11.嘘に濡れた瞳
side ライラ
「――ライラ、今晩、食後に私の書斎へ来なさい」
晩餐の終わり。銀食器の触れ合う音が静まり、使用人たちが下がり始めた、その隙を縫うように――父はふいに私へと視線を向け、低く抑えた声でそう告げた。
その声音には、柔らかさも、ためらいもない。まるで、すでに決定事項であるかのような調子。
……あら、珍しい。
社交の場では、形式的な言葉を交わすだけ。こうして“個人的に”呼び出されるのは、いったい何ヶ月ぶりかしら。
私は一瞬だけ、向かいの席へと視線を滑らせる。
そこには、リリスがいた。伏せられた長い睫毛の奥で、ほんの一瞬、勝ち誇ったように口元を緩める。その笑みは、あまりにも控えめで、それでいて確信に満ちていた。
目尻の角度、背筋の伸ばし方、そのすべてが雄弁に語っている。
――「計画通り」。
あら、あからさま。
やっぱり告げ口したのね。あの件を、食後すぐに。きっと涙を添えて。
わかりやすくて、本当に助かるわ。
夜の帳が下りた屋敷は、昼間とは別の顔をしていた。
長い廊下に落ちる燭台の光は、壁の装飾を歪め、影を伸ばす。その静けさは、まるで緊張そのものが空気に溶け込んでいるかのようだった。
父の書斎の前に立ち、軽くノックをしてから扉を開ける。
足を踏み入れた瞬間、室内の配置は一目で理解できた。
重厚な机の奥、椅子に深く腰掛ける父。
その少し後ろ、寄り添うように立つ継母。
そして――ソファの端に、か弱く身を寄せ、薄いハンカチで目元を押さえているリリス。
……あらあら、涙まで?
つい先ほどまで、デザートのケーキを誰よりも楽しげに平らげていた人が、今は肩を小刻みに震わせ、声を殺してすすり泣いている。
数十分前の姿と、まるで別人。
白々しいほど濡れた睫毛を伏せながら、それでも誰よりも目立つ位置を陣取っているのが実に見事だ。あくまでも、“可哀そうなヒロイン”として舞台の中央に立つつもりらしい。
その涙の裏にある、稚拙な計略と、密かな満足感まですべて、透けて見える。
……さあ、どんな芝居が始まるのかしら。
「リリスから話を聞いた。お前が、リリスの大切にしていた物を壊したそうだが……本当か?」
父の声は低く、静かだった。
だがその響きには、最初から結論が含まれている。まるで私が“加害者”であることは、すでに確定しているかのように。
私は、ほんの少し首を傾げてから、淡々と口を開いた。
「ええ、本当ですわ」
嘘をつくつもりなんて、これっぽっちもない。どうせ誰も、昔から私の言い分なんて聞く気はないのだから。
「なぜだ! こんなにも泣いて。リリスが、かわいそうではないか!」
父の声が荒立つ。机を叩かんばかりの勢いに、空気が震えた。
それを待っていたかのように、継母がすかさずリリスの肩を抱き寄せる。その腕は優しく、庇護する者のそれで。けれど、向けられた視線は、確かに私を射抜いていた。
ああ、本当に見事な演出。
綿密に書き込まれた台本でもあるかのような流れに、私は心の中で拍手を送る。
「だって、お父様――」
私は一歩、前へ出る。わずかに目を細め、その場の“役柄”を演じるように。
「リリスは、私の婚約者であるダリオに、あからさまな“ちょっかい”をかけていたのですもの」
「ちょっかい……?」
伏し目がちだったリリスが、ゆっくりと顔を上げる。
大粒の涙が頬を伝い落ち、その声は、今にも壊れそうな鈴の音のように震えていた。
「お姉様、何を言っているの……? 私はただ……未来の兄と、仲良くしたかっただけ。妹として、家族として……それの、何がいけないの……?」
そのわざとらしい震え声に、胸の奥で何かが冷めていくのを感じながら私は、にこりと微笑んだ。
「リリス。あなたは昔から、私の持っているものを欲しがってきた。ドレスも、髪飾りも、母の形見さえも。そして、今度は……ダリオ」
言葉を区切りながら、ゆっくりと距離を詰める。
「でも、これは、はっきりと言っておくわ。ダリオだけは、絶対に譲らない。たとえ“妹”であっても、近づくなら……」
目を細め、唇だけで笑みを形作る。
「今後もあなたの“大切にしている物”を、壊して差し上げるわ」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
継母は睨み付けるように私を見つめ、リリスは震える肩を継母の胸に押しつけて、いっそう激しくすすり泣く。
「姉なのに……! なんて非道なことを言うのっ……あなたって人は!」
継母の瞳には、まるで炎でも宿したかのような怒りがあった。もっとも、それすらどこか“演技”じみていて、可笑しいのだけれど。
そして父は、重く沈黙した空気の中で、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ、ライラ。私は、お前を甘やかしすぎてしまったようだ」
……そんな覚えは、ありませんが?
「しばらく謹慎を申しつける。部屋から一歩も出るな。反省しなさい」
淡々と、けれど断罪のように言い放たれる言葉。私は一瞬も目を逸らさず、その裁きを受け止めた。
そして心の奥底で、ひっそりと笑う。
だが、ここはもうひと演技。
「そんな! お父様! 私の話を――!」
「黙りなさい! オスカー。ライラを部屋まで連れていきなさい」
「かしこまりました。お嬢様、参りましょう」
私の腕を取ったのは、執事のオスカーだった。
悔しさと怒りで唇を噛み締める――ふりをしながら、私は彼に引きずられるように書斎を後にする。
「お父様! お話を聞いてください。お父様――!」
廊下へ出る直前、ちらりと振り返ると継母とリリスが、並んで微笑んでいた。
……見苦しいわね。本当に。
オスカーに腕を抱えられ、私室へと戻る。
長い廊下を歩く間、すれ違う者は誰も言葉を発さない。ただ、靴音だけが規則正しく響いていた。
扉が閉まった、その瞬間。
世界が、一転する。
ここは“私たち”だけの、静謐な舞台の控え室。私は振り返らぬまま、背中越しにぽつりと尋ねた。
「どうだった? オスカー」
彼は、澄んだ声で即座に答える。
「完璧です、お嬢様。予想以上に、見事な演技でした」
その言葉の端に滲む賞賛に、私は小さく笑みを浮かべる。
部屋の中央に置かれた肘掛け椅子へ歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろす。足を組み、顎を手の甲に預けるように頬杖をつく。
芝居の幕が下りた後の余韻を、静かに味わうように。
カチャ、と小さな陶器の音。
オスカーが淹れた紅茶が、私の前に置かれる。
立ちのぼる香り。
砂糖は入れず、ミルクはほんの一滴。温度も、香りの濃さも――すべて、私の好み通り。
彼の淹れる紅茶は、どこまでも“私のため”に調えられている。そっと口をつけると、冷えかけていた心に、微かな温度が戻ってくる気がした。
「オスカーの、お父様の命令に淡々と応じる冷たい演技もよかったわ」
「お嬢様のご指導の賜物です」
彼はそう言って、端正な顔立ちに控えめな微笑を浮かべる。
「もっとも、リリス様の“即席涙”には及びませんが」
「ふふ、あれは天然の才能よ。“悲劇のヒロイン”を演じさせたら、学院でも右に出る者はいないでしょうね」
私たちは目を合わせ、小さく笑う。
その笑みに、温もりと冷笑が同居しているのは私たちが“共犯”だからだ。
この家での、唯一の観客であり、唯一の味方。
そして私は今夜も、その事実に確かな安堵を覚えていた。




