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「えいやっ! そこだっ! どやっ! ふんぬっ! ……やったぁー!」
歓喜のあまり奈巳夏がぶん投げたコントローラーを春陽は慌ててキャッチする。
なんやかんやあっても掃除をキッチリこなし、父親と母親を含めた4人で夕飯を食べ、お風呂に入ったあとは、ずっとゲームに興じていた。
現在やっているのは対戦アクションゲーム。この喜びようからわかるかもしれないが、奈巳夏は二時間以上連戦連敗していて、ようやく勝ったところだ。
「ふぅ~。やっと勝てたよ。やっぱり最後に勝つのが主人公ってコト。どうだ参ったかおにぃちゃん!」
春陽の膝の上で振り返った奈巳夏は、ツンツンと鼻を突いてうきゃきゃきゃとはしゃいでいる。
「勝たせてやったんだよ」
「あれれ、もしかして負け惜しみかな? ぷーくすくす」
「おうおう、それならもう一回やるか?」
「のぞむところ――」
「アンタたちうっさいわよ。もう遅いんだし、そろそろ寝なさい」
腕を捲って気合いを入れた奈巳夏であったが、母親に窘められる。当の母親は欠伸をしながらリビングをでて行き、寝室へと向かった。
時計はあと30分で2本の針が頂点を指し示す。どうやら思った以上に熱中してしまっていたらしい。
カチッ、カチッ、っと時を刻む秒針を見ていると、すーっと睡魔が顔を出す。
「ふぁ~あ。そろそろ寝るかぁー」
なんだかどっと疲れが押し寄せてきて、今すぐにでも目を瞑れば眠れてしまいそうだ。
「おーい、奈巳夏さん? そろそろ退いてくれ」
膝の上に乗る奈巳夏の肩をゆらゆらと揺らす。
「奈巳夏?」
「……や」
「え?」
「寝たくない」
「ったく、ほら、わがまま言ってないで。いつから駄々っ子キャラになったんだ」
奈巳夏の脇腹を掴み、持ち上げ、横に置いた。
春陽は立ち上がり、コントローラーを仕舞おうとテレビの前へ歩き出す。
「……おい、奈巳夏」
振り返れば奈巳夏が女の子座りで手を伸ばし、右手でちょこんと春陽のパジャマの裾を掴んでいる。それは朝、春陽は自室を出ようとしたときの奈巳夏とまったく同じポーズ、そして表情だった。
「っ!?」
そこで春陽は気が付いてしまった。今日一日、少しだけ奈巳夏の様子がおかしかった理由に。
「夢を見たのか?」
奈巳夏の瞳が大きく見開かれた。言葉にせずともそれが肯定の意であることはわかった。昨晩、奈巳夏が春陽のベッドに侵入したのは、夢が原因なのだろう。そして今寝たくないと思っているのは、もう一度夢を見るのが怖いから。さらにいえば夢の内容は奇しくも――
「小学校のときの夢だろ」
奈巳夏は静かにうなずいた。春陽とまったく同じ内容かはわからないけれども、少なくとも同時期の夢を、同じ日に夢見たというのはなんたる偶然か。
奈巳夏はおもむろに立ち上がると、春陽の胸に飛び込んで来た。
「また、あのときみたいな関係になるんじゃないかって思うと怖くて。そんなことあるはずないって頭ではわかってるんだけど……」
そう。春陽と奈巳夏は最初から仲が良い兄妹というわけではなかった。2人はほとんど関わることがなかったからだ。
というのも春陽は英才教育を施されていた。それもかなり厳しく。
父親は学生時代に東大を受験し、落ちたこともあってかなりの学歴コンプレックスを抱えていた。だから春陽は東大にいくという父親の夢を押し付けられたのだ。
春陽は毎日忙しかったので、奈巳夏に構う時間がなかった。それだけでなく奈巳夏は伸び伸びと甘やかされて生きていることが憎らしく思っていたため、良好な関係に発展するわけもない。
「当時の俺は愚かだったな」
奈巳夏が裏で料理を始めとして家事で物凄く春陽を支えてくれていたことも知らずに、恨めしく思っていたなんてあまりにも酷い。そもそも知ろうとしなかったのが悪い。
だが、そんな兄を奈巳夏は救ってくれた。春陽をいじめから庇った一件から、二人の仲はそれまでの空白を埋めるように急激に深まっていった。そしてそれを機に父親も反省したのか、以降は厳しく言ってくることはなくなった。
「てやっ」
「痛った」
何を思ったのか、奈巳夏から唐突にチョップをかまされた。
「おにぃちゃんの悪口を言うやつは、たとえおにぃちゃんでも許さないんだから」
「……ったく。それだけ奈巳夏が俺のことを想ってくれてるなら、前みたいに疎遠な関係になることはねーよ」
「え?」
「俺から奈巳夏を突き放すことは、今後はあり得ないことだからな」
「おにぃちゃん……」
潤んだ瞳で上目遣いされると、どうにも照れ臭くなって誤魔化すように奈巳夏の頭を撫でた。
「だから昔の夢を見たって、もう心配することない」
「うん!」
奈巳夏の今日一番の笑顔がはじけた。もう大丈夫そうだ。
「そんじゃあまあ、寝ますか」
ゲームを片づけ、リビングの電気を消す。
廊下に出て階段をあがり、自室に入った。
「よ~し、寝るかーって、なんでいんだよ!」
「えっ? 寝ますかって言ったじゃん」
「誰が一緒に寝るって言った!」
「え~、今日くらい一緒に寝てくれてもいいんじゃん」
「いいわけあるか!」
ぶぅーぶぅーと豚と化した奈巳夏を部屋の外へと押し出す。
「あっ、そうだおにぃちゃ――って、きゃっ」
「おいっ! ばかっ」
ドドドン。
「痛ったた。転ぶのはいいけど、俺まで引っ張って道ずれにすん……っ」
目を開けると、奈巳夏の顔が春陽の視界をいっぱいにしていた。奈巳夏に覆いかぶさるような態勢になった春陽。2人の距離は互いの吐息が混ざり合うほどに近かった。
くりりとした瞳、パッチリとしたまつ毛、一直線に通った鼻筋、ぷるるんと艶やかな唇。近くで見ることで奈巳夏の顔の良さが、より際立って感じられた。
「アホか」
「痛いっ。覚悟を決めた乙女を叩くなんて酷いよ」
「なんで目なんか瞑ってんだ」
「そりゃ、ねぇ?」
「ねぇ、じゃねぇよ!」
「ふふっ。なんか前にもこんなことあったよね」
あれは三年くらい前だったか。家での掃除中。バケツの水を倒し、滑って転んだ春陽は奈巳夏を押し倒し――。
「あははっ。おにぃちゃん顔真っ赤だよ」
「うっせ」
慌てて立ち上がる春陽。
「ねぇねぇ、おにいちゃん、やっぱりナミカのこと好きでしょ~?」
「やっぱりってなんだ。そんなわけないだろ」
確かに……春陽は奈巳夏のことが好きだったのかもしれない。だからこそ、一時の感情に流されて三年前は奈巳夏の唇に魅せられてしまった。もちろん、本当にキスはしていないけれど。
だが、そんなのは若気の至りというか、恋も知らないガキの勘違い。受験に失敗した春陽は父親からは失望され、母親からそっとしておかれ、学校では嘲笑された。
誰からも優しくされてこなかった春陽は、優しさとは愛であり、そして恋であると、そう思っていたのだ。だから唯一春陽に優しくしてくれた奈巳夏へ、好きという感情の名前を付けてしまった――
「バカなこと言ってないで、さぁ出てった出てった」
ようやっと奈巳夏を追い出し、部屋のドアを閉めた。
――だけどもう、二度とそんなことは起こらない。春陽はまだ大人ではないけれど、恋心を勘違いするほど子供でもないのだから。
そう、これは春陽が本当の恋を見つける物語である。
そしてそれはこの翌日に急展開を迎えることになるとは、このときの春陽はまだ知らない。