11.嘘に濡れた瞳
sideライラ
「ーーライラ、今晩、食後に私の書斎へ来なさい」
晩餐の終わり、父がふいに私へと視線を向け、静かにそう告げた。
珍しいわ。社交の場で話しかけられても、こうして“個人的に”呼ばれるのは何ヶ月ぶりかしら。
一瞬、向かいの席に目をやると、リリスが目を伏せながら、口元だけで笑っているのが見えた。目尻の角度、背筋の張り方、その全てが語っている。「計画通り」だと。
あら、あからさま。やっぱり告げたのね。あの件を、すぐに泣きついたのでしょう。わかりやすくて、本当に助かるわ。
夜の静寂に包まれた屋敷は、静かに緊張を染み込ませるようだった。
父の書斎にたどり着き、ノックをし扉を開ける。
室内に入ると、すぐに視界に入ったのは、重厚な椅子に座る父と、その傍らに控える継母、そして――ソファの端に座り、薄いハンカチで目元を押さえているリリスの姿。
あらあら、涙まで……?
あれほど食欲旺盛にケーキを平らげていた人が、今では肩を小刻みに震わせ、声を潜めてすすり泣いている。数十分前に見た彼女と、別人ね。
白々しい涙に濡れた睫毛を伏せながら、それでも誰より目立つ場所を陣取っているのが面白い。あくまでも“可哀そうなヒロイン”の演出に徹する気らしい。
その涙の裏側にある、稚拙な計略と、愚かな満足感まで、すべて透けて見える。
……さあ、どんな芝居が始まるのかしら。
「リリスから話を聞いた。お前が、リリスの大切にしていた物を壊したそうだが……本当か?」
父の声は低く、静かだった。けれど最初から私が“加害者”であることが決定しているかのような声音だった。
私は少しだけ首を傾げてから、淡々と口を開いた。
「ええ、本当ですわ」
嘘をつくつもりなんて、これっぽっちもない。どうせ誰も、昔から私の言い分なんて聞く気はないのだから。
「なぜだ! こんなにも泣いて……リリスが、かわいそうではないか!」
机を叩かんばかりの勢いで父が声を上げると、継母がすかさずリリスの肩を抱き寄せる。その手は優しく、視線はしっかりと、私へ向けられていた。
ああ、本当に見事な演出。まるで台本でもあるかのような流れに、私は心の中で拍手を送りたくなった。
「だって、お父様――」
私は一歩進み、わずかに目を細める。
「リリスは、私の婚約者であるダリオに、あからさまな“ちょっかい”をかけていたのですもの」
「ちょっかい……?」
伏し目がちだったリリスが、ゆっくりと顔を上げる。大粒の涙が頬を伝い、その声は壊れそうな鈴の音のように震えていた。
「お姉様、何を言っているの……? 私はただ……未来の兄と、仲良くしたかっただけ。妹として、家族として……それの、何がいけないの……?」
わざとらしい震え声に、私は心底うんざりしながらも、にこりと笑う。
「リリス。あなたは昔から、私の持っているものを欲しがってきた。ドレスも、髪飾りも、母の形見さえも。そして、今度は……ダリオ」
言葉を区切りながら、ゆっくりと近づいていく。
「でも、これは、はっきりと言っておくわ。ダリオだけは、絶対に譲らない。たとえ“妹”であっても、近づくなら……」
目を細めて、唇だけで笑みをつくる。
「今後もあなたの“大切にしている物”を、壊して差し上げるわ」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
継母が睨み付けるように私を見て、リリスは震える肩を継母の胸に押しつけてすすり泣く。
「姉なのに……! なんて非道なことを言うのっ……あなたって人は!」
継母の目が、炎でも宿したように私を睨む。けれどその怒りさえも、どこか“演技”じみていて可笑しい。そして父は、重く沈黙した空気の中、立ち上がった。
「ああ、ライラ。私は、お前を甘やかしすぎてしまったようだ」
そんな覚えはありませんが?
「しばらく謹慎を申しつける。部屋から一歩も出るな。反省しなさい」
淡々と、けれどどこか断罪のように言い放つ。私は一瞬も目を逸らさず、その裁きの言葉を受け止めた。
そして――心の奥底で、ひっそりと笑った。だが、ここは、もうひと演技。
「そんな! お父様! 私の話を――!」
「黙りなさい! オスカー。ライラを部屋まで連れていきなさい」
「かしこまりました。お嬢様、参りましょう」
私の腕を取ったのは、私の執事オスカーだった。悔しさと怒りで唇を噛み締めるーーふりをしながら、オスカーに引きずられるように部屋を歩く。
「お父様! お話を聞いてください。お父様ー!」
その途中、ちらりと振り返ると、継母とリリスが――そう、あの二人が並んで、愉快そうに微笑んでいた。
……見苦しいわね。本当に。
オスカーに引きずられるように腕を抱えられ私室へと戻る。廊下を歩く間、すれ違う者は誰も言葉を発さない。ただ靴音だけが静かに響く。
扉が閉まったその瞬間。世界が一転する。
“私たち”だけの静謐な舞台の控え室となる。私は振り返らず、背中越しにぽつりと尋ねた。
「どうだった? オスカー」
その問いに、彼は、澄んだ声で応える。
「完璧です、お嬢様。予想以上に、見事な演技でした」
言葉の端に、賞賛が滲む。それを聞いて、私は小さく笑みを浮かべる。
部屋の中央にある肘掛け椅子へと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろす。足を組み、顎を手の甲に預けるようにして、頬杖をつく。芝居の幕が下りた後の余韻を、私は静かに味わっていた。
カチャ――と、小さな陶器の音がして、オスカーが淹れた紅茶が目の前に置かれる。香りが立ちのぼる。私の好み通り――砂糖は一切加えず、ミルクはほんのひと垂らしだけ。温度も、香りの濃さも、完璧。
彼の淹れる紅茶は、ぬるすぎず、熱すぎず、どこまでも“私のため”だけに調えられているのだ。
私はその紅茶にそっと口をつける。冷えかけた心に、ふわりと微かな温度が戻ってくる気がした。
「オスカーの、お父様の命令に淡々と応じる冷たい演技もよかったわ」
「お嬢様のご指導の賜物です」
彼は静かにそう言って、端正な顔立ちに微笑を浮かべた。
「もっとも、リリス様の“即席涙”には及びませんが」
「ふふ、あれは天然の才能よ。“悲劇のヒロイン”を演じさせたら、学院でも右に出る者はいないのではないかしら」
私たちは目を合わせて小さく笑う。だがその笑いに、温もりと冷笑が不思議と共存しているのは――私たちが“共犯”だからだろう。
この家での“唯一の観客”であり、“唯一の味方”。
そして私は今夜も、その事実に――安堵していた。