6-4
照りつける日差しが少しずつ強くなっているのを肌で感じ、漂い始める夏の匂いに心がざわつく。
季節の変わり目の気だるさを微塵も感じさせないくらい、奈巳夏は今日も元気に春陽の隣を歩きながら登校している。
「そういえばさ、そういう年頃なのかと思ってずっと触れないであげていたんだけどさ、流石に触れないといけない気がするんだよね」
「なんの話だよ。俺は中二病を発症してもなければ、ノートにポエムを書き連ねたりもしてないぞ」
「そんなの可愛く見えちゃうけどね。女装に比べたら」
「何言ってる。除草は大事だろ。誰のおかげでわが家の景観が守られていると思ってる」
「お、おにぃちゃんが見苦しい言い訳してる……。なら、これは?」
いつの間に撮ったのか、奈巳夏がスマホで、学校の廊下を激走しているスカートを履いた生徒の画像を見せてくる。
「誰だこいつ。こんなやつうちの高校にいたっけ? なんか奈巳夏に似ている気がするし、自撮りなんじゃないか?」
「ふーん。じゃあ、これは?」
「なんでそれを奈巳夏がもってんだよ!?」
奈巳夏は黒髪のウィッグを通学カバンから取り出し、掲げる。
「今朝おにぃちゃんの部屋から持ってきた」
春陽が夢と現を彷徨っているとき、何やら部屋でガサゴソとしていたのは気のせいではなかったらしい。
「こほん……まあ、あれだ。若気の至りってやつだ」
「ナミカ的には可愛いおにぃちゃんが見れて最高だったから、若気の至りバンザイって感じかな」
「なら、どうして今日になって蒸し返してきたんだ。ちなみにもう一回やれと言われても、絶対やらないぞ」
「やって欲しいのは山々だけど、ナミカの脳内メモリに一挙手一投足が記録されてるから、まあそこはいいよ」
その優秀な脳内メモリはもっと良いことに使って欲しいものだ。
「いやほら、美少女転校生ってことで噂になってるんだよ。それにナミカに顔が似てるから親戚疑惑があがっててね。ちょくちょく聞いてくるのが鬱陶しいのなんのって」
「……それはとんだご迷惑をおかけしてますねぇ」
そんなに騒がれるほどデキが良かったなら、春陽は素材としては悪くないはずだ。それなのに、普段は特にイケメン~! とか言われないのはなんでだろう。いや、あれか。メイクやら髪のセットやらをしていないからか。女装を通して、そういうのでいくらでも自分を良く魅せることができることを学べたのは、将来役に立つかもしれない。
「まあでも、そんな噂もすぐになくなるだろ」
学校は噂の宝庫だ。季節の移ろいなんてまるで追いつけないスピードで話題は変わっていく。それこそ今日にでも、また新しい話題でもちきりになってたりするのではないだろうか。
春陽と奈巳夏は学校に到着し、教室の前で分かれる。
果たして春陽の予想通り、教室は新たな噂で賑わっていた。だがその噂は、謎の美少女転校生という春陽にとっては黒歴史になるであろう話題の方が何倍もマシであったと言える。
いつもなら周りの噂なんて、どうでもよすぎて、耳に入っても脳のフィルターをすり抜けてしまう。だが今回ばかりは、無視できなかった。
「石行華の好きな人は桜紙叶羽である」
ぞわりと背筋が凍るような心地がした。
石行華という叩きやすいマイノリティーと桜紙叶羽という愛すべき学校のアイドルの組み合わせの噂は、当然だが爆発的な広がりをみせる。
だが、どうして今この噂なんだ。だって、このタイミングでこれを流す人なんて、普通に考えたら石行さんを除いてただ1人しかいない。
ガタンっ、と教室のドアが開かれ、そこから昨日よりも遥かに鋭利な視線で1人の人物を捕捉する。
その人物とはもちろん、噂の発信源として至極妥当な存在たる、道鋏春陽その人だ。
そして春陽を睨みつけるのはもちろん、噂の被害者たる、石行華その人だ。
ホットな話題で盛り上がっていた教室は、石行さんの登場で急速に温度を失っていく。まるでたった1人でこの教室を支配してしまったみたいだ。
石行さんが歩き出すと、その通り道を空けるように次々にクラスメイトは後ろに下がる。
不遜にも道を空けない人物がいるとすれば、それはヘビ睨まれた蛙のように身動ぎすらできない約1名だけ。だがそいつは端から動く必要はない。なぜならば石行さんの目的地だから。
「なんで、こんなことしたの」
石行さんは春陽がこの噂を流したと確信していた。
もちろん春陽は誓ってそんなことをしていない。するはずがない。好きな女の子がこんなに傷ついているところなんて、見たくはない。
なら、勘違いで怒りをぶつける石行さんは愚かなのか? 答えは否である。
春陽が石行さんの立場であっても同じ結論に至る。
なぜなら春陽は一昨日、石行さんの好きな人が確定してしまうような言葉を、自分が女装していたばかりに聞いてしまったからだ。
あそこでそれを聞いていたのは春陽ただ1人だ。そしておそらく石行さんは他の人には自分の好きな人を明かしていないだろう。もっと言えば明かせる人なんていないだろう。
さくらは春陽のことが好きで、だから、さくらが春陽に抱きついてきたとき、それはきっと恋する乙女の顔をしていたと思う。
そんな現場を目撃してしまった石行さんは傷つき、現れたそのさくらの想い人と思しき女の子につい、確かめるようなことを聞いてしまった。
ともかく、この噂を流すことができるのはこの学校で春陽か石行さんしかいない。いないはずなのに……。
「ねぇ、なんとか言ったらどうなの!」
石行さんは春陽の胸倉を掴む。
押してダメなら引いてみろ作戦は最悪な結末を迎えてしまった。石行さんの方から来てくれたというのは、本来なら喜ぶべき状況なのに、湧き上がるのは後悔や申し訳なさばかり。
もっと春陽は対話をしておくべきだったのではないか。それで信頼を勝ち取るべきだったのではないだろうか。
春陽の首元にある石行さんの固い拳が、石行さんの悲しみを静かに表していて、そんな資格はないくせに胸が締め付けられる。
もういっそ、その拳で春陽を殴ってくれ、その思いが届いたのか、石行さんの拳は少しだけ緩んだ。
だがそれは春陽を殴るため、などではなかった。
「うわぁ、こっわ。あんなの不良じゃん」
「まあ見た目からして不良だし。つかあの目、ぜったい何人かヤってるでしょ」
「ほらさくら、こっちに隠れて。あんなのに目つけられてるなんて可哀想だよ」
石行さんはさくらの方を見るが、クラスメイトの後ろにいて、その表情は確認できない。
むしろこれは確認できない方が良かったかもしれない。さくらに限ってそんなことはないだろうが、彼女までもが軽蔑の眼差しを向けていたとしたら、石行さんはいよいよどうなっていたか、考えたくもない。
石行さんへの非難が伝播するのに合わせて、その拳の力がゆるゆると緩まっていく。
やがて力なく拳が降ろされると、顔も下を向いてしまった。
なにもかもがおかしい。この状況になるまでも、なったあとも。どうしてこんなに石行さんばかり傷つく。
そして目の前で好きな人が傷ついていて、どうして春陽は立ち尽くしている。
『……ずっと待ってたんだよ。それで、あのとき、あそこで飛び出さなきゃダメって思ったから』
そうだ。押してダメなら引いてみろ作戦はまだ失敗してない。奈巳夏がここぞというときに飛び出したように、春陽も今が踏み出すとこ、そうだろ!
「ざっけんな! お前ら!!」
春陽の咆哮に教室中の視線が石行さんから春陽に向く。
「悪いのは全部俺だ! 俺が!! 石行さんの噂の発信源だ。なのに、なんで石行さんを責めてんだ。全員バカだな。俺の情報に踊らされて、そんなことを見誤るのは」
パチン。春陽の発言で静寂に包まれていた教室に石行さんの平手が春陽の頬をはたく音が響く。
それに続いて歓声があがった。
教室の流れはまた大きく変わった。ふざけたことを抜かした春陽は悪人となり、その悪人に一発かました石行さんがもてはやされる。
単純なやつらだ。結局こいつらは誰でもいいんだ。誰でも良いから叩きたい、それだけだ。
だがそのおかげで、手のひらで転がすのが実に容易い。
さあ、あとは悪役が無様に逃げ出せば、全てが丸く収まる。
春陽ふらつく足で廊下を目指す。
一歩一歩が重くて、たったの数メートルが異様に遠く感じる。大きな声を出して酸欠にでもなったか、呼吸は荒く、視界もかなり悪い。
それでも足を動かし、ついに教室のドアに手をかけたそのとき、身体がふわりとした感触で包まれた。
何が起きたのか、まるで理解できなかった。
なけなしの力で進んでいた春陽の足は完全に止まり、教室がどよめく。
足どころか身体も動かなかった。だが冷え切っていた春陽の心がじわりじわりと温かくなっていく。
そして春陽はようやく状況を把握した。
春陽は後ろから抱きしめられているのだ。それもなんの冗談か、石行さんに。
だがそれを知覚するのと同時に、石行さんは春陽の身体を放す。そうして春陽の横からすり抜けて教室を走り去っていった。
状況を把握してもなお、理解はできなかった。石行さんの気持ちも行動も。だが、あの抱擁に春陽への拒絶も敵意もなかったことはわかる。であれば春陽が取るべき行動は決まっている。
始業のチャイムを合図に春陽は走りだす。途中何度か先生とすれ違ったが知ったことではない。説教ならあとでいくらでも受けてやる。
背中に降りかかるのは先生の怒号ばかりだったから耳は完全にシャットアウトしていたし、春陽は春陽で振り返ることもせず集中して前だけを見て走り続けていたから、一人の少女が春陽を追いかけてきていたことに気が付くのには、随分と遅れてしまった。
「春陽くん!」
中庭にでたところで、もう何度も名前を呼んでいたのに全く反応してくれなかった春陽が止まってくれたことで、さくらはようやく胸を撫で下ろし、肩で息をする。
しかし彼女が胸を撫で下ろせるのは、ほんの一瞬だけだ。そんな安寧が許されないことをさくらはしでかしたのだから。
「どうした、さくら? 教室にいたならわかるだろ、急いでるんだ。用があるなら後に――」
「私なの!」
なにが、とはまだ言っていない。それでもそれは、急いでいても無視できる発言ではなかった。
「あの噂を流したのは私だし……それだけじゃない、華ちゃんがいると知ってて女装した春陽くんに抱き着いた」
こうも立て続けに春陽の予想外の出来事が起きたのは、さくらの予想内だったらしい。正直、さくらに対する怒りよりもショックの方は大きかった。どうしてさくらがそんなことを……。
「春陽くんと石行さんを仲違いさせて、落ち込んでる春陽くんにつけこもう、なんて最低なこと考えちゃったの」
あぁ、さくらに対する怒りがないのは、なんてことない、これも結局は自分が蒔いた種だったからだ。さくらの告白を断ったあとも中途半端な関わりを持ち、あまつさえ、彼女を大いに頼ってしまった。それどころか、気持ちがさくらに傾きかけたりもした。
「なぜ、今それを俺に」
「落ち込んでもまた立ち上がって前を向く春陽くんを見て……それにさっきも、華ちゃんをあの場で守るために罪を被って……そんな春陽くんを見て……自分のしたことが恥ずかしくなった」
後悔を吐露するさくらの姿は、後悔をし続けている春陽と重なって見えた。
このまま互いの傷を舐めあえたら、どんなに楽だろうか。そんな取るはずもない選択のことを考えても仕方がないのだけど。
「ごめんなさい、春陽くん」
深々と頭を下げるさくらを見て、春陽は違和感を覚える。そうだ、頭を下げるべきは自分にではない。
「謝るなら石行さんにだよ。俺が今こうなってるのは俺の責任でもあるから、さくらだけに押し付けるつもりはない」
そう言って春陽は踵を返し、再び石行さんの下へと走る。
もっとちゃんと話しをした方が良かったのかもしれないけれど、春陽にはもう言うべきことはなかったし、さくらも溜め込んでいた言葉は吐き出したことだろう。
いや……だが、ひとつ疑問が残る。さくらは石行さんの好きな人をなぜ知っていたのか。それも春陽よりも早い段階で知っていたことになる。
さくらは石行さんがいるのを知っていて女装した春陽に抱きついたと言っていた。春陽は抱きつかれたあとに、石行さんを追いかけて、彼女が好きな人を知ったのだ。
そうだ、そもそももう一つ不可解なことがあった。そしてその不可解の正体が、今ちょうど目の前で情けなく座り込んでいた。
「道鋏君じゃないか……」
「友碇お前、授業をサボるようなやつじゃないだろ」
「ははっ、そうだね……」
この先には石行さんが居て、その前で落ち込んでいる彼女のことが好きな男がいる。何が起きたのかは何となく想像できた。
「なあ、もしかして……この前の土曜日、俺が食事を断ってお前とさくらと分かれたあと、2人は結託したのか?」
「おや、まさか叶羽が喋ったのかい?」
その問いかけは、肯定と同義だった。
「さくらが喋ったのは自分がしでかしたことだけだ」
女装した春陽と石行さんが話しをしているときに、友碇が表れた。あのタイミングのよさはさくらとの打ち合わせによるものだろう。そしてそれ以上に、友碇は春陽が女装していると石行さんに告発した。
自分で言うのも難だが、ひと目見ただけで、女装の春陽を春陽と見破れるのは奈巳夏くらいだ。なのに友碇が春陽を見破れたのは、それも事前にさくらから聞いていたからだろう。
そしてさくらが石行さんの好きな人を知っていた理由も説明することができる。
「前に言ってたよな。恋愛に対する嗅覚には優れてるから誰が誰を好きなのかは直観でわかるって」
「あぁ、言ったね」
つまりは友碇がこの能力で得た情報を、さくらに共有した、ということだろう。
「……どうして好きな人を傷つけるような真似をした」
「どうしてって、叶羽も言っていたかもしれないけど、同じような理由だよ。ライバルであるキミを排除するのと同時に、傷ついた華ちゃんに近づくことで好意を手に入れようとしたのさ。ま、結果は道鋏君の想像している通り、僕は惨敗して、キミは排除しても何度も立ち上がってしまっているんだけどね」
「わからねぇな。俺なんて友碇からすれば眼中にない存在だろ」
スペックの差は歴然としている。
それでもたとえば春陽と石行さんが幼なじみとかそういった特別な関係性があったのなら話は変わるだろうが、そんなものは全くない。最近まで認知すらされていなかった。対して友碇は石行さんとクラスが同じであり、少なくともある程度の交流はあったことだろう。
「相変わらず道鋏君は昔から自己評価が低いんだね」
「昔から……?」
「やはり覚えてないのか」
友碇はスマホを取り出すと、一枚の画像を春陽に見せてくる。
「小学校の集合写真……? って、これって!」
背景の校舎の中央上部には時計があって、その上にある三角錐の屋根がまるで帽子に見える。生憎の天気の下、無邪気な笑顔が並ぶが、そのなかで1人だけ浮かない顔をしているやつがいる。幼き日の春陽だ。
「当時の僕の苗字は、新條だ」
その名前を聞いた途端、冷たくもあり温かくもある思い出がフラッシュバックする。
いじめられていた春陽の間に奈巳夏が入ってくれたあの日。
春陽の胸倉を掴み、拳を振り上げた金髪の男子、それが新條だった。
きっと離婚かなにかで苗字が変わったのだろう。
そして変わったのは名前だけではない。見た目も小学生だったときと比べたら、似つかないほどに今は垢ぬけている。
「あのときの僕は……キミが羨ましかったんだ」
「なに……言ってるんだ?」
今ほどではないけれど、当時から友碇はなんでも器用にこなせていた記憶がある。
「小学校のとき、道鋏君は学校で一番成績が良くて運動もできただろ。それが疎ましくて、僕はキミをいじめたんだ」
実に小学生らしい幼稚な理由だった。今更それに関しての怒りなんてものはないから、理由なんてなんでもいいのだけれど。
「高校生に入ったときにキミがいたことには驚いたけれど、もう成績でも勝っていたし、他のことでも負けていないと思った。だから、当時僕が一方的に道鋏君に感じていたわだかまりはなくて……恋に関して追い込まれた僕は、前に話した理由で道鋏君を頼ったんだ」
この学校で一番いいやつって言えば真っ先に名前があがるようなこの男は、その実、悪いやつだった。人間らしい一面が見えて、安心してる自分すらいる。それで迷惑を被っているのだから世話ないが。
だが、春陽はまだ良くても、石行さんを傷つけたことは絶対に許されない。
「だけど、道鋏君が華ちゃんを好きって言ったときに、当時キミに感じていた恐れが蘇った。奈巳夏ちゃんとあんなに素晴らしい関係性を築いたことも含めて、認めたくはないけど道鋏君は優秀で努力もできて……優しい人間だからね。同じ目標を追いかけるには強敵だった」
それで、春陽の妨害をした。友碇の評価が、自分のことを言っているとはとても思えなかった。
「結果的に僕の評価は間違ってなかっただろ? こうして僕は座り込んで、キミが立っているのが何よりも証拠だ」
「お前は負けたかもしれないけど、俺は勝ってない。石行さんは俺のことを好きじゃないんだから」
「どうかな。たしかに今はまだそうだね。でも、もし華ちゃんの心に触れることができる男がいるとすれば、それはキミしかいない」
悔しがるでもなく、そう言った。
友碇のことは嫌いだ。けれどそのまっすぐな言葉は、石行さんの下へ行くことに少しびびって、無意識のうちにこんなところで油を売ってしまっていた自分の背中を押してくれた。
だから、もうこれ以上ここに留まる必要はない。
友碇だって、長々と春陽とお話したいというわけでもないだろう。むしろ、早く石行さんのところに行けというメッセージにも思える。
春陽は友碇の横を通り過ぎる。すれ違いざま、すまなかった、という声が聞こえた。だが、春陽はその謝罪は受け取らないとばかりに無視をした。それもやっぱり、石行さんに伝えるべき言葉であるからだ。
少しずつ校舎に押し込められていく影の上を走る。明暗の境界線上にいる草花は、陽の光を今か今かと待ちわびている。
途切れることのない影の道は、春陽を目的の場所まで導いてくれた。
「石行さん……!」
やはりいつもの校舎裏に凛と佇むその姿はあった。いつもと違うことがあるとすれば、その凛々しさが自然と湧き上がるものではなくて、作りものめいているというところだろうか。
それでも春陽の声に反応して、振り向きざまに見えた彼女の横顔は、江戸の世から現代版にグレードアップして蘇った見返り美人図のような端麗さがあった。
「……あんたなら来ると思ったよ」
そう言うと石行さんは速足で近づいてくる。
春陽は慌てて謝ろうと頭を下げようとしたとき、しかしそれは妨害される。石行さんの手が伸びてきて思わず目を瞑った春陽の頬に、手のひらが優しく触れ、顔をあげさせる。
「さっきはぶってごめん……って、えっ?」
おそるおそる目を開ければ、至近距離で春陽のことを見つめる好きな人の顔があって、尻もちをつかずにはいられなかった。
「だ、だいじょうぶ?」
春陽は差し出された手を取るか迷って、結局自分の足で立ち上がった。
「謝るのはこっちの方だ。本当にごめん……」
「あんたは謝るようなこと、一個もしてないでしょ」
「え? でも……」
石行さんは溜息をひとつ吐く。それは春陽に対するものではなく、石行さん自身に対するものであった。
「冷静に考えたらさ、女装したあんたが桜紙さんと抱き合ってるのを見てあたしが勝手に傷ついて、そんであたしの下に来たあんたは何も言ってないのに、あたしがペラペラ喋って自爆しただけなんだよね」
「で、でも……そもそも俺が、石行さんの気を惹けるかもって、実際はそんなことしたって引かれるだけなのに、女装をしたのが原因で……」
石行さんは自分の性的指向をこれまでたくさん馬鹿にされてきたはずで、そんな人に対して軽々しくやっていいことでもない。
「あたしの気を惹く……? それって――」
「あっ、そ、それは……!」
「あたしと……友達になりたかったってこと?」
「そ……そうとも言う、かなー」
今の春陽と石行さんの関係値で告白なんて論外だ。そう考えれば友達というのも悪い選択肢ではないのかもしれない。
「でも、石行さんは俺みたいなやつと関係なんて持ちたくないよね」
「えっ、なんでそう思うわけ?」
「だって、俺は人の噂を平気で流すようなやつだよ」
「イヤイヤ、だってそれウソでしょ」
即座の否定に春陽は困惑する。春陽の嘘がバレた? でも、だとしたらどうして春陽は教室で石行さんにビンタを食らったのだろうか。不思議そうな顔をしている春陽を見て石行さんは申し訳なさそうな顔する。
「あのときのあたしは、一方的に好きな人に自分の気持ちがバレて冷静な思考を失ってたんだよ。でも、あんたを叩いたときに目が覚めた」
殴られるよりも、殴る方が痛い。あのときの石行さんはまさにそんな状況だったのかもしれない。春陽の頬はそんなに痛くなかったけれど、石行さんの心は痛んでいる。
「そもそも本当に噂を流した張本人があんなところで名乗りをあげるわけないって。あれは、あたしを守るためだったんでしょ。少し考えればわかったことなのに、本当に恋って怖い、なんて責任を押し付けるみたいに言うのはよくないんだけど」
恋は盲目。
心優しい桜紙叶羽は、他人を傷つけた。
完璧超人の友碇涼友は、裏の姿が蘇った。
強いメンタルを持つ石行華は、心を壊された。
そして、道鋏春陽もまた、多くのものを見失っている。みんな恋に苦しみ、狂わされていた。石行さんの言う通り、だからといって許されるという話しでもないのは確かではあるが。
「でも、あんたと関係を持ちたくないっていうのは、実際にそうなのかもしれない」
「やっぱり、そうだよね……」
「あぁ、でも勘違いしないで欲しいのは、あんたに非はないってこと。あたしはやっぱり独りが良いんだ。あたしは普通じゃない。価値観が違う人間同士の末路は争いだから」
それはちっぽけな一人の人間である春陽には否定しようのない真理なのかもしれない。長く重い人類の歴史には、価値観の相違による数えきれない戦火が刻まれている。
だか、根本的なところで春陽はひとつ見解の相違があった。
「俺と石行さんは本当に価値観が違うのかな」
「はぁ? 当然でしょ。それともあんたは同性愛者なわけ」
「違う、けど石行さんも本当は違うんじゃないかって」
「ますます何言ってるのかわからない。なに? あたしの桜紙さんへの気持ちは偽りだって言いたいの」
理解できない春陽の言葉に馬鹿にされていると思ったのか、石行さんは少しだけ語気が強まった。しおらしかったさっきまでよりも、むしろ石行さんらしいと言えばらしいかもしれない。
「それも違う。あのさ、石行さんは昨日水泳の授業に出たんだよね」
急な話題転換にも思えるような問いかけに、石行さんは訝しげに首肯する。
「それで思ったんだ。石行さんは女の子が好きなんじゃなくて、桜紙叶羽その人が好きなんじゃないかって。先週は水泳にでれなくて今週はでれたのはそこなんじゃないかって」
「……っ! そ、そんなわけないでしょっ。あ、あたしは……たしかに明確に人を好きになったのは桜紙さんが初めてだけど、それまでだってあたしは女の子を恋愛対象にしてて……」
「石行さんが同性を恋愛対象にするようになったのは親の影響だって言ったよね。もしかしてそれは影響というより、大好きな親がそうだから自分もそうしようと思い込んでいた、とか」
石行さんは自身の手のひらを見る。その手は小刻みに震えていて、それを抑えるようにきつく握りこぶしをつくる。
「あたしは……あたしは……そう、なのかもしれない……。2人のママが肩身を狭くしながら生きているのを見て、もしあたしが男性に恋をしてしまったら、大好きな2人に対する裏切りとか、否定することになるんじゃないかって……」
石行さんが堂々と同性愛者であると公言しているのも、2人を肯定するためであったり、自己暗示をかけるためだったりしたのかもしれない。
「あたしも、心のどこかでおかしいと思ってた。今までは普通にプールに入れてたのに、あの日、あんたが下駄箱で妹と一緒にいざこぞを起こしてるとき、純粋な気持ちであたしのことをヘンじゃないって言ってくれた桜紙さんのことを好きになって、それで桜紙さんとプールってなった途端恥ずかしくて逃げ出しちゃった」
親のために孤独になりながらも幼少期からずっと戦ってきた石行さんにとって、さくらのように何の偏見もなく、何の躊躇もなく愛のカタチは人それぞれだから何もおかしいことではない、なんて言える同級生というのは初めてだったのだろう。そんなの、性別に関係なく好きになってしまう可能性が高い。
つまり石行さんの恋愛対象は女の子、というよりは好きなったのが偶々女の子だっただけ、ということだ。
「だから石行さんは他人を遠ざける必要なんてないんだよ」
気が付けば石行さんの手の震えは止まっていた。ゆっくりと、深く深呼吸をすると肩の力も抜けていた。
「すごいね、あんた。あたし以上にあたしのことを理解できる人なんているんだね。これも、妹のこと大切にしてきたことの賜物なのかも」
奈巳夏と石行さんは言うまでもなく全く別の人間だ。それでも春陽はただ一人のことを考え続けるということは奈巳夏でしてきて、それが友碇も羨むような春陽と奈巳夏の関係性を築き上げた。
石行さんは柔らかな笑みを浮かべると、右手を差し出してくる。
「道鋏……ううん、ハルヒ。こういうとき、どうしたら良いのかわからないんだけどさ。その……やっぱり、あたしと……友達になってくれないかな」
石行さんの支えになりたいという気持ちでここまでやってきて、今その願いが叶おうとしている。
この手を取ることに躊躇なんてあるはずもなかった。
春陽は石行さんの右手を握ろうと手を動かす。
石行さんは悲し気な表情を浮かべた。なぜならば、春陽の手が動いたのはほんの数センチだけで、それは石行さんが足を踏み出しでもしなければ届かないところだったからだ。
「俺は……」
ここで手を取ることは簡単だ。だが、春陽は石行さんが望むような友達にはなれないと、沸き上がる情動が訴えかける。
だって、石行さんが春陽に向けるものは友情で、春陽が石行さんに向けるものは愛情だから。
恋のステップとしてまずは友達からというのは、真っ当なものであるとは思う。普通であればそうだけれど、今この状況で下心のある春陽がこのままの流れでそうしてしまうのは、裏切りのような気がしてしまって、自分で自分を許容することができなかった。
だから、どう転ぶにしても春陽は今ここで告げなければならない。
「俺は石行さんが好きなんだ」
一言一句に想いを込めて紡いだ言葉が、届けられなかった春陽の右手の変わりに、2人の間の架け橋となる。
初めての告白の文言はとてもシンプルで、もちろん緊張はあったけれどハッキリと言葉にすることができたと思う。
手を差し出したまま固まる石行さん。春陽の告白を脳のなかでゆっくりと分解していき、それが彼女の心に響くか、あるいはそのまま耳からでて行ってしまうのか。
緊迫した時の流れが、刹那と心音を肥大化させる。それらが極大に達したとき、ついに石行さんの口が動く。
「ハルヒと付き合ったら、きっと幸せになれるんだろうなって思う」
「なら――」
「でも、できないよ。だって、それはハルヒの幸せにはならない」
「ど、どういうこと」
好きな人と付き合えたら、幸せに決まっている。なのになぜか、石行さんの言葉が突っかかって離れない。
「そうだね、それはそう。でも、ハルヒの好きな人は本当にあたしなのかな」
突っかかった言葉が春陽の心臓に手をかける。
石行さんの言っていることは的外れだ。春陽の好きな人は石行さんに決まっている。なのに、どうしてこんなにも動揺が止まらないのだろう。
「ねぇ、ハルヒはどうしてあたしのこと好きになったの?」
「キ、キッカケは……自分の好きを隠さずに堂々としてて……それが格好良くて、それに――」
「羨ましいって思ったんじゃないの?」
グルグル巻きに覆った布を剥がされ、丸裸にされていくような感覚のなかで、春陽は言葉を返すことができない。
「あたしと同じようなものを抱えてるけど、ハルヒはそれを胸の奥に閉じ込めたから。妹が好きっていう感情を」
瞬間、春陽の中の感情が爆発し、荒れ狂う。パンドラの箱が開けられ、春陽のなかの世界がぐちゃぐちゃになっていく。
「ち、違う……お、俺は……本当に石行さんが好きで――」
「きっと、その気持ちは本当なんだと思う。あたしもハルヒに告白されて、良いかもって思ったこの感情は恋のそれだった。でもね、それは心の奥底で叶わないと諦めてしまった恋を終わらせたくて、そこから生まれた紛い物なんじゃないかって」
石行さんは春陽に自分以上に自分をわかっているといった。その理由は、他でもない、彼女が春陽と似ていたから、だったのかもしれない。
春陽は自覚せざるを得なかった。なぜならばさっきから頭には奈巳夏の笑顔が次から次へと浮かび上がってくるから。
でも、どうすればいいというのだ。まずもって春陽はこの恋を叶える勇気すらもなかった。
「あたしは、桜紙さんが好き。でも、この恋を叶えるのは不可能に近いってわかる」
そんなことない、と気休めですらも言うことができなかった。それはそもそもさくらが同性愛者でないということもそうだが、石行さんはまだ知らないと思うがさくらこそが噂を流した張本人でもあるからだ。
「だから、そんなあたしの恋も諦めなくて良いんだって思えるような、そんな恋の成就を見せてよ。不可能を可能にする奇跡、ハルヒならできるってあたしは思うから」
存在しなかった勇気が石行さんの言葉で沸き上がってくるような気がした。胸に手を当てて問いかける。本当にこれでいいのか? 後悔しないか?
答えはすぐにでた。
「ありがとう石行さん。俺、行ってくるよ」
二度も差し出してくれた石行さんの手をついぞ春陽は取ることはなかった。繋がれなかった石行さんの手が、思い切り春陽の背中を叩き、さらなる勇気を与えてくれた。
学校中に鳴り響き始めたチャイムよりも、今の春陽の心音は大きく感じられた。それでも走る。これ以上心音を早めたら、壊れてしまいそうだけれど、うずまく情動が身体を休めることを許してはくれない。
一年前、自分が使っていた教室まで最短で駆け抜けていくけれど、当時の学校での記憶はほとんど蘇ることはなかった。なぜならば、このときは学校に奈巳夏がいなかったから。
奈巳夏がきてから、まだほんの数か月しかっていないのに、この月日がいかに明るく輝いていたかまざまざとわからせられる。
「奈巳夏!」
「わぁ、まさかおにぃちゃんの方から来てくれるなんてびっくり。そんなにナミカに会いたかったんだ」
「そうだ」
「な、なんだかやけに素直で照れちゃう……って、わわっ」
春陽は奈巳夏の手を引いて教室から出て行く。当然、周りからの視線は不快なものを見るようなものばかりだったけれど、そんなものは全くといって気にならなかった。
強引さもあったのにも関わらず、奈巳夏は文句を言うどころか、いつの間にか隣に並んで歩いている。
階段を上り、上へ上へと向かっていく。一段ごとに脈動が早くなり、きっと奈巳夏の手首を掴んでいる春陽の手からは汗が多く出ている。
階段で横に大きく広がりながら下ってくる女子たちも、踊り場で固まって騒いでいる男子たちも、春陽が近づくと、そのただならぬ雰囲気を察してか自然と道を開けてくれた。
やがて人工的な明かりがなくなり、ドアにはめられた窓から差し込む自然光を目指して、最後の階段を上る。
教室をでてから2人の間に会話はなく、生徒たちの声も少しずつ遠くなっていく。ドアを開けて屋上に出ると、もう人の声は聞こえなくなり、遠くで響く町の音だけになった。
雑音が少なくて、伝えたいことを伝えるにはちょうど良い。
「奈巳夏……」
「ん? どうしたの」
「今日の放課後、デートするぞ」




