16.幕間 ー知らぬ忠誠ー side ライラ父
side ライラ父
「くそっ……! 今すぐ、クラウスを呼べ!」
書斎の中に怒声が響く。机上に散らばる帳簿、書簡、債権書類。どれもこれも、見たくもないものばかりだ。
手にした一通の通知を握りしめ、皺が刻まれた額にさらに深い影が差す。
――ライラめ……。
爵位を継がせなかった復讐のつもりか? わざわざこんなタイミングで、こんなことをしでかすとは……!
だが、払ってやる。お前の思い通りにだけは、させるものか。
「お呼びでしょうか、旦那様」
程なくして現れたのは、財務執事クラウス。老齢の彼は誠実な顔をしているが、その実、使い勝手のよい男だった。そう――これまでは。
「……これを見ろ」
私は書簡を、まるで裁きの書のように、机へと叩きつけた。封蝋はすでに破られ、中身が剥き出しになっている。
クラウスの手が震える。
「こ、これは……。今週中に五百万リーヴルを支払え、との通告……」
「そうだ。お前がうまくやっていれば、こうはならなかった」
「旦那様! 私は、あくまで旦那様のご指示に従って……」
「黙れ!」
怒りで喉が焼けるようだった。この執事に、裏金の調整や交渉を任せていたのに、よりにもよってライラに気づかれるとは――。
だが、今は責任追及の暇などない。五百万。一刻も早く用立てなければ……。
「商会の金。新規事業のために集めていた金も含めて、いくらある?」
「……あれでございますか。本日現在で約一千万リーヴルです」
私は息を吐いた。かすかに安堵する。
よし、少なくとも首が繋がった。
「それを返済に充てろ」
「本気で……? しかし、あの資金は商会の国外進出のための要――」
「それはわかっている!」
私は、クラウスの言葉を遮った。だが、今は拡充どころではない。
「今は一刻も早く現状を何とかするのが最優先だ。国外は、諦める。現状維持のまま、また資金を集め直せばよい……起死回生の目はまだある。その時までは、沈まぬよう、踏みとどまるだけだ」
「かしこまりました。すぐに商会長に連絡し、資金を移動させます」
「急げ」
クラウスが頭を下げ、静かに去っていくのを見送りながら、私は椅子に深く沈み込んだ。額に浮かぶ冷や汗が、やけに重たく感じる。
それにしても、予想外の出費だ……。このままでは、我が家の財政は根幹から崩れかねない。
ライラ――。
お前が、もう少し素直であれば。お前が余計なことをしなければ、こんな事態にはならなかったのだ。いや、むしろ、こうなるのはわかっていて仕組んだのか?
――やはり、卒業後は、グランツリス伯爵に、嫁がせよう。
評判はかなりよくないが、そんなことは、もうどうでもいい。持参金は不要。しかも、婚姻後は定期的な援助を提示している。これ以上の取引があるか。
ライラ、こうなったのは――すべて、お前自身のせいだ
……ははっ、馬鹿な娘め。
*****
「だ、旦那様」
呼び声が震えていた。
振り返ると、青ざめた顔の財務執事クラウスが、両手で分厚い封筒を抱えるように持って立っている。
「どうした? おお、それは金か。寄越せ!」
私は立ち上がり、封筒をむしり取るように奪った。だが――。
「……なんだこれは。退職願……?」
「そ、そのようです」
クラウスの声はかすれていた。私の脳裏に、言いようのない不穏が広がる。
「どういうことだ! 金を持ってくるように伝えたのだぞ? なぜ、退職届が届く!?」
「それが、旦那様。お嬢様が爵位を継がれないこと、そして商会に関わられないというご決定を知った商会長をはじめ、従業員が一斉に辞職を申し出ております」
「馬鹿な!!」
苛立ちを抑えきれず、怒声が書斎に響く。
「オーナーは私だぞ! 私が、資金を出して、商会を!」
「ですが、この数年、ライラお嬢様は従業員と直接信頼関係を築かれておりました。福利厚生の改善、労働環境の整備、相談窓口の設置など……。皆、お嬢様の手腕に心酔しておりまして」
「はっ……馬鹿馬鹿しい! 辞めたければ辞めさせろ!! うちの商会は、辞める者が出たらすぐに次の優秀な人材で埋まる。応募が殺到する優良商会なのだ。たとえ全員辞めたとしても、痛くもかゆくもない!!」
「旦那様。そうなりますと、退職金の支払い義務が発生します」
「退職金? 我が商会に、そんな制度があったのか?」
「ございます。先ほど申し上げた福利厚生制度の一環として……。お嬢様が提案され、旦那様のご許可もいただいております」
ああ、そうだった。
ライラが懇願するように言ってきた。あのときは面倒が嫌で、適当に許可を出しただけだった。
「わかった、払ってやれ」
出し渋っていると噂が立ち、商会の評判が地に落ちる。
「ただしその金額が問題でして。全従業員分で、一千万リーヴルほどになるかと存じます」
「退職金ごときに、一千万だと!!」
「はい。雇用契約に基づく規定に従って計算しております。勤続年数や役職に応じて支払い額が確定しており、契約書にも記載されているため法的にも遵守せねばなりません」
私は力が抜け、ソファへと崩れ落ちた。
「さらに……」
クラウスが視線を落としたまま続ける。
「従業員がそろって退職、この情報がすでに取引相手に漏れており、契約解消や取引停止の連絡が続々と……」
「は、早すぎる……! 誰が……誰が……! ……ライラか……?」
あいつ、本気で私を潰す気か? 親に向かって、そこまで――
「今、家にある金をかき集めて、売れるものを売ったとしたら、いくらになる?」
金に困っているという噂が出るだろうが、今はそんなこと言っていられない。
「三百万ほどかと、思います」
「たった、たったそれだけか?」
「はい。高級調度品やアクセサリーを一斉に売却するなら、足元を見られ、相場よりかなり安く買いたたかれます。さらに、購入されたドレスなどの支払いをつい先日済ませたばかりでして、現金の余裕がほとんどございません」
私は顔を覆った。ぐらりと、視界が揺れる。
「な、何としてでも、今週末までに五百万リーヴルを用立てろ。いいな? 何としてでもだ!!」
「……承知いたしました、旦那様」
クラウスは、沈みゆく船の船長を見るような目で私を見て部屋を後にした。