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王子様は血の嫌いな吸血鬼

作者: 丹空 舞

遊び人風イケメン×真面目ヒロイン

死の前では誰もが平等だ。


それが、伯爵令嬢セラフィーナ・クロードの唯一といっていい信条だった。






西方辺境、白霧の谷と呼ばれる土地に、クロード家は代々続いてきた。


貴族階級に数えられてはいたが、その実は辺境の厄介事請負人のようなものに過ぎない。


公爵から男爵まで、貴族たちはこぞって囁いた。


あの館には近づいてはならない。

どうしても用事があるときは人をやるのだ。

うかつに近づけば呪われてしまう。

クロードの館は穢れているのだ。

あそこは『死の館』だからーー。




しかし、当の西方の村々の平民たちは、そんな噂話とはいささか異なる感想を持っていた。

乞食であろうが貴族であろうが、クロードの屋敷の中では皆、棺に収まる者として平等に扱われた。


「御霊送りのクロード様」

と、人々は屋敷をそう呼んだ。


軽々しく近づきこそしないが、彼らは畏怖と尊敬をもって、領主のクロードを大切にしていた。

税金は軽いし、作物も実る。

一年を通して霧っぽいことを除けば良い土地だ。


それにクロード家の女主人たちは、いくら貴族連中にそしられ、嫌われようとも意に介さなかった。

彼女たちはいつの時代も矜持と誇りをもって、自らの役目を果たしてきたのだった。


平民たちは畏れと敬意を込めて、彼女たちをこう呼んできた。




ーー『クロードの魔女』と。









「静かに、お眠りくださいね」


祈りを捧げ終えたセラフィーナ・クロードは、手元の棺にそっと布をかけた。


薄く光を放つ布地は、セラフィーナが織り上げた『月布』だ。

クリームがかった白い布には特別な護りの祈りをかけてある。

死者の霊を安らかに眠らせるための特別な布は、棺から霊の悪い気が零れ出るのを塞ぎやすくなる。

きちんと塞いでいると迷霊や悪霊にはならず、現世に出てくることもない。

霊たちに悪い気を起こさせないようにするためには、環境が大切だというのがセラフィーナの自論だった。

月布をかぶせて心ある生者が心を込めて祈れば、魂はさまよわず、きちんとあるべき場所へと還るのだ。



物心つく頃から、セラフィーナの周りには『この世ならざるもの』が溢れていた。

不思議なことに、クロード家の女性にはその類のものを見る力が備わるらしい。

いつしかこれがセラフィーナの大切な『仕事』になった。

『御霊送り』は人間らしく生きる者には誰しも皆与えられる最期の尊厳なのだ。



そういうわけで、しんとした納棺室に死者と二人きりだとしても、セラフィーナに恐れは無かった。


厳密には二人きりというのは間違いで、この屋敷の中にはいつも、いくつかの小さな霊のようなものたちがいる。

ピュンピュンと駆けまわったり、すみっこでおとなしくしていたりと性格もあるようだ。

悪霊でも迷い霊でもない、害のない単純な霊だから、祓うこともなく放っておいている。

名前のないこの子たちにも時々祈りをささげてやると、不思議と消えはせずに喜んでいるような気がするのだ。

もしかすると屋敷の守護霊のようなものなのかもしれない。

もちろん、セラフィーナ以外には見えないが――。




黒く塗られた木の棺の中には、年月を経た皺はあるものの、雪のように白い頬の老婆が安らかに眠っていた。

御年90の大往生だ。


「未だ見ぬ来世に祝福があらんことを」


納棺の儀式を終え、セラフィーナが聖水をふり撒くと、場の空気がふっと静かになった。

老女の魂が、ようやくこの世を離れた合図だ。



「ふう……終わった」




チリン、チリン……。


セラフィーナは部屋にある銀色のベルを鳴らした。


すると老婆の親族である黒い服を着た男たちがどやどやと入ってきた。


「さ、そっちを持ってくれよ」

「ずいぶん軽くなったな」

「ほら、気を付けて。端を当てるなよ」


現実的な男たちは棺を担いで出ていった。

その後ろに親族の女性や子供、老人たちが続いていく。

村で最高齢の女性だったらしいから、送別も盛大なのだろう。

その場に一人残った、喪服を着た老婆の娘であるという女性が丁寧に礼をする。


「ありがとうございました。おかげで無事に母を送り出せました」


セラフィーナは丁寧に指を組んだ。

「安らかな眠りをお祈りいたします」


女性は涙を滲ませ、そっと指先で目頭を押さえた。しかし、諦念の滲んだ口元は、緩やかな微笑みを浮かべていた。


「哀しみは尽きませんでしたが……祈りを待っている間、母のことを思い出しました。幼い頃、共にクッキーを焼いたこと。花冠を編んだこと。ずっと忘れていた小さな思い出を……セラフィーナ様に送り出していただけて、きっと母も幸福でした。苦労もしたでしょうが、最期は少女のように綺麗な顔になって……ありがとうございます。本当に」


セラフィーナは女性の手を握り、祈りを捧げた。

あかぎれのある細い指だ。

きっとあの母親に似て働き者の女性なのだろう。


あたたかなエネルギーが伝わり、女性は驚いて目を見開いた。


「これは……! あたたかい? それに指輪が光って……」


セラフィーナはゆっくりと言った。

「故人の遺した者の幸福を祈るのも私のお役目です。『あなた』のこの先の道が、光に満ちますようにーー」


女性の薬指に光っていた指輪の石が、きらりと光った。

女性の目に水滴が盛り上がり、石造りの床にポタリと溢れて零れた。


「まるで母が見守ってくれているようだわ。本当に、……ありがとうございます、セラフィーナ様……」


指輪の光は少しずつ弱くなり、月が朝の中へ消えるようにふっと静かになった。それを見つめながら、女性は涙を拭い、もう一度丁寧にセラフィーナへお礼を言った。





誰もいなくなった納棺室の窓を開ける。

セラフィーナはようやく息をついた。


魂にも残り香がある。


現世に別れを告げたあの老女も、完全に消滅したわけではない。肉体が消えても、存在はなかったことにはならない。

夜に輝く星のようなものだ。

人間に手は届かずともこの世と繋がっている。

死んだ者たちは空の上で大きな何物かへと変わるだけで、息づいた価値も存在も残り続けていく。


聖水の入ったガラス瓶を振りかけて空間を浄化させれば、掃除は終わりだ。


「そうだ……雨漏りの水を捨てなきゃ」


先日の長雨で屋敷の玄関口が雨漏りをしているのが分かったのだ。屋敷も古いのだけれど、修繕するお金はない。

また自分で屋根によじのぼって直そうとすれば、下女のマリーが目の色を変えて怒るだろう。

一度窓枠の修繕をしようとして落っこちてからは、セラフィーナも自分で何でもしようという考えを改めた。

一階の窓だったのが不幸中の幸いというやつだった。


金だらいに溜まっている水を流そうと、セラフィ―ナが扉を開けると、


「……セラフィーナ! セラフィーナッ!」


屋敷の裏口から甲高い声が聞こえてきた。

女の声は高いが、過分に神経質そうないらだちが含まれている。




「セラフィーナ! セラフィーナはどこ!?」


誰かすぐに分かる。

継母のヴェロニカだ。



「はい、お母様! 納棺室です」


セラフィーナはあわてて返事をした。




「ああ、嫌だわ。おぞましい! あんなけがらわしい部屋! 早く出て来て頂戴」



セラフィーナは急いで裏口に向かった。

ドレスを着て大きな緑色の宝石のネックレスをつけた継母のヴェロニカが、まるで掃除の行き届いていない鶏小屋に足を踏み入れたときのような顔をして待っていた。


「ハァー、もう! 最低な場所! あたしはここから先には入りませんからね。本当に埃っぽくて古臭くて嫌だわ。早く壊してしまえばいいのに。全てが王都とは大違い! ほら、あなた達、早くして」


ヴェロニカが高い鼻に真っ白な化粧をほどこしている姿はいつ見ても雪山のようだなという感想をセラフィーナに与える。確かにこの継母、己の虚栄心は大陸中のどんな山よりも高かった。


「金目のものは全て運び出すのよ」


「ええっ? あの、お義母様? どなたですか、この方々は」


「私の新しい使用人たちよ! 何? 文句がある? 私はクロードの奥様なんだから。あなたのお父様との婚姻届けもちゃんと提出したわ。ほら、絵画も宝石もめぼしいものは持っていかせてもらうわ。大きな物から運んで頂戴!」


「それはクロードの屋敷に代々伝わってきたもので……」


「うるさいわね。結婚したんだから、もう私のものよ。せっかく高そうなものばっかりなのに、こんな死んだような屋敷に置いておくばかりじゃ、誰も得しないわよ? あたしが有効に利用してあげようと言っているの。ほら、この絵画だって額縁に宝石が入ってるわ! 物の価値が分かる商人に売って差し上げるわ」


「ちょ、ちょっと……」


「なぁに? 仮にも『母親』に逆らう気? アンタたち、王都のあのイシュランの宝石屋に持っていきなさい。きっと目玉が飛び出る値で買ってくれるわよ。……ふふ、これでまた晩餐会で目立てるわ!」



屈曲そうな男たちは手練れの盗人のように、手際よく貴重な品を運び出していった。





旅立つ者に祈りを捧げるのはクロード家の納棺師の仕事だ。

セラフィーナが送ってきた魂の数は、もう千を超えている。

母も祖母も、その前のクロードの女たちもそうしてきた。

戦争や内乱があり、病で亡くなる前まで、セラフィーナの母は働き通しだった。

父は貿易商として黙々と働いて、そんな母を支えてきたのだと、そう思っていた。


しかし、父が新しく再婚したのは、ヴェロニカという異国の若く美しい派手な女性だった。踊り子をしていたというヴェロニカは、初対面こそ優しげに挨拶をしたが、父と籍を入れると本性を出した。


ヴェロニカはクロードの本家の屋敷には寄り付かず、王都に別荘を建ててそこに暮らすようになった。夜な夜な社交界に出ては派手に遊んでいるらしい。


このままでは資産を食い潰されてしまうとセラフィーナが訴えても、父は父で、再婚するなりまた貿易の仕事にかかりきりになって、ほとんど家に寄りつかなかった。


ここクロードの屋敷にはセラフィーナと数人の下働きだけがいて、クロード家の『納棺師』としての仕事を行なっている。




「うわぁ……すごいわね……」


セラフィーナは他人事のようにつぶやく他に無かった。

がらんとした屋敷で、セラフィーナは呆然として大きな柱時計を見つめた。


「呆れてしまうくらい何もないわ」


自分なりに必死で止めに入ったものの、継母と強盗団のような男たちの荒業には敵わなかった。

古い壁付けの時計は、さすがに略奪の対象にはならなかったのだろう。と思ったら、宝石のついていた鳩の飾りだけがもぎ取られている。ある意味、さすがだ。



「仕方がないわ、ね」


セラフィーナは自分に言い聞かせるように言った。


継母との縁を切りたいが、家族という枷は重い。何か重大な事由がなければ、協会も戸籍を書き換えさせてはくれないだろう。


こんな生活がいつまで続くだろうか。

このままではいくら父が頑張っても、浪費のために家は傾いていくだろう。


鳩のない柱時計がボンッと音を立てて時を知らせた。

飾りは無くなっても、仕事を果たそうとしているようで涙ぐましい。



「もうお昼……」



悲しみや驚きがいくら降りかかろうとも、お腹は空くのだった。


昼時だったが、食べるものは残りのパンと豆のスープくらいだろう。セラフィーナの貴族としての生活の貴族らしい部分はほとんど全部、継母が持っていってしまった。


ふう、とセラフィーナがため息をつくと同時に、下働きのマリーがエプロンのすそをひるがえしながら走り込んできた。


「おっ、お嬢様! さきほど見ず知らずの男たちと一緒にヴェロニカ様が指輪やネックレスやらを強奪していったのですが!」


「ええ。また来たの。ごめんね、マリー」


「お嬢様が謝ることではありません! ったくあの強欲者! 裏口に鉄格子でもつけましょう! 強盗団でもあそこまで容赦なくむしり取りませんよ! お嬢様のブローチもペンダントも、櫛や手鏡にいたるまで盗って行きました! お母上の形見のお品こそ隠し通せましたけど……本当にひどいです! こそ泥の方がまだ羞恥心ってものがありますよ!」


「そうかもね。でも、あんな竜巻みたいな人たちと戦ったらこちらがやられてしまうわ。鉄格子まで切り取って持っていきそうだものね。いいのよ、宝石に用事はないし」


「ですが!」


「私は仕事の報酬で生きていけるもの。屋敷がこんなになってしまって、先祖様たちには申し訳ないと思うけど」


「お嬢様ぁ……」


「物はまたいつか、必要ならば手に入るわ。それよりマリー、お願いがあるの」


マリーはきりっと眉を吊り上げて、唇をとがらせた。


「はいッ! なんなりと!」


セラフィーナは卵でも買いに行ってもらおうと、胸元の銀貨の入った袋を握った。

下働きのマリーが元気でよく動いてくれることだけが、今の救いだった。










その日も、谷には白い霧が立ち込めていた。湿った空気に包まれながら、セラフィーナは露に濡れた薬草を摘んで籠に入れていた。


「雨漏り、ひどくならないといいわね」


私欲のためにはどうかとも思うが、ダメ元で祈ってみる。

これまでも何度か晴れますようにという祈りをしてみたが、成功するのは五分五分といったところで気休めにもならない。


「せめてあの古い金だらいには穴が開きませんように」


と、セラフィーナは控えめに祈りをささげた。

屋敷に戻ろうとしたそのときだった。



「……あら?」



黒塗りの馬車が、門の前に停まっていた。

王都からの印章が、車体の側面に押されている。


はて、とセラフィーナが首をかしげていると、タイミングを見計らったかのように扉が開き、中から男が出てきた。


「セラフィーナ・クロード様ですね」

「えっ? は、はい。私ですが」

「お届け物です」


男は品がよさそうだがさっぱりとした精悍な顔つきをしていて、騎士団の紋章の入ったマントを羽織っていた。

しかし、ただの郵便屋にしては、少々厳めし過ぎる。

だいいちただの荷物運びであれば、宝石のついた指輪やら、ブローチやらは必要ないだろう。


「ありがとうございます。王都から? ええと……今日は何かお約束を入れていたかしら?」

「さあ。私はこちらに運ぶようにと言われているだけですので」


騎士風の若い配達人はそっけなく言って、馬車の後方を開いた。そこには、ひときわ大きく、重厚な黒檀の棺が乗せられていた。



「……棺?」



馬車からは運び手が出てきて、あっというまにクロードの屋敷へ棺を運び込んだ。



「あの、すみません。これはどなたの……」


セラフィーナは近づいて驚いた。これはただの棺ではない。装飾も異常に手が込んでおり、魔除けの文様まで刻まれている。


騎士は振り向くこともなく去ろうとしている。


まずい。

これでは訳も分からずに棺を押し付けられることになる。


「待ってください!」


馬車に乗り込んで帰るそぶりを見せていた騎士のマントのすそを、セラフィーナはぐっと掴んだ。


「ぐぇっ!?」


騎士はつぶれたヒキガエルのような声を出した。

信じられないものを見る目でセラフィーナを見ている。

言外に野蛮だと言われた気がして、セラフィーナは慌てて手を引っ込めて言いつくろった。


「あ、すみません。ですが、私もクロードの者として、貴方に尋ねなければなりません。依頼主の名は、どなたですか?」


「……記録にございません」


「そんなわけないでしょう? 隠し事はおやめになってください。大切なことなのです」


ギギギッとにらみつけると、騎士風の男は咳払いをした。


「名前を申し上げることができないほど、高貴なお方なのです。仮に……ノル……そうだな、ノル様としましょう」


「ノル?」



夜の帳という意味の短い単語だ。

人名では聞かないので、本当に仮りそめの名前だろう。

男は言葉を選びながら続けた。


「王城で……亡くなったのです。貴方にはその方を弔っていただきたい。いいですか、万が一にも他の人間に亡骸を渡さないでください。たとえ大金を積まれたとしても、です」


「なぜそんなことを言うのです」

セラフィーナは心外だった。

「そんなことするわけがありません。弔いをするクロードの屋敷は神聖な場所です。もちろん、貴族の皆さんに嫌われていることは承知していますが……神聖な棺を誰かに渡すなど、考えられないことです」


騎士風の男は少しばかり息をのみ、わずかに目元を緩めたように見えた。


「いや、失礼。どうにも容姿が美しい方なので……杞憂でした。あなたとあなたの仕事を愚弄する気はありません。気を悪くされたなら謝ります」


セラフィーナは、男の目元が少しばかり赤く腫れているのに気付いた。


棺の中は、もしかするとこの男の恋人なのかもしれない。

きっとたおやかな女、いや、貴族の令嬢だろう。

公爵令嬢か何かと、騎士との道ならぬ恋――。


そこまで妄想してセラフィーナはかぶりを振った。

まだそうと決まったわけではない。

だけど、そうだとしたらこの男が口の重いのもうなずける。


「どうか終わったら人目につかないよう、クロードの共同墓地へ動かして埋めてください」

と、男は言った。


「クロードの? それはまあ、可能ですが……」

セラフィーナは首を傾げた。


屋敷から少し歩いた小高い丘には、近隣の村人たちを中心とした共同墓地がある。しかし、貴族は代々の墓があるのでその限りではないし、何より王都にゆかりのある高貴な人物なのではなかったか。


「共同墓地よりも、王宮の近くの貴族用の墓所に送った方がよろしいのでは……」

「いや、いいんです。むしろここがうってつけだった」


騎士はセラフィーナにパンパンに膨らんだ革袋を押し付けた。


「ちょっと、困ります……」


もみ合った拍子に袋の中身が少し漏れ出た。キラリと金色の光を帯びたコインが、床に落ちて乾いた音を立てた。


「えっ!?」


セラフィーナは目を疑った。

金貨一枚で一か月のパンが買える。

ということは、この革袋いっぱいに入っている金額たるや、そうとうなものだろう。


「待ってください!」

セラフィーナは必死に食い下がった。

謎の大金を残されて、匿名の依頼を受けるだなんて、怪しいにもほどがある。


「私は私の仕事をしているだけです。これは正当な報酬です。埋葬の際はこちらで手配して人を雇うので連絡を下さい」


「連絡っていったってどうすれば」


「この鳥に手紙をくくりつけて私に飛ばしてください」


懐から白い鳥が飛び出して、男の肩にとまった。

よく懐いているようで頭を男の指に擦り付けている。

男はセラフィーナの肩に白鳩を乗せると、丁寧に言った。


「突然の無礼、お詫びいたします。ですが……もうこれしかないのです。どうか、『あの方』をよろしく頼みます」


騎士は裾をひるがえした。

あっというまに館から運び手が吐き出されて、馬車に吸い込まれていく。


「えぇ、ちょ、ちょっと……待ってください。あぁ、速いわ……もう見えなくなってしまった……」


後に残されたのはセラフィーナと、館の中に丁寧に運び込まれた重厚で美術品のような棺だけだった。





「どうしましょう……」



セラフィーナは納棺室で途方にくれていた。


無記名の依頼。

王都の印章付き。


しかもこの棺の、尋常ならざる異様さ。

見慣れたものよりも一回り、いや、二回りは大きいかもしれない。

怪しすぎる。

犯罪の片棒を担いでいるのかもしれない。



「とりあえず白鳩はマリーに預けてきたけど……」





しかし、セラフィーナにも十代の娘らしい好奇心があった。





(――どんな方が入っているのかしら?)





とてつもなく高貴な方。

普段ならばお顔さえ見ることのできない人。



「お城のお姫様、だったりして……」



相手の素性を知らなければ、祈りに完全な効力を発揮させることはできない。

ノルという偽名だけではどれだけ効力を発揮できるか。


セラフィーナは仕事のため、そしてわずかな好奇心も手伝って、ついに棺の蓋に手をかけた。





「……失礼いたします」




セラフィーナが手をかけると、蓋は音もなくすうっと開いた。




「あれ? お姫様――じゃない?」




意外にも、白い花の中に横たわっていたのは、若い男性だった。


絹の黒い装束に包まれ、長い髪が額にかかっている。

まだ若く、青年になってしばらくといった程度だ。

その顔立ちは、まるで彫像のように整っていた。

背丈が大きくなければ女性と言われても納得したかもしれない。




(きれい)




それはセラフィーナが見たことのないような人間だった。

まるで本当にただ、眠っているようだ。



「あら。前髪が……」



ここまで綺麗な人形のような顔貌では、少しの髪の乱れさえも容易く見つけられるのか。セラフィーナは感心しながら、指先で男の額に触れた。




「……あたたかい?」



セラフィーナは眉をひそめた。

僅かな熱を感じる。

胸元に手を当ててみると、確かに脈はないようだ。

けれど、体は冷たすぎるわけでもなかった。



「いいえ、そんなはずは」



部屋を浮遊していた小さな霊たちが、異変を感じたのかビュンビュン飛び回っている。

セラフィーナも、ここにきてようやくおかしいと思い始めた。



(これは――誰なの?)



魂の形も存在も不確かだ。

存在感はあるのに、存在自体が見えないような。


(亡くなってすぐなのかしら?)


よく分からない。

が、深入りしたくもない。

しかし、埋葬するのであれば祈りを捧げなければならない。

セラフィーナは心を落ち着かせて祈り始めた。

これは仕事であり、自分の役目なのだ。

棺があり、金貨を置いていかれた以上は、今の自分のできることをしたほうがいい。


セラフィーナは昨日織りあげたばかりの月布を被せて、祈り始めた。


「天にまします精霊たちよ。この者に心やすらかな充足の時を……」




静謐な部屋の空気が、自分の声で震える。

このささやかな緊張感、好きとは言えないが嫌いじゃない。

何よりも無心になれる。

それはありがたいことだった。

自分が自分であることを忘れられるほど、作業に没入できるのは、やはり祈りの瞬間だ。

さらには一時一時が誰かのためになるのなら、こんなにうれしいことはない。


セラフィーナは一心に祈りを捧げた。


もう少しで魂の存在を感じとれそうだ。

途轍もなく深い紺碧のような……気を張っていなければこちらが持っていかれそうだ。


まるで本当に眠っているような魂の重さがある。気配はあるのに動かない。

これまで送ってきたいくつもの魂と全く異なる何かだった。





(負けないわ。何があったか知らないけどーーこの御霊を無事に来世に送ることが私の使命)


セラフィーナはググッと唇を引き結んだ。


(クロードの家の、いいえ、御霊送りの矜持にかけて、諦めるものですか!)



揺り起こすように朗々と。


持ち上げるように清々しく。


ただし、厳かに。



祖母の声や母の祈りの姿の記憶がセラフィーナに勇気を与えた。

セラフィーナは祈りを捧げ続けた。



「……御心ののままに。安らかな眠りをお祈りいたします」



そのときだった。

バチッと電気の走ったような痛みを感じて、セラフィーナは頭を押さえた。

月布の透けるように薄い光が、納棺室の天井に舞い上がった。


そしてありえないことが起きた。


目を閉じていた男の瞼が開いたのだ。

長い睫毛が揺れる。

宝石のような紫の瞳がじっとこちらを見上げた。




「……え?」




ガシッ!


男の手が、しっかりとセラフィーナの手首を掴んだ。

強い力だったが、痛くは無い。

それよりもあまりにも綺麗な顔つきに、声も出ない。

男は隙の無いまなざしで低くつぶやいた。





「ここはどこだ?」




恐怖も驚きも通り越して、セラフィーナは反射的に答えていた。


「き、……霧の谷の、クロードの屋敷です」


「ああ……『死者の館』か」







そんな不名誉な名前で呼ばれているとは心外だった。

が、セラフィーナにそんなことを考えている暇はなかった。

何しろ生まれて初めて父親以外の男性に触れられたのだ。



(きゃあぁぁぁあったかい!? えっ? 生き返った? 死んではいなかったの!? いいえ、でも生者であるはずがない、魂はこの世を離れかけていたはず……でも、まさか、というか、この人顔が綺麗過ぎて落ち着かないわ!)



「ダリオンの奴、考えたな。ここなら大臣どもも手は出せまい」




美貌の死者――いや、今は生者だが――は、ぱちぱちと瞬きをして、パッと手を離した。

そしてセラフィーナの指先を優しく握った。


「いや失礼。レディに無礼を働いてしまったね。痛くない? そう、よかった。ところで今は何年何月かな、お嬢さん」


「えっ? ええと、聖暦1642年の……リュミナ月の8日です」


「まさか――こんなに早いとは。はは、こんなに早く自由が訪れるとは思ってもみなかった。大臣に感謝するべきだな」


「あ、あ、あ、あの」


「ん?」


「指を……離してください」



赤面したセラフィーナは決死の覚悟で言った。

宝石のような瞳と、駄々洩れている色気の塊のような鼻梁に対峙できる肉体も精神もあいにく持ち合わせてはいない。


自分は単なる辺境の納棺師に過ぎない。

一応伯爵の令嬢ではあるのだが、それがこの状況に何か意味を与えられるとは思えるはずもなかった。



「ふーん……」



しかし、男は一筋縄ではいかなかった。

するり、と手が離れたと思うと、今度はあごに手をかけられた。セラフィーナは目を見開いた。




「ヒェッ!?」


「ああ、この髪と瞳の桃色は、直系のクロードの者か。さすがだな……」



何がさすがなのかさっぱり分からない。

セラフィーナは目をぐるぐるさせた。

甘く低い声が耳に入り込んでくる。



「お嬢さん、名前は?」


「シェッ、セラフィーナです。あの、あのあの」




間近で見つめられて心臓が止まりそうになる。

猛禽類に見つめられたような恐れと、芸術品のような美貌の甘やかさ。

それらの全てがセラフィーナを硬直させた。

男はふわりと微笑んだ。

右目の泣きぼくろがやけに色っぽい。



「そうか、セラフィーナ……いい名前だ。セラフィは精霊という意味かな? 君にぴったりだね」


「はぇ……いえ、そんな、あの、すみません」



意味もなく謝りながら、目の前の男の人間離れした容貌にセラフィーナは圧倒された。


霊はさんざん見てきたので恐怖を感じたことなどないが、今は何よりこの男が怖い。



「祈りの力が強いから、てっきりベテランの神父か何かかと思ったよ。だけど不思議と嫌じゃなかった。むしろ心地よい感じでね」


「あの、そんなことより手をッ」


「俺を悼んで祈ってくれていたのが、ふふ、こんなに愛らしい『精霊』だったとは考えてもみなかったよ。でも、実力あるんだね? 祈りの気が仮死状態でもはっきり感じられたよ」


「か、仮死!?」



不穏な単語にセラフィ―ナは声をあげた。

美貌の男は片方の眉をあげる。


「なんだ、ダリオンに聞いていない? あの忌々しい大臣の野郎どもが勝手に僕を殺そうとしてね。毒を盛ったんだよ」


ダリオンというのはあの騎士風の男の名前なのだろうか。

だが、それよりも。


「暗殺!?」


「いやあ、別に王位を狙うつもりなんて無いって言っても、王宮じゃあ通じないんだよね。そんなに邪魔なら死んだつもりで逃げてやろうと思って。王宮の暮らしに未練は無いし……いやあ、こんなにうまくいくとはね。これで晴れて自由の身だ。君に感謝するよ、セラフィーナ」


「あっ、ハイ……」




赤面していたセラフィーナにふっと微笑みかけて、男は棺桶から出て伸びをした。


詰め込まれていた花が、セラフィーナの肌に絡みつくように甘く香る。


くああ、とあくびをする男の姿は気品のある大きな猫のようだ。

確かに『高貴な方』なのだろう。

一つ一つの動作に全く隙がない。

どこをとっても優雅だ。




ぴゅんぴゅん飛んでいた子犬のような霊たちが、男の周りに集まってきた。



「おっ? なんだ、こいつら人懐っこいんだね。ほら、おいで」



男は人差し指を出して、チッチッと舌を鳴らした。

霊たちに表情は無いが、ものすごくうれしそうなのが分かる。男の指先に我先にと乗ろうとしている。



(あら、かわいい。……ん?)



セラフィーナは一つの事実に気が付き、仰天して叫んだ。




「あなた、この子たちのこと、見えるの!?」

「ん? そりゃあ見えるさ」


男は歯を見せて笑った。

鋭い犬歯がちらりとのぞいて白く光る。

ギクッとしてセラフィーナは男をまじまじと見た。


「僕も似たようなものだから」

「どういう……意味?」

「聞いたことない? 王宮に巣食う吸血鬼の話」






セラフィーナは息を呑んだ。




「ノクティスの一族……」




『深い闇の夜』という響きを持つ特異な民族。




世界のどこかに、美しく聡明で人並み外れた美貌を持ち、生物の生き血を啜って生きる吸血鬼一族がいる。


それは伝説のような、おとぎ話のような、噂話だった。



ある夜に姫君が吸血鬼に襲われた。

姫君自身は恋に落ちたのだと主張していたが、相手はおらず、姫君の部屋の床には血のように紅い花が一本おいてあっただけだった。


姫君はすぐに子を産み、その子供は王家の恥だとして隠され、かくまわれた。しかし、その吸血鬼の子は人並み離れて美しく、不思議と命が狙われてもそのたびに助かって生き延びている。


王宮のどこかにはその美貌の吸血鬼の王子が潜んでいて、夜に若い娘が出歩くと誘惑されて噛みつかれてしまう。




そんなとりとめのない噂話。

こんな辺境の地にも伝わるくらいの、面白おかしいゴシップめいた話だった。


だけど、セラフィーナは本能的に直感していた。

噂は噂でなく、事実だったのだ。



「血なんて吸わないよ。レアなステーキは好きだけど……僕は周りより少し霊力が強いってだけ。つまり、見えなくていいものが見える」


「本当に、それじゃ、それじゃあ、あなたが……あの?」


震える声音で尋ねたセラフィーナに、男は色香を滲ませて蠱惑的な笑みを浮かべた。





「僕はヴァレンティウス・ノクティス」





セラフィーナは祖母から聞いたおとぎ話の最後を思い出した。





若い乙女。

可愛い娘たちよ、ゆめゆめ気を抜くんじゃない。

吸血鬼は人間を『虜』にするーー。





「ヴァルって呼んでね、セラフィ―ナ」




それは誘惑といっていいほどの、甘く優しい声だった。






朝日がやわらかく寝室を照らした。

パチッと目を覚ましたセラフィーナは目をこすった。




「夢、よね……」


ずいぶん不思議な夢だった。

霊は日常的に見ているものの、吸血鬼となると話は変わってくる。それに、それが美貌の男となればなおさら。



バンッ!


突然ドアが勢いよく開いた。

鉄砲玉のようなエネルギーの塊が飛び込んでくる。



「セラフィーナ様、おはようございます! 起きてくださいませ!」


使用人のマリーが息を切らしながら、走り込んできた。

朝から全力疾走した後のように息を切らしている。


「マリー? どうしたの? そんなに慌てて」


セラフィーナが尋ねると、マリーは両手を広げて興奮気味に言った。


「屋敷が……屋敷がとんでもないことになっております! どうか、疾く、疾く、ご覧くださいませ!」


セラフィーナは半信半疑で窓の外を見た。

そして、ぎょっと仰け反りそうになった。


さびれていた屋敷の外壁は重厚なレンガに代わり、まるで異国の城さながらだ。よく見ないと分からないくらいだが、表面は細かい金粉が散りばめられたかのように輝いている。

雨漏りどころの話ではない。




「――夢よね?」





今度の呟きは、マリーの金切り声にかき消された。


「夢なんかではございません! セラフィーナ様! 現実でございます!」


庭の木々は一斉に伸びて花まで咲かせている。

噴水の周りには見たこともない珍しい鳥たちがさえずっていた。


まさに絢爛豪華。

幽霊の住む白い谷、死者の館という言葉とは無縁のような光景だ。


セラフィーナはあんぐり口を開けた。



「どういうこと……?」


「私にも何が何だか……屋敷の中も絵画やら花瓶やら、元あったものよりも立派なものがキラキラとッ……! 花瓶などビカビカに光っており、生けてあるお花も見たこともございません。あまりに高価そうで私はうかつに手を触れられません! どうか直接ご覧くださいませ!」



そう言って、マリーはセラフィーナの手を取り、慌ててベッドから引っ張り出した。


廊下に出たセラフィーナは、さらに驚いた。

何か、がいる。

影のようなものが。



「霊……? こんなところに?」


低級霊なら、力を少し込めればこちらの意思を伝えられる。獣を炎で追い払うようなものだ。


セラフィーナが力を込めようとしたとき、



「フワキャアアアッ!?」

マリーが叫んだ。

「な、な、なんですっ!? あれは!?」



廊下の薄暗がりに、ふわふわと浮かぶ透明な人影が漂っていた。

セラフィーナは驚いた。



「マリー、あなた、霊感はないはずじゃあ」


「いっ、い、今の今までございませんでした! そんなもの!」


「そうよね……」



この世ならざるものを常に見続けるセラフィーナの世話をしているのにかかわらず、使用人マリーといえば全く霊的現象には縁がなかった。

そのマリーが初めて、おそらくセラフィーナと同じものを見ている。



「ひっ! セラフィーナ様! いっぱいおりますッ!」


「落ち着いて、マリー。悪意は無さそうよ」


「どっどっどうしてわかるんですかぁ!?」


「えーと、職業柄? かしら?」



ひとり、ひとり、霊たちがゆっくりと姿を現す。



「だ、誰ですかぁ!?」

動転しているマリーにふわふわと漂っていた影たちが寄り添ってきた。




「ようやくご挨拶が叶いました、セラフィーナ様。私はルシア、この屋敷の守り手のひとりです!」

細い体に暖色の光をまとった女性の霊が優雅に頭を下げる。


「ベアトリスと申します。いつも私たちにも優しくしてくださりありがとうございます。これからは屋敷のために尽くします。どうぞよろしくお願いいたします」

丸眼鏡をかけた小柄な霊がきちんとお辞儀をする。


「俺はエドガーだ。ふん、少し驚きすぎなんじゃないのか。実体化したくらいで」

ちょっと影の濃い青年の霊が腕組みをしながら言った。




「ゆ、ゆっ……幽霊ッ……」

マリーが興奮気味に言った。

「わ、私、初めて見ましたッ……!」



セラフィ―ナは首を傾げた。

霊たちがしゃべるなんて今までになかったことだった。

悪霊や迷い霊であれば、強いエネルギーがあるため言葉を話す。が、この子たちはそのどれでもないようだ。


「あわわわわ……」


「マリー、しっかりして。口から泡をふいてる場合じゃないわよ! 何が起こっているのか、しっかり知らないと」




すると、セラフィーナの耳元で聞き覚えのある甘やかな低音が響いた。


「びっくりした?」


一度聴いたら忘れられるわけがない。

セラフィーナが振り向くと、目を細めたヴァルが長い髪を優雅に遊ばせながら立っていた。


寝巻のガウンがいともなまめかしい。

そんなものどこにあったのか。

セラフィーナは見てはいけないものを見た気がしてバッと視線を逸らした。


(なんだか、見ちゃいけないものを見た気がするわ!)


城下町に、いや、王宮に野放しにすれば、たちまちご婦人方に取り囲まれるか、なにかをむしりとられてしまいそうだ。

ヴァルは晴れやかな顔で微笑んでいた。

長身が朝陽にまぶしい。


「でも、このくらいが屋敷にはちょうどいいよ。使用人が多くて賑やかで、装飾も美しく豪華じゃなきゃ」


男はのほほんと貴族らしいことを言う。


「古いけど、ここはとても居心地がいいね。だからこそ、といっていいかもしれない。きっと丁寧に守ってくれていたんだな」


ぞわぞわっと背筋が震えるようだった。

セラフィーナがゆっくりと振り返ると、朝という単語が最も似つかわしくない男がにっこりと微笑んでいた。

まるで客人でなく、屋敷の主人のようだ。


「おはよう、セラフィーナ」

「おっ、おはようございます!」


と言いながら、セラフィーナはあることに気づいて顔色を変えた。




「朝陽が……!」



廊下の大きな窓から朝陽が差し込んでいる。


「ああ……昨日は霧が深くて気づかなかった。普段もこんなに晴れるんだ?」



吸血鬼は陽の光が直撃すれば消えてしまう。

おとぎ話を思い出して。セラフィーナはとっさにヴァルと窓との間に体を差し込んだ。



「危ないわ……! マリー、早くカーテンを閉めて!」


マリーが慌てて廊下のカーテンのタッセルをほどく。

ヴァルはきょとんとしてセラフィーナを見ていたが、くつくつと笑いだした。




「ずいぶん優しいね?」


「えっ?」


「消えないよ」


「ええっ?」


「そりゃあ少し日焼けはしやすいけど……半分は人間なんだ。十字架も触れるし水も平気」


「そ、そうなの……」


「だけど」



ヴァルは目を細めて少しかがみこんだ。


セラフィーナとの身長差がなくなり、眼前に整った紫の瞳が近づく。


そして男は微笑んだ。


まるで大きな一輪花がふわりと花弁を緩ませるように。





「レディに守ってもらうのは初めて。ありがと、セラフィーナ」





ギュンッと心臓のあたりに何かを撃ち込まれた感覚がして、セラフィーナはよろめいた。





危ない。


この吸血鬼は何か得体のしれない技をもっているのかもしれない。




口元に手をあてたマリーが、よろめいたセラフィーナの肩を支えて囁いた。




「何とは言えませんが、なんだかすごいですね……!」



その通りだった。

男の色香にあてられるなんてことが、あっていいのだろうか。

セラフィーナは眩暈に耐えて、深呼吸をした。




最初こそマリーもこの状況にいぶかしげだったが、徐々にどこかわくわくし始めているような気がする。


もともと孤児院を院長にたたき出されるくらいには、マリーは元気で好奇心旺盛な子なのだ。




(わ、私もしっかりなければ! クロードの者として……)




セラフィーナは腹に力を入れて、美貌の吸血鬼の末裔に相対する決意を固めた。

少し色っぽいからといって、クロードの女が簡単に篭絡されるわけにはいかない。

これでも、数年はこの館の主として祈りを捧げ続けてきたのだ。


「あのッ……ヴァレンティウス様」


「ちがうよ」


「え? あ、申し訳ありません。間違ってましたか」


「そうじゃなくて」



長身のヴァレンティウスがかがみこむと、長くまっすぐな紫と黒の髪の毛がさらっと揺れる。

毛先一本一本までもが美しい男だ。


ヴァレンティウスはとろけそうな笑みを浮かべて、セラフィーナを見た。



「昨日も言ったけど、ヴァルって呼んでね」


「ぐ……」



既に心が折れそうだ。

セラフィーナは心臓が圧迫されたような力を感じた。

が、踏みとどまって、負けじと口を開いた。





「し、しかし……どう見ても私よりもヴァ……」



ヴァレンティウスはこちらをじっと見ている。

宝石のような瞳に、負けた。

セラフィーナは諦めて、淑女の矜持などかなぐり捨て、目の前の男を愛称で呼んだ。



「ヴァルさん……の方が、私より年上ですよね」


「はい、それもだーめ」


「えっ?」


「あのさ、セラフィーナ。君は俺の恩人なんだよ。あのままだったら良くて土葬。ダリオンが掘り出してくれるまで、数か月、いや数年、下手すれば何十年と埋められてるはずだったんだ」



そういえば、大臣に殺されかけたと言っていた。

殺意を逆手にとって王宮を脱出したとしたら、ヴァレンティウス王子はよっぽど不自由だったのかもしれない。



「だから、セラフィーナが俺の主人ってことだよね。俺のことを甦らせてくれた上に、守ろうともしてくれた」


「ああ、いや、あの、それは、はい」


しどろもどろになっていたセラフィーナを見て、ヴァレンティウスは楽しそうに微笑んだ。

しっとりとした唇がやけに魅惑的だ。

これも幻術の類なのかもしれない。


「ヴァル。俺の愛称」

「えっ?」

「主従に年は関係ないだろ? セラフィーナ、俺はこれから君とこの素晴らしい屋敷に、誠心誠意仕えよう」

「いや、あの、その」


そんなことはいいので早くあるべき場所へ帰って欲しい。

つまりは王宮のきらびやかな世界という意味だが――。




「丁寧な言葉も、王族への敬意も不要だ。俺はセラフィーナの前で、ようやくただの男になれたんだよ。どうか他の使用人のように、ヴァルと呼んで」



使用人という言葉の意味を勉強した方がいい。

こんな男が誰かのために紅茶を入れたりマフィンを焼いたりする想像はとてもできなかった。




「仮にも王族の系列に属する方に、そんな無礼をするわけにはいきません。私は伯爵家の娘で、そのような上下関係ははっきりとわきまえるようにと言いつけられております」


セラフィーナは言い切った。

これほどきっぱり自分の意見を言ったのは久しぶりかもしれない。

セラフィーナは謎の達成感にあふれていた。

しかしそれも、次の瞬間までの短い間だった。




「セラフィ―ナ、いい子だから。俺のお願い、きいて?」



男の背景に花が見える。

タンポポやカスミ草ではなく、真っ赤な深紅の大輪の花が。





「うっ……」




セラフィーナはほてりそうになる頬をごまかして、ふうっと息を吐いた。


この男、顔面が強すぎる。


棺を運んできた騎士風の男も美青年の部類に入るように思えたが、ヴァルは別格だ。

おそらく大臣に殺されかかったのも、様々な私怨があったのではないかと予想される。

貴族令嬢たちの間で取り合いにならなかったわけがあるまい。

何人か負傷者が出てもおかしくない。

傾国の美男というのだろうか。



「ね?」




ね? じゃない。

というか顔を近づけないでほしい。

この男に目の中に入れられるというだけでセラフィーナの羞恥心は煽られるばかりだ。

そればかりか愛称なんて。


ーーいや、だめだ。平常心だ。


セラフィーナはふるふると震えながらも、拳を握りしめた。



使用人のマリーが後ろから、


「セラフィーナ様! 頑張ってください!」


と小声で応援してくるのが、心強くもあり腹立たしくもある。しかし、今はそんなことにかまっていられない。

女主人としては冷静に、落ち着いてふるまわなければ。



(そう、私はクロードの女!)


しっかりしなきゃ。

多少の色気に惑わされてはいけない。


セラフィーナはすっと背を伸ばした。




「ヴァッ……ヴァル。廊下もみちがえるように美しくなっていて、驚きまし……驚いたわ」


「時間がなかったからね。まだまだこんなもんじゃないさ。今は朝の目覚めにふさわしい環境を整えただけ。まだ改善点は多いよ」



ヴァルは微笑みながら楽しそうに報告した。

泣きぼくろのある左の目尻がきゅっと下がる。


「屋敷の霊たちにも働いてもらったんだ。皆、セラフィーナのために動けるのが嬉しいようだったよ。慕われてるんだね」




セラフィーナにしてみても、あの子たちがまさか実体になるなんて思わなかった。

マリーに見えているならば、ほとんどの人間に見えているといっていいだろう。



「すごい力なのね」

と、何気なく言ったら、ヴァルはにんまりと笑んだ。




「どれだけ『すごい』か確かめてみる?」




甘く低い声が面白そうに告げる。

端正な顔が近づく。

蜂蜜でできた宝石をゆっくりと燻したような、濃厚で抗えない香りが鼻をついた。






(無理、無理、無理!)





セラフィーナは全身から血が噴き出してしまうのではないかと思うくらいには緊張していた。


無駄にいい声で言うのはやめてほしい。

ただでさえ年頃の男に免疫が無いのだ。

それが一気に国宝級の男に近づかれたらどうなるか想像して欲しい。


セラフィーナは初めて自分のために祈りをささげた。

どうかこの悪魔のように蠱惑的な男から、無事に自分の正気を守って欲しい。





「ねぇ、フィー?」


早速、脳梁に重大な混乱が生じる。

セラフィーナはもはや怒っていた。




「フィ、フィーって……や、やめて。変だわ、そんな呼び方」


「えー? 似合ってると思うけどなあ。可愛らしくて、君にぴったり」


セラフィーナは耳まで真っ赤になり、俯いたまま首を横に振った。


たちが悪い。

マリーは意味もなく窓枠を拭きながら、ちらちらとこちらの様子をうかがっている。

助けは来ない。


「か、かわ……っち、違います、そんな、私は……」


「え? かわいいと思うよ。セラフィ(精霊)っていうのもわかるけど、僕からしたらフィフィ(小さな女の子)って感じ」


「ッ、ヴァル!」


ヴァルは肩をすくめて、わざとらしくため息をついた。


「わぁ、名前呼ばれると、ちょっとドキッとする。もう一回、呼んでくれる?」


「っ……か、からかわないでくださいっ……!」


セラフィーナは顔を覆うように手で頬を隠し、もう一度背を

向けた。


クロードの女主人の矜持はもう粉々だった。

恥ずかしさで今にも逃げ出したい。



「ふふ、ごめんごめん」



絶対に悪いとは思っていない。

愛玩する猫と戯れるようなヴァルに完敗だった。


「もう、ほんとうに……そういうのはやめてください」


「本気なんだけどね」



と言いかけたヴァルは、セラフィーナが目尻に涙を浮かべているのを見て両手をあげた。



「ほら、さっきの続き。見たくない? 『すごい』の」


「すご……どうやって、い、いや、いいです、いいです。確かめなくても」



どうやって確かめさせるつもりだろう。


セラフィーナの鼓動はドドドドと早鐘のように動いて、つまりはこの男のせいで振り回されっぱなしだった。


途端、どこからか低く重々しい音が響いた。

地鳴りのようでもあり、鐘のようにも聞こえる。



「な、なんの音ですか……?」

マリーがきょろきょろと辺りを見渡す。


ヴァルは片手を軽く掲げると、にやりと笑った。




「すごーい本気を少しだけ出してみよう。準備はいいかな? ……じゃあ、みんな、よろしくね」


ヴァルが何かに語り掛けた。


次の瞬間、屋敷全体が黒い霧に包まれた。眩しくはない。

けれど圧倒的な存在感のある、魔力そのもののような霧だ。


壁が、床が、天井が――変わっていく。


どこか煤けていた古い石材は一瞬で磨き上げられた大理石へと変貌し、天井にはシャンデリアが浮かび、光の粒が舞い踊る。


廊下の両側に並んでいた壺には色とりどりの花が生けられた。


広間の中心には、宙に浮かぶ万華鏡のようなシャンデリアが虹色の光を零す。


階段の踊り場には、大きな額縁の中にヴァルとセラフィ―ナの描いた覚えのない肖像画が飾られた。

先ほどの屋敷もそうとう豪華だったが、それ以上だ。

セラフィーナは絶句して立ちすくんだ。



「ええええええぇぇっっ……!!」

マリーが目を見開いて叫んだ。


「せ、セラフィーナ様! え、絵が! シャンデリアが! 彫刻が! 花が! どうなっているのでしょう」


「私にも説明できないわ……」



驚くセラフィーナとマリーの背後で、霊たちが得意満面にそれぞれの手柄を自慢し始める。



「あのテーブル、触れるだけで好みの紅茶を出す仕組みだよ! 私が調整した」


ベアトリスが鼻を鳴らす。



「そんなのたいしたことないわ。私の花瓶は詩を読み上げてくれるの。心を癒すのにもってこいだわ」

ルシアが得意げに顎を上げる。



「ふん、そんなのは子供だましだな。俺の彫像は戦い始めるぞ」

エドガーが言った瞬間、部屋の隅でミニチュアサイズの騎士像たちがフェンシングを始める。




セラフィーナは思わず天井を仰いだ。

壁画のような枠内には空模様が映し出されており、ちょうど雲がゆっくりと流れていた。


くらり、と眩暈がした。




「うーん。まだ理想には遠いな。魔力の循環効率が悪い。でも霊たちの存在と共鳴してくれると、もっと伸びるはずだ。いや、みんなはよくやってくれたよ、ありがとう」


ヴァルはやけに真剣な顔で壁を叩いている。


「あの、これ以上屋敷をどうするつもり……?」


「ああ。庭の噴水で動く水の彫刻を作るのと、夜になったら星空が浮かぶ温室なんてどうかな。くつろげる場所は多い方がいいよね」


マリーが廊下の絨毯の上に卒倒した。

ベアトリスが抱き留めたようで、霊三体にオロオロと介抱される生者というなんだかわけのわからない構図になっている。



セラフィーナは、口をぽかんと開けたまま、ただ立ち尽くしていたが、ふと気づいた。




――これが、この男にとって『普通』の生活なのだ。




ヴァルがいたずらっぽく目を細めた。



「セラフィーナの祈りが他の人間のためのものなら、僕の力は自分の欲のためにある。つくづく吸血鬼は利己的な生き物だね? さあ、朝食にしよう」






見違えるように豪奢になった食堂についてしばらくすると、


「お待たせいたしました、セラフィーナ様、ヴァル様!」


と、マリーが勢いよく食堂のドアを開けて現れた。



背後には、料理を運ぶ霊たちの行列がぞろぞろと続く。

さっきバターンと倒れていたのに、もう順応したらしい。


(若い子の適応力ってすごいわ)


と、セラフィーナは感心した。





「本日の朝食は、霊の皆さまと力を合わせてご用意いたしました! ご覧くださいませ!」


マリーが腕を広げて指し示したテーブルの上には、まるで王族の宴のような料理がずらりと並んでいた。



ふかふかの白パンに、とろけるバターと蜂蜜の壺。

香ばしいベーコンと野菜のスープ。

湯気が立ちのぼるスクランブルエッグ。

季節外れの果物までもが、銀の皿に美しく盛られている。


「……わあ」

セラフィーナは思わず声を漏らした。


「朝は甘い香りの方が目覚めやすいんだ」


ヴァルは椅子を引いて、セラフィーナを座らせる。

女性にするエスコートを、まるで呼吸するようにしてくる。

セラフィーナはおそるおそる腰かけた。




「うふふふ、私の魔力で果物の熟成を三日分早めました」

ルシアがドヤ顔で胸を張る。


「スープの塩加減、調整したのは私です。人間の味覚も意識して。うん、味見というのは面白いですね、非常に興味深い感覚でした」

ベアトリスが眼鏡を上げながら小さく主張する。


「俺は肉を焼いた。中はジューシーだ。香りを確認しろ」

エドガーはやたら真剣な顔でベーコンを差し出してくる。




「えっと、ありがとう……」


セラフィーナはそっとベーコンを受け取ったが、三人の霊の視線が熱すぎて、緊張する。

一口、パクリと口に入れた。



「……おいしい!」



とたんに霊たちが一斉にガッツポーズを取った。


「よしっ!」

「やったー!」

「よかった!」

「成功ですね!」


最後にマリーも交じっていた気がする。


こうしてセラフィーナとヴァル、そして霊たちの不思議な生活が幕を開けた。





ヴァルがクロードの屋敷にやってきて数日が経った。


ルシアたちのような実体になった霊たちが使用人となったこと。それに加えて、ヴァルの使う不可思議な力によって、屋敷は王宮と見まごうほどの美麗な建築物となっていた。


ヴァルは霊が見えるだけでなく、霊を魅了することができるようだ。といっても、魔術の類ではなく、単にヴァルの美貌に霊たちがほだされているといってもいい。

見目がよいだけでなく、ヴァルは気遣いができて優しい。

ヴァルの前では人間も霊もそれほど大差がないのかもしれない。とにかく皆、この美丈夫が好きなのだ。


昼間でも薄暗く埃っぽかった屋敷はぴかぴかに磨き上げられ、高原のような清浄な空気が満ちている。

霊たちは清らかな空気が苦手かと思ったが、実体をもったことで彼らは快適さも感じられるようになったらしい。

今では率先して掃除に取り掛かってくれる。


セラフィーナの部屋も同様だ。

足の壊れたベッドのかわりに、がっしりとした樫の木で作られた寝台が置かれ、ふかふかの真っ白いまくらや布団が詰め込まれていた。

これでも質素になったほうだと言っていい。

何せ、ベアトリスが用意してくれたものといえば、最初は金ぴかの天蓋付きベッドだったのだ。

王族でももう少し落ち着いたデザインなのではないだろうか。それはさすがに自分にはそぐわない。寝るたびに舞踏会の中央に置き去りにされたような夢を見そうだと嘆願して、ようやく今の形に落ち着いた。



クリーム色の壁に沿うようにして置かれた機織り機にセラフィーナは腰かけて、月布を織っていた。


普段と違うのは一点だけ。

目の前の円形テーブルに頬杖をついた美丈夫が鼻歌を歌いながら楽し気に座っていることだった。


非常に落ち着かない。


セラフィーナは意を決して口を開いた。


「あっ、あの……ヴァル」

「なんだ?」

「見られていると、どうにも落ち着かない、です」

「あれ~?」


にやにやと笑っているヴァルから、セラフィーナはぐぐぐと視線を逸らした。

さっきから、丁寧に喋ったら至近距離で見つめられるという謎の拷問を受けている。

このままではまずい気がする。

セラフィーナは素直に言い直した。


「っ……落ち着かない、わ」

「気にしないで」

「気になるのよ……」

「その辺りの石ころだと思えばいいさ」


百歩譲って石ころだとしても、それが磨き上げられた宝石であれば誰もが目をとめるのではないか。

セラフィーナは口をへの字に曲げた。


この人は自分の魅力を全て熟知していて、その上でこうしているのじゃないか? いや、そうにちがいなかった。


ただでさえ貴族の男たちは、クロードの魔女と聞けば薄気味悪がって寄ってこない。

セラフィーナの父も、人身御供のようにいやいや結婚させられたと人づてに聞く。


愛のない結婚。

それでも血筋を途絶えさせないために、母は選んだのだ。

そしてセラフィーナが生まれた。

母が教えてくれた月布の織り方をもう一度脳裏で反復する。

清廉な気を込めて、一段ずつ慎重に進んでいく。


ヴァルは興味深そうに、葡萄色の瞳をらんらんと光らせて、セラフィーナの織る月布をじっと間近で見上げていた。


「器用なものだなあ。まるで本当に月の光を集めたようだ」



ーーやりにくい。


壊してはならない国宝が傍にあるようで本当に落ち着かない。人間ばなれしている人間は、霊よりも厄介だ。

セラフィーナが涙目になっていると、ヴァルが言った。


「一つ、思ったんだけど。これは霊の動きを封じる布なんだよね?」

「ええ、そう。この世を離れた霊たちが、表に出て来られないように……それが何か?」

「つまりは霊の動きを抑えるっていうことだ」

「ええ、そうよ」

「霊に効くなら――吸血鬼にも効くもの?」

「いえ、それは……どうかしら」


ヴァルはいたずらっぽく目を細めた。


「試してみてくれないかな」

「えっ!?」

「セラフィーナは吸血鬼に襲われる哀れな娘。そして僕が極悪非道の化け物」

「そんな、いきなり」

「さあ、いくぞー」

「えっ、ちょっ、まっ!」


ヴァルは、がう、と獣の真似をしておどけてみせる。

葡萄色の目がニッと細められて、悪戯っぽい表情になる。


「ほら、気を付けないと血を吸われるよ」

「キャアッ!」


セラフィーナは焦って、ばさり、と手元にあった月布をヴァルの頭から被せた。


人型の布の塊がギュッとセラフィーナに覆いかぶさるように抱き着いてきた。


思わず押し返そうとするけれど、胸板は厚く全く動かない。


バサッと月布がとられて、ヴァルの端正な顔が露わになった。


「ヒッ……」


アメジストを思わせる透明感のある紫の瞳。

怪しく揺らめく色気のある睫毛の下から、じっとこちらを見つめてくる視線。

あまりにも整い過ぎた顔面に真正面からのぞき込まれたセラフィーナは、ときめきや緊張を通り越して硬直していた。


(ふ、ふわあああぁ!)


裾が銀色の黒髪は乱れて、白い頬にかげって何とも言えない色気を醸し出している。赤い唇は人形のようで、男のものというより人間離れしている。


短い髭も生えていないようなつるりとした肌のせいだろうか。

美し過ぎる生命体が、いっそ恐ろしい。


頭を抱き込まれるようにして、男の人のしっかりした掌の大きさや腕の力の強さを否が応でも実感する。

ふわ、と首筋にヴァルの息がかかった。

顔中に全身の血液が集まっていくようだ。




(む、無理……もう勘弁してください……)




このまま噛まれるとしても、どうでもいいかもしれない。

そうすればヴァルの顔を見ないで済む。

こんなに破裂しそうな自分の心臓を持て余さなくても良くなる。

いっそそんなことを思ってしまうくらい、セラフィーナの鼓動はどくんどくんと高鳴っていた。


好きだとか嫌いだとかいう話ではなく、これは恐怖と緊張に近い何かだった。


もう少しで首に唇が触れそうになって、セラフィーナはぎゅっと目をつむった。

ヴァルがふっと笑う。


「だめだね。月布は吸血鬼には効かないみたいだ」

「……えっ」


ヴァルは身をひいて、セラフィーナの頭にポンッと優しく触れた。


「ごめん、悪かったよ。そんなに震えさせて」

「え、いや、いえ……」

「怖かった?」


しょぼん、と眉を下げて本気で心配している姿がどこか滑稽だ。


「あっ、いや! 怖いは怖いんですけど、それだけじゃなくて、あの」


セラフィーナは正直に告げることにした。






「ヴァルが綺麗過ぎて、緊張してしまったというか……」



ヴァルは一瞬キョトンと目を見開いて、それから安堵したように破顔した。




「吸血鬼は人間をたぶらかせるために、美男美女が多いみたいだ。僕もそうなんだろうね。王宮にいたときも熱心なご令嬢やら悪趣味な貴族やらにたくさん追いかけられたから」




にやり、と笑って、ヴァルは声を低めた。




「気を付けないと本当に噛まれるかもしれないよ?」





セラフィーナは眉をひそめた。

笑えない冗談だ。



「ヴァルはそんなことはしないわ」


「どうだろう? 分からないよ」




不思議と今回は意識もはっきりとしていた。

あやしい色気への耐性がついたのかもしれない。

セラフィーナはきっぱりと言った。


「ないわ。ヴァルは人間だもの」


「セラフィ―ナ、聞いてなかったの? 僕は半分」


「半分とか、そういうことじゃなくて……」



セラフィーナは、ぽつぽつと気持ちを言葉にした。


「あなたはこうして私たちと暮らしてくれていて、雨漏りの屋根だって、壊れた井戸だって直してくれた」


「それは僕がやったわけじゃない。僕は霊に頼んだだけだ。ルシアたちが――」


「だとしても、そう祈ったのだとしたら、ヴァルは優しい人だわ。そんなあなたがいきなり人に噛みつくなんてことしない。ね?」



ヴァルはあっけにとられたように口をぽかんと開けた。

が、すぐに調子を取り戻して、にっこり微笑んだ。




「――その信頼を裏切らないように努力するよ」



しかし、パッと立ち上がってヴァルはセラフィーナに背を向けた。


「あー……セラフィーナ、少し窓を開けていい? 君が月布を織るのをもう少し見ていたいんだけど、この部屋少し暑いみたいだ」



その日からヴァルは少しずつ、セラフィーナのために不思議な力を使うようになった。


屋敷に豪奢な骨董品を置いたり、霊たちに命じて不思議な仕掛けを作ったりもしたが、動物の形の小さなカップケーキを作ったり、ゆりいすに毎日色の変わるクッションを置いたりするようになった。






昼下がりの湿った風が、屋敷のステンドグラスを軋ませた。

今日は霧が濃い。


突然始まったヴァルとの生活は案外に快適だった。

屋敷自体の手入れがされるようになったのもあるが、家に自分以外の人間がいるのは素直に面白かった。


ごはんも一人で食べるより、二人の方がおいしい。

何より起きてきて、おはようと言えることが幸せだった。

日常のあらゆる生活体験に意味があるような気がした。

使用人のマリーも仲間が増えて楽しそうだ。


セラフィーナはぐぐっと伸びをした。

今日は久々に仕事も休みだ。


すると、屋敷の裏口から忘れていた声が聞こえた。



「セラフィーナ? いるんでしょう! 早く返事をして!」



ぎくり、と固まる。

継母のヴェロニカだ。


マリーが何か叫んでいる声がした。

このままだとマリーが怪我をするかもしれない。


セラフィーナはすぐに裏口に駆けつけた。


ヴェロニカは灰色のドレスの裾を引きずりながら館に足を踏み入れた。色は地味だが透けるようなレースから胸の谷間が見え、大粒の宝石のネックレスや指輪が光っている。

顔に貼りついた笑みは冷たく、背後には強欲そうな商人風の男が二人、宝石箱を持つ準備万端といった様子で立っていた。


「マリー、下がって」

「しかし、お嬢様!」

「いいの」


セラフィーナは一歩退き、唇を引き結んだ。


「ご用件は何でしょう」

「お父様からうかがったのよ。納棺室にも立派な銀の彫刻があるらしいわねえ」


セラフィーナの顔から血の気がひいた。

さすがに、許せない。


「それは……! 祈りのために必要な聖壇で」

「死体が何だっていうの? 木で十分よ。宝石なんてあなたには分不相応でしょう? エメラルドの指輪も、黒真珠のネックレスも。すべてこのあたしにふさわしいわ」


「宝石は差し上げます。でも、聖壇だけは……」

「あんたの意思なんてどうでもいいのよ! っていうか羽振りがいいのね。前よりずいぶん派手になってるじゃない! 驚いた、あんた誰にかわいがってもらってるの?」


あけすけな言い方にセラフィーナはかっとなった。


「そんな言い方はおやめください! 父もあなたもあまりにも酷いです。クロードの家を汚さないで」


「はっは! 聞いた? クロードの家にキレイな場所なんてあるのかしらぁ? こんなところ近づきたくなかったけれど、しぶしぶ来てやってるのよ。さ、あんたたち、手早くね」


「やめて!」



その時だった。



屋敷の空気が一変した。

冷たい風が吹き抜けたようだ。

きらきらと光っていたような屋敷の内部は、室内だというのに暗雲がたちこめたようだ。


ヴェロニカの影がぐにゃりと歪んだ。


「……え? なによこれ?」


ヴェロニカの笑顔がひきつる。

後ろにいた男たちも、急に震え出した。壁の絵画は不気味な首無し男になっている。よく見れば、男たちの服装と同じだ。

床板の隙間からは、骨ばった手がのろのろと這い出し、階段の手すりは蛇のようにうねり始めている。


そして長い黒髪を乱しながら、ヴァルが現れた。

だが今の彼は、ぞっとするほど妖しく、そして禍々しいほどに美しかった。それがいっそうこの世の者とは思えない不気味さを付与していた。


取り乱したヴェロニカが叫ぶ。


「……な、何よ!」


「私は、『死者の館に住まう番人』だ」


彼が指を鳴らすと、館の奥から棺がずるずると引きずられてきた。霊たちが引きずっているのだが、ヴェロニカには見えていないのだろう。


(ヴァル、ちょっと楽しんでない!?)


いつもよりも低音でものものしく喋っている気がする。

「強欲な者には、冥府からの祝福を与えよう。気に入らぬなら去れ。そうでなければ――」


ふいに、館の壁が軋んだ。

まるで生き物のように、蠢く。

ヴェロニカが真っ赤な顔で悲鳴をあげた瞬間、床が波打った。館の赤絨毯は口のようにパックリと裂けて、彼女のハイヒールを呑み込む。


「きゃああっ! なにこれ! なにこれぇぇえ!!」


セラフィーナは立ち尽くしていた。屋敷のあちこちから顔を覗かせるのは、この世のものではない小さな霊たち。


だが彼らは恐怖を撒き散らすというよりも、どこか嬉々としているように見える。

主の命で、演技を楽しんでいるような──。


「……ヴァル?」


かすれた声で呼びかけると、階段の上からゆっくりと降りてくる足音が響いた。


現れたのは、絹のように滑らかな黒髪をなびかせ、緋色のローブを纏った王子、ヴァレンティウス。

皮肉な笑みをその唇に浮かべて、彼は言った。



「よくも我が主を売り物のように値踏みしてくれたね、継母殿。礼をしないといけないかな」


「何ですってぇ!?」


ヴェロニカは、口を開けたまま硬直した。


「勝手にそんなこと──」


「勝手ではないよ。彼女は僕に命をくれた。魂を喚び戻してくれた……この世で、僕を最も深く知る人だ」


 ヴァルは階段を下りきり、セラフィーナのそばに立つ。その指先が、そっと彼女の手に触れる。冷たく、けれど確かな温もりを帯びた手だった。


「この館に、貪欲な者の居場所はない。さあ、消えてくれ」


彼の囁きとともに、風が唸り、窓が一斉に開く。外は黒雲が渦巻き、死者たちの行進が始まったかのような騒めきが吹き込んできた。

その実は小さな霊たちが一生懸命、せーの、よいしょっと窓を押し開けている。

小さな霊に顔はないが、表情があるならばおそらくどや顔をしているだろう。いっそ微笑ましい。

セラフィーナはよくできましたと言いながら拍手をしたくなった。


が、見えていない人間には見えていないのだ。


「いやあああああっ!!」


ヴェロニカは絶叫し、転びながら玄関へと逃げ出す。


「ま、待ってください、奥様!」

「キャアアァァァ!」


ヴェロニカの顔は真っ青で、宝石どころか持っていたハンドバッグまで落として、悲鳴と共に走って逃げ出した。

後を顔色を変えた男たちが走って追いかける。


その背を見送り、館の影はゆっくりと元の静けさを取り戻していく。

ただ一つ違っていたのはセラフィーナの手を握るヴァルの手が、離れようとしなかったことだ。


「……お化け屋敷なんて、やりすぎよ」


小声でセラフィーナが言うと、彼は彼女の耳元でささやいた。


「君を傷つける者には、もっとやりすぎても足りないくらいさ」


その言葉に、セラフィーナは顔を真っ赤に染めた。

静けさが戻ると、ヴァルはぱちんと指を鳴らして全てを元に戻した。霊が撤収作業を始める。


「やぁやぁ、みんなお疲れ様」


ヴァルの声と共に、太陽が窓から差し込む。

霊たちはサササッと消えていった。


「ふぅ。少し派手すぎたかな?」

「ヴァル。助けてくれたことにはお礼を言うわ。でも」


これじゃあ、あなたが悪者になってしまう――。


「気にしないで」

とヴァルは言った。

「僕は君の忠実な従者だよ、セラフィーナ」


そして蜜がにじむような甘い微笑を浮かべた。

歯の浮くようなセリフはともかく、助けてくれたことは単純にありがたかった。

これで、もう継母も屋敷に近づかないだろう。




その頃、馬車は泥道に車輪をきしませながら、王都へ向かっていた。粉で厚塗りをしたヴェロニカの白い顔には怯えと怒りが入り混じっている。


「あの娘はおかしいわ。死体を触って育ってきたから、頭がおかしくなってるのね! 私を攻撃するなんて……今に見てなさい!」


ヴェロニカの馬車は王宮の諮問館に入った。

そして、小一時間後、涙ながらに訴えるヴェロニカの姿があった。


「私の再婚したクロード家の娘が魔女に堕ちました。館は恐ろしい呪術の巣。私の命も狙われました! 放っておけば王都全体が呪われます! どうか退治を! 魔女を退治してください」



その訴えに、老いた神官は深くうなずいた。

他人を呪い殺す魔女の罪は、火刑に値する。

それに、魔女を取り締まれば自分の手柄にもなるはずだ。

神官は羊皮紙にペンを走らせた。



セラフィーナ・クロードは異端の魔女である可能性がある――。






かくして、数日後。



黒鉄の甲冑に身を包んだ王宮直属の異端審問騎士団が、クロード家の屋敷の前に馬列を連ねた。


セラフィーナは、窓辺からその光景を見下ろしていた。

重苦しい鐘の音。

突き立つ十字旗。

魔女としてセラフィーナを捕えようということらしい。


「……魔女だって?」


ヴァルの表情は氷のように冷たかった。


「くだらないことを」

ヴァルは吐き捨てた。

「お化け屋敷じゃ足りなかったか!」


セラフィーナは首を横に振った。

多勢に

「ヴァル、あなたはここにいてね。分かってるわ。王宮で殺されかかってるあなたが……ここで顔を見られたらまずいことくらい、いくら鈍い私にもわかる」


玄関に立った聖槍の隊長は、鋼の面頬の奥から低く告げた。


「クロードの娘、セラフィーナ殿に告ぐ。汝は王国法第九章『他を呪うことに関する罪』により、魔女の嫌疑をかけられている。自ら進んで同行し、潔白を証明されたし」


それは同行などという穏やかなものではなかった。

従わねば、力尽くで連行するという意味だ。


魔女として連れ去られた者はほぼ必ず処刑されるか、身分を落とされる。潔白とされた者は、数人いるかどうかだ。

いるとしたら王の前で許されるくらいの恩赦を受けなければならない。そんなことは到底、辺境貴族には不可能だ。


「誤解です」


セラフィーナの声が震える。

だがその肩に、後ろから静かに手が置かれた。


「行く必要はない」


その瞬間、空気が張り詰めた。

屋敷の内部がゆっくりと、再び異様な気配を帯び始める。

セラフィ―ナは口を押えた。


「だめ、ヴァル。出てきちゃだめよ!」

「もう遅いよ。それに」


ヴァルは声を低めた。


「フィーが連れ去られるのを黙って見ているなら、死んだ方がましだ」


兵士が敵意をこめた目で言った。


「貴様、何者だ」

「名を名乗る気はない。が──これは私の婚約者だ。指一本触れてみろ。その瞬間、そなたの魂はこの地に還れぬぞ」


静かに、ヴァルの眼差しが深紅に染まる。



「だめ!」

セラフィーナは叫んだ。

もしも王都の兵士たちを本当に攻撃してしまえば、今度こそ逆賊になってしまう。

「だめ! ヴァル! 殺しちゃだめ!」


せっかくヴァルは自由になれたのにーー。



銀の剣が抜かれ、騎士たちが屋敷へなだれ込む。

ヴァレンティウスは、ただ静かに手を上げた。その掌から、闇が薄く漏れ出す。


「……手荒なことはしたくない。だが、彼女を連れて行くというなら、君たちが先に絶望を知ることになる」


その声は冷え切っていた。


が、殺意はなかった。

黒い霧が地を這い、騎士たちの脚を絡め取る。踏み込もうとした騎士の剣がふわりと宙を舞い、意志を持ったように彼の背後に落ちた。


「……なに、動かない……!」


「身体が……重い……っ!」


ヴァルの魔力は、彼らの命を奪うことはなかった。だが、それだけで十分だった。動けば動くほど錯覚の深みに嵌り、剣が己を裏切る幻を見せる──。


「あ、あれは! ヴァレンティウス様!」



ばれてしまった。

セラフィーナは苦々しく眉を寄せ、目をつむった。


「王太子様の兄であられる……? いやヴァレンティウス様は……お亡くなりになったはずだ」


「偽物め!」


ひとりの騎士が叫ぶ。

その剣の切っ先が、ヴァルの胸元を狙う。


「いや、待て、死者を蘇らせたのは──魔女! やはり魔女なのだッ!」


「ヴァレンティウス様は操られているに違いない! 正気ではないのだ!」


「消えろ! 偽物めッ!!」



怒号とともに鋼の閃きが奔る。

ヴァルは諦めたように手を開いていた。




まさか──殺すなと言ったから。





斬られる覚悟で?





セラフィーナの体は勝手に動いていた。





「危ないッ!!」


ヴァルを庇うように飛び込んだ。


 剣は、彼女の肩口を裂いた。


「──っ!」


赤い血が飛び散る。小柄な身体がヴァルの胸に倒れかかり、その場に崩れる。


「セラ……フィーナ?」


ヴァルの声が、震えた。まるで、知らぬ間に心臓を奪われたことに気づいた少年のように。


「なぜ……庇った」


問いに答えるより先に、セラフィーナの意識が薄れていく。だが、微かに囁いた言葉だけが、耳朶に残った。


「あなたが……人を……傷つけないようにって……」


その瞬間、ヴァルの背後の空気が凍りついた。

人ならざる力が暴発する。

夜そのもののような闇が広がる。

死者の息吹のような殺気が辺り一面に渦巻いた。


「うわああっ!」


まがまがしい空気に逃げ出す者があらわれた。

その場にへたりこむ者。

硬直して泣き出す者。

人間の闘志など、人間ならざる力の前では何の役にも立たないということを思い知らされる。

兵士たちは圧倒的な恐怖の前で立ちすくんだ。

自分たちは手を出してはいけない物に手を出してしまったのではないだろうか?


「ヴァル、待って」

「どうして?」


ヴァルの目が赤く光る。


誰か、誰か来て欲しい。

死者でも生者でもいい。



(このままじゃ、ヴァルが……)




この美しくて可哀そうな吸血鬼を、止めてくれるなら――。














「やめてください」


後ろから降って来たのは、抑揚の無いヴァリトンヴォイスだった。




「怒りに任せれば、本当に『怪物』になってしまいますよ」





その声が、光とともに現れる。


白い羽音。

空から降りてきた一羽の白鳩が、ヴァルの前に舞い降りる。

そして、その白鳩のあとを追うように、男が現れた。

背後には馬にまたがった一団がいる。


先頭にいたのは、銀金の鎧に身を包んだ男だった。

その姿に騎士たちが一斉に跪く。




「ダレイオス王太子殿下ッ……!」




王太子と呼ばれた男は馬を降り、真っ直ぐにヴァルを見据えた。


「……間に合ってよかった」


彼はゆっくりと手を上げる。

そして朗々と響く声で言った。



「剣を下ろせ。誰もそれ以上、彼に触れるな」

「ですが殿下、この者は──!」

「違う……良く似ているが、その男は、我が兄ではない」


ヴァルが、目を見開く。

王太子は、静かに言い放った。


「我が兄ヴァレンティウスは、死んだのだ。これは王家の決定であり、真実である」



「あ、兄?」


血に濡れた肩を押さえながら、セラフィーナはよろめいた。気付けばヴァルの腕の中にいた。


「ヴァルはあの……王太子様のお兄さんってこと!?」


「なぜか男児が生まれなくてね……今のところは彼が第一王子だよ。僕はその前の『なかったことにしたい』過去の子ってわけだ。まあ、ダリオンはなぜか僕のことを慕ってくれているんだけど……」



その瞬間、セラフィーナは腑に落ちた。


銀の鎧。艶のない黒髪。気取った態度もなければ、王族に仕える騎士としての愛想すら感じさせない。

まるでいつも機嫌が悪いかのような、眉間のしわ。


「あぁっ……!? 道ならぬ恋の不愛想な騎士……?」


その声に、騎士の目が動く。周囲には気づかれぬほど、ほんのわずかに。


ヴァルからまがまがしい気が抜けていく。

屋敷がもとに戻っていく。


騎士風の男は、王太子だったのだ。

次期国王。


(わ、私、次期国王様の首をッ……!)


グエッというヒキガエルのような声を思い出し、セラフィーナは全身に鳥肌をたてた。



「頭が高い! 控えよ! 王太子殿下の前であるぞ!」

「よい。娘よ、『勘違い』でずいぶん迷惑をかけたな。これは詫びだ。持っておけ」


袋の中にはセラフィ―ナが一生かかっても使い切れない金貨が入っていた。

また意識が飛びそうになる。


「しかし、殿下、この男は――」

「腹違いの我が兄は吸血鬼の血を引いていたという。伝説の生き物はこの世ならざるほど美しいのだと、母から聞いた。クロードの屋敷では不可思議なことが起こるという。代々、御霊送りをしているクロードの娘が、何かを使役していたとしてもおかしくはない」

「で、ですが……」

「見ろ、娘をしっかり抱いている。あの忠義は使用人の鏡だ。我が兄は享楽的で利己的で、それゆえに誰よりも貴族らしかった。あのような忠義を尽くす男ではない」


セラフィーナを抱き留めているヴァルが微かに揺れた。

本人なりに何か思うところがあったのかもしれない。

王太子は朗々と宣言した。


「良いか、これではっきりした! 魔女はおらん。この娘の肩から流れ出したのは赤い血だ。魔女の血は青いので焼かねばならんが、この女は人間だ。そしてヴァレンティウスは殺された。この男はよく見ればーー我が兄にほんの少ぉしだけ似ているが――全くの別人だ」


そして、と王太子は付け加えた。


「この女が魔女であるという訴えをしたヴェロニカという女、先ほどクロード伯爵への毒殺容疑で逮捕された。そのような犯罪者の訴えは真理ではない。悪魔はヴェロニカの方だったのだ。この娘は父親を殺されかけただけの、哀れな辺境の領主である」






引き上げる準備をしはじめた男たちの、カチャカチャという蹄鉄の音の中で、男はセラフィーナだけに聞こえる声でそっと耳打ちした。




「焼いて食ったんじゃないかと思ったぞ」

「なっ!? いくら好きでもさすがにそんなこと」

「鳩のことだ。早く返せ」




そういえば、とセラフィーナは思い至った。

いろいろと終わったら鳩を送り返せと言われたが、すっかり忘れていた。


マリーが鳥かごをもって走り出てきた。

丁寧に世話をされていた鳩は飛ぶことを忘れ、幸せそうにまるまると太っていた。

心なしか、預かったときよりも毛艶が良い。

護衛が預かった白鳩を馬に乗せる。

王太子は複雑そうな顔をしたが何も言わなかった。

兵士たちは何事も無かったように帰っていった。

全く人騒がせにもほどがある。


ルシアたちが、もつれあって転びながら乾いた布と薬を持ってきた。マリーが村に医者を呼びに走っていく。

霊でも傷は治せないらしい。


セラフィーナは布を傷口に押し当てながら、ヴァルに微笑みかけた。


「はぁ、ごめんねヴァル。あなたが怒ってくれてうれしかった。だけどもう、こんなに危ないことはやめてね。あなたが誰も傷つけたくないって分かるから……それにしても王太子殿下って本当に鳩がお好きなのね。あら? どうしたの? 顔が真っ赤。熱でもあるの?」




「フィー、さっき自分が何て言ったか覚えてる?」


「え? 王太子殿下って本当に鳩が」

「それはどうでもいいよ」



目前に、花にそのまま心臓を入れたような美貌が迫る。

セラフィーナは肩の痛みも忘れて、息をのんだ。



「いくら好きでも、って聞こえた気がするんだけど」


「えっ? あ、いや、えーと、それは、気のせいじゃ」


「フィーに言ってなかったけど、僕は特異体質でね。目と耳が異常にいいんだ。それで、僕も君に言ってなかったことがあるのを思い出したよ」




免疫なんてついてなかった。

つくわけがない。


こんなに毎度毎度、セラフィーナの心臓をわしづかむような人間離れした男と、どれだけ一緒にいたって馴染むなんてことはないのだ。

いや、何十年か経ったら変わるのだろうか。


甘く、そして嫌な予感にセラフィーナは泣きそうになる。


「どっちがいい?」

「どっちって……」




「君にキスするのが先か、好きって言うのが先かだよ」


「なっ……!」


「その前に手当てしないとね」






美貌の吸血鬼は血のように紅い唇を綻ばせ、満足そうに微笑んでいた。





「君の血は僕の心臓に悪すぎるよ」




END

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