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ダブルドリブル

作者:

 「ダブルドリブル」をご存じであろうか。ドリブルをやめると、もうボールをついてはいけないバスケットボ―ルの押さえなければならない基本のルールの一つである。ルールとして認識していない人は少ない。

 毎朝、玄関の外には青や緑の自然を象徴する色の少ない町が広がっている。一日一回上るのが限界の傾斜の激しい坂を登った先にある学校へ流したくもない汗を額に滴らせ、通う。時折、何のために通っているのか分からなくなる。

 「ずるっ」雨のせいで滑りやすくなっている坂で足を滑らし、大勢の前で派手に転ぶ。鋭い雨から僕を守っていた傘は僕の右手が持ち手を離した途端、嫌気がしたのか、風に乗って逃げ去り、汗を滴らせながら登ってきた坂を下って行った。目の前に知らないサーカス団ショーがあるかのように歩を止め、物珍しさに見る人も入れば、ながら見をする人もいる。「これは見世物じゃないぞ」「一声かけたらどうだ」文句を並べて恥ずかしさを覆い隠す。

 白い傘越しに見える人影から目の前に艶やかな左手と市販の絆創膏二つが差し出される。「全日本人がこんなに優しければいいのに」なんて思いつつ、紳士的に感謝の旨を伝えると傘を傍に置いて、鋭い雨に打たれながら慣れた手付きで素早く適切に応急処置をしてくれる。彼女の手は天気予報の最低気温より冷たい。冷え性を患っているのか。「手が冷たい人は心が温かい」は立証された。彼女は手が異常に冷たい代わりに心が異常に温かい人である。

 彼女は処置を終え、颯爽と後腐れなく去っていく。去り際には仄かにブラックウッドの匂いが鼻に残る。私を置いて、白い傘をさし、遠く離れていく姿は人より背が高い僕ぐらいの身長で腰が高く、高い腰から描く曲線美と天使を思い起こす純白さを合わせ持っていた。

けがを治療してもらった足で一日一回上るのが限界である坂を登り、逃げ去っていった傘を取り戻す。意外にも一度たりとも止まらずに登れた。やってみなければ僕は自分の足腰の期待性に気づかずに世を去っていた。自分史に残る新発見を成し遂げた僕を横目に僕と同じペースで歩く人とさくさくと歩を進め次々に人を追い越していく人がいる。僕は後者のようにさくさくと学校に通う原動力が見当たらない。宗教染みた意識の高さを兼ね備えている者たちの集団に染まりたくなかったのかもしれない。

大凡そういう人たちは勉強なり、宿題なり先生に言われたマニュアル通りに一から十まで的確に動く。彼らを見る角度を変えて、見る。先生が片手間に思い通り操つる操り人形に見える。

授業の大半は博物館の案内スタッフの解説ぐらいつまらない。よく分からないことをよく分からない専門用語を使って説明する。先生は授業という名の大会に有識者のフィールドで臨む。無識者のフィールドである僕ら生徒とは戦うフィールドが違い、ルール上対戦することはありえない。そんな先生と僕らが授業で激しく火花を散らそうとするのに障害が生まれない訳がない。互いのフィールドではそれぞれのルールがあり、認識の相違があれば、規則がなくなり、無法試合と化す。これが授業の姿で成立するわけがなく、面白いはずがない。

 面白いのは体育だけ。専門知識がさほど必要でない体育は至極単純な動作ができれば、滞りなくプレーできる。

 体育は一年生時と二年生時は時間割の午前中に組み込まれる。午後にできるのは三年生のみに与えられる特権である。午前だと授業と授業に挟まれているため準備も片づけも迫りくるチャイムに追われて、周りは慌ただしい。体育の後の授業は四十人の上がりきっている体温を人数に対して割に合ってない大きさの教室に閉じ込められ、体感の熱さは数倍に跳ね上がる。サウナのような熱い教室で面白くない授業が聞こえながら狭い教室で座ってゆっくり体温を下げなければならない。その容易ではない所業を二年間毎週繰り返す。おかげで慣れたくもない暑さに心身共に慣れてしまっている。こんな耐性よりもっと実用的な耐性が欲しい。

 僕は第一巡目にストレス耐性が欲しい。勉強に部活、学生には多種多様なストレスがゲリラ豪雨のように強く体を打ちつけてくる。人一人分の傘では防ぎきれない。これを耐えしのぐことさえできれば、我々学生は穏便にゆったりした学生生活を送れる。

 第二巡目に恋愛耐性、または女性耐性である。何故、初対面は尚更、女性としゃべるのが苦手である。小、中学生時は未熟であり、異性を気にしないで気軽にしゃべれていた。思春期をむかえた高校生の僕は異性を意識してしまうエロ坊主になってしまっていた。高校からは多くの学生が近し遠しの地域から足労を代償に払い、登校する。見慣れない教室で見慣れない人としゃべれはしないので当然目も合わせられない。バラ色になるはずの高校生活は絶望的な一歩を歩みは始める。

 この話は引き潮、満ち潮激しい男の高校ライフの物語である。

 学校は学んでも活用できないことばかり学んでいる気がしてならない。これは学校に通うのが億劫になる代表的な要因の一つである。毎日思うので三年時にはとてつもない量がたまる。

三年生からは体育が五限に転勤する。学校生活をおくるリズムは一、二年生時からがらっと変わる。他校よりもやや大きい体育館で食べる昼食、チャイムに追われない準備、望んでいたゆったりとした時間を過ごせる。心に隙間が生まれ、感受性が高まり、多方面に関心が向く。

体育館の二階には学校サイドから運動部の学生への期待が詰まった筋トレスペースが設置されている。日光を反射して銀色に輝く器具はジムに引けを取らない充実度を満たす。そこでは部活生が学校サイドの思いを汲み取り、筋トレに努める。充実しすぎて使ったことのない器具や使い方の分からない器具が多数存在していることも知られたくない事実である。

 クーラーと気温が互いに存在価値を見せ示す筋トレスペースでは体育専攻の女子学生が汗を額に流す。僕が坂を登りながら滴らす汗ではなく、眩しく輝く汗を流す。男子学生に負けず劣らずの重量を上げている。それ以上を上げる人もちらほら見られる。末恐ろしや、体育専攻。

 六限が終わり、野球部は速やかにグラウンドに移動するためのえんじ色のバスへ歩を進める。グラウンドまでは十分の道のりで遠すぎではないが、近くもなく、練習前に一端の足労がかかるのが難点である。体育祭にも利用される野球部特設のグラウンドまではバスが出るのにバスまでが遠いのが惜しい。 

十分の乗車時間は練習メニューにより体感時間がころころ入れ替わる。体感時間は世の中に革命をもたらす無限の可能性を秘めている。もし、人類に体感時間を操れる技術があれば、今までより大幅に時間を増やせる。増えた時間に体が追いつくかは一旦目をつむり、あとは理系の諸君よろしく頼む。

 お尻が痛んでくるくらい長い。学校からグラウンドまで十分の道のりだが、二倍の二十分に感じる。練習メニューは大の嫌いなバントである。バントは地味なくせに危なく、難しい。「目でしろ」指導者に重ね重ね指導される。目でしたら眼球が破裂してしまう。ものの例えにしても非現実的過ぎるし、怖すぎる。

 守備に関しても同様に無理難題を押し付けられる。「バットにボールがどう接触したかで打球を判断しろ」遠すぎて接触の瞬間は見えない。音も区別できない。バントも守備も試合では必要不可欠なスキルで練習を怠ればできないことがもっとできなくなる。しかし、できない。日々、指導者の理想と自分の能力の限界の葛藤とも試合する。

 練習を終えるとともにぽつぽつ小雨が火照った体をやさしく冷まし、天然の温冷交代浴で疲れを癒やしてくれる。体温が覚めたら雨はただの冷たい水に変じて、寒気を催させる。傘をさそうとするが、グラウンドの泥で汚れた手元には天気予報信者の母に言われて、自宅からしぶしぶ持っていかされた青い傘がない。学校に忘れたことに気付き、心までもが寒くなる。

 僕の母は昔から青色のものをよく身に着けている。住宅街の入口に建てられた一軒家の駐車場に止めている車の色も青色である。玄関に入ってすぐの階段を上った先にある母の部屋のクローゼットにも青系統の服しか入っていない。日本人の靴の色は大体黒か白しか見ないのに母の靴の色はその特性からは異端して青色である。

 久しく待った部活のオフ日に母と二人で町中に出向く。母は青色のジャケットを羽織って恰好をよくしている。息子の僕から見てもジャケット姿の母は恰好がよく、隣を歩いていて誇らし気な表情をつくれる。

 ショッピングモール内の雑貨店で母はやはり青色の雑貨を見ている。僕は母に問うてみる。

「なんで青色の雑貨ばかり見ているの?」

「青色が好きだから」

「なんで青色好きななの?」

「なにこれ面接」

確かに会話を一から辿ると面接のテンポと言葉数でキャッチボールをしている。

「面接じゃないよ。気になっただけ」

「お母さん、青を見ると落ち付くのよ。子供の頃、家の周りは海や川に囲まれていたけど、こっちに引っ越してきて、海や川を日常的に見られなくなったわ。その悲しさを埋めるために家に海と川をつくったの。子供の頃に思いを馳せらせ、地元の香りが部屋に満ち、落ち着くの」

「そうなんだ」

僕はこれを境に青への反応が強まった。

 道具が雨に濡れた臭いの部室にはぼろぼろの数か所に穴が空いてそうなくすんだ白色の傘があさり尽くした末に出てきた。しぶしぶ拝借して、不安げにさす。やはり、二か所の穴が空いており、穴を覗くと望遠鏡の景色が見える。傘をさすが、右耳と左耳の二点濡れながら帰路につく。

傘に滴る水をはらい、よれよれの紐で縛り、雨の日特有の生乾きみたいな臭いの電車に乗り込む。雨の日は乗客が多く、確実にキャパ数より多い。僕の地域は田舎で自宅まで二駅だが、都会基準でいくと六駅分に相当する。練習終わりの部活生には人と人でぎゅうぎゅうの中、六駅分も傘をもっておくのは苦行であまりにも自分に厳しすぎるので椅子の手すりにかける。

 練習終わりの電車では最近見た映画やテレビ番組について語らう。山場を迎えるころには降車駅に着き、電車を降りて続きの山場を語らう。ふと、意識が会話から離脱する。

「あー!」走り行く電車に向かって叫ぶ。

 手にあるべき物がないことにもう戻ってこないときに気付く。おそらく野球部の誰かから拝借したであろう傘は電車に乗って、知らない誰かの手に届いていく。傘も人のように旅をする。だから、思いもよらない場所で誰かの傘に出会ったり、失くしたりもする。

 先輩が引退してから初の練習試合。緊張の面構えで右バッターバックスに入り、監督が出すサインを見る。ノーアウト一塁、サインは間違いなくあれである。「バント」間違いはなかった。ピッチャーは自信があるであろう速球でどんどん押してくる。ストレート一択に絞り、バントの構えをして、待つ。ピッチャーはストライクゾーンに緩く、遅いカーブを投げ込んだ。心理戦で敗北し、まんまと裏をかかれる。それでも僕はバントを試みたが案の定失敗。おそるおそる次のサインを確認する。もうバントのサインは出してもらえなかった。監督は呆れた面構えで首を傾げ、単発の打てのサインを出す。僕に二度目の機会は与えられなかった。

 蝉の声はいつのまにか耳にしなくなる。いつもの角度のすごい坂は木の影がなく、日光を直接浴びながら登る。僕はまた春が訪れることを期待してわざとこけてみる。僕に二度の春は訪れなかった。温帯に属する日本人心は寒帯に属するロシアよりも冷えている。九州でこれなら東京では手を貸すのみならず、見てもくれず、そもそも相手にしてくれないのだろうか。

 四限が終わり、鐘を模倣した音のチャイムが鼓膜に響く。軽快に準備を済ませ、汗の香りが漂う体育館に向かう。体育館に向かえば向かうほど体温が上がる。上がった体温を下げる役割も担っている冷えた弁当を食べる。冷えた弁当を食べて、温かさがおいしく食べる一番の調味料だと気付かされる。人においても弁当においても温かさが肝である。

 隣の筋トレスペースでは体育専攻の部活生がきれいな汗水を流している。僕は昼食時、欠かさずに最も筋トレスペース側に座る。昼食時の友人の話はなかなか耳に届かない。ワンテンポ遅れて返事をするか、無視してしまう。やりたくてやっているわけではないことを友人に伝えるまでもないのでここに宣言する。性格が悪いわけではないことも同様に。

 隣のスペースには僕の視線を頻繁に奪う人がいる。彼女は周りを見下すような腰の高さからスポーツ児とは思えない美しい曲線を描き、この前の絆創膏の人と瓜二つである。芸能人のプライベートにしゃべりかけていいのか論争を起こすプライベート保護主義派を敵にまわしたくないので本人に聞いて確かめたいけど聞かない。

 体育館の入口から多くの上下セットのジャージを着た学生が入ってきて、じわじわ整列を始める。残りを慌てて口に頬張り、体育の準備をする。ところどころに長袖半ズボンが混じっている。「寒いのか、暑いのか」考えながら足早で向かう。

 講義種目は近頃人気急上昇中のバスケットボール。オリンピックでバスケットボールが日本に感動の嵐を巻き起こしてた。そのせいか僕の中でもバスケットボール欲が今までで最も高まっている。

僕は感化されやすい特性を持っている。

 「ハンカチは人に貸すためにある」ある映画のセリフにまんまと影響され、今まで使ったことのないハンカチを月三千円のお小遣いのうち千円をはたき購入して、ポケットに密かに有する。

 あるドラマでは有名になった俳優がまだくすぶってる俳優に「お金はある人が払えばいい」というセリフがある。これを言える大人に僕はなりたい。遠く及んでいないのは理解の上でなれる日が来ることを夢に見ながら夏仕様のシーツに変えたばかりのベッドで眠りに就く。次の日の学ランのポケットには青色ベースのチェックのハンカチと二千円札を忍ばせる。感化されやすい特性は三年生になり、さらなる飛躍を 遂げる。

 今年がラストイヤー。先輩たちを全国の舞台に連れていけなかったからこそ今年は後輩たちに同じ思いはさせられない。練習にはより一層拍車がかかる。足には激しい練習のせいか、多くの傷ができている。絆創膏は私の欠かせない相棒である。

 三年になってから筋トレ中にやたらと視線を向けてくる人がいる。「誰だろう」そんなことを息抜き程度に考えながら練習に熱を入れる。

 週末の練習試合でうまく結果が出せない。スタメンから外されることが少しずつ増えていき落ち込み期に突入してしまうが、練習は怠らない。

 気温計は休みを覚え、雨模様が多く見えるようになってきた。もともと病院であった本校の校舎の窓の外にはいつも同じ景色。全ての天気の色が混ざったように空色はくすんでいる。快晴よりは過ごしやすいが、くすみすぎても気が晴れない。さじ加減がわがままなのは百も承知である。

毎年、この季節は全部活動が外から中に場替えをして、建物内に籠り始める。

筋トレの最中には体育館にボールがゴールをくぐり抜ける快音が何度も鳴り響いている。わが校の女子バスケット部は県内屈指の学校自慢の強豪校である。元は野球部のために建てられたが、今は女子バスケットボール部専用になっている寮が校舎の近くに設けられ、いつでも練習ができる至れり尽くせりな環境が施されている。お金に恵まれていない我々のような一般的な家庭で汗水流して捻出した学費が野球部ではなく、女子バスケットボ―ル部に費やされているのは少々悔しい。強い者が優遇されるのは世の常であるため受け入れるのは致し方ない。

 中練は筋トレがえらくはかどる。外練より気持ち程度あがる気がする。おそらく気のせいである。

 雨が長い活動期間を経て、雄姿を見せ合った除湿器と共に待ちに待った休暇に入ったようだ。天気以外はずっと大差のない日々を繰り返している。今日も十分かかるバスまでの道のりを辿っていく。

バスの座席は大体来た順。ところどころの席にはこだわりをもって固定している人もいる。バスの席は座る人の人柄が色濃く出る心理テストになっている。例えば、強井。彼はいつ来ようとも必ず一番後ろに座る。試合では多くの観客の視線を受ける球場の一番高いところでチームの思いを一心不乱に背負っている。一滴こぼさずに受け堪えるには丈夫で大きな器が必要である。それを兼ね備えているのが強井である。そんな器のある人間が大きく広い席に座らないはずがない。これから戦いを仕掛けるかのように強田を囲んで明るく元気ないわゆる「陽キャ」が布陣されている。

 僕は理由を伏せるが、大体前方の空いている席に座る。隣の席には後輩の静内がにやけながらラインのやり取りを高頻度なラリーでしている。その様子は青春を具現化したようでほほえましい。覗くのは不徳だと心得つつもつい覗いてしまうのは人のさがである。僕も例外ではなく、不徳を致してしまう。つい、ほんとについ、魔がさしてしまった。後悔を一丁前にする。

「彼女できたのか」

「先輩、なに勝手に人のスマホ覗いてんすか!」

「先輩だからって何でも許されると思ったら大間違いですよ」

静内は僕の不徳の致す行動にバス全体に聞こえる声と顔全体で驚きを表現している。

「すまんな、つい」

「生意気だな」と感じつつも全部員の視線を感じ、僕が悪いのは百パーセントであるため素直に謝る。静内は喧嘩をしたら周りを味方につけるタイプであった。

「誰だって魔がさすことくらいあるだろ。な」半ば強引に静内と静内の味方を丸め込み、トークを見させてもらう。いやはや沸き立っている。後輩には想い人がいて、先輩である僕には不在。こんな屈辱的な状況に気づくのももう少し早く、又は遅くバスに乗っていれば、気づかず、傷心しないでいれたのに。たらればは掘れば掘るだけ湧き出てくる。

 体育館には気温よりも高い熱気と汗と涙とやる気が満ち溢れ、溢れたものは校内へと侵入を始める。体育館に近づくになるにつれ体温が上がるのはそのせいであろう。

「三十三秒きつかったねー」

「きつすぎ、三十秒でいいのに」

「ほぼ変わんないよー」

二人は疲労を噛みしめながらトイレに向かう。

「黒本、彼氏できたのー」

「何で知ってんのよ!」黒木は満更でもなさそうに言う。

「学校二人で行ってたでしょー」

「見てたの」黒木は照れて、はにかむ。

「秘密ね」

女子高生の秘密は口癖である。重要度の高いものも低いものも同じカテゴライズにされる。秘密の数でいえば、唐揚げ屋さんの店舗数よりも多い。

 彼女らは用を済まして、せっせと体育館に戻る。

 静内は意味のない動きを取り入れたアップを張り切っている。「あいつ、アップをうんと張り切っている」不意を突かれた驚きを隠せずに声が裏返りそうになる。裏返るほど声を出していないので裏返りはしなかった。

帰りのバスも偶然か神の悪戯か静内とまたもや隣になる。

「先輩も好きな人いるんですか?」

唐突に尋ねてくる。

「いるよ」照れくさそうに言う。

「誰ですか」

「不躾だな」

そう感じつつも静内の勢いに押され、答える。いや、自分の惚気を他人と共有できる機会を長らく待ち望んでいたのかもしれない。

「女子バスケットボール部の背の高い、脚の綺麗な人」少々、しゃべりすぎた。

「あの人じゃないですか」

「知ってるのか」

「この人ですよね」

丁寧になぜ持っている分からない写真をアップして見せてくれる。

「これ、これこれ」少々、興奮しすぎた。

興奮で上がった体温は一瞬で間を置くと下がっていった。

「何で写真持ってんだ」

片眉を鋭く上げる。

「隣の人彼女です」

アップしていた写真を戻すと彼女の隣には静内の彼女らしい人物が写っている。無造作に生え散らかした片眉を下げ、八の字をつくる。

「紹介しましょうか」

後輩に斡旋してもらうのか、否か。これは私の青春のターニングポイントになるであろう局面である。手を差し伸べてくれた後輩をおいていき、自分の世界に入り込み、熟熟考する。熟考に熟考を重ねた熟熟考の末、深く頭を下げ、頼んだ。ご飯をパンに代えられても背に腹は代えられない。

「おーい」野太い声が遠くから鼓膜を揺らす。誰に向けてかは分からないが、気にはなるので一応振り向く。その口先は一直線に僕の方を向いている。一応振り向いていてよかった。一応の振り向きでは相手の輪郭しか捉えられていないが、輪郭だけでも明らかに口先は僕の方をひたすらに向いていることが分かる。ためらいながら、恐る恐る目を合わせる。静内の彼女と奪われたものを取り返すために追っていた腰高美曲線スポーツ学生がいるではないか。全身で焦る。焦ったことのない箇所も焦る。「急に」「顔も合わせたこともないのに」理由を探すのに頭ごと回転させる。 「静内・・・」。焦りすぎてもう焦れなくなった。

 最近、恋愛映画に手を出し始める。訳アリの主人公とイケメンがご都合主義により出会い、結ばれる王道ストーリー。

 対して、共通の趣味でつながり、長い年月付き合った末に同棲に至り、結婚はもう目の前のカップルが互いの仕事が忙しくなり、好きだった趣味と距離がひらいていき、会話が減り、別れてしまう大人の切ないラブストーリまで幅広く手を伸ばす。

 恋愛映画には多くのイケメンだけが許される恋愛高等テクニックや美女だけが許される甘え文句が至る箇所に散りばめられている。極稀に僕ら、恋愛素人も使える初等テクニックが数か所散らされている。僕が女性にイケメン専用恋愛テクニックを巧みに使おうとすると、恋愛テクニックとのギャップの不自然さにたちまち女性は僕との心理的距離をとる。ここで「ギャップ萌えが生まれるのではないか」疑問に思う人もいるだろう。世の中にちやほやされているギャップ萌えはギャップを埋めれる能力を持っていてはじめて効力を発揮する。僕らが使うと、やばい奴がやばいことをしているように映ってしまう。

 テクニックの効力の程は弱いものの僕らにとってはナチュラルに取り入れやすく、大きなギャップは生まれにくい。

 素人テクニックの一つに「焦りを見られると男らしさは五十パーセントカットされる」というものがある。焦っていても焦っていない佇まいや言葉づかいをすることで余裕のある姿を見せつけられる。

 僕は自分の立ち位置を瞬時に見極め、イケメン専用恋愛テクニックを発揮するのを控え、素人テクニックを発揮する。一から十までそれに則り、焦りを悟られないよう佇まいに付随して発する言葉も取り繕う。どんな剣も通さないように紳士的余裕を全身に纏い、返事をする。

「なにか御用かな」

「え」

黒本の戸惑った様子が垣間見える。余裕を着け間違えた。

 黒本は見てられない僕から放たれるどんより漂う不吉な空気に息苦しくなり、うまく空気の入れ替えをする。

「あんたこの子好きなんでしょ」

「なんて偉そうな奴なんだ」そんなことを思う余裕もなく、気押される。黒本の有能さに手も足も出ない。

「ふつう」

「そうなんだ、体育館戻ろ」

「足大丈夫―?」

「そんなの気にしないでいいよ」

黒本は彼女の手をひき、足早に戻っていく。彼女は連れられながら僕の方を心配そうに見る。絆創膏をくれた天使は彼女であった。

「僕はなんて意気地がないんだ」今までの人生も思い返せばそうであった。

 時は中学時代。部活の友人である低尾に好きな人ができた。相手は生徒会で卓球部のエースで学校のマドンナ「森」。対して低尾は野球部のエースで、親は東京にも進出している有名うどんチェーン店の社長である。特にごぼう天うどんは食べる人の舌を唸らせることで名を馳せている。両者の天秤は寸分違わず釣り合っている。クラスに留まらず、学校中で「お似合い」の声が四方八方で飛び交っている。もしかするとさほど友人が多くない僕の言葉数よりも乱れ飛んでいる。二人の距離が近づけていく様を我々は友人として特等席で温かく見守っている。低尾と距離を近づけていくので低尾の友人である我々とも物理的にも距離が縮まってくる。

 僕は物理的距離が縮まった森と会話する機会が徐々に増える。森との会話に居心地の良さを覚え始め、次第に廊下で会うと隠密にアイコンタクトまでしてしまったり・・・。正直、お茶の子さいさいでいけそうな空気が僕と森の間には漂っている。大事な友人の想い人である森には気安く手は出せない。僕の純粋たる善意からためらいが生じ、あと一歩を歯切れよく踏み出せないなあなあの関係がカレンダーを何枚もめくっていく。

 低尾と森の吉報は何カ月も届かず、音沙汰がない。僕だけでなく、低尾もなあなあだったのだろうか。もしくは、想い人はすでに変わっていたのだろうか。正解が出ないまま月日だけが呑気に過ぎる。

五分休憩の間にトイレに向かう人でごったがえす廊下で森と会う。アイコンタクトを周りにばれないようにしれっと送る。彼女は受け取ってくれない。気づかなかったのだろうか。     

 再び人でごったがえす廊下で会い、アイコンタクトを堂々と送る。鈍感な僕にしびれを切らした彼女は鋭利に問う。

「いつ付き合うの?」

「お前そういう感じなん?」

そんなことはどうだっていい。僕は低尾の想い人に対する恋心の真偽も分からないのに低尾は森が好きという固定概念を払拭できずに恐れおののき、付き合う選択肢があるのに「ごめん」を置いて、その場を走り去った。走る僕のバックミュージックには男性ホルモンが減り、筋肉がすぼむ音が流れていたような気がする。

 家のお近くのバス停に向かう。バス停には彼女の姿があった。彼女とは受験準備時期の塾が偶然にもかぶっていた。僕から目を合わせられない。彼女から目を合わせてくれない。お互い使い慣れていない新品の参考書を眺めている。僕らが目を合わせることは今に至るまでもう一度もなかった。

 同じ轍を踏んでしまっている。そう感じたころにはときすでに遅かった。びびり体質な自分の言動は情けなく、俯瞰的に見なくても恰好が悪いことが分かる。僕の人生の海辺は海水がなくなるまで潮が引いている。

 後輩にこのことが漏れないように根を詰めていつもと変わらないように大きすぎず、小さすぎないほどほどの声量を調節しながら出して装う。

 テスト期間に差し掛かり、部活は一週間の勉強期間ならぬ、一週間オフが設けられる。

高校生の情報伝達速度は侮れない。ほんの数日で事細かな情報まで伝わっている。推測するに同じクラスの奴等だろう。     

 奴等は他人の恋愛をエンターテイメントに消化して楽しんでやがる。男女のクラスメイトが二人でいるところを奴等に目撃された。奴等は見つけるや否やお祭り騒ぎでいじり倒し、周知の事実になる。序盤は彼らも笑って満更でもなさそうにしている。カップルという生物は大きかれ小さかれ波がくる。大きな波が打てば、大きな波が引く。

 数か月後、カップルは最大観測である大きな引き波の真っただ中。これを耐え凌げれば、永遠の愛が確約されるであろう。そんなことは見ず知らず、奴等はいつもと変わらず、お祭り騒ぎでいじり倒す。

 数日後、別れに至った。真相は聞いていないが、分かる。別れたカップルは腐った死体のような鼻に刺す嫌な臭い醸し出す。奴等はこれを微塵たりとも気にしていないことは卑劣極まりない。

 静内に失態が漏れたことは先輩としてトイレ最中にドアを開けられ、見知らない通行人にトイレ姿を見られるよりも羞恥である。臆病で度胸のない僕に後輩・静内は呆れることを選択せず、再び救いの手差し伸べてくれる。この時から上下関係はさかさまに入れ替わり、先輩・静内になる。

 静内は僕に彼女のラインを教えてくれる。「なんでお前が持ってるのか」思わず言ってしまいそうになるが、静内は権力構図上では先輩である。そんなことを言えるはずはない。

 即座にラインする。

「今日変な空気にしてごめん」

「気にしないでー」

彼女の軽い返信に僕の後悔は救われる。まだまだ会話を途切れさせる気は毛頭ない。これからが腕の見せ所である。

「明日一緒に学校行かない?」

女子バスケ部は大半が寮で過ごしているが、家がそれほど遠くない人は自宅から通学している。

「いいよー」

「ありがとう!」

「八時着の電車があるけどどう?」

「おっけー」

 明日、一緒に登校することは決定事項になる。文面ではひたむきに大人のクールを装う。内心は修学旅行の夜くらいはしゃいでいる。修学旅行は日中のスケジュールに組み込まれているアミューズメントパークや歴史建造物よりも宿泊場所の夜の方が楽しい。先生が何カ月もかけて、スケジュールを組み、予約して、僕らもそれにお金を払って、行っているのは先刻承知の上で宿泊場の夜の方が心が高鳴る。夜更かししたり、先生にばれないようにひっそりかばんに忍ばせたゲーム機で遊んだり、夜中にこそっと抜け出したり、してはいけないことをする背徳感を感じ、共犯者としての絆が深まる気がした。それくらい僕の心はアップテンポで踊っていた。

 駅に着くと隅に俯いている彼女が見える。

「おはよ!」

「おはよー」

彼女の表情は一変して取り繕ったような笑顔を見せる。彼女との初登校はいまいち会話が弾まない。事前にテスト期間中発揮する前日う詰込み特化モードで彼女の好みを予習してきたものの弾ませるには沈む幅が浅すぎた。

 彼女はとあるバレーの漫画を好む。僕は大雑把なあらすじを前日詰込み特化モードで頭に叩き込んだので当日、意気揚々とその会話を始める。

 スタートダッシュは火をふいた。会話を重ねるにつれ、僕の太陽が隠れ、だんだん雲行きが怪しくなる。快晴な彼女の漫画愛に熱が入りだし、さらに彼女の太陽の光が強くなる。漫画の詳細を知らない僕は彼女の光に打ち消される。これが原因で駅から十五分の道のりのうち後半の十分程は無言に近かった。

前の僕なら二回目を誘うのを億劫になっていた。今は一味違う。調理をほどこされ、多少のことにはびくともしない。好機を見す見す逃す者には幸福など訪れないことを身をもって経験している僕は人間の深みが出てコクが増している。

 暗い空に黄金に光る神々しい月が主人公になる夜。こんな夜にはいいことがあるに違いない。彼女にラインする。

「明日も一緒行こうよ」

「ごめん!」

「明日、朝練あるのー」

「!」に免じて許す。「!」は自分が持っているありっ丈の誠心誠意を文面表記したものである。ましては彼女の「!」滅多に世に出回らない神出鬼没の代物である。そんな代物を見られることは世界的に絶景とされているオーロラを見るよりも感動するだろう。オーロラを実際に見たことはないが、根拠のない自身を持って発言できる。

 それよりここまで神々しい月夜に神は僕と彼女が一緒に登校し、仲を育むチャンスを奪うのか。僕らは将来、おしどり夫婦として、世間様にお茶の間でラブロマンスにカテゴライズされるエンタメを見てもらう機会を奪っている。これは社会的に大きな損失になるであろう。世の中に利をもたらすのが神の役割ではないのか。今の僕を助けなくて誰を助けるんだ。マクロ、ミクロ言っている暇はない。

ポケットの中で通知のバイブが筋肉痛の太ももを揺らす。

「明後日ならいいよー」

「神様ごめんなさい」助けようとしてくれてる時に僕は文句を舌が乾ききるまで言っていた。なんて醜く、強欲なモンスターなんだ。なんでも神様頼りにするくせに、良ければ自分の手柄。悪ければ神様のせい。それではいけないことは分かっているのに本能が理性の殻を破り出てくる。

 浅い話ではなく、ラフな話で気軽にしゃべらなければ。前日にイメトレのシャトルランをする。自己記録を塗り替える百十五回に到達。準備の余白に小面積の抜かりも見逃さない。

 彼女はまた駅の隅で俯いている。

「おはよ、暑いね」

「おはよー、汗やばいよー」

「まだ扇風機ないと溶けちゃうねー」

彼女は僕にハンディー扇風機の風をあてる。

「うわっ。涼し」

時計の針が動くより早く恋に落ちる。落ちれば落ちるほどふわふわ浮世離れした感覚に陥る。恋に依存する理由はこの快感のせいである。これが純度百パーセントの恋なのか。初めての感覚にインフルエンザの高熱かと錯覚してしまう。扇風機の風にあたるが、体温は上がる一方であたればあたるほど汗が流れる。好きな人に意地悪をする思春期の小学生くらいひねくれている人でも今回の出だしは非の打ちどころがない。勝負の分かれ目は後半まで空気を保てるかにかかっている。

 半ばを過ぎる。会話に終点がこない。この列車はどこまでゆくのか。いっそ永遠にこのままここに暮らそう。電車の揺れでじわじわ目を覚ます。ポップコーンを挟み、二人で並んで映画を見て、本を読んで自然の照明が消えるまで語り耽る。妄想もここまで詳細を詰めれば、現実になりえるかもしれない。

 学校に着くと、着席時間までまだ余裕がある。僕と彼女の会話が普段訪れることのない朝の食堂に鳴りはためく。誰も知らないこの空間を僕たちだけは知っている。僕はこの空間を「僕らのための開店前営業」と呼ぶ。

「暑かったけど楽しかったねー」

「学校始まる前にワイシャツはびちょびちょになってしまったよ。けど、楽しかった」

「今日一緒に帰ろー」

「うん!」

 時間に余裕がなくなってくる。僕らはまだみんな遊んでいる中、自分だけ門限で帰らなくてはならないテンションで教室に歩を向ける。

 僕の目の前を名残惜しそうにとぼとぼ歩く彼女の足を引っかける。

「うわっ。なにしてんのよ!」

「まさか、仕返し!」

「ごめん」

彼女は仕返しの仕返しの仕返しを企み、しきりに足を引っかけてくる。この光景は疑う余地もなく、青春の一ページに深く刻まれる。僕は自分の幼さに心底感謝する。引きに引いていた潮がようやく海辺に満ち始めた。

 六限の終わりを告げるチャイムが鳴ると教室掃除がどのクラスも一斉に始める。僕はいつもより角に丸みをおびさせて、床をはわく。少し早く掃除が終わり、誰もついてきていないかを確認して、直ちに別棟の体育専攻の教室に床を響かせて向かう。

 息を切らして教室に着く。待ちくたびれた様子の彼女が一人で手持ち無沙汰に席に座っている。

「ごめん!遅くなった」

「何分待ったと思ってんのー」

「五分」

「二分でしたー」

「短いな」

「待ったことには変わりないよー」

正論にたじろぎながら広い閑散とした校内を歩き回る。通い始めて、もう三年目になるのだが、二階にある音楽室、進路指導室、自習室・・・まだ行ったことのない教室が多々ある。二年もいて、言ったことがないのだから、よっぽど縁がないのだろう。校内の電気はついているのに早起きしたての部屋の暗がりが溢れている。

 一通り歩いて体育館にたどり着く。彼女は部室からバスケットボールを一つ取り出し、僕に尖鋭なパスをする。僕は女子学生のパスを受け取る身構えでキャッチしようとした。そんな僕を突き刺すパスが胸元に飛んでくる。

「強すぎるよ」

「取れるかなって思ってー」

「取れなくはないけど」

「私を抜いて、シュート決めてよー」

「煽っているな。やってやるよ」

僕の野球部としてある程度のスポーツはできることを証明するために決めなければならない。

「ダムダム」ドリブルをつく音だけが静かな体育館に響く様は彼女相手に面接を受けているかのような圧迫感を受ける。僕は楽しくやりたいのに彼女の眼はボールを虎視眈々と睨んでいて、今にも噛みついてきそうである。スイッチはオンに切り替わっている。

 僕は右から一丁前にドライブを切り込もうとする。彼女は動きを読み切って、僕より先にドライブコースに立ちはだかる。やる術がなくなった僕はパスをする振りをしてボールを持ち、またボールをつく。

「今のダブルドリブル。私のマイボールだよ」

「今のダメなの?」

「二回目は着いたらダメ。絶対ダメ」

「すいません」

スイッチが入った彼女は口調が強い。いつも口調が優しい人が少しでも口調が強くなると怖くて後輩口調になってしまう。約一日分の汗を吸収したワイシャツにさらに汗をかく。

 校舎のざわめきが静まってきたので僕たちも静まって、帰ることにする。

体育館の窓景色は曇りから雨に変わっていた。僕たちの傘を忘れたため息が校内に暗がりと共に満ち、やがて夜の静まった校舎の謎めいた恐さへと化していく。本校は廃病院の心霊スポットとして噂されている。こういうときに限って思い出したくないホラー映画を思い出してしまう。絶対にエレベーターには近づかない。噂の可能性をゼロにする決定的事実がなければ、その噂の少量の信憑性でも雰囲気に飲まれてしまう。僕たちは自ら学校を無料で入り放題のお化け屋敷に作り変えて、自らの首を絞めている。

 僕が普段授業を受けている教室に恐る恐る導かれるように向かっていく。教室の傘入れには以前忘れた青い傘の佇まいが幸せを呼ぶ青い鳥を思い起こさせ、恐怖が中和される。

「あ、青い傘だ」

青への過剰な反応と以前忘れた青い傘の思わぬ伏線回収に驚きを声にした。

「あ、青だー」

彼女は恐怖が中和されたのか、もしくは恐怖でおかしくなったのか。青に異常なほど反応する。青に強い思い入れがあるのだろうか。

 青い傘でお互い濡れまいとした結果、時間の都合もあり、相合傘を思わせる肩の寄せ合いに緊急着地して、頬を赤く染める。紫色に染まる空が青い傘と赤く染まった僕たちをも紫に染める。不幸中に幸いに出会い、総じて幸いに転じた。青い傘と幸いに覆われた僕らは急接近した距離で思うように舌を操れない。

「なんで、あの、あれ。あの、青って叫んだの?」

「青を見ると胸が痛くなるの」

「何かあった?」

「あんまり思い出したくないの」

「そうなんだ」

暗くなった空に似合うテンションの会話になった。えらくロマンチックであった。

 吸う空気を換えて、テンションを変えるべく学校から駅の帰り道に日中行列のできる元力士が営む唐揚げ屋さんに足を運ぶ。雨のせいか店内にするっと入れる。注文するのを待つことなく、先に彼女が鶏ももを、続いて僕が鶏むねを頼む。実は僕も鶏ももが食べたかった。同じものを二つ頼んでもシェアできないから断腸の思いで鶏ももを諦めた。諦めたからにはなんとしてもシェアしたい。

「鶏ももおいしい?」先手を仕掛ける。

「おいしいよー」

「食べたいのー?」

「うん!」期待していたことがばれる音域で返事する。

絆創膏といい、鶏ももといい彼女は常に僕のことを考えてくれている。日本が彼女だけならどんだけ優しい国になるだろうか。僕もその優しさに応えるべく鶏むねを差し出す。

「鶏むねもおいしいねー」

「おいしい」

彼女に見とれて、淡泊な返事をする。

 こんなに微笑ましいことがあってよいのか。幸せすぎて、次に来る絶望が恐い。

 「支払いは任せて」

ポケットの中に密かに有していた二千円札を出す。

「お兄ちゃんかっこいいね。いい男になるよ」

「感謝感激です」

「無理はなさんなよ。ほどほどにな」

元力士の計らいの一言に僕は自分なりの大人びた顔をつくる。恰幅のいい元力士の言葉には重みがある。体重の重さと言葉の重さには相関があるであろう。そうなると力士たちは日常から重い言葉を発して、受けている。彼らの落ち着きはその鍛錬によるものである。

 人のためにお金を使うのがこんなに気持ちいいとは知らなかった。人に褒められるし、大きい顔もでき、恩恵がやたら多い。これで徳を積んでいけば日々が幸せでも帳消しになるはずだ。

 僕らは共に登下校の回数をリズム良く重ねていく。夜の電話もいつの間にかしれっと始まり、ルーティーンとして身体に染み付いている。

 僕はテストの結果が散々であった。設けられた一週間オフは有意義に使ったはずだ。勉強ノートはきれいなまんま。そう簡単に幸せを帳消しにできなかった。

 今年の幕がもう閉まる。僕の三年生はせわしなく、流れる景色を楽しむ暇もなく、走り去っていった。僕はとてつもない虚無感に襲われ、気持ちよく来年に行けない。唯一の収穫は彼女との深く刻まれた思い出のみ。

 大人は言う。「年を重ねると何もないと思ってた時の価値が分かる」分かった大人はすっきりしているからそう言える。分かっていない僕らにとってこのむずがゆさがあと何年も続くとかきむしらずにはいられない。僕たちは今悩んでいるんだ。「後々わかる」ではなんの解決にはなりやしない。

テレビのお悩み相談にいじめに悩む学生が訪れる。名の知れた有名人が相談相手として対峙する。

「学生時代なんてたったの三年よ。私はもうなんにも覚えてないわ」有名人は一言目から決まり文句をいう。

それは過ぎたからいえるのであって、相談者は今、どうしたらよいか、自分一人ではこたえが出せない状況である。必死にこたえを探し、見つけようと人生の先輩に乞う。

「私はどうしたらいいんですか」

悩みに先輩は直面している最中を話すのではなく、直面した後を自分語りに話し、こたえを出した気で達成してない達成感を得た顔をする。これを正解だと勘違いした次世代の有名人がまたテレビで相談を受け、この回答をして、達成してない達成感顔をする。日本のテレビのお悩み相談の発展を阻む負の連鎖がそこで起こっている。打破しなければ日本のテレビのお悩み相談の発展は到底期待できない。

 そんなことを言っているうちに今年が終わり、来年になる。「来年はもう今年か、今年は去年になるのか」正月特有の混乱で年明けを感じる。

 年越しの重厚な鐘の音とは違い、「ぼこっ」鈍い音が寒々しいグラウンドに何かを知らせるように響き渡る。足元には小学生の頃よく作って遊んだ赤いスライムみたいなのが落ちている。触ってみると指先には「どろっ」あの頃の懐かしい感覚。耳には聞き馴染みのあるサイレン。ゆっくり夢見心地になる。

 夢から目を覚ます。見覚えない天井。周囲に人の体温を感じない閑散とした空気。部屋は他の人が入るにはやけに小さすぎる。ほのかに消毒の匂いが寝起きの鼻をむずがゆくさせる。昨年流行したパンデミックがまだ尾をひいているせいで個室になっている。

 見知らぬ場所に運ばれ、孤独を目一杯感じている僕は孤独を一掃するために彼女に電話をかける。

「もしもし」

「もしもしー。どうしたー?」

彼女は明るく言う。僕は彼女のしゃべり方が気に入っている。重い話では彼女の軽さで適度に中和され、内容の薄い話でも彼女の軽さと内容の軽さがマッチして、スムーズな会話劇を作り上げられる。

「見てよ」

ビデオ通話に変更して、ぐるぐる包帯で巻かれた哀れな顔を見せる。

「うわー。痛そー。大丈夫―?」

僕の怪我をみてもいつもと遜色のない返事をする様子から彼女はグロい映像を躊躇なく見られるタイプであることが推測される。これに言いも悪いもない個性なのだが、できれば好んでグロい映像を見ないでほしい。グロい映像を好んで見る人は笑っても目の奥が笑っていない印象がある。

「大丈夫ではないよ」

僕の口角は自然と上がっていた。いつも彼女の明るさとしゃべり方に救われる。

「コツン」ドアがかすかに揺れている。その一度きりでもう音も揺れもしなかった。夜の学校に似た病院の独特な雰囲気が音も揺れにも心霊要素を加えてくる。

電話を終えたタイミングに「コンコン」ノックの音と共に白衣を纏った女性が入ってくる。「失礼しまーす」一言添えて、僕の二の腕近辺に得体の知らない何かを巻き付け、脇に先っちょがひんやりする棒状のものを入れ、また同じように「失礼しまーす」一言残し、部屋を出る。デジャヴを遭遇する。

 次の日も女性が「失礼しまーす」前日と同じように発して、同じ業務をする。彼女が脳裏から顔を出す。彼女は僕の脳裏にここ数カ月住みついている。彼女はよく授業中や練習中のふとしたときに顔を出してくる。顔を出しては僕にしゃべりかけてくる。

「がんばれー。今日もかっこいいよー」ワンストライク。

彼女は僕の目を見つめて、言う。

「君もかわいいね!かわいすぎて、集中できないよ」ツーストライク。

僕も彼女の目を見つめて、言う。

「しゃべり方かわいいよ。ずっとそうなの?」

「うん。小さい時からね」スリーストライク。三振。

彼女の調子がいつもと異なる。

「早く打席を出ろ!」

気付かぬうちにシートバッティングで三振していた。一度もバットを振らず、三球三振らしい。僕にとって野球と彼女は二者択一であった。

デジャヴの正体は紛れもなく、彼女であった。その女性の風合いと彼女の風合いは単品では区別ができない。比べて、やっと違いが分かるぐらい酷似している。

 僕が実物で関われるのはその女性だけである。その女性を見ると彼女を思い出す。心を広く持てば概ねこの空間には僕と彼女しかいないことになる。昼は概ね彼女と過ごし、夜は電話越しの彼女と過ごす。僕にとって今までは有ることが難しいほど幸せなライフを送っている。有難うを神様に送ろう。このままではワークライフバランスのライフ比重が重すぎてしまい、釣り合わなくなってしまう。それを甘んじてしまう自分がいる

 待ちわびた退院の日を迎える。嬉しいはずなのに悲しみの色をした涙が右目から一筋の線を描く。僕の脳みそは利き腕のように利き涙腺もあるのかと疑問に挙げようとしたが、僕の感情はそんな疑問を挙げるべきでなさそうなテンションであったため取り下げた。

 概ね彼女とは人生の歴でいえば、短い関係であったが、その密度は病院食のおやつで出されたガトーショコラぐらい中身が詰まっていた。感謝と別れを素直に言うのは恥ずかしくなったので交互に織り交ぜて紛らわす。

「ありがとうございます。バイバイ」

「楽しかったです。またね」

実質彼女は僕の真似をする。

「ありがと。バイバイー」

「私も。またねー」

看護師に「またね」は僕が再び怪我を負い、入院しなければならない。二度と会わないのが健やかに生きるためには望ましい。しかし、これでさよならは悲しすぎる。概ね彼女への思いが伝わったのか、空から雨と一緒に一粒の天啓が降ってきた。僕はわざとこけ、足に全治一日の擦り傷をつくった。概ね彼女は誰よりも早く僕にかけより、病院特有の白い絆創膏で応急処置をする。

「大丈夫?なにしてんのよ!」

「こけちゃって」

「わざとでしょ。寂しくなったの?」

概ね彼女には魂胆までもがばれていた。

「寂しくないです」

「まあいいよ」

概ね彼女の塩気のある対応をこのまま放置したら悪気なくかたつむりを溶かす子供のように僕も溶かされてしまいそうな悪寒がしたので慌てて方向転換をする。

「嘘。寂しかったです」

「だよね」

概ね彼女のテンションが異なる。いつもは概ね彼女と彼女のテンションはすごく似ている。もしや、僕の彼女との電話を小耳にはさんで、気遣いから僕の孤独感を癒そうとして、しゃべり方を彼女によせてくれたのではないか。僕は概ね彼女のおかげで入院生活を乗り切れたことになる。僕よ、頭を冷やして、しかと待て。彼女のしゃべり方を小耳にはさんだということは彼女とのラブラブチュッチュッな会話もはさまれている。病院初日の不自然な音とドアの揺れの怪奇現象の正体は概ね彼女なのか。下劣非道な盗聴ではないか。概ね彼女は日本を守る法の番人に裁かれるべきだ。早く言質を獲得し、起訴せねば。

「僕の電話の会話を聞きましたか?」

「ごめん!聞こえちゃったの」

「君たちお似合いだったね」

「そ、そうですか」

僕よ、負けるな。甘い言葉に日本を守る法が屈していいのか。

「ありがとうございました。では、また」

あ、また怪我をしなければならなくなった。

「またね」

退院するころには桜は散り、花見から海へと人々の関心が移っていく。

夕食を食べ、電話で彼女に退院の報告を伝える。

「やっと退院できたよ!」

「よかったね」

僕が知っている陽気な彼女とは違い、俯いている。

「なんかあった?」

「   」

「一旦、お風呂挟ましてもらうね。電話はこのままにしとく」

「うん」

僕は終わりが見えないのが苦痛に感じるA型である。お風呂をさっと済まし、終わりの見えない電話に戻る。

「ただいま」

「おかえり」

「夫婦か」思わずツッコミたくなるが、状況が状況なので飲み込み、夕食を食べてパンパンになった腹に入っていく。

「今日、お父さんの命日なの」

「そうなのか」

唐突な告白に僕はそれほど仰天しなかった。彼女に対する幻想で気づかないふりをしておいるが、実は太陽のような彼女の内に潜む暗がりに気付いていたのかもしれない。接している彼女はトーンが高く、明るい印象を与えてくる。接していない彼女は日の当たらない隅で太陽と反対を向いている。彼女の内に明かりと暗がりが共存している。

「お父さんいつなくなったの?」

「まだ私が小さい頃」

「顔覚えてる?」

「写真の中のお父さんしか覚えていない」

写真のお父さんはバスケばかりしていた。私と同じくらいの身長のお母さんが言うにはお父さんは学生時代からバスケに熱中し、走り回れる年齢になった私とよく昼過ぎから二人でバスケットゴールが目印の公園に行っていた。その時間だけが唯一のお母さんの一人暮らしに戻れる開放的な自由時間だった。

 その日もママは昼過ぎの自由時間を楽しみに待っていた。

「まだ出なくて大丈夫なの?」

「あとちょっとで出るよ」

ママは落ちつかない様子で座ることをせず、同じところを用もなさそうなのに行ったり来たりしていた。

「行ってきます」

「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」

青いジャージを着たパパと私が家を出るとママはエプロンをその場に脱ぎ捨て、前日買ったおつまみとジュースをテレビの前の机に用意する。右手でつまみ、左手でジュースを流し込み、両手をふさぎ、家事をできない体勢を整え、溜めた映画を既視に変えていく。

おやつの時間に帰ってくる二人が時計の三を過ぎても帰ってこない。この機会を見逃すまいと二本目に突入させる。

一本目は売れない作家が身寄りのない子供を引き取り、共同生活に悪戦苦闘しながらも自分と子供のどちらも成長していく三丁目の感動物語を見た。

 二本目には小学校の学年新聞の四コマ漫画の絵が上手いと褒めまくられ、天狗に化けてしまった学生がある日、すい星のごとく現れた自分よりも遥かに上手い絵を描く不登校の学生の画力に打ちひしがれ、漫画を描くのを諦めてしまう。しかし、実は不登校の学生は天狗のファンでそれをきっかけに学生と漫画を描き始める。そこから始まる彼女らの波乱万丈の人生を綴る物語。

 二作目を見終えても時計の針が五になっても帰ってこない。いつもいる人がいない孤独感に襲われ、三作目を見る気になれない。

 心配して自宅で映画を見られる部屋着のまま二人がいるバスケットゴールが目印の公園に足早に向かう。公園の前に多くのパトカーが乱れた並びで道路脇に並べられている。パトカーを追い越すと餌に群がる鯉のように警察官を囲んで輪ができている。さすがにこの状況では踊ってはいなかった。私は人より高い身長を利用して上から輪の中心を見下ろす。青に赤い模様の入ったジャージを着た男の人が黒いセダンの前に倒れている。近くに警察に抱えられた娘が家を出たときの表情が失ったように変わり果てていた。娘を預かり、なぜかわからないが、強く、長く抱きしめる。

「お父さんどこいったの?」

「そこにいるよ」

娘の指した指の先には先程の倒れている青に赤い模様の入ったジャージを着た男の人がいる。

「この人お父さんなの」

「パパだよ」

お父さんの着て行った青のジャージは自らの血を吸い、赤のまだら模様になっていた。絶望と怒りに駆り立てられ、私は自分の欲望のままに餌に群がる鯉を押し倒して、お父さんのもとに駆け寄る。

「お父さん起きてよ」

「   」

「起きてってば」

「   」

後ろからはあまり泣かない娘の泣き声がパトカーのサイレンに負けないくらい鼓膜を揺らす。

 「シュッ」

「うまいよ」

「でしょ。だってパパの子供だもん」

私は満面の笑みをする。

「かわいいな」

パパは私が「パパ」って呼んだときと笑ったときに頭を優しく撫でてくれる。私はその大きくて、分厚くて、あったかい手が好きだ。撫でてもらいたいがために用がないのに呼んだりしていた。

 私がシュートを外して、ボールが公園の外に出てしまった。お父さんはボールを追いかけ、公園の外に出る。「どごんっ」聞いたことのない鈍い音に私は体と思考が固まる。意識を取り戻すと公園は人と警察官で溢れかえり、私は警察官に抱えられていた。エプロンを着けていないママが小走りでこっちに向かってくる。ママは私を抱えるや否や私が息苦しくなる程強く抱きしめる。パパの場所を尋ね、明らかに鬼の表情に変えて、パパの周りの人をなぎ倒していく。ここまで感情を露わにしたママは別人に思え、近寄れない。私はママから離れたところから倒れたパパを見る。パパの青い服はところどころ赤くなっている。

 あのときの鈍い音が耳に響く。怖くなって、自分はどうしたらいいのか分からなくなる。

 パトカーとは違うサイレンが近づいてくる。私たちはそのサイレンを鳴らす車に乗り込み、病院までと共にする。

 長く治療を待つ時間はなく、言葉数の少ない診断が告げられる。

「お亡くなりになりました」

分かってはいたけど、変わらぬ事実として残るのは希望が完全に断たれる。

「ありがとうございました」

 葬式の日程は新聞に載り、お父さんと親しい人から良く分からない人までの多くの参列者が訪れる。お父さんに手を合わせてくれるが、私の心は痛むばかりである。葬式の忙しさは悲しみを忘れるのに丁度がいい。

家に帰ると、葬式の慌ただしさが消え去り、悲しさとおお父さんが好きだったブラックウッドの香りだけが残存する。私は喪失感にかられ、夜の町に飛び出す。町は平和をアピールする家庭の光で夜道を照らし、家庭ごとに様々な料理の匂いを醸し放っている。負けじと神々しく輝く月が家庭の光よりも強く光を発する。

「なんで最悪の日に町も月も綺麗なの」

左目から涙を流し、狼男よりも大きな声で叫ぶ。おそらく町をうろつく小動物は思うように動けず、ごみ捨て場に捨ててある家庭ごみの荒らしが少ない夜になっただろう。

 彼女の家にお線香をあげに行かせていただく。玄関を開けるとブラックウッドの香りが鼻に入ってくる。坂での出会いを鮮明に思い出す。プルースト効果によっても、ブラックウッドの匂いで彼女を脳裏に思い出すように僕の身体は進化している。

「ブラックウッド好きなの?」

「好きだよ。お父さんの匂いがするの」

夏の大会のシルエットがくっきり見えてくる。目標は甲子園出場。同県には春の甲子園のベスト8のチームが下馬評では堂々たる一位の座に君臨している。

練習の強度は増し、居残り練習が増える。当然、家に着くのは午前十一時くらい。帰ったら、体はくたくたで食って、寝るだけある。朝は変わらず起きられない。

 そろそろ夏の大会のシルエットがくっきり見えてくる。目標は全国大会出場。同県には何度も頂をめぐって、血沸き肉躍る戦いを繰り広げ、しのぎを削ってきた二人の留学生を所有するライバル校がいる。彼女らを倒さなければ、わが校の全国出場の夢は叶わずに高校バスケを終える。そんなことはあってはならない。

 練習の強度は増し、居残り練習が増える。寮の人らと一緒に練習していると終電に間に合わないため寮の空き部屋に泊まらせてもらう。終電とは無縁の生活に変わっていく。朝早く起きて、朝練に力行する。体力は底をつき、授業を受ける体力は私の体には残っていない。睡魔に抗わずに言われるがまま寝てしまう。授業を一通り受け終わるころには睡眠で体力は全回復している。私にはきず薬もなんとかセンターのお姉さんも必要ない。午後練と居残り練習は睡眠で回復した体力でやり遂げる。

 僕は部活動にしか目を向けられなくなる。無我夢中とはまさにこのことをいわずしてなにをいうか。僕は夜遅くまで部活がある。夜更け前に着くので電話をする暇はなく、すぐに眠りにつく。彼女との距離が日に日にあいていく。

 僕たちの電車は進むことをやめ、駅まで行かずに一時停止する。このままでは後続電車が来てしまい衝突し、さらにきた電車が衝突する歴史に残る悲惨な大事故につながってしまう。なんとか機長として電車を速やかに発進させなければならない。今までの興奮の仕様から分かるであろうが、僕は恋路に疎い。僕にとって恋の進め方も攻略法も「何で野球してるの」の質問ぐらい分からない。理由がなければ、してはいけないのか。「やりたくない」と思わないことが理由にはならないのか。哲学めいたことを思う自分に深く心酔する。恋の進め方も攻略法も分からないのは機長が運転できないようなものである。僕の十八年ため込んだ知恵、つい最近手に入れた度胸ではどうしようもない。彼女が機長になり、発進してくれなければこの列車は僕らの命が尽きるまで止まり続けるだろう。

 そんな彼女も朝早く、夜遅くまで部活がある。夜更け前に着くので電話をする余裕がなく、まっしぐらに眠りにつく。彼女との距離が日に日にあいていく。

 彼女は僕らの電車を進めようとせず、部活の電車につききりになる。全国大会に向かって、レールの上を緩めることを知らず、走らせる。電車を走らせるたびに進む様子を一向に見せない僕らの電車とは距離ができる。

 僕は夜遅くまで部活がある。彼女は朝早く、夜遅くまで部活がある。お互い夜更け前に着くので電話をする暇がなく、一目散に眠りにつく。互いの生活に接地面がなくなってくる

 太陽の機嫌がいいグラウンドで実施される夏の大会。試合に勝てば、県大会に歩を進め、甲子園へ一歩近づく。

 相手は課金しまくり、部員百名を有する名高い大学付属の強豪校。ピッチャーはプロ注目の剛腕ピッチャー。彼への期待はスタンドを見れば、一目瞭然。端から端まで年齢を厭わない応援団が多種多様の楽器とスピーカーを持って、スタンドを彼女の好きな青に染めている。チームとしてはないが、僕にとってはやりづらい。対して、我らのスタンドも一試合持たないラジカセといい風に言えば、伝統を受け継いできた大太鼓を持って、負けじとえんじに染める。ラジカセはバッテリーが一試合もたないので、チャンスしか曲を流せない。不調でチャンスを作れない試合には一度も耳にせずに終える。

 「プレイボール」おじさん審判の精一杯のこ声で試合が封切られる。僕たちは守備から始まる。初回を強井が三者凡退に抑え、出だしは順調であった。

 裏の攻撃、先頭打者は初球からスイングをかけ、センター前ヒットをはなつ。続く二番はバント。久方ぶりに初回からチャンス曲が聞ける。チャンス曲と共に僕たちはリズムに乗り、一点を先取する。

強田は五回まで二点を許すものの好投を続けた。僕らは毎回チャンスを作り、初回から一点を加え、二対二の同点であった。僕たちのスタンドでラジカセは休むことを知らずにずっと鳴り響き、スタンドを率先して鼓舞し続けた。

 六回表、強井はファーボールでランナーを出し、ヒットを続け様に二本打たれ、一点を失うが、後続を抑え攻撃へのリズムをつくる。  

 六回裏、先頭からヒットが二本続きノーアウト一、二塁のチャンス。グラウンドと共にスタンドも沸き上がる。先程と比べ、いまいち盛り上がりに欠ける。ラジカセから曲が流れていない。音量ボタンや電源ボタンを押しても反応がない。おそらくバッテリーが切れたのだろう。ラジカセの復帰を試合は待ってはくれず、スタンドが盛り上がりに欠けているうちにグラウンドではチャンスを実らせられず、七回に突入する。

 先頭から三者連続ヒットを打たれる。その後もファーボールやヒットを打たれ、七回に三点入れられた。バッテリーは七回まで持たなかった。

 その後はなんとか抑え、裏の攻撃で挽回も目論むも最後の一押しができず、破綻する展開が九回まで蔓延り、僕らの夏は再び味わこうとのできない思い出へと化していった。僕らはラジオのバッテリーとチームのかなめであるバッテリーを保たすことができなかった。

 選手の何倍もいる観客と選手の熱で輪郭が歪んでいる体育館会場で行われる夏の大会。勝てば待ち望んだ全国大会出場。私たちは歪みと緊張に対する平衡感覚を保ちながら試合前準備に勤しむ。

この場にいる人の汗を溜めれば、琵琶湖に対抗できる池をつくれると錯覚させる汗の量。カメムシが自分で発した臭いで気絶してしまうように私たちも気絶してしまいそうな汗の臭い。最悪のコンディションで最高のパフォーマンスをしなければならない矛盾に満ちた状況。

 相手は大会で何度も戦い、切磋琢磨してきたライバル校。キャプテンはアメリカ行きをテレビインタビューで公言するほどのビックマウスぶりを発揮し、日本のプロチームとすでに契約を結んでいる。そのせいか確実に観客は男子が多い。

 ボールが観客と選手の視線を集め、主人公になる。相手の留学生と私のチームとナンバーワン高身長の肩書を持つ高田がボールを取り合い、ボールから主人公の座を奪う。ボールは相手の陣地に初めて足を着ける。テンポの速いパスワークで貴重な先取点を取られ、流れを掴まれる。二点のリードと流れを与えたまま試合は進み、第二クウォターで二十二対二十になる。

 私たちは得意のペイントエリア内の攻撃スタイルが留学生の身長に阻まれて、生かせない。やむを得ず、シューターである私の不調により、あまり使ってこなかったスリーポイント主体の攻撃スタイルに変更する。伴って私もコートに足を踏み入れる。

 フリーなところに走り込み、早速スリーポイントラインでパスを受ける。汗でボールが滑りワンテンポ遅れ、ディフェンスに追いつかれ、改めて悪のコンディションに腹が立つ。同じ失敗は許されず、崖っぷちに追い詰められた私は是が非でもシュートをくぐらす快音を体育館に響き渡らせなければならない。再び私にシュートを決めるボールが回ってきた。汗の滑りを許容しない圧をボールにかけ、懐で大事にキャッチする。ディフェンスに追いつく間を与えないスピードでシュートモーションに入る。私が描いた放物線は汗のせいでやけに低く、への字である。「ガチャンガチャン。シュッ」 私のへの字はゴールへ歪んだ線を書いた。ゴールは入ったが、体育館に籠る熱のせいで私の放物線は歪み、大きい顔をして喜べない。  

 第三クウォター終了で点差は四十四対四十三の一点差になる。あとシュート一本で相手の点差と実力で上回り、全国大会の舞台にたてる。

 第四クウォターの終わりを数えるタイマーの数字は残り二分二十二秒。点数を追いかけるときの残り秒数は異常に早い。焦りに駆られ、頭は回らないから必死に足を速く回す。終わりを告げるブザーの音が私たちの足を止める。死に物狂いで足を速く回したが、ツキは回ってこなかった。

私たちの夏は脳裏に深く彫られて、永遠に消えないタトゥーになってしまった。そのころには体育館は冷え切り、形は元に戻っていた。

 夏が終わった僕らは自宅のリビングで一息つき、スマホをいじる暇もなく、受験の第一歩を踏み出す。いつも部活をしていた放課後に二年間床を踏むことのなかった自習室の床を満を持して踏む。すごくやわらかい。はずはなかった。ごくごく普通の床で内装も集中力を途切れさせないためかシンプルである。ドアに一番近い後ろの席で慣れない部屋で慣れない勉強をする。

 自習室の外から女子学生の聞き馴染みのある声がする。長らく聞いてなかった声にどんな顔をすればいいか分からない顔をつくる。そんな顔を見られないように分厚くはない参考書で顔の主要部分を隠す。僕の席を通り過ぎた彼女らは真ん中付近の席に座り、分厚い参考書をひらく。

 僕は毎日の放課後、自習室に通い詰める。回数を積み重ねるごとに部屋と勉強には慣れてきた。しかし、彼女との親密度を元の水準に戻すには単純接触とやらの魔法の力ではどうにもならなかった。

何日経っても以前のようには戻らない関係にいてもたってもいられず、自習室に入ってくる彼女に声をかける。

「久しぶり」

「久しぶりだね」

久しぶりの彼女のテンションは前よりも格段に低く、 数年に一回会う親戚のおじさんに会うしゃべりかけられたような反応であった。

「自習室に来てたんだ」

「うん。だいぶ前からね。いつも後ろの席にいたよね」

彼女は参考書で隠れている人が僕だと気づいていながら声をかけていなかったらしく、僕への関心は皆無であることを察するのは受験勉強を始めたての僕でも容易に理解できた。僕らの電車は長く使われていない間に廃車になっていた。

 僕の恋路に二度目はなかった。


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