初日の出とヴァンパイア
1.
一九九九年十二月三十一日──西暦の頭が二に切り替わる人類史に残る大晦日は、世界中の人たちにとってまさしく、千年に一度のお祭りの日だ。日本でも各都市にたくさんの人たちが集まり、大規模なカウントダウンなんかを行うらしい。
「今年も家で寿司食べよっか。あ、でもせっかくだからカウントダウンとか行ってみる?」
先月末、そう言った僕に曖昧な返事をした恵理は、目線を下げてティースプーンでミルクティーをくるくる回していた。何か考えているんだろう深刻な表情で、体調でも悪いのかと声をかけようとしたその時、恵理はまっすぐ僕を見つめて
「別れてほしい」
恵理らしく、この上なくシンプルにそう言った。
あなたがいないと生きていけないとか、もう二度と恋なんてしないとか、そういった文句はこれまでの人生でたくさん耳にしてきた。正直鼻で笑っていたというのが本当のところだけど、自分の身に降りかかってくるとこんなにも辛いのか。ごめんなさい。わかってなかった。でも、僕だってけっこう可哀想じゃないか。
一人きりで年末を過ごすのは生まれて初めてだった。ましてやそれが千年に一度の日だなんて。高校までは家族と、大学の一人暮らしからは友達と、去年は恵理と過ごした。
「今年も彼女と過ごすんでしょ?」
楽しそうに冷やかす姉に本当のことを言えず、
「そろそろ元気出せよ」
と言葉をかけてくれる友達の誘いに乗らなかった。姉にも、友達にも、お祭り騒ぎの世間にも理不尽に腹が立った。今の僕には東京という街、日本全土、いや、世界中が恨めしかった。
朝から何も食べていないのにぜんぜんお腹が空かなかった。何度も読んだ漫画本から時計に目を移すと、年越しまでもうすぐだった。世界中が最も浮かれるだろう瞬間、恵理と一緒に過ごせるとばかり信じていた時が近寄ってくる。僕はこのまま家に籠っているのが嫌になった。情けないことに、やっぱり一人が寂しいみたいだ。部屋着のまま、せめて下だけはジーンズに履き替えてクローゼットを開けると、恵理が去年のクリスマスにプレゼントしてくれた赤いダッフルコートが目に入った。一度は捨てようと思ったものに袖を通して、僕は街へ出た。
「こんなところで寝ちゃダメですよ」
僕の右頬がぱちぱちなって、少し遅れて衝撃が来た。ゆっくりまぶたが開いていく。ぼんやり白くまぶしくて、懐かしい感覚がする。小学校の林間学校、初めての硬い床に落ち着かなかった夜を思い出した。そこでぐっと身体が重くなって、少し頭が痛くなった。白い光、頭から足の先まで感じる硬く冷たい木の感触に、冷たい空気──どうやら外で眠ってしまったみたいだ。
「大丈夫ですか?」
再び声がして、僕はゆっくり身体を動かした。左肩が硬い木の板にあたる。僕はベンチの上に寝ていたのだ。背もたれに身体を預けたまま、地面に足をつけて声の方へ顔をあげた。黒のセーターに紺色のジーンズ、ベージュのトレンチコートに身を包んだショートカットの女の子がそこにいた。
「大丈夫です」
とりあえずそう言って女の子の表情を伺うと、間抜けな僕の様子を面白がるように頬を緩めていた。でも、それは嘲笑しているような感じの悪いものではなくて、落ち着いた低い声質がそうさせるのか、僕とほぼ同い年くらいなのに母性のようなものすら感じられた。
「お酒、何本飲んだんですか?」
女の子が指さすベンチの上、さっきまでの僕の頭の上を見てみると、ビニール袋と空になったビールのロング缶が二本、そして飲みかけだったらしいもう一本が土の上にあった。思い出した。街に出たのは良いものの、一人でどこにも入ることもできず、結局コンビニで慣れない酒を買って公園に逃げたんだった。
「最悪じゃん」
心の声がそのまま出てしまった。
「何やってんだろ、ほんと」
僕の口は止まってくれない。
そうしている間に女の子は、僕がちらかしたカンカンなんかをビニール袋に片してくれた。僕はそれでようやく、まずやるべきだったことを思い出した。
「すいません。ありがとうございます」
立ち上がって頭を下げる。ここいちばんの情けなさと申し訳なさ、自己嫌悪に忙しくなる。十秒くらいそのままの体勢でいると、クスッと柔らかい音がして、僕はゆっくり頭を上げた。
「どういたしまして」
黒髪にまん丸の瞳、小さな口は緩んでいた。真っ白で中性的な顔立ちは人形のように整っていて、僕はその美しさにびっくりした。
2.
「本当にごめんね、こんな夜なのに」
どちらからともなく二人でカンカンを捨てに行って、ベンチに戻ってきた。申し訳なさが恥ずかしさに変わっていく。隣の顔を伺おうにも、汚れたスニーカーのつま先を見つめることしかできない。
「気にしないで。困った時は助け合いってやつだよ。それにたいしたことしてない。ただ、もしよかったら代わりに聴かせてほしいな。どうしてこんなところで寝てたの?」
僕はようやく目線を上げた。美人さんは微笑んで首をかしげている。興味を持つものだろうかと思いかけたけど、思い直した。こんな時に一人で酔いつぶれている大学生なんて、確かにそういないかもしれない。そしてそんな僕にかまってくれるこの女の子も変わっている。ここまでの美人なのにどうしてなんだろう。
「ヤケ酒っていうんだろうね。よくある話──彼女にフラたのがこういう日に大きく膨らんで──お酒飲んだら何とかなるかなって」
「それで酔いつぶれちゃったんだ。大変だったね」
女の子は僕の目を見てそう言ってくれた。
そう言ってくれて分かった。
気にするなって。
お前は悪くない。
もっと良い人がいるよ。
そんなのすぐ忘れるって。
身勝手だけど、そうじゃなくて、僕はずっと「大変だったね」って、ただ一言そう言ってほしかったみたいだ。
「あああー」
情けない声が漏れる。
「フラれたくらいでやかましいのはわかってるんだよなあ。わかってるけど、どうしようもできないから。そんな簡単に切り替えられないもん。仕方ないじゃん」
頭の中から少しも濾さなかった、そのままの言葉が飛び出してしまった。でも。それで少しすっきりした。頭の中で文字を並べるより、こうして声として外に出すほうが良いみたいだ。
「そんなに好きだったんだ」
「好きだった。大好きだった。ていうか今だって好きだし。それしか考えらんないよ」
馬鹿みたいなことを言うのは、予想と違って気持ちが良かった。
「素敵な人なんだね、その人──でもそんなに想ってるあなたも素敵だよ。大好きだって言っちゃえるんだからさ。なんで別れたとか聞いちゃってもいいかな」
他の人だったら聴かれると嫌だったけど、このコの場合はそうじゃなかった。むしろ聴いてもらいたかった。
「もっと好きな人ができたんだって。悲しいし腹立たしいけど、はっきり言われちゃったらもうどうしようもできないし。僕よりカッコいいし。僕、つまらない彼氏だったと思うし。挙句の果てにこんなだし。君にも迷惑かけてるし」
いつも恵理の顔色を窺っていた。恵理に嫌われたくなかった。笑顔でいてほしかった。僕はただそれだけの男で、一人でどこにも行けず、ビール三缶でベンチに倒れるようなしょうもない男だったのだ。
「そっか、それはしんどいね。うん、悲しかったよね。でももったいないね、その相手も。あなた、けっこう美男子だし、人のこと大好きって言えるなんて素敵だよ。それに迷惑じゃないよ。起こしただけだし。今こうして話してて楽しいし」
あまりに優しくて嬉しくて、嬉しすぎて恥ずかしくなって、同時に僕は良い意味で腹が立った。そんなに歳も変わらなさそうなのにその器量──女の子は大人になるのが早いとは言うけど、ここまで僕を受け入れてくれる君は何なんだ、と。
「ありがとう。ありがとうだけどさ、君、何なの。なんでこんなとこにいたの?」
女の子はふふっと笑った。
「名前、教えてよ。教えてくれたら教えてあげる」
「結城しげる」
「ゆうきくん──しげるくんか、いい名前だね。私はハルコって言うの。天気の晴れと子供の子で晴子。私も同じだよ、一九〇〇年代の最後にひとりぼっちだったわけ。だから同じだね」
晴子はまた笑った。
名前を知ると、僕は名前だけでは満足出来なくなって、晴子のことをもっと知りたいと思った。
「同じじゃないよ。僕は最悪じゃん。彼女にフラれて一人で飲んだくれて──公園で潰れて女の子に笑われてたんだよ。世間はみんな盛り上がってるのにさ」
そこまで言って僕は、今日が一九九九年十二月三十一日だったことを改めて思い出した。それで左手首のジーショックを光らせると──なんともう二〇〇〇年になっていた。話している間に、一九〇〇年代は終わっていたのだ。僕は思わず声を出してしまった。
「ノストラダムスの言ったこと、真に受けなくて良かったみたいね」
僕の様子で新年の到来を見てとったらしい晴子はぐーっと身体を伸ばした。
「そっか、もう二〇〇〇年なのね。早かったようにも遅かったようにも感じるな」
そう言って感慨深げにうんうんと頷いている。その様子が、僕が成人した時の祖母のそれとそっくりで、僕は思わず吹き出してしまった。晴子が問いかけるように見てきて、僕は頑張って笑いを収めながら言った。
「いや、だっておかしいって。僕たちまだ二十年そこそこで、たまたま移り変わりのタイミングに産まれてただけというかさ。おじさん、いや、おばさんみたいなこと言ってるなって」
まだ僕が笑っていると、晴子はおもむろにすっと、僕の目の前に立った。正面を見上げると──晴子はイタズラっぽく笑っていた。
「私、見かけはこんな感じだけど、これでけっこうお婆ちゃんなのよ」
そう言って、透き通った二つの瞳で僕をじっくり見つめている。
何を言ってるんだと思った。笑いが引っ込んだ。
お婆ちゃん──いやいや、なんなら僕より下かもしれないじゃん、と思っていると
「しげるくんだから教えてあげる。実は私、ヴァンパイアなの」
と、真正面から、そんな不真面目なことを言った。
3.
これまでの晴子の言葉たちとはあまりにも違いすぎる突拍子のない発言で、僕はどう言っていいかわからなくなった。そんな僕の困惑の表情を、晴子は楽しそうに見つめている。
「本気で自分をヴァンパイアだって言うの?」
困惑しながら僕が言うと、晴子はうんと頷く。
「だって本当だから」
瞬間、晴子の身体が大量のコウモリになって飛び散った。
僕は驚いて声も出せなかった。この瞬間まで美少女だった晴子がコウモリになった。そんなこと、僕でなくたって理解できないに違いない。でも、その羽音と全身に感じる風は、これが現実であることを僕に伝えている。
何とか立ち上がって二、三歩後ずさると、コウモリの大群はさっきまで晴子が座っていたベンチに集まって、晴子になった。さっきまでと同じようにベンチに腰かけている。戻ったのだ。そしてとなりをトントン叩いて
「座って。襲ったりしないから」
と言った。
僕は開いた口を元に戻しながら晴子を見た。この美少女は自分をヴァンパイアだという。つまりは吸血鬼だ。僕は吸血鬼を初めて見た。
「吸血鬼ってこと?」
晴子はまた頷いた。
「そうなの。わかりやすいかなーと思ってコウモリにしたの。ネズミのほうが良かったかしら」
「いや、そういうことじゃなくて」
「歯、見たい?」
大きく開いた口から見える晴子の歯は、まさしく吸血鬼そのものと言った感じで尖っていた。
「いいから座ってよ。話したいから。いいでしょ?」
晴子は脚をぶらぶらさせて僕を見ている。
吸血鬼は人の生き血を飲む。つまり僕は殺されてしまうんだろうか。いや、そうじゃないだろう。これまでに僕を襲うタイミングは山ほどあったし、わざわざこうして打ち明けているんだから、本当に話がしたいに違いない。僕も晴子と話したい。だからベンチにかけ直した。
「僕、吸血鬼初めて見た」
「ヴァンパイアって言ってよ。そっちのほうがカッコよくない?」
僕は生唾を飲み込んだ。
「ヴァンパイアって実在するの?」
「ここにいるね」
「なんで?」
「なんでって、なんでなんだろうね」
手の甲で口元を隠して笑っている晴子は人間にしか見えなかった。でも、服装があっという間に和装に変わっているのだから人間ではないらしい。ステンドグラスみたいにカラフルな、きれいな着物だった。
「江戸時代とか?」
「惜しい、明治時代だよ。明治三十四年。皇紀二五六一年。西暦で言うと一九〇一年生まれだね。二十世紀最初の年」
晴子は胸を張って僕にしたり顔を見せる。すらすらいろんな年号が出るあたり、慣れているらしい。僕は頭の中で計算した。
「つまり九十八歳ってこと?」
僕が言うと、晴子は面倒くさそうに頭を掻いた。
「そうなの、人間でも生きられる年齢だから、説明するたびに変な感じになるの。ごめんね、ヴァンパイアなら二百歳くらいにならないとね」
謝られるいわれはないけれど、確かにヴァンパイアというと何百歳かと思ってしまうかもしれない。
「どうして僕に打ち明けるの?」
「二番目の兄にそっくりだったから。それに話してみたら良い子だし。ミレニアムなんだよ、記憶に残ることしてあげたいなって」
晴子は僕に微笑みかけてくれる。晴子はほぼ百歳のおばあちゃんなのだ。だから僕みたいな若造にかまってくれているみたいだ。あるいはただの暇つぶしだろうか。それにしても明治生まれと話をするのなんて初めてだ。いや、それどころじゃない。ヴァンパイアと話をするだなんて。
「聴いてもいい?」
「何でも聴いていいよ」
僕はまた生唾を飲んだ。
「血を吸うたびに人を殺すの?」
晴子は手首をひらひら振って小さく笑った。
「殺さないよ。血だけもらえたら生きていけるから殺す必要なんてないの。首筋なんて噛まない噛まない」
人柄、いや、ヴァンパイア柄というべきか、もともと恐怖は感じていなかったが、それでも僕はほっとした。
「お母さんもヴァンパイアなの?」
「違うよ。しげるくんといっしょ、初めは人間だったの」
「なんでヴァンパイアになったの?」
晴子は少し寂しそうにほほえんだ。
「若い頃バカだったから、歳をとるのが怖くなってこうなったの」
「どうやってなったの?」
「何でも聴いていいって言ったけどそれは内緒。ごめんね」
晴子は顔の前で手を合わせた。やっぱり同年代の少女にしか見えないけど、このコは百年近く生きているし、コウモリに変身できるのだ。しかし二十世紀を駆け抜けた晴子にとってこの世紀の変わり目──いや、正確にはそれは来年なのだが──はそれ相応に大きな一日だろうに、そんな日に僕と話してるのはどうしてなんだろう。
「なんでこんなところにいたの?」
僕は本当に怪訝な顔をしていたのだろう、晴子は生徒の質問に答える小学校の先生みたいに話しだした。
「久しぶりに血を吸おうと思ってぶらぶらしてたの。ヴァンパイアって毎晩人を襲ってると思ってるでしょ? でもね、実はそういうのはあまりいないの。さっきのコウモリになったみたいに頑張るとかしないと、別に血を吸わなくていいの。でね、ヴァンパイアにとっていちばん大変なのが陽の光なんだけど、陽の光を浴びるにはやっぱり血が必要なのね。いつもなら明るい時間は寝てるんだけど、二〇〇〇年の初日の出は見たいなーと思って、久しぶりに血を頂こうと思って探してたの。そしたらあなたがここで寝てた。なんでこんなところで寝てるんだろうって。そのまま寝てる間に血を頂こうかと思ったんだけど、顔覗いたら兄様にそっくりだったから。後はヴァンパイアも人間も同じ──話したかったから話しただけ」
初めて知ることばかりだった。当たり前か。僕はやっぱり血を吸われるらしい。
4.
「怖がらないね。血を吸おうとしてたんだよ?」
晴子は首をかしげた。
僕はヴァンパイアの標的にされていたと告げられても嫌じゃなかった。僕の話を聴いてくれて、素敵だと言ってくれて、人間とかヴァンパイアとか関係なく、晴子だったなら嫌じゃなかった。
「いや、死ぬわけじゃないならっていうか、君になら血をあげても良いかなって。起こしてもらわなきゃ凍え死んでたかもしれないわけだし、ちゃんと話してくれたんだし。いろいろ、その、話聞いてくれてすっきりしたし──驚いたけど」
晴子は整った顔に子供のような笑顔を浮かべた。
「ありがとう。嬉しいわ。しげるくんの血じゃなきゃって思い始めてたから」
そう言ってベンチの上の僕の左手に手のひらを重ねた。すごく冷たくて、人間じゃないんだと本能で感じた。晴子はゆっくり僕の手を持ちあげて、口までもっていく。
「目立たないとこにするね」
そう言って手のひらにかぶりついた。一瞬、晴子の牙が白く光った。
痛くはなかった。気持ち悪くもなかった。ただ血を吸われている感覚は確かに感じた。変な感じだった。
少しして、晴子は僕の手のひらから口を放した。一滴もこぼさず、口元もきれいなものだった。
「ちょっとビールの味がした。しげるくんの血、すごく美味しかったよ。ありがとう、これでしばらく明るい時間も出歩けるわ」
晴子に噛まれたころには二つぽっかり穴が空いていたけど、血が出ていなかった。
「そのうち消えるから安心してね」
そう言って晴子は僕の手をベンチの上に戻す。
僕は指先で噛まれた跡をなぞった。消えなければいいのにと思う。今日のこれが幻ではなかったのだという記録を残したい。僕は晴子に血を吸われたのだ。
「私に血を吸われても、しげるくんはヴァンパイアにはならないから安心して。それとも、なりたかったかな?」
言われて考えてみた。どうだろう。好奇心や憧れはもちろんある。人類を超越した存在になれるなんて、みんな一度は夢想するだろう。でも、永遠に老けないというと聞こえはいいけど、人間をやめる度胸は僕には無い。晴子みたいな美人ならいいけど、僕はたいして美形でもないし、主食が血液というのも嬉しくない。
「いや、なりたくないかな。姉ちゃんにも──家族にどう説明していいかもわからないし。嫌がるに決まってるし」
僕が言うと、晴子はふふっと笑った。
「いちばんに家族が出るなんて、しげるくんは良い子だね」
良い子はやめてと言いそうになったが、晴子はお婆ちゃんなのだ。見た目に騙されてはいけない。ヴァンパイアなのだ。
「私の家族はスペインかぜと震災と、あとは戦争で死んじゃった。しげるくんを見て、兄様の生まれ変わりだったらいいなって思った。それがこうして話してるきっかけの一つなの。しげるくんは家族を大切にしてあげてね」
晴子は束の間、ものすごく幸せそうな顔をして、それから少し寂しげに微笑んだ。幸せも悲しみも、思い出としてよみがえってきたんだろう。僕がしっかり頷くと、晴子の表情はまた柔らかくなった。
「私もお酒で失敗したことあるよ。私もビール──しげるくんの血で思いだしたわ。こうなる前にね、恋人と千葉県まで遊びに行ったの──十代の頃ね。当時は世界中で戦争をやってたから、そこにドイツ人の捕虜収容所があったの。で、ドイツ人を見るためだけにそこに行ったの。今と違って外国人って珍しかったから。捕虜収容所って言ってもそこはけっこう自由でね、ドイツ人は映画観たりスポーツしたりしてたわ。そこでビールも作ってたの。私はそこで初めてビールを飲んだの。一杯飲んだだけで真っ赤になって倒れちゃって、いろんな人に迷惑かけたんだから。だからしげるくん、公園で寝ちゃったなんて可愛いもんだよ。私に比べたらだいじょうぶだいじょうぶ」
晴子は僕の肩をポンポンと叩いてくれた。優しいな、と改めて思った。
「十代なら仕方ないね」
僕が言うと、晴子はありがとう、と小さく言った。
「でもね、若かったっていうのもあるかもしれないけど、飲めないのに周りに負けたくなくて無理しちゃったから、やっぱり私のせいなんだ。でもあれは良い思い出だな。ベートーヴェン聴いて、そうそう、そこで西郷隆盛の息子に会ったの」
普通に会話していて西郷隆盛が出てくるなんて、ヴァンパイアだなと思った。
「晴子はこれから何百年も生きていくの?」
僕が言うと、晴子はぐっとベンチの背もたれにもたれかかって大きく息を吐いた。帯が邪魔だったようで、一瞬で和服がセーターとトレンチコートに変わっている。僕はもう驚かなかった。
「ヴァンパイアって言っても人間より死ににくいだけで死ぬときは死ぬから──どうだろうね。私もヴァンパイア映画とか見て思うの、永遠に生きることは永遠に苦しむことだーっていうじゃない? でも私、人間だったとしてもまだ生きてたかもしれない歳だからわからないのよね。今はそこそこ毎日が楽しいけど、これからどうなるかはわからないな。もう仲間もいなくなったから寂しいなと思うことはあるよ。消えちゃいたいと思ったこともあったな。でも、生きたいって言いながら死んでいっちゃう人もたくさん見てきたから、その人の分まで楽しみたいな。ま、といっても三〇〇〇年まで生きてることはないと思うけど、それもわからないな」
晴子はゆっくり話し終えた。
戦前戦中戦後──晴子が見てきた光景は、僕なんかではとても想像できないものに違いない。僕は気軽に聞くようなことじゃなかったと少し反省した。
「ヴァンパイア映画とか観るんだね、びっくりした」
僕が言うと、晴子は子供みたいな笑顔を見せて、瞬く間にドラキュラのマント姿になって口を大きく開いておどけてみせた。
「もちろん観るよ。映画大好き。私の一生は映画と共にあるの。映画史とほぼ同期だからね。活動写真ってみんなが呼んでた頃からの付き合いなの。なかでもヴァンパイアものは大好きだよ。最近だとトムクルーズのやつ良かったよね。あれからまた吸血鬼じゃなくてヴァンパイアって言うように変えたの。そっちのほうがハイカラでしょ?」
そしてまた和服姿に戻った。
5.
それからも僕らは話し続けた。ブランコに乗ったり滑り台に上ったりもしながら、ずっとずっと話し続けた。晴子は時々すごく年上っぽくも、子供っぽくもなった。
「夏のスターウォーズはどうだった? 僕はなんかつまんなかったな」
「私はとっても面白いと思ったわよ。ダースモールが虎みたいにうろちょろして落ち着きないシーンが最高だった」
「あのバリアみたいなのって何なんだろうね」
「最初から見てる晴子としては、去年のゴジラはどう思った?」
「あれは大きいイグアナ映画だと思えば面白かったかな」
「マグロ食べてたもんね」
「そういえばゴジラって人間は食べないわね」
「私インベーダーからやってるから、ドリームキャストにはびっくりしたな。電話線で遠くの人と遊べるんだって。魔法みたいよね」
「ゲームもやるんだ。メタルギアソリッドやった? あれ、面白すぎて十週は遊んだよ」
「もちろん遊んだわよ。私も忍者が赤くなるまでやったわ。メタルギアならエムエスエックスからやってるわ。小島監督のゲームはぜんぶ名作ね。私大ファンなの」
「えむえすえっくす?」
「私ワンダースワンのあの起動音が好き」
「僕はゲームボーイ一筋なんで」
「でもワンダースワンだったらクロックタワーも遊べるわよ」
「僕怖いの苦手なんだよね」
晴子はヴァンパイアになってからも人間社会に順応してきたみたいで、ドラキュラ伯爵のように古城に閉じこもっているわけではなかった。それどころか、ヴァンパイアになったからにはドラキュラ伯爵のモデルになったルーマニアに一度は行くつもりだと言いだすほど行動的だった。僕よりぜんぜん新しい物好き──だから文学、映画、旅行、スポーツと、あらゆる分野に詳しく、話の引き出しが少ない僕でも多弁になることができた。その時間はあまりにも楽しく、僕は自分が今晩いちばん恵まれているんじゃないかと思うくらいだった。
「日本はあれだけぼろぼろになったのに、ここまで繁栄したんだなーって誇らしく思うよ。たくさんの人が一生懸命頑張ったから今があるの。それを忘れないでくれたらうれしいな。しげるくんみたいな良い子はわかってると思うけどね」
「さっきから言ってくれてるけど、僕ってそんなに良い子かな?」
「私はそう思うわよ。それにかっこいいし。百年生きてるヴァンパイアが言うんだから自信もって」
「私が人間だった頃はね、自由恋愛なんてはしたないっていうのが常識だったの。当時の大人が今の援助交際ブームを見たら卒倒すると思うわ。女は職につかなくていい、結婚して良妻賢母となることがいちばんって感じだったんだから。結婚相手も家が決めてたのよ。でも私は女学校の先輩が大好きでね、一緒になれなきゃ死んでやるっていつも泣いてた。一緒になれるわけなかったんだけどね。でも、好きになるのって止められないよね。別れるのってすごく辛いよね。悲しいよね。だからしげるくんの気持ち、少しはわかってあげられると思うよ」
晴子は時に寂しそうに、時に楽しそうに話し続けた。話しながら僕は、時々晴子が僕を見る瞳が僕に向いていないことに気づいていた。こういう夜だ。亡くなったお兄さんと僕を重ねて、これまでの人生を振り返っているのだろう。僕なんかが少しでも晴子の懐かしい人たちを思い返すきっかけになれるのであれば嬉しい。
二〇〇〇年一月一日──騒がれていたミレニアムバグによる混乱は杞憂に終わり、好天の海辺で、僕は晴子と初日の出を眺めた。美しいそれを目にして、晴子は何を思ったんだろう。しばらくして晴子は穏やかな顔で僕を見て
「一緒に来てくれてありがとう」
「きれいだね」
と言った。
晴子は日の出の美しさに涙をこぼし、僕は日の光を見て涙を流すヴァンパイアの美しさに泣いた。