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「失礼しました」
パタン、とドアを閉めるとぷはぁっ、と新鮮な空気を求めて息継ぎをした。別に悪いことをしたわけではないけれど、職員室というのは妙に息が詰まる。無事に先生に日誌を提出し、あとは帰るだけだ。
「あっ、おにぃちゃん!」
「おう。奈巳夏も日誌だすところか?」
「そだよ〜。いやぁ、同じ日に日直になるなんて、やっぱり運命だとしか思えないね」
「奈巳夏は日直になる度に全クラスに2人ずつ運命が結ばれていくのか」
「わかってないな〜」
ぷぷぷ〜と小馬鹿にした笑い方をする奈巳夏。果たしてこれはぶん殴るべきか、それとも無視して立ち去るべきか。
「運命は結ばれるものじゃなくて、結ぶものなんだよ」
「……つまりどういうことだ」
奈巳夏は徐ろに春陽の右手を両手で包み込んだ。
「自分から掴みに行くってこと」
であるならば、そこら中に転がっている運命から、何に手を伸ばすべきなのだろうか。その答えは今の春陽には見つからなかった。
空っぽの左手がそわそわと落ち着かない。
「ま、だから今日日直になったその他大勢の人たちはアウトオブがんちゅーってこと」
職員室外の活気のある空気が春陽の肌を優しく撫で、馴染んでいく。
奈巳夏の言いたいことは理解できた。
理解できるからこそ、春陽に対する奈巳夏の剥き出しの感情と、先程さくらと話した奈巳夏に対する春陽の感情が、心のなかで喧嘩するのが妙に居心地が悪く感じる。
だから春陽は迷うことなく話題を元に戻した。
「というかそろそろ日誌だしてきたらどうだ」
「はっ! おにぃちゃんとの蜜月があまりにも楽しくて、忘れちゃってたよ」
蜜月は結婚した直後の日々だったような気がしたが、奈巳夏は知ってて使っている可能性があるし、いつまでも会話が終わらなそうなのでツッコミを入れることなく見送る。
「しつれーしまーす! 日誌だしに来ました! しつれーしましたー!」
「いや、職員室入ってから出し終わるまでがはえーよ。先生もちょっと驚いてるじゃねぇか」
「最速で、最短で、まっすぐに、一直線で、無駄な時間は終わらせないとね」
「まあ、いいけど。そんじゃ帰るか」
泥臭さと爽やかさという相反するものをかき混ぜて、きらきらと輝く青春の音をかき分けながら廊下を進む。
このなかにはさくらの歌声も混じっているのだろうか。常人の聴力しかもたない春陽がいくら耳を傾けてみても、判別できることはなかった。
ただただ今日はこのあと一緒に遊びに行こうなどと1人盛りあがる奈巳夏の声が気持ちばかり大きく聞こえるだけである。
宿題を理由に丁重にお断りさせてもらうと「ゔー」だの「がおー」だの人語ではない言語で反発の意を向けられた。
腕を掴まれぶんぶんと引っ張られるので歩く速度は牛のようだけれど、さして距離のない下駄箱に到着するのには時間はかからなかった。
学年が違えば下駄箱の場所も離れるわけで、つまり一時的に捕らわれていた重りから自由になる。だからこそ勢いそのまま軽はずみに下駄箱を開け放った。
そうして身が軽くなっていた分、扉の向こうに広がっていた景色に対する衝撃に体がよろめいた。
自分の目が信用できず、震える手を伸ばす。そうしてようやくそれが幻ではないと知る。
自然であたたかみのある質感は確かに春陽の触感を刺激していた。
そう、ローファーの上に1通のダイヤ張り封筒が置かれていたのだ。
「おにぃちゃん?」
「はふふぁい!」
下駄箱の側面からひょこっと顔を出した奈巳夏は、不審な春陽に対して目を半分にした。
「今なにか隠さなかった?」
「えーっと……あっ、あんなところに俺のパンツが!」
「えっ!! おにぃちゃんのパンツ! はぁはぁ、どこどこっ!!!」
春陽は脱ぎかけの上履きの踵を潰して走り出した。
「あ〜〜っ、嘘ツキおにぃちゃん待て待て!」
奈巳夏の言葉を背に、一段飛ばしで軽やかに階段を駆け上がる。どったんばったんと地を蹴る音はみるみる遠ざかっていく。
4階まできたところで階段を登るのを止めた。男子トイレに直行し、そこでようやくひと息吐いた。
「やべっ」
封筒が手汗で少しふやけてしまった。
乾かそうと封筒をひらひらと振る。
「げっ」
力みすぎて今度は軽く折り目が付いてしまった。
折り目を伸ばそうと紙を引っ張れば、手が滑り封筒は洗面台へ。
慌てて拾おうと手を伸ばせば、自分以外に誰もいないトイレで目と目があった。
別にホラーでもなんでもない。
「ふーっ……。なんちゅう顔してんだ」
鏡に向かって手を伸ばす。その先にある顔を優しく撫でてやることなどできるはずもなく、依然として強張った表情をしていた。
どうやら春陽はこの封筒たったの1通によほど心を惑わされていたらしい。動揺している人間の顔を見たおかけで、ほんの少しばかり落ち着けたので、洗面台に落ちたそれを拾う。幸い、濡れてはいなかった。
早鐘を打つ心臓に手を当て、深呼吸をしてから開封する。中からは1枚の手紙がでてきた。
それはやはり、おおよそ下駄箱の中の封筒から連想される代物だった。
受け取った春陽の動揺が伝わっているかのように、そこに綴られている文字はわずかに震えている。それでも、とても丁寧で一言一句を読むたびに、想いが春陽のなかに流れ込んでくるようだ。
最後まで読み、ごくりと唾を飲み込む。筆者からたったひとりの読者への気持ちを表す決定的な言葉は書かれていなかった。でもそれは、書くべきことではなく、直接伝えるべきことだからだろう。
その証拠に、最後の一文は明日の朝の約束が記されていた。そしてそれは春陽の心臓をきゅぅと締めつける。
当然だ。思春期真っ只中の男子高校生が初めて女子からお呼び出しをくらったのだ。湯水のごとく緊張が湧いてくる。
この気分を紛らわす何かを欲すれど、ここにはなにもなく、ただただいつもより空気を多く吸い込む他になかった。
しかし、深呼吸すらも不意を突かれた驚きに遮られる。
振り返ると、ぶかぶかの男子用の青いジャージに身を包んだ短い黒髪の生徒が立っている。
ぱっちりとした瞳と目が合うとドキリとした。なぜ、どうして。男相手だというのに、可愛いなんて思って……いや――
「おい」
春陽が呼びかけるとびくりと目の前の生徒は身体を震わせた。
「なにしてるんだ、奈巳夏」
たらーっと、こめかみから伝う汗がぽたりと床を濡らした。
「ひ、人違いじゃないかな。ナミ……ナミオ。ボクの名前はナミオだよ」
声変わり前の中学生であれば通用したであろうくらいには、謎に少しだけ発生の上手さを感じたが、それで誤魔化しきれるわけもなく。
「とにかくここをでるぞ」
「あう〜」
襟を引っ付かみバタバタとしているナミオと嘯くやつをトイレの外にだす。
「くっ、やっぱり心と心が繋がってるからそうそう上手くはいかないか……」
「心じゃなくて体でわかるんだよなぁ」
「流石にまだ体と体は繫がってないよ!?」
暴走した発言は受け流すとして、
「それで、これはなんだ」
自称ナミオの頭に手を乗せて、引っ張る。
「あっ……」
するとごっそりと全ての黒髪が抜け、さなぎが美しい蝶へと羽化するかのごとく、さらさらと美しい銀糸の髪が流れる。
「なんで学校にカツラ持ってきてるんだ」
「むぅ、カツラじゃなくてウィッグだよっ」
「どっちでもいいわ。しかもこれ俺のだろ」
奈巳夏が着ているジャージを引っ張る。当然、男子用なんて自前なわけがなく春陽のものだ。
「やっぱり男女の違いって必要なんだけど時にナミカとおにぃちゃんを隔てる壁にもなりうるんだよね」
真面目に訳の分からないことを語られても反応に困る。
「時にはその壁を突破しなければならないときがある。そのための備えは必要でしょ。いやはや備えあれば憂いなしってね」
「言っておくが男装すれば男子トイレに入っていいわけじゃないぞ」
「バレなきゃモーマンタイ!」
「いやバレてるが?」
奈巳夏の頭のネジが吹き飛んでいるのはいつものことだが、流石にそろそろ締め直すべきなのではないだろうか。
奈巳夏の背後を見やると、薄っすらと足跡が見て取れた。ローファーのままここまで来たらしい。
彼女が歩いてきた軌跡を辿り、落としたネジをひとつひとつ拾い集めることなど今更できはしないなと息を吐いた。
「あぁ、溜め息は幸せが逃げちゃうよー!」
すぅーっ、すぅーっ、と見えるはずもない春陽の吐息を奈巳夏は必死に吸い上げようとしている。
それから咀嚼するように頬を動かし、うん?と首を傾げた。どうやら逃げた幸せとやらの味がお気に召さなかったらしい。
「うーん、やっぱり今日は遊びに行こう」
奈巳夏は春陽の右手に視線を送りながら、そう言った。
「いや、だから行かないって……って、あたたっ、引っ張るな」
「いいからいいから。3、2、1、ゴ〜!」
右ポケットあたりをぎゅっと握っていた春陽の手を取り、走り出す。
奈巳夏が踏みしめた場所を、直後に春陽も踏んでいく。力強く右手首を掴む自分よりも小さな手を、振り払うことができなかった。本気を出せば簡単に解けると知りながら。