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2-1

「奈巳夏ー、行くぞ」

「ほーい!」

 玄関でローファーを履きつつ、呼びかけると階段の上から元気な返事が聞こえた。

 タンタンタンっと階段を奏でながら、まずはニーハイソックスに包まれたすらりとした足が見え、次に程よい肉付きの太ももが現れたかと思うと、プリーツスカートがひらひらと踊り、春陽と同じなのになぜかおしゃれに見えるブレザー、そして可愛らしいリボンとにこやかな奈巳夏の顔が露わになる。

「ごめん待った?」

「自宅でデートの待ち合わせ感を出すのは無理があるだろ。ちなみに待ったぞ」

「はい、0点回答ですぅ~」

 奈巳夏が口をタコにしながらぶぅぶぅと豚のように鳴く。

「妹に100点回答を狙ってもなぁ」

「こほん。赤点追試おにぃちゃんに挽回のチャンスをあげましょう。待ち合わせた場所で落ち合った2人。さあ、次におにぃちゃんは何という!?」

 手のマイクが春陽の口元に向けられる。答えはCMの後にしたいところだが、悠長にしていたらグイグイと迫りくるマイクに春陽の前歯をへし折られそうだ。

「今日もいい天気だね」

「はい、ぶっぶー! マイナス一億点」

 なんでだよ。とりあえず天気の話は鉄板だろうが。

「ふぅーやれやれ。これだからいつまでたってもモテないんだよ。これはもうナミカがもらってあげるしかないね!」

 春陽がモテないのは常に奈巳夏が付きまとっているからというのも一端を担っているとは思うのだがそのあたりどうでしょうか……。

「ちゃんと彼女の服を褒めてあげないとめっ! だよ」

「制服のどこを褒めろと!?」

 人の話を聞いているのか聞いていないのかわからない様子の奈巳夏が、唐突にぽんっ、と手を叩いた。

「天気というえば、おにぃちゃん傘持った~?」

「今日雨降るんだっけか。つか天気の話、役に立ってるじゃねーか」

 慌てて靴を脱ごうとすると、

「にひひ~、はいっ」

「おっサンキュー」

 奈巳夏に折り畳み傘を渡され、通学カバンに入れた。トントンっと奈巳夏もローファーを履き、ようやく玄関でのじゃれあいが終わりを告げる。

「「いってきます」」

 いってらっしゃい、とリビングの方から聞こえる父親と母親の声を合図に2人は玄関を出た。

 空は見上げると厚ぼったく濁った雲で覆われており、風が吹くと微かに土のような香りがした。

「やっぱちょっと涼しいね」

 今日は六月にしては気温が低めだった。

「冬服で正解だったな」

現在は衣替え期間のため、出したばかりだった夏服はお留守番にした。

「や~、寒いなぁ!」

 二人並んで歩き出すと、奈巳夏が少し大きめな声でそんなことを宣った。

「そうか? ちょうどいいくらいだろ」

「女の子は冷えやすいんだよなぁ~!」

 奈巳夏は手に、はぁはぁと息を吹きかけている。

「俺より体温高いだろ」

「ナミカってば、心があったかいから手は冷たいんだよな~!」

 奈巳夏はカバンを持っていない右手をぶんぶんと振る。そしてチラッ、チラッと春陽の方を見てくる。

 春陽はため息をつくと、奈巳夏がグルグルとぶん回し始めた右腕を止めるように手を握った。

「えへへ~、流石はおにぃちゃん」

 曇天を吹き飛ばすほどに、らんらんらん♪っと陽気に口ずさむ様を見ていると、こちらまで気分があがってくる。

 すると、その歌に吸い寄せられるように――

「あっ、かわいい!」

 奈巳夏の足元に茶トラの猫がやってきて、すりすりと顔を擦りつけいる。

「お~、にゃんにゃん」

 奈巳夏が屈んで撫でてやると、ごろにゃ~と嬉しそうに鳴いた。

 美少女と猫の戯れは何の変哲もない通学路にオアシスを生み出している。

 できれば背景に徹していたい春陽ではあるが――

「おにぃちゃん、チャレンジしてみればぁ?」

 ごくりと生唾を飲み込む。猫に大層好かれやすい奈巳夏に対して春陽はいつも近づくと逃げられてしまう。

 春陽は手を伸ばそうとして、すぐに静止する。猫と一瞬目があったからだ。おそらく今ので警戒された。このまま突っ込んだのでは確実に逃げられることが火を見るよりも明らかだ。

 すると、うんうんと唸っていた奈巳夏が手を叩いた。

「そうだ! 良いこと思いついたよっ。聞きたい? ねぇ聞きたい?」

 奈巳夏のこういうときのひらめきは非常に極端である。超冴えているか、超鈍っているか。馬鹿と天才は紙一重を体現している。果たして今日の奈巳夏はどちらなのか。

 そこで春陽は朝の星座占いを思い出す。奈巳夏の牡羊座は1位だった。あまり占いを信じるタイプではないけれど、どうせ賭けなのだから今回は乗ってやろうじゃないか。

 したり顔の奈巳夏に頼ると言うのはたいへん癪ではあるものの、背に腹は代えられない。猫をもふりたいんだ。

「……聞こうじゃないか」

「それはねぇ~、こうだ!」

「って、おい!」

 奈巳夏は春陽に抱きつくと、自分の身体をこすりつけてくる。それはまさしく猫が奈巳夏にしていたように。

「にゃん、にゃんにゃ~ん」

「……なんのつもりだ。まさか、本物の猫は無理だから奈巳夏で我慢しろってことか?」

「ちょっ! 我慢て言い方! まるでナミカにこうされるのが嬉しくないみたい」

「流石は俺の妹。正しく意思疎通ができておにぃちゃん嬉しいぞ」

 素直じゃないと奈巳夏は唇を尖らせているが無視する。

「で?」

 尚もすりすりしてくる奈巳夏に問いかけた。

「しょうがない、物分かりが悪いおにぃちゃんにヒントを教えてあげよう。猫の嗅覚は人と比べてどれくらいでしょう」

「えーっとたしか数千万倍も猫の方が優れてるとか……って、そういうことか!」

「むふふ。そうだよ。名付けて、おにぃちゃんも愛する妹と同じ匂いになれば好かれるんじゃないか大作戦!」

「ネーミングセンスに難を感じるが、一理あるかもしれない」

「そうでしょそうでしょ。さて、この私腹を肥やす時間……こほん、もといおにぃちゃんにとって至福の時間であるナミカによるすりすりタイムが終わってしまうのは、非常に遺憾かもしれないけど、あんまりのんびりしてると遅刻しちゃうからねっ」

 ようやく奈巳夏から解放された。

 こうしている間にも猫は離れることなく奈巳夏の足にすりついている。

 ……なんだかいける気がする。正直、自分では奈巳夏の匂いがついているかどうかはわからないけど、猫にとっては違う可能性が大いにある。

 意を決し猫へとゆっくり手を伸ばす。

 奈巳夏は猫の注意を自分だけに向けるべく、顔を撫で回している。

 さらに手を近づける。

 猫は奈巳夏の手のなかで気持ち良さそうに目を細めている。

 そしてついに春陽の手が猫に――

「ぶわっっっっくしょんっ!!! ……あっ」

 おおよそ美少女のものとは思えない盛大なくしゃみは、女子に幻想抱く男子諸君の夢を粉々にするだけに留まらず、この場で形成していたオアシスをも破壊した。

 つまり春陽の手にかすることもなく、猫は逃げて行った。

「……奈巳夏」

「ち、ちがうのこれは生理現象でっ」

「だとしても、そんな盛大なくしゃみ今まで一回も聞いたことないが? もちょっと抑えることもできたんじゃないか?」

「そ、それは、手が猫に近づくたびに少しずつ期待に染まっていくおにぃちゃんの顔に見惚れてつい抑えるのが遅れて……じゃなくて、空見て、そらっ」

「なんだその、古典的な気の逸らさせ方は……って、んっ?」

 バケツに突っ込んだぞうきんみたいな雲から、吸収しきれなかった水がポツリ、ポツリと降ってきた。

「猫は濡れるのが嫌いだから、雨になると逃げだすんだよ。つまり逃げられたのはナミカのせいじゃなくて天気のせいだよ」

「ったく。そういうことにしておいてやるよ」

 どっちにしろ奈巳夏がいなければ、そもそも猫が寄ってくることもなかったから。

 春陽はバッグから折り畳み傘を取り出し、広げた。

「……おい、なんで入ってきてんだ?」

「えっ、だってナミカってばうっかり屋さんだから傘忘れてきちゃって。まさか可愛い妹をびしょ濡れで学校に行かせるわけないよね?」

 へぇ、うっかりかぁ。おかしぃなぁ。春陽は家を出る直前に他でもない奈巳夏から傘を持っていくように言われたんだけどなぁ。

「ほら、この傘あんまり大きくないんだからもっとくっつかないと」

「……へいへい」

 まあ今さらグチグチ言ったところで仕方あるまい。

 そんな諦めたような気持ちとは裏腹に、傘の上では雨が朗らかに跳ねまわっていた。

 先ほどまで聞こえた環境音は水音によってかき消され、傘によって周りを雨のカーテンに包まれているこの状況は、2人だけが世界から切り離されているような感じがした。

 なんだかこうしていると――

「雨の日も悪くないねっ」

 一瞬、自分の心の声が漏れてしまったのかと思った。しかし隣でニコリとした視線を送る奈巳夏が発したものだとすぐにわかった。

「そうかもしれないな」

 いつも以上に肩を寄せ合って歩く通学路は、いつも以上に歩きにくかったけれど、いつも以上に話しやすい。

 サッカーのダイレクトパスを出し合うように途切れることのない会話を回すひとときはあっという間で、気が付くと校門に着いていた。

 校舎に入って傘を閉じると、傘を穿たんとするやかましい水音が消える。


「兄妹で相合傘ってキツいよね」


 だから今までは気が付かなかった、囁かれるヒソヒソ声を春陽の耳が捕えた。それもひとつやふたつじゃない。

 空気とは恐ろしいものだ。誰かが石を投げているから自分もやっていい。そうやって周りに春陽たちを攻撃する波が広がっていく。

 別に誰にも迷惑などかけていないのに、罪人にでもなった気分にさせられる。

 雨が急速に止んでいく。バケツをひっかっり返したくらいのどしゃぶりで、こんな声などかき消すほどの雨音が校舎のなかまで鳴り響いてくれよと無意味なことを思った。

 奈巳夏がこの高校に入学してから二ヶ月。それはつまり春陽と奈巳夏がこの学校に一緒に登校するようになってからの数値でもある。もう慣れたから、もしくは飽きてしまったから、最近はこのような悪感情を向けられることはなくなっていた。

 別に今さらこれくらいのことで心が傷つくということはない。けれど――

(あぁ、どうしてこの世界はこんなにも生きづらいのだろうか)

 どうしても、そう思ってしまう。

 春陽は自分のぐじゅぐじゅに湿った右肩に触れる。いくらくっついていたといっても、折り畳み傘に2人は無理があった。

 考えてみれば相合傘で登校するのは初めてだ。それは常に他人を蔑むことで悦に浸るという人間が誰しも抱える闇に、新たに餌を与えるような行為である。

いっそのこと、頭から濡れてしまえば良かったかもしれない。そうしたら頭が冷え、浮かれた心を鎮めて、こうなることを予測できたかもしれない。

いや、違う。たとえ予測できたところで、春陽は同じ行動をとっていただろう。周りになんと言われても、2人で自由気ままに登校することが楽しいと春陽は自覚しているから。

 今までだって同じだった。久しぶりのことだったから、どうやら少しだけナイーブになってしまったようだ。


「この歳でシスコンとかキモすぎ」


 その悪口が聞こえた途端、春陽は隣から強烈な殺意を感じて、すかさず奈巳夏を手で制する。

「なんで止めるの」

 奈巳夏らしからぬ低い声と鋭い視線。こういうのは下手に刺激しないで、黙ってやりごせば相手もすぐに飽きて――


「つか妹の方もやばいっしょ。だってあの見た目で男いないって、よっぽど性格ブスで誰も構ってくれないから兄にひっついてんでしょ」


 ブチッと何かが切れる音がしたのは、奈巳夏からではない。自分のなかからだ。

 伸ばされたゴムが切れたときに物凄い勢いで飛び出すように、春陽はその音と同時に奈巳夏の悪口を言った男女混合の陽キャ集団へと足を踏み出していた。

「ブスなのはてめぇらだっ!」

 しーんっと辺りが静かになる。みなが唖然としているなか奈巳夏は「自分ばっかり」とどこか嬉しそうに呟き、春陽の隣に並んだ。

「ちょっとウケるんですけど。てかなに、ウチらのはなし盗み聞きしてたわけ? きもっ」

 軽蔑の眼差しを向けながらそう言ったのは、この集団のリーダー的存在の女子生徒、鶴見だ。明るめに染めた長い髪をくるくると弄んでいる。

「だとしたら、このあたりいる奴ら全員が盗み聞きしてるキモいやつになるが?」

 声量も抑えずに喋っていたのだから、聞き耳を立てずとも聞こえる。

「はぁ? 他のやつらは突っかかってきてないんだから、聞き流してんだろ。でも、お前らはちゃんと聞いてた。そうだろ」

 男子のひとり、袴田も出張ってきて反論をしてくる。

「奈巳夏の悪口を言ったんだ。聞き流せなくて当然だろ」

 昔の春陽だったら言い返すことなんてしなかっただろう。ただただ無視するだけだった。自分の悪口だったら今でもそうするけれど、奈巳夏のこととなれば黙っているわけにはいかない。

 あのとき奈巳夏は春陽のことを庇ってくれた。そのことにどれだけ救われたことか。

 きっと奈巳夏も自分の悪口を気にしていない。でもいくら気にしなくても、気持ちがいいものではないから。

「誰もあんたらの悪口なんて言ってないんだけど。自意識過剰なんじゃないの」

「こっちにちらちら視線を送りながら俺達以外の悪口を言うなんて、なかなか斬新なことするんだな」

「見られてるって思ってることこそ勘違いっしょ。それとも見られるくらい恥ずべき行為をしてたって自覚があるのかなぁ」

「恥ずべきことなんてなにもない。お前らが勝手に辱めてるだけだ」

 春陽からすれば陰口なんてものを叩く方がよほど恥ずべき行為である。

「いやいや……ははっ、兄妹でそんなくっついてるの恥ずかしいと思わないとか、頭おかしくて草」

 その言葉に春陽と奈巳夏は互いに拳を固くして――


「邪魔なんだけど」


 その凛としたひと声が、春陽&奈巳夏と陽キャ集団の衝突を切り裂いた。

 あたりの視線がその声の発信源に向けられる。

 肩にかかるくらいのふわふわとウェーブがかったブロンドのツインテールを揺らしながら、多くの視線など意にも介さずに堂々と春陽たちの間を歩く。

「石行華……ちょっと私たちが話してるんだから、あんたこそ邪魔しないでくれる?」

 鶴見がたった今現れた石行華(いしゆきはな)の腕を掴んだことで、ギリギリまで短くされたスカートとくるぶしソックスによって惜しげもなく晒されている眩い美脚が、その歩みを止めた。

 そして腕を掴まれると、チリンという鈴が鳴るような音が聞こえた。

 石行さんがしゃがみ手を伸ばした先には制服のリボン。どうやら腕を掴まれた拍子に手に持っていたそれを落としてしまったらしい。

 リボンは着用が義務付けられているが、先生が立つ校門を抜けた瞬間に外したのだろう。

 夏服である半袖のワイシャツは第二ボタンまで開けられており、なんというか全体的に目のやり場に困る格好だ。

「はなし? そんなくだらない話ならよそでやってくんない」

恐ろしいくらいに美しく冷たい石行さんの碧眼が細められる。対照的に、それを見た春陽の瞳は見開かれていた。

「くだらなくなんてないわよ! こんなとこで兄妹がいちゃいちゃしてたら気色悪いじゃない」

 煩わしそうに、はぁ、とため息を吐いてからリボンを拾ってバッグに仕舞うってから、石行さんは口を開いた。

「気色悪い? どこが。兄妹愛なんてすごく純粋で綺麗な愛でしょ――あたしみたいな同性愛とは大違い」

 目を丸くする鶴見にキャハッと笑う石行さん。鶴見だけじゃない。ここにいる全員が石行さんのことを引いていたに違いない。

 ただし、春陽を除いて。春陽は自分の胸に黙って手を当てた。

(すごい……)

 春陽が生きづらいと感じるこの世界で、彼女は自分の好きを一切隠すことなくさらけだし、胸を張っている。

 腹を立てるでも落ち込むでもなく、それを誇るように。

 こめかみを抑えた鶴見は口を開く。

「……そうだったわね。まったくここには変人しかいなくて嫌になるわ」


「ちょっとちょっと何の騒ぎ」


 石行さんの声とはうって変わってどこか柔らかな口調とともに、またも新たな乱入者がぱたぱたと走ってきた。とはいえ、学校に入ってすぐの下駄箱でこんな争いをしているのだから、それも当然である。

「さくら~。よかったようやくまともな人が来てくれた」

 鶴見はにこやかに桜紙(さくらがみ) 叶羽(かのは)を受け入れる。石行さんが刃なら、さくらはマシュマロ。それくらいに対照的な印象を受ける。

 さくらは走ったことで少しだけ乱れた桃色の前髪をちょこちょこと整える。

 短めの髪は今日もクラウンハーフアップにされており彼女の可愛いらしさを引き立てていた。

 バッグを開き、何かを探すようにガサゴソと中を漁り始めたさくらに鶴見が話を続ける。

「聞いてよさくら。こいつらヤバすぎて話になんないのよ。シスコンにブラコンに同性愛ってまじどうなってんのってイカれた愛の宝箱かよって」

 さくらはきょとんとした紅水晶のような瞳で鶴見を見ながら、鶴見から手渡された櫛を受け取った。

 どうやらさくらはバッグの中から櫛を探していたが、家に忘れたようだ。

 それにしても、さくらのあの瞳に。これは確実に今の話を聞いて引いてるやつだ。

 さくらはこの学校のアイドル的存在である。だからこそ、彼女の発言には多大な影響力がある。さくらがここで春陽たちをキモイ認定した場合、今まで以上に風当たりが強くなる可能性が高い。

「そうかな? 愛のカタチなんて人それぞれでしょ」

 しかし、あまりにも純真無垢な声音で発せられた言葉は春陽の予想とはまるで違う内容だった。

 驚いた。

 今まで春陽は多くの嫌悪感を人から向けられてきたこともあって、その感情には敏感である。だからさくらが、春陽たちあるいは石行さんに僅かでもそう思っていたら感じ取れるはずである。しかし微塵もないというのはもしかして――

「うっそ。もしかしてさくらもソッチ系?」

 鶴見が春陽と同じ予想を立てたらしく、さくらにそう問いかけた。そう、自分も同じなのであれば忌避感を抱く可能性は低い。

「そういうわけじゃないけど」

 ところがそれは、あっさりと否定されてしまった。

「だったらどうしてヘーキなわけ……?」

 春陽ですら、そこに嫌悪感はないものの、石行さんの同性愛宣言には驚いてしまった。

「どうしてって言われても……そうだなぁ、つるちゃんはマーボー豆腐好きでしょ?」

「え? うん。そうだけど」

「舌がピリピリってするの苦手だから、私マーボーはあんまりなんだよね。どう? つるちゃんは私のことおかしいって思った?」

「は? いや、思わないけど」

「でしょ~。さっきの話もそれと一緒だよ」

 当たり前だが好き嫌いなんていうのは人それぞれだ。食べ物も趣味も何もかも。そしてそれは人が人に向ける感情でさえも変わらない。

 とはいえ――

「イヤイヤイヤ、全然ちがうっしょ」

 そう、鶴見が今言ったことにも、春陽は頷けてしまうのだ。こんなやつとさっきから意見が合ってしまうのが癪ではあるけれど。

 さくらの主張は筋が通っているように思えた。しかし、鶴見に批判された被害者である春陽としても、素直に受け入れることができない。

 正論が必ずしも人の心を動かすとは限らない、ということなのかもしれない。

 もしかしたら、さくらが挙げた例というのは人がモノに向ける感情で、現在問題にあがっているのは人から人に向ける感情だから受け取り方に相違があるのかもしれない。人の感情なんてのは複雑だからこそ、それらが相互に絡み合って人間関係の話になってしまえば、一筋縄では議論できないのも頷ける。

「つるちゃんの言いたいこともわかるんだけどね」

「さくら……アンタもしかして敵を作らないように、話あわせてるだけなんじゃないの?」

 鶴見のじと目を遮るように、さくらは慌てて両手をぶんぶんと振る。

「わ、私はただ、なんてゆーか、人に共感しやすいだけだよ」

 たしかにさくらは日和見主義とかって感じでもないし、マイペースではあるけど芯はある気がしている。

 生まれつき心が優しいからか、あるいはもしかしたら以前にさくらがそういう考えになる何かがあったのかもしれない。もっとも大して仲が良いわけではないさくらの真意など春陽が知るよしもない。

「そ。……まあイイヤ。なんだか馬鹿らしくなってきたし、もう行こ。さくら」

「う、うんっ!」

 早足で去っていく鶴見の背中を追いかけようとするさくらだったが、チラリと春陽と奈巳夏、石行さんの方へ振り返る。手を合わせて「ごめんね」と口パクをすると今度こそぱたぱたと鶴見の方へ行った。

 そんなさくらの背中を茫然と見つめる石行さんはなんだか印象的に思えた。春陽はこれまで石行さんと直接的な関りがあったわけではない。何回か見かけたことがある程度だ。けれどいつでもどこか気を張っているようなイメージがあったから、今の気の抜けたような石行さんは新鮮だった。

 その、あるいは彼女の素かもしれない表情に吸い込まれそうになっていた春陽の視界は唐突に真っ暗闇に落ちていった。

「……奈巳夏」

「あれ、まだだーれだ? って言ってないのに」

「いいから手を放せ」

 視界を塞いでいるのは他でもない奈巳夏の手である。

「おにぃちゃんってば手の感触だけでナミカってわかっちゃうってことは……ヘンタイ?」

「伊達に16年間奈巳夏の手を繋いでないよ」

「ナミカの手のプロだった!?」

「そもそも俺にそんなことしてくるやつ奈巳夏以外にいない」

「俺には奈巳夏以外いらない? もうっ、おにぃちゃんったら」

「言ってないが!? ったく馬鹿なこと言ってないで」

 奈巳夏の手を引きはがすと、もう周りには人がいなくなっていた。

「ん、あれ落とし物か」

「おにぃちゃん落ち込んでるの?」

「落とし物を見つけただけでなぜそうなる」

「え、だって下を見たってことでしょ」

「いやまあ確かにそうだけど、それだけで落ち込んでるは飛躍してるだろ」

「ちっちっちっ。人の視線は自分が思ってる以上に感情がでるんだよ」

 春陽はそっと自分の目元に手をやる。自分では平気なつもりだったが、そこには強がりも含まれていたのかもしれない。

「でもおかしいな。ナミカの手の感触を顔で感じれてハッピーな気分になってるはずなのに」

 それでハッピーになれるなら今すぐ奈巳夏には世界中を飛び回ってもらい、ぜひとも世界平和を実現させてもらいたいものだ。

「……いや、そうか。むしろナミカの手に覆われたことで目が覚醒して視野が広がったのかも。うんうん。そうに違いない」

 訳のわからないことをぶつぶつと呟きながら納得している奈巳夏は置いておいて、落とし物のところまで歩き、拾い上げる。

――チリン。

 栗色でふさふさとした毛に覆われた熊のキーホルダー。それに軽やかな音を奏でる鈴が付いている。

「いくら女の子の落とし物っぽからって舐めたりしちゃだめよだよ」

「んなことするかっ!」

 というかこれは恐らく石行さんのものだろう。石行さんがさっきリボンを落としたとき、今聞いたチリンという音と同じ音が聞こえた。おそらくあのとき落としたのはリボンだけではなく、このキーホルダーもだったのだろう。

 あとで会ったときに渡そうと、ブレザーのポッケに入れた。

「ほら、そろそろ教室いくぞ」

「ほいほーい」

 なんだかもう身体は疲れてしまっているが、まだ朝礼すら始まっていない。今日はもうこれ以上なにも起こらないでくれと願いつつ春陽は教室へと続く階段を上った。


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