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2-2

「春陽くん、終わった?」

「もう少し」

「そか」

 さくらは春陽の隣の席にぽすん、と座った。

 窓の外の景色は朝から変わらない。空は分厚い雲が茫洋としているし、グランドでなにかをする人もいない。雨の日の世界は変化が乏しい。

 かと言って教室の中に目を向けても、放課後に居座り続ける人は他にいない。ときどき教室の前を通り過ぎるペタペタとした足音が寂しさを助長させるばかりである。

「別に先に帰ってていいんだぞ」

 だからだろう、他に視線を向ける先がなく、じーっと自分のことを見つめてくるさくらに対して春陽はそう言った。

 今日の日直は春陽とさくらだ。さくらは教室の窓際に置かれた観葉植物のガジュマルに水やりをしていたが、どうやら終わったらしい。

 残る仕事は今春陽が書いている日誌の提出だけである。

「どーせこのあと合唱部あるから」

「……ならなおさら早く行った方がいいのでは」

 さくらは大きな短所を抱えているものの不良少女というわけではないから、部活動をサボるようなことはしないはずだ。

「いやぁ、今日使う譜面家に忘れちゃったから、ちょっと行きづらくて」

「なるほどな」

「あぁー、コイツまたかよって顔した!」

「大丈夫。ちょっとしかしてない」

「そのリアルな感じが一番傷つくよ!?」

 そう。さくらの短所とはこれである。とにかく忘れ物が多い。毎日ひとつは忘れ物をするレベルだ。

「うぅ、よりによって合唱部のもの忘れちゃうなんて」

 そんなに忘れ物をするのだから、さぞ先生に怒られているのだろうと思いきや実はそうでもない。もう呆れらているから怒られもしないというわけでもない。

「借りれないもんな」

 そう、彼女はその人柄のよさもあって忘れ物をしても必ず誰かが貸してくれる。なんなら頼まずとも向こうからよってくる。基本的に学校で使うものは他クラスの力も合わされば困ることはない。

 だが部活動で使用するものとなると持っている人全員がその場で使うためそうはいかない。

「そうなの……はぁー、だから春陽くん。なんなら日誌は私が書くよ? 二時間かけて日誌の大作を作っちゃうんだからっ」

「いや日誌の大作て」

 土佐日記でも目指すのだろうか。

「とゆーか、もう書き終わるし」

「え~。ほんとだ、あとは一日の感想だけかぁ」

 しょぼぼ~んと肩を落とすさくらを横目に春陽はペンを動かす。

「まあ一日の感想が一番困るんだけどな。今日なんかあったっけ」

 お昼に食べた奈巳夏作の弁当の食レポでもすればいい? だめだ。語彙力なくてうまかったの五文字しか書けない。

「えーっとねぇ、清くんが廊下に落ちてるごみを拾ってたし、あいちゃんは苦手な数学で授業中あてられたけどしっかり答えられてたし、みぃちゃんは隣の席の洋平くんが体長悪そうなのにいち早く気が付いて保健室に連れてったし、あとあと…………――――」

 今日会った人間すべての名前を挙げていっているんじゃないかと思うくらいに、さくらは次々とエピソードを連ねていく。

 こういうところだ。さくらが学校中の多くの人に愛されているのは。

 他人のことをよく見ているし、いいところにもたくさん気が付くし、さらにそれを相手に伝えることもしている。

「――――翔太くんはポスターが曲がってるの直してて、うん、今日もいい日だったね」

 ひとしきり言い終えたさくらは満足そうに頷いた。

「あっ、もちろん春陽くんも、って……」

 立て板に水のごとく喋っていたのと打って変わって、春陽のことになった瞬間に言い淀んだ。

 もしかしたらあまりにも良いところがなかったのかもしれない。

「その、今朝はごめんね」

 さくらが頭を下げると、萌ゆる春の山をせせらぐ小川のように髪がさらさらと流れた。

 すると川面に浮かぶ月と見紛うほどに美しいうなじが現れ、春陽は恥ずかしさに目を逸らした。

「……なんでさくらが謝るんだ。むしろ俺は助けられたんだ。感謝してる」

 朝の騒動を収めたのはさくらだ。彼女がいなければもっと面倒なことになっていたのは、想像に難くない。

「で、でも……私さ、今日つるちゃんとの待ち合わせに遅れちゃって」

 さくらは頭をあげたけれど、依然として目は伏せられている。

 長く繊細なまつ毛が春陽の目線を阻んでいた。

 だから彼女の言葉の真意をその瞳から察することはできない。

 であるならば直接言葉で問うしかあるまい。

「それになんの関係が?」

「もし私が遅れてなければ、つるちゃんは春陽くんにちょっかいかけることはなかった」

 さくらはスカートの裾をきゅっと握ってから、さらに言葉を続ける。

「……春陽くんが愛する妹ちゃんが傷つくのともなかった」

 さくらが言っていることは間違っていないのかもしれない。

 だがそれはあまりにも強すぎて危うい正義感に思えた。

「さくらは凄いよ」

「……え?」

 やっとあった瞳は微かに揺れていて、それは勢いを徐々に増しながら春陽の心にまで伝播した。そうして昔の、コーンスープ缶に残った一粒みたいな昔の記憶がぽとんと飛出した。

「昔さ、正義のヒーローに憧れてたんだ」

 幼少期の春陽はテレビを禁止されていたが、一度だけ両親にバレずにそういう作品を見れたことがあった。

「困っている人のところに駆けつけ、悪を退治する」

 別に自分もああいう風になりとか思ったわけではない。あくまでフィクションであると幼いながらに理解していた。それでも、ただただ格好いいと思ったのだ。

 思えば春陽が未だに、奈巳夏がいじめから助けてくれた夢を見るのは、いないと思っていた正義のヒーローが眼の前に現れた衝撃もあるのかもしれない。

「そんなヒーローですら格好良くて凄いのに、さくらはその上をやろうとしたってことだろ」

「その上……?」

「ああ。だって事件が起きてから現れる正義のヒーローと違って、さくらは事件が起きる前に防ぎたかったって悔やんでるんだから」

 さくらは一瞬だけ目を大きく見開いたが、すぐに小さく頭を振った。

「でも、実際に防げてないんだから意味ないよ」

 さくらの呟きは、かつて春陽が囚われていた鎖と似ていた。だからこそ、春陽はその頑丈さと脆さをよく理解していた。

「俺は結果よりも、そこにある想いを大切にしたい」

 中学受験に落ちたとき、父親からは激怒され、先生からは失望され、同級生からは嘲笑され、母親からは見て見ぬふりをされた。

 でも、ただひとりだけ、春陽の頑張りを褒めてくれた人がいた。

 そのことにどれだけ当時の春陽が救われたことか。

 もちろん、結果が大事なのは理解している。結果以外も見てほしいと願うのは、負け犬の泣き言なのかもしれない。

 それでも、常に勝ち、結果を残し続けられる人はいないから。敗北に救いも意味もないのなら、きっと人類はとうの昔にセミの抜け殻に成り果てている。

「だからさくらは胸を張っていい。いや、張ってくれ」

「春陽くん……」

 さくらは大きく深呼吸をすると、うんと頷いた。

「ありがと。そうすることにするよ」

 そうして文字通り、腰に手を当ててむふんと胸を張った。

「あー、それからさくら」

「どうしたの?」

「ひとつ言っておかなきゃいけないことがある」

「急にそんなに改まってなにを……はっ」

 さくらは俊敏な動作で180度回転して、春陽に背を向けた。そしてポケットから手鏡を取りだし、前髪を手櫛でちょいちょいと整える。左右に首を振り横顔もチェックすると、うんと頷いて鏡を仕舞うと再び春陽の方に向き直った。

「こほん……それで春陽くん。なにかな?」

 柔らかな印象のあるさくらがピンと座る様は、どことなく小さな子供が背伸びをするような微笑ましさがある。

「さくらの方こそ改まってる気がするけど、まあ良いか。奈巳夏のことなんだが……って、なんだその目は」

 梅雨の湿気も裸足で逃げ出すほどに纏わりついてくるさくらのじと目に、自分の髪の毛がうねるのを感じた。

「べっっっっっつに。何にもないよ」

「何もない人の促音の数じゃないんよなぁ」

 さくらは背もたれにだらりと腰を当てると、代わり映えのない天井を見上げた。

「ただ、けっきょく愛する妹ちゃんの話かって思っただけだもん」

「そうそれだよそれ」

「えっ、やっぱり春陽くんは頭の中99%妹ちゃんってこと!?」

「そんなわけなくない!?」

 どうでもいいが残りの1%はなんなのだろうか。春陽が普段考えていることを列挙していたら、あながち99%奈巳夏理論を否定できないような気がしてきて即座に考えるのをやめた。

「こほん……とにかく俺が言いたいのは、断じて奈巳夏を愛してなんていないってことだ」

 ガシャン、とさくらのスカートのポケットから手鏡が滑り落ちた。

 その音にピクリと身体を震わせた春陽とは対象的に、さくらは身じろぎもせず口をポカンと開けている。

「おーい、さくらさーん」

 いつも以上に外気に晒しているくりっとした瞳が見つめる虚空に、春陽は自身の手を映るように彼女の眼前で手をひらひらとさせる。

「あっ合唱部の先輩こんちわっす」

「先輩別に本日は忘れ物をしたので部に顔を出しづらくてこうして放課後の教室で日直の仕事をするフリをしてサボっていたわけではないんです本当です……って、あれ? ちょっと春陽くん! 先輩いないじゃん!」

「いや、まさかこれで起きるとは思ってなかったよ……」

「春陽くん……さてはやり手だな……って、それより!」

 ガガガっと椅子を倒さんばかりの勢いでさくらは立ち上がった。

「妹ちゃんを愛してないって本当!?」

「ぬおっ!」

 学年、いや学校一可愛いと評されるご尊顔で視界がいっぱいになり、思わずのけ反ったことで、春陽は椅子から転げ落ちた。

「春陽くん!?」

 さくらは腰を地につけた春陽の横にぺたんと座り、優しく身体を起こした。

「だ、だいじょうぶ……?」

「あ、あぁ……問題ない」

 さくらは春陽の背中をさすさすしながら、その瞳を見るとふぅと息を吐いた。

「それにしても驚きすぎだろ……いや、まあ気持ちもわかるけど」

 通常なら兄妹という関係性から生まれる感情ではないものが春陽と奈巳夏の間にはある、そう思われても仕方のないくらいに二人の距離は近いという自覚は流石にしている。

「あぁ、もちろん広義の意味の愛してるなら当てはまるけどな」

 その人のことを大切に想っている、それもまた愛であり、そういう形であれば、春陽は奈巳夏に抱いている。

「春陽くん、私はね。言葉を結構信じるタイプなんだ」

「うん?」

「よくさ、言葉でなく行動で示せ。口だけならなんとでも言えるっていうセリフあるじゃん」

「耳が痛い話ではあるな」

「春陽くんが口先だけの人だとは思わないけど……っとその話は置いておいて」

 さくらは落とした手鏡を拾い、机のうえに置き席に着いた。春陽もそれに習い、地べたから椅子に座りなおす。

「言葉には魂が宿るっていうかさ、やっぱり口からでた言葉って嘘だったとしても、その言葉に自然と近づいていくんじゃなかなって」

 さくらは手鏡に視線をやる。その鏡越しに彼女は何を見ているのだろうか。

「なんて、こういうオカルティックな話は頭がいい春陽くんには寒いかな」

「言魂に関していえば、ある程度の科学的根拠はありそうだけど」

「そうなんだ。まあ、とにかく。だから私は春陽くんの奈巳夏ちゃんを愛してないって言葉、信じちゃうからね」

「……それに関してはまじで何ら問題ないぞ」

 そっか、と呟くとパンっと膝を叩いてさくらは立ち上がった。

「春陽くん、日誌書くの邪魔までしといてごめんだけど、私もう行くね」

「別に邪魔だなんて思ってないし、元から後は俺が独りで出しに行くつもりだったから問題ないぞ」

「ふふっ、やっぱり春陽くんは優しいね」

 そうしてさくらは合唱部に行きたくないって言うのが嘘だったみたいに軽い足取りで、教室をでて左へ歩いて行った。

「あれ、音楽室行くなら右から行った方が早いけど……まあいいか」

 春陽は買ったばかりのボールペンを手に取り、前回自分が書いたのとほとんど変わらないような日常を今日の感想の欄に綴った。


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