折ちらつく、どこか計算めいた光。
その理由が、私はずっと分からずにいた。でも、今なら――
このまま放っておいた方が、よほど評判に関わりそうだわ。
「あの方が、私に立ち向かって自らのサクセスストーリーを描こうとしているのなら、喜んでその“舞台”を提供してあげるのも、私の役目じゃなくって?」
見事に私を蹴落とせたなら――そのときは、拍手のひとつでも送って差し上げるわ。
「まあ。大胆な発想ですわね。それでしたら――やりましょう! 妹にも、“現実”という舞台の厳しさを教えてあげますわ。ふふ、楽しくなってきました」
ライラが、ぱん、と軽く手を叩く。長い睫毛の影が揺れ、彼女の瞳がきらきらと輝いた。
「ふふ、それなら私も乗るわ。ヒロインたちは、噂のすべてを知った上で、“可憐”に振る舞う。まるで、それが生まれ持った純真さであるかのように。けれど、その実は――私たちを貶めて、物語の中心に立とうとしているだけ。少しの謙虚ささえあれば、かわいげもあるのでしょうにね」
ヴィアが小さくため息をついた。その吐息には、呆れと憐れみが混じっていたが、すぐに彼女の唇がわずかにほころぶ。
「じゃあ、まずは私からでもいいかしら。実は、いい加減、耐えかねていた部分もあるの。さっさと決着をつけるわ」
ふっと細められた瞳には、いたずらめいた光が宿っている。いつも一歩引いて冷静に状況を見つめるヴィアにしては、珍しいほどの前のめりだ。
「異論ありませんわ、オリヴィア様。私は、少し準備が必要ですの。相談したい相手もいますから、後の方が嬉しいですわ」
穏やかな微笑みとは裏腹に、ライラの眼差しは鋭く冴えている。愛らしい佇まいの奥に、周到な計画が隠れているのは明らかだった。
「私も異論はないわ。ライラから借りる小説を読むのに、時間がかかりそうだから、最後がいいわね。自分の“役柄”をしっかり理解しておきたいもの。演じる以上、台詞のひとつひとつにも意味があるでしょう?」
私はカップを口元に運び、紅茶の温もりを感じながら、静かに笑った。
楽しみだわ。
どんな物語になるのか――今から、胸が高鳴る。
そのとき、ヴィアがふと顔を向け、ライラに尋ねた。
「ねえ、ライラ? あなたの知っている私の噂。できれば、全部詳しく教えてもらいたいのだけれど」
「そうですわよね。ご自身の噂って、案外分からないものですもの」
ライラは少し考え込むように視線を宙に泳がせ、それからゆっくりと口を開いた。
「私が聞いた限りでは――男爵令嬢を守るために集まっている令息たちの婚約者を、裏で取りまとめているのはオリヴィア様だ、という話になっていますわ。しかも、その令嬢たちと男爵令嬢に“嫌がらせ”をしているとか、いないとか……」
ヴィアの眉が、きゅっと寄る。
「裏で取りまとめている? 不平不満を聞いてあげているだけなのに。それに、あの子たちだって嫌がらせなんてしていないわ。むしろ、あの婚約者たちの冷淡な態度に、よく耐えていると感心しているくらい」
「私もそう思っておりますわ。あの方々の、婚約者に対する“ないがしろ”ぶりは相当なものですもの。貴族として恥ずかしくないのかしらと、内心で舌打ちしたことすらありますのよ」
婚約者を蔑ろにするなど、常識がない。
でも――つまり。
「ヴィアが諸悪の根源、そう思われているのかしら?」
「そうなのです!! フェリシア様」
ライラが身を乗り出し、急に甘ったるい声真似を始める。
「『私はお友達になりたいだけなのに、オリヴィア様に話しかけても無視されて、きっと陰口も言われるんですぅ』なんて、わざとらしい声で“訴えて”いたのを聞いたことがありますわ」
あまりに芝居がかった調子に、吹き出しそうになるのを必死で堪える。ヴィアは肩を震わせながら、顔をしかめていた。
「『私の勘違いかもしれないけど、物がなくなったり、壊されたりして……もしかして、オリヴィア様が……いいえ、違うわ。私がきっとおっちょこちょいなのよ』と、吹聴しているらしいですの」
まあ……この年齢で“おっちょこちょい”だなんて。
それ、死活問題ですのに。
ヴィアは呆れたように天を仰いだ。
「男爵令嬢に嫉妬して、他の令嬢を操って攻撃している――って、そんな馬鹿げた話、信じる方もどうかしてるわ。でも、さすがに物を壊すのは演技でも、できなさそうね。困ったわ」
「私、さすがに腹が立ってひと言申し上げたこともあるのですが、あの方、すぐに泣きますのよ。周りに人がいることをきちんと確認してから」
……なるほど。“ヒロイン”役の男爵令嬢は、周囲を欺くほどの演技力を持っているのね。
負けていられないわ。
「オリヴィア様。中には、命を脅かすような行為――たとえば階段から突き落とすなどといったことをしたという話も出回っております。……慎重に行動されることをおすすめしますわ」
「まあ!!」
「それ、犯罪よ! ヴィア」
「……やってないわよ」
呆れたように睨まれて、思わず笑ってしまう。
私たち――
物語の登場人物としては、なかなかに波乱万丈な役どころのようね。
「まあ、あの子にとっての嫌がらせであればいいのよね。そういうことなら、ええ、ちょっと考えてみるわ」
ヴィアは、そう言って優雅に微笑んだ。




